阪急沿線文学散歩

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野坂昭如『エロ事師たち』の舞台は仁川の五ケ池?

 産経新聞連載の『石野伸子の読み直し浪花女』野坂昭如のウソとマコトでは、守口時代の野坂昭如を中心に述べられています。そこで才女が紹介されている野坂の小説が、なんと『エロ事師たち』。

<守口を舞台とした作品は何作かある。作中人物に守口を投影させるケースもある。例えば、デビュー作「エロ事師たち」には、界隈(かいわい)の面影が充満している。>
http://www.sankei.com/west/news/170224/wst1702240026-n1.html

 私も早速読んでみると、野坂昭如が守口時代に三高受験失敗後に大阪で働いていた頃の経験も色々なところで出てきます。
ここで登場するのが、西宮の仁川での乱交パーティのロケ。

石野伸子さんは
<どこを引用しても、少々はばかられる言葉が乱舞する猥雑な小説。>としてあまり引用はされていませんが、『エロ事師たち』から少し紹介しましょう。

<昭和三十九年十月十日、この日、スブやん三十八歳の誕生日を迎え、折しも東京オリンピックのファンファーレ高らかに鳴り響く。
「あの競技場に、世界中から集った体のええ男と女が、ワイヤ―ッいうて乱交してみい、こら世紀の壮観、これぞ民族の祭典いうもんちゃうかあ」
 東京がやんねんやったら、こっちも負けてへんでえと、わざわざこの日を選んで第一回乱交パーティを、阪急電鉄宝塚線仁川(原文ママ)から徒歩二十分ばかり、ちいさい池のほとりにある山荘でひらく。>
 さてこの「阪急仁川駅から徒歩二十分ばかりの小さい池のほとり」どこだったのか。

 地図で調べてもよくわからないのですが、イメージするのは昔仁川ピクニックセンターにあった五ケ池です。

野坂昭如もこのあたり歩いたのではないでしょうか。

 ただ阪急仁川駅から五ケ池まで歩くと四十分以上はかかるでしょうし、山荘などなかったような記憶ですが、そばには昔、勤労福祉センター仁川ハイツの建物がありました。

 さて五ケ池は現在どのようになっているかネットで調べてみると、心霊スポットとしてでてくるではないですか。そこで現地に足を運んでみました。

甲山大師から麓を歩いて行くと、仁川ピクニックセンターは無くなっていますが、「五ケ池ピクニックロード」という標識は残っていました。

もう五ケ池は昔の大きさはなく、ネットで囲われて立ち入り禁止と表示されています。

ネットの隙間から見えた現在の五ケ池です。


その前には仁川テニスクラブができていました。

心霊スポットなどとは思えない明るい風景です。

五ケ池のすぐ近くになかよし池があります。


そのほとりには喫茶店Guten Tagがあり、野坂昭如の小説の舞台にぴったりでした。


 ところで産経新聞編集委員の石野伸子さんによる「阪神間ゆかりの作家たち」という文学講座が芦屋公民館で開催されます。

申し込み期限は3月25日まで。問い合わせ先は芦屋市市民センター公民館0797-35-0700です。




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 関学高等部の時にこのあたりをよく走りました。 今でも夢に出てきます。走っている夢をみます。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/03/12 18:38:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

そういえば、ピクニックロードの途中に、阪急バスの関学道というバス停があり、林の中に向かって行く細い道がありました。

[ seitaro ] 2017/03/12 20:14:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

 そこです 中学の時は何度も歩かされました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/03/13 18:29:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

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野坂昭如の守口時代(「石野伸子の読み直し浪花女」より)

 産経新聞編集委員の石野伸子さんのコラム「石野伸子の読み直し浪花女」で「野坂昭如のウソとマコト」と題して、野坂昭如の守口在住時代にスポットを当てて連載されています。
http://www.sankei.com/west/news/170224/wst1702240026-n1.html

 野坂昭如は1歳の妹を連れて満池谷を離れてから、福井で終戦を迎え、そこで妹を餓死させていまいます。福井の暮らしにも見切りをつけた野坂は、昭和20年8月31日に、大火傷を負った養母(愛子)と祖母(こと)が親戚を頼りに、以前は飯場の事務所だったボロ家を借りて移り住んでいた守口のはずれに戻りました。野坂は約2年、仲の悪い二人とそこで暮らしたのですが、その頃の様子は彼の自伝的小説にも詳しく書かれています。
 その守口時代の義母と祖母との暮らしを題材にした小説が『浣腸とマリア』でした。

石野伸子さんは次のように述べられています。
<守口を語って秀逸なのはなんといっても短編「浣腸とマリア」ではないだろうか。富岡多恵子編「大阪文学名作選」(講談社文芸文庫)に収録されている。>
 なんとも言い難い想像をかきたてる、ひどい題名で、それをインターネットで検索しても「浣腸とマリア に一致する情報は見つかりませんでした」という答えしか返って来ず、使用禁止用語かと考えてしまいました。

『浣腸とマリア』は昭和21年の守口でハス池のほとりの小屋に住むおかね、嫁の竹代、孫の年巨(としひろ)の3人家族が主人公ですが、おかねは祖母の‘こと’、竹代は愛子、年巨は野坂昭如がそれぞれモデルになっています。


 題名の浣腸は、使う場面がでてくるのではなく、次のように内職で登場します。
<鋳型からうちだされたセルロイドの浣腸器のへたのぎざぎざを、肥後守(ひごのかみ)できいきいと削りおとして三つ一銭の手内職、水洟(ばな)すすりすすり、祖母のおかねは嫁の悪口をいいづめだった>

「肥後守」と言っても今の若い人には通じないかも知れませんが、昔は小刀や和製ナイフの肥後守で鉛筆を削ったり、工作したものです。
 セルロイドの浣腸器のヘタのギザギザを削り取る作業は、野坂が守口時代に経験したものではなく、守口から東京へ移り、盗みを働いたことから少年院に送られたときに経験した作業でした。
 自伝的小説『ひとでなし』にそのことが書かれています。
<捕まって留置所から非行少年の吹き溜まり12月22日出所東京出張所へ移され、高い天井に半ばはめこまれた電球をながめ、これをショートさせて火事を起こし、混乱のうちに逃げるなどとつぶやく。労役として課せられていり会符の針金通し、浣腸器のヘタ削りに似た仕事も、手掛けるのは新入りだけ、いかにおどされても、穴に通した針金をよじる気力もない。>

『浣腸とマリア』は実体験を基にした小説で、野坂は守口時代にも夙川が懐かしく、香櫨園浜で泳いだり、パインクレストでボーイの仕事などをしているのですが、マリアは小説には出てきません。野坂はマリアにどのような思いを込めてこの小説を書いたのでしょう。

 ところで石野伸子さんに、芦屋公民館でのご講演を依頼しましたところ、快諾いただきました。4月から4回シリーズで、「阪神間ゆかりの作家たち」と題した講演です。

詳しくは3月1日以降にオープンにされる以下のホームページをご参照ください。
http://www.city.ashiya.lg.jp/kouminkan/kouza.html



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 肥後守 姉も私も持っていました・・・・鉛筆削りカスをためたりしました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/02/28 8:49:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

便利なカッターナイフがありますが、肥後守は今はどうんあているのでしょう。

[ seitaro ] 2017/02/28 20:57:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和23年新潟から家出して五泊目、香櫨園浜に向かった野坂昭如

 昭和23年、新潟県副知事の野坂相如邸から家出して五泊目、満池谷にやってきた野坂昭如は、親戚の三女と出会い、翌日阪急六甲駅前で午後一時に、もう一度会う約束をして別れると、香櫨園の浜に向かいます。

自伝的小説『行き暮れて雪』からです。
<園子と別れると、悠二は香櫨園の浜へ向かった。足が地につかない感じで、うろ覚えのシャンソン「巴里祭」や「巴里の屋根の下」など、判らない部分は出たらめに口ずさみ、やがて海べりに建つ回生病院の、尖った屋根を眼にして走り出した。>

戦事中、一歳の妹をおぶって、親戚の三女とよく歩いた道です。


<浜へ出ると、向こうに、紀州の山並みが浮かぶ、〜佐渡ヶ島山たそがれて、悠二は寮歌を歌った、誰もいない、かなり風は強かった。>

香櫨園の浜に出ると、水平線と紀州の山並みが見えていました。
懐かしい風景です。

現在は、かろうじて残っていた回生病院の旧玄関の建物もなくなり、まったく異なる光景になりました。


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野坂昭如と谷川流が描いた夙川公園でのデート

 昭和23年、新潟県副知事の野坂家から家出してきた野坂昭如は、満池谷の親戚の三女郷子(『行き暮れて雪』では園子)と出会い夙川公園を歩きます。自伝的小説『行き暮れて雪』からです。

<「この道、よう歩いたねぇ」遊歩道に出ていた、阪急のガードをくぐり抜け、川に面した古い木のベンチにすわり、園子、日傘をとじた。「林檎いただきましょうか」園子が包みを丁寧に開き、その指が、妙に荒れた感じで、古町の振袖さんの水仕事を想い出し、園子の暮し向き、そんなに裕福ではないんじゃないか。服装、バッグは決してみすぼらしくない、夫が羅紗を扱っているなら、これは金まわりいいはず、しかし、溌溂としたところがない。さっき、フジヤマの出来ごとを聞いて、いかにもおかしそうに笑い、笑われて悠二、救われたのだが、ややもすればだまりがち。高汐町の名前は知らないが、果たしてどんな住いなのか、甲子園へは何度も通ったけれど、周辺の家の記憶はまったくない。>

現在も川べりには、木のベンチが所々に置かれています。
園子は結婚して、満池谷から西宮の甲子園高潮町に移っていました。

 恋慕する女性への心理をしっとりと描いている野坂昭如に対し、谷川流れが描く、高校生の主人公きょんと朝比奈みくるのデートシーンは明るく描かれています。

 
 谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」からです。舞台は平成16年頃の夙川公園です。

<俺たちは近くを流れている川の河川敷を意味もなく北上しながら歩いていた。一ヶ月前ならまだ花も残っていただろう桜並み木は、今はただしょぼくれた川縁でしかない。散策にうってつけの川沿いなので、家族連れやカップルとところどころですれ違う。>


 女性の描き方の差は、文才だけではなく、小学校の4年から男女の教室が別になったという野坂昭如の世代と、男女共学、女性の社会進出があたりまえになった谷川流の世代の差を象徴するかのようです。



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野坂昭如の満池谷疎開生活の記憶

 野坂昭如の自伝的小説『行き暮れて雪』では、昭和23年に新潟から家出して満池谷を訪れた野坂(悠二)は親戚の三女郷子(小説では園子)と出会いますが、そこで戦時中の思い出が述べられています。
<三年前、数え年十六と十八、はじめ年上を意識したものの、それはすぐ薄れて、なんといっても戦時中、男手は頼りにされた。断水がしばしばで、ベアリング会社社長宅の井戸まで水汲み、裏山で薪拾い、壕の整備、>

野坂が郷子(園子)さんと水汲みに行ったベアリング会社社長宅は、西側の階段を昇った少し先にありました。

 野坂は回生病院に入院していた義母を見舞いに行き、香櫨園浜で一歳の妹を海水につけてやったり、一升瓶に塩水を汲んだりしていました。

<塩を補うため、一升瓶二本かかえ、浜へ汐汲みにも出かけた、さらに野荒しの獲物を園子に捧げ、銀行から下した金で、映画に誘い、喫茶店「パヴォーニ」の、寒天をおごった、けっこう悠二の方が引きまわす感じだった。>

園子と行った映画館とは敷島劇場だったのでしょうか。

喫茶店「パヴォーニ」は戦時中も一日も休まず開いていました。

<谷あいと、高台の一帯は無傷のままで、しかし家族すべて疎開した家が多く、日中出歩いても、まず人に会わない、園子は常にブラウス、スカート姿、焼跡ならともかく、本土決戦に備える大和撫子として、いささか不謹慎に思えたが、いっさい気にしない。>

この思い出が、高畑勲監督のアニメ『火垂るの墓』に出てくる若い女性のスカート姿につながったのではないでしょうか。



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昭和23年、親戚の三女と出会った野坂昭如はあの急な階段を上ります

 満池谷の家の近くで、あこがれのI家の三女に出会った野坂は昭和20年7月に、ここで三女と過ごした日々を思い出します。

自伝的小説『行き暮れて雪』では園子という名になっています。
<三年前の夏、上空を米艦載機が、わがもの顔にとびまわり、気まぐれな機銃掃射行う中を、二人で、いやどちらかが、妹を背負って、夙川のほとりを歩いた。長女は結婚して上海に住む、次女、四女は軍需工場に勤め、また動員され、園子だけが病気をいい立てて家にいた。甲山、淡路島の方角、大阪湾の、それぞれ上空にキラキラ光る点が乱舞し、そのいくつかが、日本の戦闘機とはまるでちがう獰猛な機体を、たいていは傾かせつつ、殺到してくる。>

現在はこの平和な夙川公園の上を、戦時中はグラマンが飛び交っていたのです。

 野坂は、わずか1歳の妹をおぶって、三女と戦時下の夙川をしばしば香櫨園の浜まで歩いたのです。

<「私、結婚したんよ」「はぁ、あの去年、ききました」「男の人うらやましいわ」悠二、だまっていた、「自分で、生きていけるもん」園子の父は、昭和十年に亡くなっている、その遺産で、母と娘四人が暮らしてきたわけで、インフレを考えれば、早く嫁がねばならない事情の推察もつく。>
 三女は神戸女学院を卒業して、すぐに羽振りのいい闇屋と結婚していました。

<園子、左を示して、「こっちいこ」そちらは急な階段で、堤防からの道に通じる、「家に主人いてるねん、会う?会うてもしょうがないでしょ」つぶやきつつ、先に昇った。>

この急な階段を昇ったのです。

<上に立つと、谷あいすべてを見渡せる、七軒の家並みが三列、農婦が畑にしゃがみこみ、大八車に材木を積んで、老人がひく、「今、どこに住んではるんですか」「甲子園、高汐町、球場のすぐそば」何か訊いてくれれば、自分の転変ぶりをしゃべれるのだが、園子だまって、谷あいのながめに見入る。>

急な階段からの上からの眺めです。この筋に親戚の家はありました。



三女が住んでいると言った甲子園高潮町は汐の字が違いますが、実在する住所なので、本当だったのかもしれません。





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昭和23年家出した野坂昭如は満池谷で、親戚の三女に出会う

 昭和23年、新潟から家出してきた野坂昭如の最終目的地は満池谷で、神戸を焼け出されて世話になった親戚の家の三女郷子(『行き暮れて雪』では園子)に会うことでした。
『行き暮れて雪』では悠二という名で登場する野坂は、阪急夙川駅前の果物屋で手土産に林檎を買い、更に外食券食堂でブドー酒を飲んで、ふらつきながら満池谷に向かいます。

上の地図は「夙川地区100年のあゆみ」からですが、確かに夙川駅前の夙川書店の隣が果物屋でした。

<しびれ薬でも飲まされたように体がだるい、左右は畑、道の右側に貯水池から流れる溝がある、「いやあ、優ちゃんやないの」声がして、見ると、悠二と同年の四女真紀子と、園子が一本の日傘に身を寄せ合い、声をかけたのは妹の方だった。>
野坂が姉妹に出会ったのは、満池谷の親戚の家の少し手前。

山本二三の絵に描かれている場所です。

ニテコ池からの水が流れる道の右側の小川は、現在は上の写真のように側溝になっています。

 野坂が満池谷の親戚の家に疎開していた当時は、四女は学徒動員で寄宿していたため、ほとんど家にはいませんでした。姉妹の後ろにいた二十五、六の男は、真紀子のフィアンセでした。
<「真紀ちゃんのフィアンセの人で、川崎製鉄所にお勤めしてはんねん」強くもない陽射しを、園子、日傘にさけてつぶやいた、悠二はただぼんやりして、まさか会えるとは思わなかったのだ。>
『火垂るの墓』で意地悪く描かれていた親戚の家の母親は、癌の手術をして、市民病院に入院中でした。

<「ほな、園子さんいかんならんちゃうの」「それは大丈夫、悠ちゃん、三年ぶり以上なるね、えらい男らしくなって、学校どこ?」「新潟の高校やけど」「ナンバースクール?」「いや、ちゃいます」本来なら、第九高校と言いたかったが、ひかえる、闇討ちの突然の酔いは去っていた、「前途洋々やないの」「いや、そんなことないけど」園子の結婚については言い出せぬ。>

ようやく憧れの神戸女学院出身の三女に会えた野坂ですが、彼女は神戸女学院卒業後すぐに結婚していました。
実在した三女の郷子さんは、本当に美しい方だったそうで、野坂は彼女の葬儀にも出席したそうですから、戦後も連絡を取り合っていたのでしょう。



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昭和23年、家出した野坂昭如は守口で友人たちと遊んだ後、西宮へ

 野坂昭如は、戦後守口で二年間過ごしましたが、昭和23年に新潟から家出して、守口時代に通った市立中学の友人たちに会いに出かけます。その後飛田遊郭で一夜を過ごした野坂は、阪急で夙川駅に向かいます。
『行き暮れて雪』からです。
<市電で大阪駅へもどり、阪急に乗った、何も考えず夙川駅で降り、海へ向かう、川沿いの公園風遊歩道は何もかわっていない、焼け出された後、二か月身を寄せていた家の三女、園子に会いたかった。>
お目当ては、疎開していた満池谷の親戚の家の三女でした。野坂より二歳年上で神戸女学院に通っていた園子(実名は郷子さんでした)は野坂にとって永遠のマドンナだったようです。

<阪神国道へ出ると東へ進み、一本目の道を甲山へ、今来た道をとってかえすように歩いた、このまままっすぐ突き当れば、園子の実家のそばに出る。>
 野坂はなんとも不思議な経路で、阪急夙川駅から満池谷町に向かいます。

一旦夙川駅から海へ向かって、阪神国道まで歩いたのは、回生病院へ行くつもりだったのが、途中で心変わりしたのでしょうか。

<手紙で、当時の当時の礼を述べたいと申し出て、何か不都合なことがあるだろうか、礼をいいたい気特に偽りはない、阪急の踏切を過ぎてしばらくすると、視界が開け、正面に椀を伏せたような甲山が見える、左は夙川の堤防と松並木、右は高台、いずれも奥まるにつれて接近し、果ては家並み七軒の幅まで狭まり、家並みの向こうは西宮市貯水池。>
野坂は県道82号線を真っすぐ北に向かったようです。

当時踏切だった所は、現在は上の写真のように高架になっています。

そして高架を過ぎると、正面にお椀を伏せたような甲山が見えます。

 途中どこかで右に折れて、ニテコ池の南側にある満池谷の親戚の家に向かったのでしょう。

親戚の家があった場所は現在は空き地となっています。

小説『行き暮れて雪』では、主人公悠二(野坂)は三女園子(郷子)と家の手前で出会うのです。



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昭和23年の阪急梅田ターミナル(野坂昭如『行き暮れて雪』)

 昭和23年7月、新潟から家出して、御影の「六甲花壇」に一泊した野坂昭如は、翌日小学校時代に住んでいた中郷町の焼跡を見て回った後、阪急に乗って梅田に向かいます。
<宿賃は三百二十円だった。悠二は阪急六甲から神戸とは逆の梅田へ向かった、夙川を過ぎ、車窓から甲山がのぞめる、焼けて後、身を寄せていた家の、二つ上の娘は、神戸女学院を出てすぐ、裕福な男と結婚した。>

夙川を過ぎ、車窓から見える甲山。(若江町付近)当時は写真のように高架にはなっていませんでした。

この道は野坂がよく歩いた道でもあります。

 阪急の梅田駅は昔は、阪急百貨店の所にまで伸びていました。

<梅田駅を降り、改札を出て、つまり阪急デパートの一階に入ったとたん、ゴミと屎尿の臭いが鼻をさす、人でごった返していた。太い柱に宝塚劇場、映画「オーバーランダーズ」「毒薬と令嬢」、朝日ホールで上演の「ロミオとジュリエット」のポスター、まだ昼前だが学生服と、リュック担いだ連中の姿が目立つ。札束にも少しなれた、昨日、やみくもにびくついたことがおかしく思える。六階の食堂で、カレーライスを始めたと、貼紙がある、昔から阪急のカレーは名物なのだ。>


阪急の名物カレーが復活していました。


<食堂の前に、外食券売りがいた、一枚十円、二十枚綴りを買い、カレーの値段は五十円、他にどじょう鍋、トンカツ定食、大阪鮨、きつねうどん、モツ煮込み、刺身、目玉焼、もやし炒め、コーンスープなど、ほぼ満員だった。カレーにソースをまぶして三皿食べ、気がつくと前に、母子四人連れがいて、きつねうどんいっぱいをおかずに素飯をとり分けて食べる。悠二あわてて立ち上がった、いずれも乞食に近い身なり、カレーの皿をかくしたくなる。>
 野坂は札束を懐に、家出してきましたが、まだまだ貧しい時代でした。
ここから守口行きの市電に乗ります。



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昭和23年新潟の実家を家出した野坂昭如は御影公会堂へ

 昭和23年、七万円の大金を懐に、新潟の野坂家から家出した野坂昭如は、東京、京都、大阪を経て、石屋川に向かいます。

自伝的小説『行き暮れて雪』からです。
<悠二は、駅前の空地を渡り、阪神ビル地下へもぐった。阪神映画が、「三百六十五夜」を上映している。十五円で石屋川までの切符を買った、ベルが鳴る、ほぼ満員の電車に駆け込んだ。>

阪神映画って、何處にあったのでしょう。

野坂は大阪で阪神電車に乗り換えたようです。阪神の駅名が続きます。
<「福島」「野田」「杭瀬」馴染み深い駅名がつづく。新聞ホルダー、写真画報の売り込みに歩いた地域。神崎川の鉄橋を過ぎる、工場の廃墟がつづく。>

大阪大空襲で、手塚治虫はこのあたりの工場で監視塔に立っていたと述べています。
昭和23年には、工場群はまだ廃墟のままの姿で残っていたようです。
<直角三角形の、鋭角を並べたような、中はがらん堂の建物、墜落したツェッペリン号の、骨組風にこんがらがった鉄骨、整理されて、白々しいコンクリートの床、六甲山塊の東のはずれが、暮れなずむ空を背にして、黒く浮かぶ、甲山、香櫨園。>

そして阪神石屋川駅に、六時四十分に着きます。

<川に沿って歩く、阪神国道へ出た、石屋川公会堂の他、何もない、既に暮れていて、しかと判らぬが、町らしい灯の色は、かつて悠二が住んでいたあたりにうかがえぬ、公会堂も暗い。建てられた当時、さぞモダンだったろう、全体に丸味を帯びた褐色の三階建て。石屋川に沿い、公会堂を過ぎようとして、「グリル・石屋川」の、灯の入った看板が眼に入った。>

昭和8年に建設された御影公会堂は今年の3月31日まで、改修工事で休館しています。

食堂は今も地下にあります。

<建物の外の、地下への階段を降り、中へ入ると、空のショウケースが通路なりに、いくつも置かれている、右の奥に灯の色が洩れる、裏口から入りこんだ感じで、しかし、食堂にいっさい覚えがない、衝立で、二つに仕切られ、手前だけで営業するらしい。>

以前名物のオムハヤシライスを食べに行った時の写真です。

野坂は食事の後、近くに宿屋がないか尋ね、その日は「六甲花壇」という宿に泊まります。

昭和二十三年野坂が石屋川を歩いたときは、後年ここに自分が書いた小説の碑が建てられるとは思いもしなかったことでしょう。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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