阪急沿線文学散歩

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西宮の『火垂るの墓』記念碑実現に向けて一歩踏み出しました

 『火垂るの墓』は作家の野坂昭如が空襲と飢えにさらされた自らの戦時体験を基にした小説で、西宮市満池谷町が舞台になっています。

またその実体験は『わが桎梏の碑』をはじめ幾つかのエッセイや他の小説にも書かれています。

 一昨年、野坂昭如が過ごした親戚の家のすぐ近くに住む満池谷町のTさんと、高校講師のNさんが、近隣の人々に聞き取り調査をし、野坂さんと義妹(事実は1歳半の赤ん坊でした)が身を寄せた親類宅の場所と防空壕を特定し、更に親戚のその後の様子も明らかにされました。
https://www.asahi.com/articles/ASJCZ6TSVJCZPLZU007.html

 ところで、『火垂るの墓』の碑は、野坂昭如が神戸大空襲まで住んでいた家の近くの、御影公会堂の交差点を南に下った、石屋川右岸にありますが、被災後2か月余り過ごし、小説やアニメの舞台となったニテコ池や満池谷町がある西宮市には存在しません。


 そこでT氏とN氏が、地元の有志に働きかけ、野坂昭如の『火垂るの墓』を顕彰し平和を祈念する碑を建立する準備委員会が発足しました。

(写真は戦後何度も訪れたニテコ池)


 賛同する人は多いのですが、一番ネックとなったのは設置場所の確保でした。

西宮市の人権推進課や公園緑地課にお願いし、昔の満池谷公園内(現西宮震災記念碑公園)の一角が提供できそうだという回答を得ることができました。

設置予定場所は、戦没者慰霊塔の前の藤棚の北側です。

上の写真の場所が設置候補地。

 記念碑案の具体化、許可申請、版権の交渉、募金活動などを進め2020年の記念碑の建立を目指しています。



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野坂昭如は震災後も、かの君の思い出を訪ね夙川に来ていた

 野坂昭如は、昭和20年、満池谷の家で二カ月間一緒に暮らした二歳年上のK子さんの葬儀が執り行われた平成11年5月29日に葬儀場に現れています。

 そして翌月の6月15日にもK子さんを愛おしんででしょうか、満池谷から香櫨園の浜を歩いていました。そしてその翌日も、満池谷に来たようです。

(急な階段の上から満池谷の疎開先を眺める)


『妄想老人日記』からです。
<六月十六日 S医師宅泊まり。朝、かの君の生家今はマンション。>
この部分は事実とは違っており、かの君K子さんの生家は満池谷ではありませんでしたし、野坂昭如が疎開していた満池谷の家のあった場所は空き地のままです。

おそらく、ニテコ池の南端の道から見える写真右側のマンションをイメージしたのでしょう。

<やがて雨、辺り地震の跡留めぬ広壮な屋敷、濡れるにまかせ阪急の駅。引揚げられた轢死体風ズブ濡れ姿、喫茶店に入れず、タクシーに乗れない。昭和九年開業、戦時中も阪神間ただ一軒、店を開いていた「パボーニ」が残ってりゃ、風呂にだって入れたろうが、震度七で壊滅。>
 野坂は雨の中、ズブ濡れになって満池谷から阪急夙川駅まで歩いたようです。野坂が通った夙川の喫茶店パボーニは阪神淡路大震災で倒壊して、跡地は現在も空地になっています。

(黒田征太郎が震災後間もなく描いたパボーニ跡地)

<この喫茶店にかの君とよく行った、後に聞けば、主人夫婦、恋人同士とみて、なにしろ空襲下、稀なことで、特にサービスしてくれたのだそうだ、当時、すでに旧式のラッパのついたラジオ、絵描きの主人が説明してくれたゴッホ、駅の右、天主公教会尖塔、神父の名はブスケ。二人で教会へおそるおそる入った、少しよみがえってきた。大阪泊まり。>

(パボーニを訪ね大石夫人と、戦時中かの君と通った話などする野坂昭如)

 戦時中のカトリック夙川教会の主任司祭は既に、メルシェ神父に代わっていましたが、野坂はパボーニの大石画伯から、ブスケ神父と教えられたようです。

 大石画伯は戦後ブスケ神父が亡くなったことを知り、ブスケ神父の肖像画を描き、昭和36年クリスマスの日にカトリック夙川教会に献納しています。



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五十四年間探し続けた女性が危篤との知らせを受けた野坂昭如は

 野坂昭如は昭和20年6月、『火垂るの墓』の舞台となった満池谷の親戚の家で一緒に過ごした神戸女学院五年の三女I子さんの消息を、戦後になっても探し続けていました。


 平成11年5月に突然彼女の御子息から速達が届きます。
『妄想老人日記』平成11年5月27日の日記からです。

<文面によれば、先方もぼくが探していることを心得ていた。なぜ、応えなかったのか理由はわからないが、息子さんは、「何一つ親孝行のできなかった不詳の倅の最後のお願いです。ご多忙なことは十分承知しておりますが、ご連絡いただけませんでしょうか」あくまで丁重な文面。自宅と、入院先の住所、電話番号。すぐにTEL。>

なぜ、応えなかったのか理由はわからない」と書いていますが、『火垂るの墓』ではあれほど意地悪に描いたI家ですから、野坂昭如が探していたI家のK子さんが、応えなかったのは当然でしょう。

<探していた方は、二歳上、女性である。七十歳かもう一つ上か。「半年前から体調を崩しまして、一進一退をくりかえしておりましたが一週間前、急変して」ほぼ共通語、つい、失礼をかえりみず、病名を訊いた。「多発性脳梗塞、それにパーキンソン病を併発しまして」。ぼくの父が、まったく同じ病名、その最後を知っている。病状のあらわれ方に個人差はあるだろうが、父の場合、ちょっと悲惨だった。>
I子さんは昭和3年生まれ、平成11年には書かれているとおり71歳か70歳だったはず。
昭和5年生まれの野坂は、自分との歳の差から彼女の年齢がわかっていたのでしょう。

<ぼくが臨終の枕元にうかがうのは、そのお気持ちに沿わないことかもしれない。探していた方、昭和二十年六月八日、つまり、空襲に遭い、その方の家の世話になって以降約二カ月、ぼくは本当に恩を受けたのだ。駆けつけて当然だが、ためらった。まったくいい気なものだが、最後に遠くから眺めた時は、十七、八になってらしたと思うが、その面影を保ちつづけたい気持ちもある。美しいとのみ、夢の如きものだが。>

『火垂るの墓』のモデルにした満池谷のI家について、「ぼくは本当に恩を受けたのだ」と語っているのです。そして五十四年後も野坂の心には美しい3女K子さんへの恋慕の情が残っていたのです。
<夕刻、北へおもむくところ西下。ホテルに泊まって、その夜は、五十四年前の夏の日を思い返し、翌朝、ついにビールを飲み、午後十時、自宅へ電話をかけた。かの方は、二十七日夕刻亡くなられ、二十九日告別式、午後一時、某会館に集まり、午後四時骨揚げという。飲み続ける。二十九日、三十日とホテルに泊まり、三十一日帰京、出版記念会に出席。この間、思うことが多く、泥酔には至らない。>
この部分を何回読み返しても、告別式のあった29日に関西にいたことは書かれていますが、参列したとは、どこにも書かれていないのです。故意にそこははぐらかしたのでしょう。

事実は、K子さんの御子息のお話によると、午後四時の骨揚げのあとに、野坂昭如は姿を現し、ご遺族の許しを得て、お骨をひとかけらハンカチに包み持って帰ったそうです。
それほど野坂昭如はK子さんを恋慕していたのです。



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突然届いた満池谷の家の三女の消息(野坂昭如『妄想老人日記』)

 『わが桎梏の碑』に、野坂昭如が満池谷の親戚の家にたどり着いた時の様子が、次のように書かれています。

(山本二三の描いた絵は当時の満池谷の風景をよく再現しています)

<この家の主人は八年前に亡くなり、五十近い未亡人と、次女長男三女四女。長女は嫁ぎ、次女長男三女は動員で工場の寮にいる。ぼくより二つ上の三女と住み、ぼくと妹のたずねた時、未亡人は外出中。赤と白格子縞のスカート、白いブラウスの、三女に迎えられた。二年前から、見受ける女性、老若、和洋すべて下はもんぺかズボン。>

(現在の満池谷町)

 創作能力に長けた野坂昭如のことですから、著書にはどの程度事実が書かれているのか甚だ疑問でしたが、ここに書かれている家族構成は、満池谷のI家そのものでした。
 『火垂るの墓』記念碑準備委員会のT会長らの調査によると、I家のご主人は三菱商事に勤務していましたが、昭和14年に亡くなり、一家は満池谷の借家に転居したのです。
次女長男三女四女という年齢順も、I家の構成そのもの。長女の嫁いだ相手は野坂昭如の養家の祖母ことの甥でした。

 二歳年上、神戸女学院五年生だった三女I子さんと満池谷で過ごした日々は、ずっと野坂の心にのこり続けました。
『凶乱旅枕』では、後年、神戸女学院の学園祭実行委員会から講演依頼の書状をもらい、喜んで次のように返事したことが、書かれています。(R女子大は神戸女学院がモデルです) 
<庄助すぐ同封の葉書の、諾に丸を印し、「日時何時にてもよろし」と書き、気もそぞろに、R女子大に寄せるおのが胸の内の一端を加え、「わが娘、先行き是非とも貴校に学ばせたく念じ居り候」と蛇足まで付した。>

野坂昭如は神戸女学院大学祭に実際に2回招かれ、写真の講堂で講演しています。

 このような神戸女学院への憧憬は、満池谷の一家の三女と過ごした日々から生まれたようです。

 『火垂るの墓』の小説やアニメが発表された後も、野坂は三女を探し続けましたが、先方から連絡もなく過ごしていた日々、平成11年5月に突然、三女の息子から速達が届いたのです。
『妄想老人日記』からです。
<一九九五年五月二十七日 雨。風強い。起8:00AM。この「起」はチャイムによる。
速達郵便。常ならポストに入れといてもらう、何となく気になり、なにしろしばらく不在、後妻がらみだと面倒。とりに出た。差出人に覚えはなく、ただまことに几帳面な文字。確かめもせず封を切ると、ぼくが、五十三年間、つまり昭和二十一年秋に、その姿を眼にしたのが最後、その消息を、あからさまではないが探していた方が、一週間前危篤に陥り、もはや意識不明、医者の話では二、三日がヤマ。差出人をあらためると、姓名の横に、ぼくの探していた方の名前が記され、(の息子)とある。>
野坂邸は京王井の頭線の西永福駅からしばらく歩いた閑静な住宅街にありました。

(愛犬ジジがいた空の犬小屋が玄関先に残っていました)
そこに突然、送られてきた速達。興味深いその後の成り行きについては、次回に。



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野坂昭如と満池谷の親戚の家との関係

  小説『火垂るの墓』に描かれた満池谷の親戚と野坂昭如の張満谷家との関係は、私小説では遠い親戚と書かれていますが、どのような関係だったか、『火垂るの墓』記念碑準備委員会でお聞きした事実と、野坂の私小説を読み比べてみると、わかってきました。
 野坂昭如の私小説『ひとでなし』の冒頭に人物関係図が収められており、複雑な人物関係がよくわかるようになっています。

この関係図、本名が使われている部分と、名前が変えられている部分がありますが、調査によるとこの関係図はほぼ事実のようです。
例えば野坂の実父、野坂相如は実名であり、内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた人物です。

 野坂は物心つかないうちに張満谷家に養子に出されています。その養父・善三の母・ことの甥と結婚したのが、満池谷の疎開先の長女でした。『ひとでなし』では、高瀬家という姓になっていますが、実際はI家でした。
 五十四年間ずっと思い続けたI家の三女(K子)(小説では律子)との出会いは、『ひとでなし』で次のように述べられれています。
<律子を初めて見たのは、十八年二月、高瀬家長女とSの、神戸オリエンタルホテルで開かれた結婚披露宴。県一高女五年の次女、女学院二年の律子、ぼくと同い歳の四女、短剣がないだけで海兵そっくりの制服を着た長男。その母親と親戚が向き合うテーブルに並んで、四女はセーラー服、他は着物。十八年二月、がダルカナル島「転進」が発表され、物資統制の一段と厳しくなった御時勢にあって、発祥は居留地時代のこのホテルは、フルコースのディナーを供し、土産は上に寿の文字を浮き出させた寒天で飾ったパウンドケーキだった。>
この家族構成は、『火垂るの墓』記念碑準備委員会会長のお話とよく一致します。
小説で高瀬家となっているI家の長女は大正9年生まれですから、昭和18年は23歳でした。次女は大正12年生まれで20歳になっており、県一高女五年というのは野坂の創作のようです。
 三女K子(小説では律子)は昭和3年生まれ、14歳で女学院二年というのは事実だったうです。長男は神戸商船に寄宿していたようですから、海兵そっくりの服を着ていたというのもうなずけます。
 ただ『わが桎梏の碑』では野坂はお多福風邪で寝込み宴に列席できなかったと書いており、結婚式の写真を見ながら創作したのではないでしょうか。

 ここで登場する神戸オリエンタルホテルは3代目の建物で、神戸港メリケン波止場近くの海岸通にあり、風見鶏の館を手がけた建築家ゲオルグ・デ・ラランデとヤン・レッツェルが共同設計したものですが、残念ながら昭和20年の神戸大空襲で被弾し、復旧できずに取り壊されました。
昭和10年代には谷崎潤一郎もよく来ており、『細雪』の雪子の見合いの場所として登場します。

海岸通りに行きますと、このような掲示があります。


正面の駐車場のあたりにオリエンタルホテルはありました。

立派なロビーの写真など、当時の写真が京町にある現在のオリエンタルホテルに展示されています。

このような場所で宴が催されたのは、両家は相当の資産家だったからでしょう。そんな話も私小説には書かれていました。


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『妄想老人日記』からわかる野坂昭如の純情

『火垂るの墓』は野坂昭如が神戸大空襲により、満池谷に疎開した経験をもとに書かれた小説です。満池谷の遠い親戚の家には神戸女学院五年生だった三女が住み、彼女と過ごした2カ月は野坂にとって忘れられない思い出となりました。

『舞台再訪 私の小説家から』で、野坂は次のように述べています。

(ニテコ池を訪ねた野坂昭如)
<ぼくの小説「火垂るの墓」は、だから舞台をかりただけで、もし、ぼくのいつわりない満池谷を書くなら、少年と少女の、それなりにロマンティックな色どり濃いものとなるだろう。>

 その少年と少女の交情については、『早すぎた夏』や『わが桎梏の碑』、私小説『ひとでなし』、『行き暮れて雪』などに描かれています。
美しい三女への淡い恋心は、消えることなく、戦後何度も満池谷を訪ねており、前記の『舞台再訪』は、昭和44年2月に書かれた作品です。

 平成11年5月に三女は亡くなりますが、その葬儀に野坂昭如が駆けつけたことは、以前紹介いたしました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11693156c.html

 ところで、先日今村様から、野坂昭如の『妄想老人日記』を紹介され、読んでいると1999年5月の日記に、葬儀参列の様子が書かれており、6月にも再び満池谷を訪れていたことが書かれていました。

(野坂が避難した満池谷の家のあった場所は、上の写真のように空き地となっています)

<六月十五日 快晴。起5:00AM。西下、かの女性の生家近くを歩く。震災でさらに変ってしまった、香櫨園の浜、五十四年前のまさにこの時期、毎日、君とこの辺りを歩いた、かつての白砂青松の浜、テトラポッドの山と変じ、濁った海にディンギー数隻。芦屋まで歩きS医師診療所、小学校同級生にして陶芸の師と碁を打っている。>


これは、三女が亡くなった後、野坂が彼女との思い出を訪ねた記録です。
 野坂は五十四年間、彼女への恋慕の情を持ち続けていたのでした。無頼派とも言われた野坂ですが、これほど純情な男だったとは。

 満池谷の一家の消息については、『火垂るの墓』記念碑準備委員会のT会長とN先生が調査し、詳しいことがわかり、ご親族から公開される許可を得られています。
その事実と、野坂昭如の私小説などを比較しながら、もう一度野坂昭如と三女との交情の様子を探ってみます。




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満池谷でのワイン会と『火垂るの墓』記念碑準備委員会

 『火垂るの墓』の舞台となり、野坂昭如が実際に疎開していた満池谷町の親戚の家(現在は空地)の近くで先日ワイン会が開催されました。

 
 私は昨年から参加し、今回は3回目の新参者ですが、このワイン会は12月で33周年を迎えたとのこと。約20名の参加で盛会でした。
今回提供されたワインは7種類。

スタートはフランス白辛口スパークリングワインから。

 今回提供されたワインどれも素晴らしい7種類でしたが、3番目の2009年のフランス赤フルボディCHATEAU DE VILLEGERORGE HAUT-MEDOCは最高。

評論家が「2009年は私がボルドーを取材して32年間の中で最良のビッグビンテージ」「ワイン人生の中で最高」と評すのがわかるような味わいでした。

 料理もお手製のワインにピッタリの料理が11種類、お昼から始まり、終わったのは6時半でした。

 ところで主催されているソムリエのT氏と知り合ったのは、ニテコ池の『火垂るの墓』の縁でした。(上の写真の右側の林も切り開かれマンション建設が進んでいます)


 T氏はN先生と、満池谷町の住民の方々の家を一軒一軒周り、戦中、戦後の野坂昭如とその縁者の動向を詳細に調べられ、朝日新聞や産経新聞の記事にもなっています。
http://www.sankei.com/west/news/170404/wst1704040042-n1.html

 T氏から、野坂昭如が、淡い恋心を抱いていた満池谷の遠い親戚の神戸女学院生だった三女が亡くなったとの連絡を受け、葬式にわざわざ東京から西宮に足を運び参列したことも教えていただき、驚かされました。

 そのような活動の中で、お二人は石屋川公園の『火垂るの墓』の記念碑建立の経緯を調べられ、ニテコ池・満池谷にも平和を祈る記念碑を建立しようという計画が持ち上がり、準備委員会が開催されることになりました。
実現できるかどうかわかりませんが、私も楽しみにしています。




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満池谷のワイン会で『火垂るの墓』の親戚の叔母さんの写真!

 昨年末に満池谷町自治会副会長のTさんが、野坂昭如が神戸大空襲のあと、疎開してきた満池谷町の遠い親戚の家の場所・その家族構成など、つぶさに調べ公開されました。

 先日、ソムリエの資格も持たれるT家で「夏に恋するゼクトのつぶやき」と名したワイン会が開催され、参加させていただきました。

飲ませていただいたワインは、ドイツゼクト始め、ドイツワインが3種類、フランスワインが4種類、南アフリカのワインが1種類の合計7種類。

供されたお料理も11種類という多さで、12時半に始まった会は、18時半ごろまで続きました。


 そこでT氏とN先生の活動報告があり、野坂昭如が疎開した遠い親戚の叔母さんの写真や、当時野坂が淡い恋心を抱いていた神戸女学院生の三女京子さんの写真を見せていただきビックリしました。
その写真の裏には、それぞれの名前が書かれています。

アイさんが親戚の叔母さんの名前です。

 T氏とともに調査をしてきたN先生お二人で、先日伊豆に住むI家の長男のご子息の家を訪ね、今や故人となってしまったI家の写真を公開してもいいと(むしろ公開していただきたいと)許可を得て、貴重な写真をもらってきたそうです。新聞社にも声をかけているそうで、近いうちにどこかの新聞に掲載されるかもしれません。

 遠い親戚のI家の叔母さんは『火垂るの墓』では未亡人として満池谷町に住んでいましたが、ご主人は生前M商事に勤められており、西宮市平松町に住まれていたそうです。

その当時の平松町の借り上げ社宅の写真がありました。
 ご主人は昭和16年に死亡し、その後I家は満池谷町に移ったようです。

 野坂昭如はI家の三女京子さんが亡くなられた時、家族から連絡を貰い、葬儀に参列したそうで、その時の写真ものこっています。そこで野坂は親族に叔母さんのことを悪く書きすぎてしまったと、親族に謝ったそうです。
満池谷に「火垂るの墓記念館」を建てようと活動しているT氏とN先生の調査には脱帽です。まさかご本人の写真を見ることができるとは思ってもみませんでした。



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野坂昭如『エロ事師たち』の舞台は仁川の五ケ池?

 産経新聞連載の『石野伸子の読み直し浪花女』野坂昭如のウソとマコトでは、守口時代の野坂昭如を中心に述べられています。そこで才女が紹介されている野坂の小説が、なんと『エロ事師たち』。

<守口を舞台とした作品は何作かある。作中人物に守口を投影させるケースもある。例えば、デビュー作「エロ事師たち」には、界隈(かいわい)の面影が充満している。>
http://www.sankei.com/west/news/170224/wst1702240026-n1.html

 私も早速読んでみると、野坂昭如が守口時代に三高受験失敗後に大阪で働いていた頃の経験も色々なところで出てきます。
ここで登場するのが、西宮の仁川での乱交パーティのロケ。

石野伸子さんは
<どこを引用しても、少々はばかられる言葉が乱舞する猥雑な小説。>としてあまり引用はされていませんが、『エロ事師たち』から少し紹介しましょう。

<昭和三十九年十月十日、この日、スブやん三十八歳の誕生日を迎え、折しも東京オリンピックのファンファーレ高らかに鳴り響く。
「あの競技場に、世界中から集った体のええ男と女が、ワイヤ―ッいうて乱交してみい、こら世紀の壮観、これぞ民族の祭典いうもんちゃうかあ」
 東京がやんねんやったら、こっちも負けてへんでえと、わざわざこの日を選んで第一回乱交パーティを、阪急電鉄宝塚線仁川(原文ママ)から徒歩二十分ばかり、ちいさい池のほとりにある山荘でひらく。>
 さてこの「阪急仁川駅から徒歩二十分ばかりの小さい池のほとり」どこだったのか。

 地図で調べてもよくわからないのですが、イメージするのは昔仁川ピクニックセンターにあった五ケ池です。

野坂昭如もこのあたり歩いたのではないでしょうか。

 ただ阪急仁川駅から五ケ池まで歩くと四十分以上はかかるでしょうし、山荘などなかったような記憶ですが、そばには昔、勤労福祉センター仁川ハイツの建物がありました。

 さて五ケ池は現在どのようになっているかネットで調べてみると、心霊スポットとしてでてくるではないですか。そこで現地に足を運んでみました。

甲山大師から麓を歩いて行くと、仁川ピクニックセンターは無くなっていますが、「五ケ池ピクニックロード」という標識は残っていました。

もう五ケ池は昔の大きさはなく、ネットで囲われて立ち入り禁止と表示されています。

ネットの隙間から見えた現在の五ケ池です。


その前には仁川テニスクラブができていました。

心霊スポットなどとは思えない明るい風景です。

五ケ池のすぐ近くになかよし池があります。


そのほとりには喫茶店Guten Tagがあり、野坂昭如の小説の舞台にぴったりでした。


 ところで産経新聞編集委員の石野伸子さんによる「阪神間ゆかりの作家たち」という文学講座が芦屋公民館で開催されます。

申し込み期限は3月25日まで。問い合わせ先は芦屋市市民センター公民館0797-35-0700です。



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 関学高等部の時にこのあたりをよく走りました。 今でも夢に出てきます。走っている夢をみます。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/03/12 18:38:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

そういえば、ピクニックロードの途中に、阪急バスの関学道というバス停があり、林の中に向かって行く細い道がありました。

[ seitaro ] 2017/03/12 20:14:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

 そこです 中学の時は何度も歩かされました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/03/13 18:29:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

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野坂昭如の守口時代(「石野伸子の読み直し浪花女」より)

 産経新聞編集委員の石野伸子さんのコラム「石野伸子の読み直し浪花女」で「野坂昭如のウソとマコト」と題して、野坂昭如の守口在住時代にスポットを当てて連載されています。
http://www.sankei.com/west/news/170224/wst1702240026-n1.html

 野坂昭如は1歳の妹を連れて満池谷を離れてから、福井で終戦を迎え、そこで妹を餓死させていまいます。福井の暮らしにも見切りをつけた野坂は、昭和20年8月31日に、大火傷を負った養母(愛子)と祖母(こと)が親戚を頼りに、以前は飯場の事務所だったボロ家を借りて移り住んでいた守口のはずれに戻りました。野坂は約2年、仲の悪い二人とそこで暮らしたのですが、その頃の様子は彼の自伝的小説にも詳しく書かれています。
 その守口時代の義母と祖母との暮らしを題材にした小説が『浣腸とマリア』でした。

石野伸子さんは次のように述べられています。
<守口を語って秀逸なのはなんといっても短編「浣腸とマリア」ではないだろうか。富岡多恵子編「大阪文学名作選」(講談社文芸文庫)に収録されている。>
 なんとも言い難い想像をかきたてる、ひどい題名で、それをインターネットで検索しても「浣腸とマリア に一致する情報は見つかりませんでした」という答えしか返って来ず、使用禁止用語かと考えてしまいました。

『浣腸とマリア』は昭和21年の守口でハス池のほとりの小屋に住むおかね、嫁の竹代、孫の年巨(としひろ)の3人家族が主人公ですが、おかねは祖母の‘こと’、竹代は愛子、年巨は野坂昭如がそれぞれモデルになっています。


 題名の浣腸は、使う場面がでてくるのではなく、次のように内職で登場します。
<鋳型からうちだされたセルロイドの浣腸器のへたのぎざぎざを、肥後守(ひごのかみ)できいきいと削りおとして三つ一銭の手内職、水洟(ばな)すすりすすり、祖母のおかねは嫁の悪口をいいづめだった>

「肥後守」と言っても今の若い人には通じないかも知れませんが、昔は小刀や和製ナイフの肥後守で鉛筆を削ったり、工作したものです。
 セルロイドの浣腸器のヘタのギザギザを削り取る作業は、野坂が守口時代に経験したものではなく、守口から東京へ移り、盗みを働いたことから少年院に送られたときに経験した作業でした。
 自伝的小説『ひとでなし』にそのことが書かれています。
<捕まって留置所から非行少年の吹き溜まり12月22日出所東京出張所へ移され、高い天井に半ばはめこまれた電球をながめ、これをショートさせて火事を起こし、混乱のうちに逃げるなどとつぶやく。労役として課せられていり会符の針金通し、浣腸器のヘタ削りに似た仕事も、手掛けるのは新入りだけ、いかにおどされても、穴に通した針金をよじる気力もない。>

『浣腸とマリア』は実体験を基にした小説で、野坂は守口時代にも夙川が懐かしく、香櫨園浜で泳いだり、パインクレストでボーイの仕事などをしているのですが、マリアは小説には出てきません。野坂はマリアにどのような思いを込めてこの小説を書いたのでしょう。

 ところで石野伸子さんに、芦屋公民館でのご講演を依頼しましたところ、快諾いただきました。4月から4回シリーズで、「阪神間ゆかりの作家たち」と題した講演です。

詳しくは3月1日以降にオープンにされる以下のホームページをご参照ください。
http://www.city.ashiya.lg.jp/kouminkan/kouza.html



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野坂昭如 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

 肥後守 姉も私も持っていました・・・・鉛筆削りカスをためたりしました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/02/28 8:49:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

便利なカッターナイフがありますが、肥後守は今はどうんあているのでしょう。

[ seitaro ] 2017/02/28 20:57:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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