阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

遠藤周作をなぐさめたのは阪神間の赤褐色の土

 遠藤周作は1965年『神戸っ子』6月号に随想を寄稿し、1970年4月号にはインタビュー記事が掲載されています。いずれの記事にも阪神間の白い土の色について言及しています。
 まず、1965年の随想「想い出すこと」からです。
<もともと話をするのが不得意なのと、講義などは私の本来の仕事ではないので、大抵はお断りするのだが、関西の大学から依頼されると何となく承諾してノコノコ出かけて行く。そしてそれが京都や大阪での仕事であっても事情が許す限り宿は宝塚ホテルにとる。>

 遠藤周作は宝塚ホテルに宿泊し、仁川の旧居があったあたりや、今はなき宝塚文芸図書館を訪ねたようです。現在の宝塚ホテルは解体・新築移転が決まり、新ホテルは宝塚大劇場の西隣に建設され、2020年春に開業するそうです。

<阪急電車に揺られながら窓の外を眺める。東京近郊の黒褐色の土をみなれた眼に赤っぽい土の色が鮮やかに映る。「ああ、帰ってきたんだ」戦争中、まだ慶応の予科生だった頃、激しい勤労奉仕と栄養失調の東京での生活に疲れ果てて帰省した時、すし詰め電車の中でこの土の色を見ておもわず涙をこぼしたのを思い出す。この赤褐色の土はいつみてもあたたかく豊かで大好きだ。>

 遠藤周作が阪急電車の窓から眺めた土の色、今や道路は舗装され、六甲山系も木が生えそろい土の色も確かめらなくなりました。

近くで見れる土の色は夙川公園くらいでしょうか。

 1970年『神戸っ子』のインタビュー記事でも、土の色について述べています。
<風土というと、神戸の土は白い。昔、こちらに住んでいたものにしたら、東京から大津のあたりまで来て土が白くなるとホッとする。>
どうも土の色は大津あたりから変わるようです。

 更に「消えた文学の原点」では、関東の黒い土が嫌いとも述べています。
<私は東京に生まれたが、少年時代は阪神で育った。育った家は灘区の六甲や夙川、仁川と転々としていたし、色々な意味で阪神の風景や人情が私の感情教育に影響を与えたことも確からしい。やむなく東京に住んでいるが、私は関東の黒い土が嫌いである。>
 私はむしろ黒い土が羨ましいのですが、遠藤の土の色の思いは、東京に住んでいた父親と、仁川に住んでいた母親への思いにつながっていたのでしょう。

関西にずっと住んでおられる方は、黒い土のイメージがないかもしれませんが、田園調布の宝来公園の土の写真を添えておきます。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11661864c.html
遠藤周作 | コメント( 1 ) | トラックバック( 0)

私も関東ローム層的な黒い土がダメです。神奈川の海岸は土がまっ黒でダメですし。昔から阪神間の人間はそうなのでしょうね。

[ せいさん ] 2017/09/20 22:33:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

灘中生の憧れのまと佐藤愛子(1970年『神戸っ子』4月号より)

 月刊『神戸っ子』1970年4月号の「遠藤周作氏をたずねて なにいうてけつかるねん」から続けます。

<灘中の頃は夙川で阪神電車に乗って岡本でおりるのだが、途中で甲南高女の生徒に会うんだな。あの「周作怠談」の佐藤愛子なんか、僕らの憧れのまとやったんや。それが別当薫(現大洋監督)に惚れててんやて。そやから大洋が負けるんや。この間、甲南高女の同窓会に招かれましてね。もう皆、オバハンやが感無量でした。握手してもらったら胸が震えて。>
当時灘中があった場所は現在と変わらず、神戸市東灘区魚崎北町。

 現在の甲南女子中学・高等学校は、東灘区森北町ですが、甲南女学校は、武庫郡本山村田中字手水(東灘区田中町4丁目12-1)にあり、跡地は本山南中学校となっています。

水色で囲んだところに灘中学校があります。

佐藤愛子さんが通われていた頃の甲南女学校の正門。

校舎です。

現在の跡地は本山南中学校になっていますが、立派な甲南女子学園発祥の碑が遺されています。

 佐藤愛子さんは甲子園から阪神電車か阪神国道電車で通っていたはずですが、遠藤周作は『神戸っ子』のインタビューで「夙川で阪神電車に乗って岡本でおりる」と話していることから、どうも阪急電車で夙川駅から岡本駅まで乗って、灘中に通っていたようです。

上は現在の航空写真。水色が灘中。赤が甲南女学校があった本山南中学校。黄色が遠藤周作が降りた阪急岡本駅。

 遠藤周作は『私の履歴書』でも、灘中で机を並べていた親友楠本憲吉氏と甲南女学校の女の子のあとをつけて行ったと述べています。
<姉上が部屋から出て行かれると私たちは再び灘中に近い甲南女学校の女の子たちの話を続けた。私たちは当時、彼女たちを尾行することを、「カメする」と言っていたが、その言葉は童話の兎と亀との話から生まれたのである。今の少年と違い、男女共学ではなく、女の子とデイトするなど不可能だった我々は、ただ甲南女学校の女の子達のあとを距離をとってついていくだけで、それ以上、何もできなかった。>
きっと甲南女学校の正門からあとをつけて行ったのでしょう。

 この話は遠藤周作『口笛を吹く時』にも出てきて、平目と小津は国道電車の芦屋川停留所で何日も待ち続け、ついに東愛子ら三人のセーラー服が降りてきたのを見つけ、カメするのです。
東愛子とは佐藤愛子さんをモデルにしたのでしょう。

佐藤愛子が憧れた別当薫は当時西宮市に住み、旧制甲陽中学校時に通い、エースで4番でした。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11661315c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

阪神間が好きな遠藤周作は夙川生まれ?

 月刊『神戸っ子』アーカイブを見ていると、遠藤周作がしばしば登場しています。

1970年4月号には「遠藤周作氏をたずねて なにいうてけつかるねん」というインタビュー記事が掲載されていました。

当時の表紙は小磯良平。

 1970年というと大阪万博が開催された年。遠藤周作は大阪万博で、カトリックとプロテスタントの初の合同事業、基督教館のプロデューサーを阪田寛夫、三浦朱門とともにつとめています。

ミニスカート全盛時代でもあり、こんな広告記事も掲載されていました。

 さてインタビューで、記者から「そろそろ東京をひきはらって神戸にお住みになりませんか」という問いに対して、次のように答えています。
<中学時代の友達が阪神間に多いのので、はやく神戸に帰って来いと叱られるのですが、阪神間が好きだし、こちらに住む心の準備はある。関西にいても仕事にさしつかえはないかと瀬戸内晴美に相談したらOKとのことだったので阪神間に土地をさがしてもらっている。>
 1963年に遠藤周作は経堂から町田市玉川学園に転居していますが、阪神間への転居も考えていたようです。

玉川学園のあたりの景色は、小高い丘になっており何となく夙川や仁川に似ていました。

続いて、
<夙川で生まれたのだが、あのあたりも仁川にいたるあたりもめちゃくちゃに変わったね。でも住むんだったら阪神間がいいね。>
と、驚いたことに「夙川で生まれた」と答えているのです。
遠藤周作は1923年東京巣鴨生まれ。

出生地を隠したり、間違えて答えたはずはありませんから、カトリック夙川教会で洗礼を受けたことが遠藤にとっての生誕と考えていたのかもしれません。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11660954c.html
遠藤周作 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

何年も前に集中的に玉川学園付近をを仕事で歩き回ったことがありました。本当に夙川・上ヶ原・仁川地域に似ていました。

[ せいさん ] 2017/09/19 10:47:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

やはりそのように感じられる方がいたと知って、喜んでいます。
ありがとうございました。

[ seitaro ] 2017/09/19 16:17:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

遠藤周作がいたずらしたカトリック夙川教会の鐘は日本最古のカリヨン

 先日雑誌の取材に同行させていただき、カトリック夙川教会の鐘楼に登り、カリヨンを見せていただきました。

このカリヨンをいたずらに鳴らしたのが遠藤周作です。


 加藤宗哉著「遠藤周作」では次のように書かれています。
<一方、この少年は母と一緒に預かるミサにおいても不真面目だった。教会のなかに捨犬をひそかに導き入れて神父の説教中に解き放って信者達を驚かせたかと思うと、あるときは聖堂の鐘楼にのぼって勝手に鐘を鳴らした。奇声を発したり、司祭館のガラス窓を破ったりするのは日常茶飯だった。>
相当のいたずらっ子だったようです。

遠藤周作はここでロープを引っ張り、鐘を鳴らしたのでしょうか。

 さてこのカリヨンは昭和7年の聖堂完成直後に据え付けられたもの鐘は11個あります。

時計からの信号により、アンジェラスの鐘演奏が自動的に行われます。

これが2009年に修復され、昔の姿のまま動いている自動演奏装置です。

フランス語の銘板が付いていました。

フランス出荷前の仮組の写真がありました。

 日本最古のカリヨンの音はYOMIURI ONLINE「 名言巡礼 須賀敦子『ユルスナールの靴』から 西宮・宝塚(兵庫県)」でも美しい夙川教会の映像とともに聴くことができます。
http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=06968



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11657588c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

カトリック夙川教会の聖テレジア像と遠藤周作

 遠藤周作のキリスト教観について、我々俗人にも分かりやすいのは、「遠藤周作の世界―追悼保存版」で夫人の遠藤順子さんが語っている言葉でしょう。

<主人は外国へ参りまして、やはり日本のキリスト教はどうあるべきかということを非常に考えたのだと思いますし、それから小さい時分に洗礼を受けましてからも、どうも自分にはしっくりこない着物をいつまでも着せられているという感じでしたと思いますので、何とかこれを自分の身体にしっくり合うような和服仕立てに直したいということを、結局一生やっていたのじゃないかと思いますね。>

遠藤周作が小さい時分に洗礼を受けたのが、カトリック夙川教会でした。

<西洋の神様ってやはり罰する神様だったり、要するに父なる神様で、でも自分は母親べったりの人でしたからね、「ごめんなさい」と言ったら「いいよ」といって許してくれるような母なる神でないと、いわゆる罰する神というのは日本には根づかないのではないかというふうに思っていたみたいですね。>


 カトリック夙川教会のアルコーブに、これまであった十字架のキリスト像に代わり、聖テレジア像が置かれているのに気づいたのは5月のテレマン・アンサンブルのチャリティ・コンサートでのことでした。


 先日、雑誌の取材に同行して梅原神父さまから、聖テレジア像が移された経緯についてお聞きすることができました。

昭和7年の建堂当時は、「幼きイエズスの聖テレジア教会」と命名され、アルコーブには守護神の聖テレジア像が置かれていたとのことでした。

 約50年前の、世界公会議で定められた方針に従って、それまで置かれていた聖テレジア像を告解室の隣に移し、キリスト像が置かれたそうですが、近年になって、神父様と信者の皆様が再び夙川教会の守護神の聖テレジア像をアルコーブに戻すことを決められたとのこと。

勝手な想像でおそらく当たっていないのでしょうが、私には、あたかも遠藤周作のキリスト教観が具現化したもののように思えました。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11656138c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

「遠藤周作」と「遠藤正介」

 昭和53年に非売品として刊行された『遠藤正介』という本がamazonなどで広く流通しているのをご存知ですか。


 奥付を見ると日本電信電話公社内に置かれた「遠藤正介氏追悼事業委員会」により発行されたものです。


 遠藤正介氏とは「愚兄賢弟」と自らのご不満を揶揄されていた、遠藤周作の兄。灘中学校を四年で修了し、第一高等学校入学、東京帝国大学法学部卒業という大秀才。逓信省に入省し、日本電信電話公社総務理事を務められた方です。
 民間企業でも社長クラスの追悼集が発刊されることはしばしばありますが、このように非売品でありながら、広く流通している追悼集というのは稀でしょう。
 そこには遠藤正介氏を偲ぶ追悼文が多くの著名人や関係者から寄せられている他、妻の遠藤マツ子氏の対談、遠藤周作を含む親族からの追悼文の他に、自ら著した論文、随筆などが収められています。読んでいると、一高時代にはペンネーム吹田紀夫として短編小説も書いておられ、相当な文才があったようです。

 この追悼集に、遠藤周作は「飲み兄弟」と題した追悼文を寄せ、遠藤正介氏が生前、弟について述べたエッセイ、「愚兄賢弟」、「顔色なし“賢兄の座”」、「わが愚弟を語る」が収められています。

 いずれも面白い作品ですが、今回は「愚兄賢弟」から紹介しましょう。
<周作と私は二人兄弟である。最近は不知か悪意か分からないが、「あなたは、芥川賞の遠藤周作さんの弟さんだそうですね」などといって挨拶されることもあるので、念を押しておくが、私の方が二つ上の兄貴である。しかも世間の評価はどうか知らないが、遠藤家(?)では過去四十年間、常に賢兄愚弟として私の方が尊敬されてきたことも申し添えておきたい。>

 この後、大連時代や灘中時代、その後の受験のことなどが述べられていますが、遠藤周作の芥川賞受賞の日から過去四十年間に及んだ愚弟賢兄の立場が変わっていったそうです。
<この日を契機として、愚弟賢兄の立場は逐次逆転しはじめた。昔から私共二人は、月に一度、落ち合って飲むことにしている。最近では銀座でも渋谷でもどのバーにいっても、弟は「周作先生」であり、私の方は「この人は誰なの、先生」である。すると周作先生は「こりゃ、僕の兄貴や、堅物やから、呑ませてや」てな調子で、やれ柴田錬三郎がどうした、有馬稲子がどうしたという話をきかされてそれでも会計となると、辛うじて兄貴の体面で支払いだけはさせていただくといった始末。>
バーでの立場も激変し、正介氏も面白くなかったことでしょう。

<親せきの甥や姪も、昔は人格高潔学術優秀な私に対し尊敬を以って接していたが、今日では「嫌いな科目の勉強なんかせんでもええ、叔父さんが親爺に話してやる」とか「そりゃ親のいう方が無理や。子どもの気持ちが分かっとらん」とい周先生の方に多く蝟集するのは人情としてやむを得ぬものがあるのであろう。>
私の経験からもたしかに、長男と次男というのは性格が全く違うのですが、このエッセイの最後は次のように締めくくっておられます。
<「君の弟の書いとるものを読むとなかなかええことを書いとるが、君は兄貴じゃそうじゃが、種違いと違うのか」などと揶揄されるにいたっては、愚兄賢弟も極まれりというべきであろう。>
それでもお二人とも立派な業績を遺されたのですから、贅沢なご不満です。正介氏が、もし文筆家を志しておられたら遠藤周作を抜いていたかも。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11646107c.html
遠藤周作 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

これは面白いですねえ!

[ akaru ] 2017/08/12 7:20:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

akaruさん、読んでいただいてありがとうございます。遠藤周作の兄ということで、この本を購入したのですが、面白い逸話がいくつも掲載されておりました。

[ seitaro ] 2017/08/12 9:20:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

遠藤周作『砂の城』泰子は逆瀬川駅から秘密の場所に向かう

遠藤周作『砂の城』から続けます。
甲東園を訪れた主人公泰子は、逆瀬川駅から亡くなった母が初恋の人、恩智勝之に教えられた「秘密の場所」に向かいます。

<駅に戻って逆瀬川駅までの切符を買った。時刻は昼近くだった。逆瀬川は終点の宝塚駅から二つ手前の駅で、あの母の手紙では彼女に恩智勝之が「秘密の場所」を教えたところなのである。白い川原の両側に大きな邸宅が並んでいた。間もなくゴルフ場を矢印で示した看板が眼についた。「秘密の場所」は母の手紙ではこのゴルフ場にそった山の寺の下にあるはずだった。>
逆瀬川駅で降りた泰子は少し川をさかのぼって、宝塚ゴルフ倶楽部に沿った道に折れます。

この宝塚ゴルフ倶楽部と小林聖心女子学院に挟まれた道は、遠藤周作の仁川時代の散歩道でした。(写真右下が小林聖心女子学院)

<甲山と六甲山脈の山々がうしろに拡がっている。なだらかなゴルフ場のあちこちには黄ばんだアカシヤの大木が植えられ、まるでスイスの牧場のようである。二組ほどのグループがゴルフのクラブをふっている。>

ゴルフコースから甲山が見えるホールもあります。


<そのゴルフ場の途中に遊岩寺と書いた立て札が出ていて泰子はすぐ、(ここだわ)と道を右にとった。道は枯葉の散った山道となり、両側は茶褐色や黄色になった雑木林に変わった。>

小林聖心女子学院からゴルフ場を横切る道を通って、出たところを右手にはいります。

小説で「遊岩寺」とされているのは法華閣をモデルとしたのでしょう。

現在は宝塚うぐいす墓苑となっています。

<彼女は滑らぬように注意しながら渓流のそばまでおりてみた。舞った枯葉が水にうかび、岩と岩との間を流れていく。小さな滝にかくれ、姿をみせる。水は枯葉をそこに残して岩と岩との間をぬっていく。静かだった。母と恩智勝之が腰かけたのはどこか、わからない。ここだったのかもしれない。>

法華閣のすぐ下にある、小仁川に流れ込む渓流が「秘密の場所」のモデルだったと思われます。

遠藤周作はこの場所の思い出をエッセイ『仁川の村のこと』にも詳しく述べています。

 これで「秘密の場所」をたどる旅は終わりますが、今回このように詳しく説明させていただいたのは、「秘密の場所」が逆瀬川上流であると解説された西宮神社での講演会がきっかけでした。ただ『砂の城』は小説で、フィクションですからどのように解釈されるのも個人の自由だとは思います。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11639472c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

遠藤周作『砂の城』いよいよ泰子は母の住んだ甲東園へ向かう

 遠藤周作『砂の城』から続けます。スチュワーデスの採用試験のため、長崎から東京に出てきた泰子は、帰りに中学・高校時代の友人が住む神戸に立ち寄り、母の初恋の人が住んでいた甲東園の恩智病院に向かいます。
 遠藤一家は大連から帰国したとき、一時六甲の叔母の家で暮らしましたので、そのあたりに泰子の友人の住むアパートを設定したようです。

<アパートを出て彼女は阪急六甲駅にむかう坂道をおりた。駅の案内看板をみて母の実家がかつてあった甲東園が西宮北口で乗り換えることを知った。
 ウィーク・デイだったけれども意外に混んでいた。十月の秋晴れ日を利用して紅葉を見にいくらしい客も眼についた。西宮北口から宝塚に向う阪急の支線に乗り換える。>

西宮北口駅で阪急今津線に乗り換えます。

仁川から見える甲山です。
<車窓から母の手紙の書いてあった甲山が見えた。なるほどまるい甲を思わせる形をしている。その山の下は切りひらかれてビル群のように白い団地が拡がっていた。甲東園の駅で降り、彼女は駅前の菓子屋に入って、「恩智病院はどこでしょうか」とたずねた。>

阪急甲東園の駅も昔と随分変わってしまいました。

 甲東園の恩智病院の家族は引っ越し、別の家になっていましたが、母が娘のころ、歩いた路を泰子も自分の足で歩いてみたいと、その場所に向います。

私も高校時代よく歩いた道です。
<秋の陽が松林にあかるくさしていた。母の手紙にもこのあたりは松林が多いと書いてあったが、今、その一部がまだ残っているのだろう。松林が多いと書いてあったが、今、その一部がまだ残っているのだろう。松林にそった路に洒落た洋館が並んでいる。外人の子供が自転車に乗って通り過ぎていった。八百屋の主人に教えられた路を歩いていくとやがて昔、恩智病院だったという古びた洋館が見えた。
ここなのか……
彼女はまるでそこが自分も昔、住んでいたような錯覚と懐かしさに捉われて周りを見まわした。母の家はこの恩智病院のはす向かいにあった筈だが、それは大きなアパート風の会社の寮にかわっていた。>
 ここに描かれた松林と洋館の風景、甲東園よりむしろ遠藤周作が住んでいた頃の仁川の風景を描いたように思われます。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11638377c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

女子大生となった泰子が「秘密の場所」を訪ねる(遠藤周作『砂の城』)

 遠藤周作の小説『砂の城』では、女子大生となった泰子は、亡くなった母からの手紙を繰り返し読むうち、「秘密の場所」を見たいと思うようになります。

<母が娘の頃、好きだった恩智勝之という人に一度、会ってみたいと思った。そしてその勝之と母とが秘密の場所としていた仁川の渓流もいつかこの眼でみたかった。>
注目すべきは、これまで「逆瀬川の秘密の場所」と書かれていたのが、ここで突然「仁川の渓流」に表現が変わっていることです。

逆瀬川も仁川も武庫川水系に属する川ですが、交わってはいません。

やはり、遠藤周作がしばしば忍び込んだ小仁川の支流の渓流をイメージして小説を書いたため、このように逆瀬川と仁川が混在した表現になってしまったのでしょう。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11636661c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

遠藤周作『砂の城』の「秘密の場所」を追って

 前回に引き続き、遠藤周作『砂の城』で、亡くなった母が娘の泰子に遺した手紙に登場する「秘密の場所」からです。
昭和23年の春になってようやくソビエトの収容所から勝之が甲東園に戻ってきます。
<彼が東京に戻る五日前、二人は久しぶりに宝塚に行きました。劇場は進駐軍にとられ、動物園には戦争中と同じように小鳥と猿しかいませんでしたが、植物園は花に埋もれていました。>

戦時中は海軍航空隊に接収されていた大劇場ですが、戦後昭和20年9月にはアメリカ軍が宝塚に進駐し、大劇場一帯を接収しました。また動物園の飼育動物の一部は、空襲下での脱走予防のため、昭和19年に殺処分されていました。


<「あそこに、行きましょうか」「あそこって」彼はすぐ気がつきました。「ああ。行こう」
二人は電車には乗らず逆瀬川まで戻り、川岸を遡って山に入りました、花があちこちに咲いていました。忘れることのできない雑木林のなかから山鶯の声が聞こえてきます。>

 遠藤周作は、少年時代仁川に住んでいたころ、よく宝塚文芸図書館に行っていましたが、電車賃のないとき仁川まで歩いて戻ったそうです。
 したがって、小説に「電車には乗らず逆瀬川まで戻り、川岸を遡って山に入りました」と書かれているコースは、逆瀬川伝いに遡るのではなく、実際に遠藤周作が歩いたように、逆瀬川の途中から小林聖心の方へ曲がり、宝塚ゴルフ倶楽部を抜ける道を通り、「秘密の場所」に向かったのです。

写真はゴルフ場を抜ける道。

 そのコースについて、エッセイ集「忘れがたい場所がある」で次のように述べています。
<しかし、私が仁川とともに一番、思い出のあるのは宝塚の図書館である。あの宝塚動物園の奥にある小さな図書館は、私にとってははじめて小説の面白さを教えてくれた場所だった。夏休みの午後、セミの声を窓のまわりにききながら閲覧室で、一冊一冊日本や西洋の小説をむさぼるように読んでいた少年時代の自分の姿はいまでもはっきりとよみがえってくる。そして電車賃のない時、私は宝塚から仁川まで歩いて戻ったものだ。読んだ本のこと、その中に出てきたさまざまな人間のことを思い出しながら、逆瀬川をわたり、小林の聖心女子学院の裏をぬけ、そして夕暮れに仁川のわが家にたどりつく。>

そのコースを航空写真に書き込んでみました。
「秘密の場所」は赤矢印の位置です。

小説では山鶯が鳴いている情景が次のように描かれています。
<山鶯の声は遠くなり、近くなりました。水のなかのハヤは岩かげで眠ったように動きません。>
 この「秘密の場所」の現在の住所は「宝塚市仁川うぐいす台」。春に行ってみますと、現在でも町名が表すように鶯の声がさかんに聞こえてきます。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11634746c.html
遠藤周作 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  |  3    次へ
  
このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<