阪急沿線文学散歩

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遠藤周作『砂の城』の「秘密の場所」を追って

 前回に引き続き、遠藤周作『砂の城』で、亡くなった母が娘の泰子に遺した手紙に登場する「秘密の場所」からです。
昭和23年の春になってようやくソビエトの収容所から勝之が甲東園に戻ってきます。
<彼が東京に戻る五日前、二人は久しぶりに宝塚に行きました。劇場は進駐軍にとられ、動物園には戦争中と同じように小鳥と猿しかいませんでしたが、植物園は花に埋もれていました。>

戦時中は海軍航空隊に接収されていた大劇場ですが、戦後昭和20年9月にはアメリカ軍が宝塚に進駐し、大劇場一帯を接収しました。また動物園の飼育動物の一部は、空襲下での脱走予防のため、昭和19年に殺処分されていました。


<「あそこに、行きましょうか」「あそこって」彼はすぐ気がつきました。「ああ。行こう」
二人は電車には乗らず逆瀬川まで戻り、川岸を遡って山に入りました、花があちこちに咲いていました。忘れることのできない雑木林のなかから山鶯の声が聞こえてきます。>

 遠藤周作は、少年時代仁川に住んでいたころ、よく宝塚文芸図書館に行っていましたが、電車賃のないとき仁川まで歩いて戻ったそうです。
 したがって、小説に「電車には乗らず逆瀬川まで戻り、川岸を遡って山に入りました」と書かれているコースは、逆瀬川伝いに遡るのではなく、実際に遠藤周作が歩いたように、逆瀬川の途中から小林聖心の方へ曲がり、宝塚ゴルフ倶楽部を抜ける道を通り、「秘密の場所」に向かったのです。

写真はゴルフ場を抜ける道。

 そのコースについて、エッセイ集「忘れがたい場所がある」で次のように述べています。
<しかし、私が仁川とともに一番、思い出のあるのは宝塚の図書館である。あの宝塚動物園の奥にある小さな図書館は、私にとってははじめて小説の面白さを教えてくれた場所だった。夏休みの午後、セミの声を窓のまわりにききながら閲覧室で、一冊一冊日本や西洋の小説をむさぼるように読んでいた少年時代の自分の姿はいまでもはっきりとよみがえってくる。そして電車賃のない時、私は宝塚から仁川まで歩いて戻ったものだ。読んだ本のこと、その中に出てきたさまざまな人間のことを思い出しながら、逆瀬川をわたり、小林の聖心女子学院の裏をぬけ、そして夕暮れに仁川のわが家にたどりつく。>

そのコースを航空写真に書き込んでみました。
「秘密の場所」は赤矢印の位置です。

小説では山鶯が鳴いている情景が次のように描かれています。
<山鶯の声は遠くなり、近くなりました。水のなかのハヤは岩かげで眠ったように動きません。>
 この「秘密の場所」の現在の住所は「宝塚市仁川うぐいす台」。春に行ってみますと、現在でも町名が表すように鶯の声がさかんに聞こえてきます。




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遠藤周作『砂の城』の「秘密の場所」とは逆瀬川上流?

 6月に開催された「遠藤周作と西宮の文学」と題した講演会で、講師の方はエッセイ「仁川の村のこと」で書かれた毎日しのびこんだ場所、そして『砂の城』に何度も登場する「秘密の場所」を逆瀬川の上流と紹介されていましたが、「仁川の村のこと」に書かれた場所は、既に何度か記事にさせていただいたように、明らかに小仁川の上流で法華閣の下にあったと思われます。
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 さて小説『砂の城』では、<逆瀬川の「秘密の場所」>と書かれており、「秘密の場所」が逆瀬川の上流と考えるのも当然ですが、『砂の城』をよく読んでいくと、「秘密の場所」も小仁川の上流で、法華閣の下の渓流をモデルにしたと思われるのです。


 それを明らかにするため、『砂の城』に登場する「秘密の場所」の記述を順に追っていきましょう。
 泰子の母と恩智病院の息子勝之は宝塚文芸図書館で度々出会っていました。その帰りのことです。
<「ぼくに秘密の場所があるんだがな」とある日、帰りがけに勝之さんは笑いながら囁きました。「本当は今まで、誰にもしゃべらなかったんだよ」「教えて」と母さんはたのみました。
その日、勝之さんは宝塚の次の駅で電車をおり、母さんを山の方に連れていきました。新芽がふきはじめた山々は、うすみどり色に変り、林のなかに渓流の音と山鶯のおぼつかぬ声だけが聞こえます。水は清らかで、ハヤが何匹かその水の溜まりに走っているのが見えます。
「「いい気持ち」母さんは靴をぬぎ、素足を水にひたしました。「ここが、勝之さんの秘密の場所?」「もっと奥」渓流のなかを二人で上にのぼりました。すみれの花が岩と岩との間に、咲いて、山鶯はあちらこちらとで交互に鳴きかわし、時々、風がふくと樹々の新芽が銀色の葉裏をみせて光りました。「勝之さんは時々、ここに来るんですか」「ああ。ここに来て半時間も一時間もじっと石に腰かっけていることがある」>

ここで、宝塚の次の駅と書かれている駅は、宝塚南口駅ではなく、逆瀬川駅を指しています。

(写真は逆瀬川)
 遠藤周作は、小説では駅の数のみならず、阪神大水害や神戸大空襲などの歴史的事実の日を違えて書いていることがよくありますが、それは記憶違いではなく、その作品が小説(フィクション)であることを読者に意識させるために、敢えて違えて書いているのだと思うのです。

『砂の城』で、次に「秘密の場所」が登場するのは勝之が満州の関東軍に編入されてからのことです。
<彼のことを考えるたびに、母さんはよくあの逆瀬川の「秘密の場所」に一人で行きました。ここだけは戦争の翳もない。ここだけは死の匂いもない。静まりかえった林のなかに昔と同じように渓流の音がきこえ、水の滴る小さな淵に魚がゆっくりと泳いでいます。雑木林にもう葉はなく、時々、鋭い声を出して百舌が鳴いていました。>

ここに描かれた情景は、まさにエッセイ「仁川の村のこと」に書かれた小仁川の上流の情景なのですが、さらに『砂の城』を読み進むと、逆瀬川の駅をおりて遠藤周作の散歩道を通って「秘密の場所」に行ったのだと気付かされます。それは次回に。



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遠藤周作『砂の城』にも登場する川西航空機宝塚製作所の空襲

 遠藤周作『黄色い人』の冒頭は、次のように川西航空機宝塚製作所の爆撃で始まります。

<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場をなめつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂音がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>

『砂の城』でもその爆撃の模様が登場します。

亡き母が16歳になった娘泰子に残した手紙からです。
<朝の十時ごろ、突然、鉄橋をすさまじい速度で通過する列車―あれとそっくりの音が甲東園の裏山からひびきました。びっくりして庭に走り出ると、B29とグラマンとの編隊が頭上を通っています。「逃げて」と家の中でお祖母さまが叫びました。グラマン戦闘機が矢のように屋根の上をかすめたのです。その影がはっきりと地面にうつり、思わず顔をあげた母さんには敵機に乗っている飛行士の姿まで見えたように思えました。母さんが家の中に逃げ込んだ瞬間、地震のように大地がゆらぎました。>

甲東園のあたりまでB29とグラマンとの編隊が飛んできたのは、仁川にあった川西航空機宝塚製作所を爆撃するためでした。

<これらすべての響きは五分か十分の後に終わりました。五十機の敵機は甲東園からそう遠くなもない川西飛行機工場に襲いかかり、小憎らしいほどの速さで引き上げました。防空壕を出た時、足から血を出した子供を背負った母親が泣きながら道を歩いてきました。母も子も泥だらけで、話を聞くと、配給物を取りに行く途中、突然、グラマンに襲われ、そばの溝にうずくまっていたのだと言います。>
『砂の城』では、爆撃されたのは3月26日となっていますが、実際の川西航空機宝塚製作所が爆撃されたのは昭和20年7月24日のことでした。この日、B29と小型機との計約150機によって爆弾が投下され、20機ないし40機の編隊による波状攻撃が加えられました。

 遠藤周作は1943年慶応大学文学部予科に入学し、父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、学生寮に入っていました。この爆撃の日はたまたま仁川の母の家に戻っていたことがエッセイ「阪神の夏」に記されていました。
<戦争が激しくなったころ、私は慶応予科生だったが、時折、満員の列車でここに戻ると、なんとなく暗く重苦しい雰囲気から逃れられたような気がしてホッとしたものである。だが終戦少し前に偶然この仁川の家へ帰っていた日、突然、B29の爆撃が線路の向こうにある川西の飛行機工場(現在の競馬場にあった)を襲ってきた。列車の通りすぎるような鋭い響きと地響きの中で私は工場を燃やす炎と煙とを見た。少年のころから自分にとっては一番なつかしい仁川がやられるようではもうこの戦争はだめだなとその時、思った。>

「仁川の母の家」は宝塚市仁川月見ヶ丘5丁目(航空写真の赤矢印の位置)にあり、川西航空機宝塚製作所は現在の仁川競馬場にありました。間近の空襲を体験した遠藤には、強烈な印象として残ったのでしょう。その光景を小説やエッセイに何度も書いているのですから。



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遠藤周作『砂の城』に登場する宝塚の図書館とは?

 遠藤周作『砂の城』では、主人公泰子は16歳の誕生日に亡き母からの手紙を父から受け取ります。その手紙からです。
<春休みが来ました。母さんはその春休み、宝塚の図書館で本を借り出しては毎日読みふけっていました。食べ物はなくラジオからは荒々しい軍歌が聞え周りのすべてが荒廃してくると、学校でむかし習ったうつくしい詩や小説をもっともっと知りたくなったのです。
図書館の周りは桜が満開でした。本を借りだすと、その霞のような花の下のベンチで胸をときめかせながら頁をくりました。>

今でも春になると、宝塚の花のみちの桜はきれいに咲いています。
 続いて母さんの初恋の相手の甲東園にある恩智病院の息子の勝之との出会いが語られます。
<ある日、図書館から出ようとすると後ろから声をかけられました。恩智病院の息子さんでした。「こんなところに来ているのですか」まるで母さんが図書館に来るなど信じられぬように眼を丸くして勝之さん(彼の名前でした)はたずねました。「ええ」赤くなって、手にしていた本を隠そうとすると、「ぼくも時々、この図書館に来るんです。意外といい本がそろっていますしね。待ってくれませんか。一冊、借りてくるから」
 彼と一緒に歩いていると嬉しいような、しかし息苦しい気持ちがしました。図書館を出て、植物園の方に行くと、戦争のため人手が少ないのか樹木は手入れをしていないようでしたが、桜や雪やなぎやれんぎょうが満開で、花の部屋にいるような感じです。
劇場は閉鎖されて海軍の予科練習生の宿舎になっているため、ラッパを練習する音が時々遠くから聞えてきました。>

 宝塚新温泉には昭和3年に「大植物園」が完成し、さらに図書館や屋外プールなどが完成し、温泉・歌劇・動植物園に遊戯施設が揃いました。

 宝塚大劇場での戦前最後の公演は昭和19年3月の雪組公演「翼の決戦」でした。立っているのが、春日野八千代です。この公演の話は、北村薫『リセット』にも詳しく述べられています。
 戦争が激しくなり、この公演をもって宝塚大劇場は閉鎖して、海軍に接収され、『砂の城』に書かれているように宝塚海軍航空隊が駐屯しました。
 ここまで読んでくると、宝塚の図書館とは、現在は無くなってしまいましたが、昭和6年に宝塚新温泉に併設された図書館であることがはっきりします。昭和前期には私立公共図書館としての性格が強く、遠藤周作が述べているように演劇関係以外の図書も充実していたようです。

 この宝塚文芸図書館の建物は中華レストラン「ロンファン」として残っていましたが、2015年には解体撤去されてしまいました。
 遠藤周作はエッセイ「心のふるさと」で、宝塚文芸図書館の思い出を次のように述べています。
<仁川から阪急電車で四つ目に宝塚がある。私は夏休みなど、ほとんど毎日、この宝塚にでかけた。駅から桜の路が大劇場まで続いており、図書館が劇場の庭にあった。
当時の私は宝塚のミュージカルには、まったく興味も関心もなく、女性が男性の真似をして恋を囁くのを気持ち悪いと思っていた。私が宝塚に通ったのは、そこの図書館が本をタダで貸し出ししてくれるからだった。トルストイもドストエフスキーの代表作も、モーパッサンも私はみな借り出して読んだ。当時、小説家になる意志など毛頭もなかったが、その小さな第一歩は仁川とこの宝塚ではじまったと言ってよい。>

これほどの思い出が詰まった歴史のある建物をどうして保存することができなかったのでしょう。



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遠藤周作『砂の城』秘密の場所のモデルは?

 遠藤周作がエッセイ「仁川の村のこと」で述べているお気に入りの場所の情景が小説『砂の城』にも登場します。その舞台を久しぶりに訪ねてみました。

 主人公早楽泰子は、16歳の誕生日に父から、亡くなった母からの手紙を手渡されます。そこには母が16歳になった時の話から始まり、青春の日々が綴られていました。
 素子が四歳の時、結核で亡くなった母からの手紙です。
<だから、この手紙を母さんが十六歳になった時の話からはじめましょう。そうすればあなたも身につまされて読んでくれるでしょう。その頃母さんの家族は亡くなったお祖父さまの仕事で、大阪と神戸の間にある甲東園という場所に住んでいました。住んでいた家は今は空襲でなくなってしまいましたが、もし、いつか機会があったら、電車にのって西宮北口という駅で宝塚に行く阪急の支線に乗りかえてごらんなさい。十六歳の時の母さんが見た山や空をきっとあなたもそのまま眺めることがえきるでしょうから。>
悲しいけれど、何とロマンチックな母から娘への手紙でしょう。
 この阪急の支線というのは、阪急今津線のことで、昔はダイヤモンドクロスで阪急神戸線と交わり、宝塚と今津を直接結んでいた路線です。

そして今津線は、写真でわかるように神戸線に較べて、いつも古い車両が走っていました。

また2011年に公開された有川浩原作の映画『阪急電車』の舞台となった路線でもあります。


現在の阪急西宮北口駅今津線ホームです。


現在の阪急甲東園駅。

いづれも私の学生時代からでさえ、かなり変わっていますから、遠藤周作の住んでいた頃とは、まったく様変わりしています。

<母さんはあのあたりの風景が大好きでした。海から離れているのに、まるで海岸近くのように松林が至るところにあり、松林のなかに別荘風の家々がちらばり、六甲山から流れてくる川の川原が白くかがやき、その川の彼方に山脈が青く拡がっているのでした。母さんはそんなところで少女時代から娘時代を送ったのです。>
ここに描かれた風景は、甲東園というより、むしろ「仁川の村のこと」に書かれている風景です。

しかし、仁川もまた大きく変わり、松林や別荘風の家などもほとんど見られなくなりました。

次回は、もう少し先に進みましょう。



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遠藤周作が大好きだった仁川法華閣の渓流

 遠藤周作母子が住んだ仁川の家の跡地を訪ねた後、時間もあったことから久しぶりに遠藤周作が毎日しのびこんだという法華閣の渓流が、今どうなっているか行ってみることにしました。
『仁川の村のこと』からです。
<とりわけ、ぼくが好きだった散歩道はこの仁川のゴルフ場をぬけ、小林村の聖心女子学院の裏山に出て、逆瀬川におりる山径である。>

写真は宝塚ゴルフ倶楽部を抜ける道で、今は舗装もされています。
<この径はほとんど誰も知らない。日曜日のハイキング客たちもまだ気づいていないようだ。けれどもこの経と、それをとりまく風景とは一種、特別な雰囲気を持っていて、ぼくは後年仏蘭西のサボア地方に遊んだ時しばしば、あの仁川の散歩道をよみがえらしたほど似ているものを感じたのである。>

航空写真に黄色で示した道が遠藤周作の好きだった小仁川に沿った散歩道です。

出発点は仁川月見ヶ丘5丁目の遠藤の自宅、赤いポストのあるあたりから弁天池の方へ向かいます。


歩いてすぐ、弁天池に注ぐ小仁川に到着します。

弁天池の向こうに見えるのが阪急仁川駅です。

ここから小仁川を遡って宝塚ゴルフ倶楽部、小林聖心女子学院に向かって歩いて行きます。

母親の遠藤郁さんは小林聖心で音楽を教えておられましたので、彼女もこの道を歩いて通っていたのかも知れません。

仁川小学校のあたりに来ると何やら道標らしきものが残されています。

遠藤周作が大好きだった法華閣への道標です。

写真の右の道がゴルフ場の中を通って、小林聖心女子学院の裏門に続く道です。
小仁川は宝塚ゴルフ場の中に端を発するようですが、ここで左側にカーブして別れている支流が法華閣に続いているのです。

航空写真に黄色で示したのが小仁川の分岐で、赤矢印の位置が法華閣の本堂があった位置だと思われます。
 写真でおわかりのように、あたりはうぐいす台の団地として開発されています。

<少年の頃、ぼくはこの径の一角にある法華閣という寺が大好きだった。寺は山の中にあってその山には清冽な谿川がだれも訪うものもなくかすかな音をたてているのである。今だから白状するが、その頃、ぼくはこの谿川に一人で毎日、しのびこんだものだった。夏草と名もしれぬ草花のおいしげる山と山との間に聞こえるのは川のせせらぎだけである。川の中に素足をひたすと、それは氷のように冷たい。そして小さな魚が岩や石の間を素早く走るのである。>

昔の法華閣の入口の写真がありました。

現在はこのようにうぐいす台団地として開発され、元の法華閣は「宝塚うぐいす墓苑」となったようです。

 そして、私の最も関心事だった遠藤周作が毎日しのびこんだという渓流に入ってみました。




写真は順に下流から上流へ上っていきます。
梅雨のせいか、清流の量も多く、まだエッセイに書かれている姿が残されていました。

墓苑の向こうに見えている林の下を、遠藤周作が愛した渓流が流れているのです。
<夕暮れになると法華寺の鐘がなる。と、それを合図のように。むこうの丘・聖心女子学院の白い建物から夕の祈りの鐘がこれに応ずるのである。少年ながらも、ぼくはこの二つの異なった宗教、東洋の鐘と西欧の鐘のひびきの違いを、なにか不思議なもののように思いながら聞いたものだった。>

昔あった法華閣の写真がありました。
この渓流で遠藤周作は、静かに法華閣の東洋の鐘と小林聖心のアンジェラスの鐘を聴いていたのです。


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遠藤周作 仁川の旧居跡地の今

 6月の西宮神社文化講演会で、「遠藤周作と西宮の文学」と題して関西学院大学名誉教授細川正義氏が講演されました。その中で、遠藤周作母子が住んだ仁川の家の場所を地図で示されましたので、その場所を訪ねてみました。
 昭和14年に母遠藤郁と周作は夙川から仁川に転居しています。兄正介は昭和12年4月に第一高等学校文科に入学し上京していました。
遠藤周作はエッセイ「仁川の村のこと」で次のように述べています。
<少年のころ、ぼくはこの線(阪急今津線)にある仁川という場所で育った。言うまでもなく関西学院のある所だ。白く光っている仁川の川原を真中にはさんで、洋菓子のような洋館がたちならぶ小さな住宅村である。にもかかわらずこの小さな村はなぜかどこかの避暑地にも似た雰囲気を持っている。>

仁川の転居先の住所は宝塚市仁川月見ヶ丘5丁目。

ちょうど道が斜めに交差しているΔ地帯(赤矢印)にあり、現在はそこに4軒の家が建っているほど広い敷地でした。


現在の遠藤邸跡地の様子です。

すっかり変わりほとんど面影は残っていませんが、赤い丸いポストは当時もあったのでしょうか。


 電電公社理事を務めた周作の兄正介の没後、遠藤正介氏追悼事業委員会より『遠藤正介』と題した追悼本が発刊(非売品)されており、遠藤正介のマツ子夫人が「夫を語る」の中で、次のように述べています。

<郁は小林聖心で音楽を教えているほか、家でプライベートに「ヴァイオリンやピアノも、声楽も家で教えていた」、終戦前後は「遠藤の家の講堂で、日曜日にはミサがあげられていた。>
広い敷地には自宅のほかに講堂まで建てられていたようです。

遠藤周作は「仁川の村のこと」で当時の仁川の風景について次のように述べています。
<川を上流にさかのぼっていくと、アカシヤの樹にかこまれた異国風の家々が点在しているが、それはむかし関西学院に教鞭をとっていた外国人の家々だったのである。白い柵ごしにコスモスやマーガレットの花が咲き乱れ、自転車にのった金髪の子供たちが大声で叫びながら走りまわっていた光景を昔、よく見たものだが、今はどうなっているのだろうか。>

今や仁川の両岸にはぎっしり住宅が建ち並び、当時見られた洋館も殆ど無くなっています。

洋館を捜して歩いていると阪急仁川駅近くに、『マスター先生』の著者の近藤修平さんがオーナーで、洋館風の佇まいを残すカフェ・ハッセルハウスがありました。

<ぼくの住んでいた家は仁川の弁天池という大きな池のすぐ近くにあって、その頃は、あたり一面の葦の芽が生え、初夏の夜などは蛍がとびかっていたものである。体もあまり強くなく、ひきこもり勝ちだったぼくは、仁川のさまざまな風景を愛し、それを唯一の慰めにしていたので、今でもそれらの白い路も赤松の林もはっきりと思いだすことができるのだ。>

昔は弁天池にボートも浮かんでいました。

現在の弁天池の様子です。


次回は遠藤周作の秘密の場所を久しぶりに訪ねてみます。




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夙川カトリック教会とメルシェ神父が登場する唯一の遠藤周作の小説

 遠藤周作は、ミサに通っていた当時の夙川カトリック教会での出来事について、多くのエッセイを書き残し、また小説では舞台を仁川に移し、『黄色い人』の教会のモデルにしています。しかし、遠藤周作の著した小説の中で、唯一夙川カトリック教会での経験をほとんどそのまま書いているのが『影法師』です

『影法師』からです。
<この河を時折ふりかえる時、どうしても、僕が洗礼を受けさせられたあの阪神の小さな教会が心に浮かぶ。今でもそのままに残っている小さな小さなカトリック教会。贋ゴシックの尖塔と金色の十字架と夾竹桃の木のある庭。あれはあなたもご存知のように僕の母がその烈しい性格のため父と別れて僕をつれて満州大連から帰国し、彼女の姉をたよって阪神に住んだ頃です。その姉が熱心な信者でしたし、母は孤独な心を姉の奨めるままに信仰で癒しはじめていました。そして僕も必然的に伯母や母につれられて、その教会に出かけたのでした。>

 明らかに遠藤周作が洗礼を受けた夙川カトリック教会について書かれているのです。

そしてメルシェ神父は次のように登場します。
<フランス人の司祭が一人、その教会をあずかっていました。やがて戦争が烈しくなるとこのピレネー生まれの司祭はある日、踏みこんできた二人の憲兵に連れていかれました。スパイの嫌疑を受けたのです。>
遠藤周作がメルシェ神父から怒られていたことも書かれています。
<僕らは庭でキャッチボールをしたものです。球がそれて窓ガラスにぶつかると、フランス人の司祭が満面朱をそそいだ顔を窓から出して怒鳴りました。>

そのフランス人司祭が棄教神父にそっと会ってやっていたことが書かれています。
<その教会に時折、一人の老外人がやって来るのでした。信者たちの集まらぬ時間を選んで司祭館にそっと入る彼を僕は野球をしながら知っていました。「あれは誰」伯母や母に訊ねましたが、彼女たちはなぜか眼をそらし黙ってしまいました。「あいつ、追い出されたんやで」神父のくせに日本人の女性と結婚し、教会から追放された彼のことを信者たちは決して口には出さず、まるでその名を口に出しただけで自分の信仰が穢れると言うように口をつぐんだのです。そっと会ってやるのは、あのピレネー生まれのフランス人司祭だけだった。>

 この光景は遠藤周作が実際に夙川カトリック教会で目撃していたもので、エッセイ『一人の外国人神父』では次のように述べられています。
<しかし、メルシェ神父は本当に立派な人だった。日曜のミサに来る信者のなかに一人、皆からあまり話しかけられぬ外国人がいた。事情は少年のわたしにはよくわからなかったが、それは昔は神父で、日本人の女性と結婚して神父をやめた外国人だったらしい。当時の日本人信者にはそういう行為は破壊に見えたらしく、ミサにそっと来る彼を何となく遠ざけていた。メルシェ神父だけがその外国人を、理解して接触していたようだ。私は気の毒な神父がおずおと教会の隅に来ている姿を何度も見たことがある。>

棄教神父はしばしば遠藤周作の作品に登場し、遠藤文学のテーマの一つになっています。
棄教神父に理解を示していたメルシェ神父の、戦前・戦中・戦後の生きざまは遠藤周作に「これが神父なのだ」とまで語らせるほど、宗教的な生涯でした。



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昨日もその教会のそばの道を通りましたが、そうですか、あの突塔は《贋ゴシックの尖塔》なのですか。

[ akaru ] 2017/06/08 11:14:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

私もよくわからないのですが、フランスに留学して教会建築にも詳しいはずの遠藤周作が書いているので、どのような意味を込めたのか考えています。

[ seitaro ] 2017/06/08 12:53:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

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遠藤周作と夙川カトリック教会聖堂の正面に戻された聖テレジアの像

 先日、テレマン・アンサンブルのチャリティ・コンサートで夙川カトリック教会の聖堂に入らせていただきました。

 これまでと違った、優しさにあふれた聖堂の印象。何故かというと聖堂の正面に、以前は告解室の隣にあったリジューの幼きイエズスの聖テレジアの像が正面のアルコーブに移されていたからです。


 以前は正面のアルコーブには十字架に架けられたイエス・キリストの像がありました。
 コンサートに先立って、梅原神父のご挨拶があり、聖テレジアの像についての説明がありましたが、遠藤周作ファンでもある私には、この教会で洗礼を受けた彼が、『沈黙』をはじめとする小説のテーマにしてきたキリスト教への思いが実現されたような不思議な感覚で、しばらく聖テレジアの像を見つめていました。

 たとえば、新潮社から出版された遠藤周作『母なるもの』は次のように紹介されています。
<裏切り者や背教者、弱者や罪人にも救いはあるか? というテーマを追求する作者が、裁き罰する父なる神に対して、優しく許す“母なるもの”を宗教の中に求める日本人の精神の志向を、自身の母性への憧憬、信仰の軌跡と重ねあわせて、見事に結晶させた作品集。>
 また、『沈黙』でも描かれているように、西洋人にとっての神は、父なる神、正義の神、そして、愛の神であり、キリストを否む踏絵を踏むことなど決して許されるものではないのです。


 しかし、遠藤の描くイエスは、あくまでも慈愛に満ちた、罪を犯す人の弱さをもすっぽり包み込む母なる神の像なのです。
そのようなことを考えながら聖テレジアの像を眺めていました。

 夙川カトリック教会のホームぺージを見ると、夙川カトリック教会月報の巻頭言が掲載されており、その3月号で、コーナン ミシェル 神父が聖テレジアの像がアルコーブに戻された経緯などを述べられていました。
http://shukugawac.exblog.jp/26457479/


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遠藤周作の子供の頃の遊び場、夙川公園(『一人の外国人神父』より)

 遠藤周作は昭和8年10歳の時から、昭和14年16歳で仁川に転居するまでの少年時代に、夙川に住んでいました。

 その頃の様子について、エッセイ集『心のふるさと』に収録された「一人の外国人神父」(初出;文芸春秋 1994年2月号)で次のように述べています。
<その夙川公園は少年時代の私の遊び場であった。今でもあの公園を友達と自転車のベルを鳴らしながら走っていた中学生頃のわが姿が思い浮かぶ。>


 遠藤周作は雲井町あたりに住んでいたそうなので、夙川公園とは自転車で走り回っていたのは蟋蟀橋と大井手橋の間のあたりのことでしょう。

<夙川はいわゆる阪神の住宅街で、少年時代、私はそこで育った。今は大分、様変わりしたが、当時は駅前に商店があるだけで、あとはのんびりとした住宅ばかりだった。>

遠藤周作が夙川に住んでいた、のんびりとした住宅ばかりの昭和11年の鳥瞰図です。

昭和12年ごろの夙川駅前の商店の配置図です。(「夙川地区100年のあゆみ」より)

<夙川の名所のひとつは、そこにフランス式の高い尖塔を持ったカトリック教会のあることだった。フランス式というのは、後になって私があの国に留学した折、田舎に行くと、小さな町や村に同じような大きさの、同じような形の教会をしばしば眼にしたからである。>

遠藤周作がフランス留学中に見たカトリック教会です。(NHK−BSプレミアムカフェ「ルーアンの丘から 遠藤周作・フランスの青春」より)


<向こうではあたり前の教会でも当時の日本では珍しいものだった。クリスマスや復活祭になると尖塔で鳴らす鐘の音が夙川の町のどこからも聞こえた。>

夙川カトリック教会の聖堂は昭和7年に完成し、直後にカリヨンも据え付けられました。


 2011年の修復が完成し、カリヨンの音が甦りました。
<私はこの教会で洗礼を受けた。別にそれは私の意志ではなく、母親のいいつけに従っただけだったが、同じように公教要理という基督教の基本的な教えを学ばされている信者の子供たちとここで仲良くなった。>
夙川カトリック教会で洗礼を受けたことが、遠藤文学の原点となっているのです。


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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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