阪急沿線文学散歩

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遠藤周作が小説の形を借りて語ったH神父のこと

 遠藤周作の小説『影法師』で描きたかったのは、最も人生に深い影響を与えたヘルツォーク神父のことであり、棄教者の心でした。

『影法師』は僕(遠藤周作自身がモデル)が貴方(ヘルツォーク神父がモデル)に出そうかと迷っている手紙文になっています。

<貴方を語り、母を語るということがこんなにむつかしいことだと今更のように思います。それを全て書くためには、それによって人々が傷つけられぬ時まで待たねばならぬ、いやそれよりも自分の今日までを全て語らねばならぬ。それほど貴方と母とは僕の人生にひっかかり、その根を深くおろして離れない。やがて僕は自分の小説のなかで貴方と母とが僕に与えてくれた痕跡と、その本質的なものを語ることができるでしょう。>
 ここで述べられているように、小説『沈黙』のフェレイラは、実在の人物でしたが、そこにヘルツォーク神父の心を重ね合わせて描いたともいえるでしょう。

『影法師』の後半で、遠藤はためらいながらも最も衝撃的なことを語ります。
<そんなくだらぬことを書いているのも、実は僕がこの手紙の中心部に触れるのをどうしてもためらっているからなのです。今、あのことを語らねばならぬ段階にきて、筆がにぶるのをさっきから感じています。貴方を深く傷つけるのではないかという怖れが、ここまで書き進んできたものを抑えつけます。しかし許してください。>と許しを請いながらも、書き進みます。
 小説ですから、結婚式の当日のことにしています。
<彼女は見たと言いました。貴方に僕らの到着したことを知らせるため事務室の扉を押し開けた時、貴方はあのいつか我々が戸口で出会った顔色のよくない女性と体を離した瞬間だった。貴方の顔のすぐ真下にその女の顔があり、娘は何も言えず、扉を開いたまま戻ってきたというのです。「なんだって」僕は娘の頬を平手で叩きました。「変なかんぐりを、君までするのか」叩かれて娘は頬を抑えていました。「私を信じなさいという貴方の言葉がゆっくりと甦ってきました。>

 小説に書かれたことは事実に近く、妻の遠藤順子さんが『夫・遠藤周作と過ごした日々』で明らかにしています。
<ついにある日、意を決して主人に「あの二人は尋常な仲ではないと思うので、あそこへは通えない」と清水の舞台から飛び下りたつもりで申しました。私の答えに主人の怒りは凄まじいものでした。私は不器用な上に雑でドジばかりやっていましたから。怒られたり怒鳴られたりは年中でしたが、主人があの時程怒ったことはその後一度も見たことはありませんでした。「あの人格高潔な神父さんに対してお前は何という汚らわしい想像しか出来ないのか?」「お前はあの神父様に公教要理を教えて頂く資格などない人間だ」「あおのようなお前の考えを知った以上、もう神父様にお前の指導をお願いするわけにはいかない。お前は自分の汚れた心の為に折角俺が作ってやったチャンスをみすみす駄目にしたんだ」と大怒りでした。>
その後1957年、ヘルツォーク神父は突然失踪。上智大学教授依願退職。イエズス会退会します。
『夫・遠藤周作と過ごした日々』から続けます。
<H神父様が女性問題で責任をとられて、還俗なさるという話を主人の兄から電話で知らされました。教会からの追放という厳しい懲罰を受けられ、教会への出入りは無論のこと、ミサにもあづかれない身の上になられたと聞いて、主人はまるで自分が死刑の宣告でも受けたような様子でした。相手の女性が自分達兄弟の従兄弟に当たる人の家内であった事が二重の重荷となりました。>と書かれており、長らく遠藤周作を苦しめたのでした。

 私が『沈黙』の宣教師フェレイラにヘルツォーク神父の心が重ねられていると、最初に書いたのは、エッセイ「『沈黙』踏絵が育てた想像」に次のようにフェレイラについて書いてあることからです。
<だがそれよりも「転びバテレン」である彼らが転んだあとも日本人の役にたとうとした心理に私は言い知れぬ切なさを感じる。彼らは日本人に役だとうと思ってこの遠い国に布教に来た。しかしそれが拷問によって挫折したあとも彼らには司祭の欲望が残っていたのである。人々のために役に立とうというあの司祭の欲望が……。>

「影法師」の最後でも、棄教した神父がひそかに十字を切った姿が描かれています。
<なぜなら、霧雨のふる渋谷のレストランで、貴方はボーイが一皿の食事を運んできた時、他の客に気づかれぬよう素早く十字を切ったのだから。僕が貴方についてやっとわかるのはまだそれだけです。>
これは、まさに人の為に役に立とうという司祭の欲望が残っていることを示したかったのではないでしょうか。





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結婚式を二度挙げた遠藤周作

 遠藤周作年譜によると、「昭和32年9月、岡田孝三郎の長女で当時、慶應義塾大学仏文科に通う後輩の順子と結婚。ホテルで式を挙げる前日に、ヘルツォーク神父の司式により上智大学のクルトルハイムで密やかに結婚式を行う。結婚後、経堂の父の家に同居するが、十一月に同じ経堂内で転居。」


この頃のことを小説『影法師』では次のように書かれています。
<娘との結婚には色々な曲折がありましたが、どうにか父を説得することができました。ただ父は条件を出しました。式はアーメンの教会などでやってくれるなと。僕と母との心理的な関係を父はどこまでも断ち切りたかったのでしょう。僕はこの馬鹿馬鹿しい申し出を聞き入れ、娘と相談して二つの結婚式をやろうと考えました。一つは父とその知人を集めたホテルでの式とそれからその娘と僕と二人っきりの教会での結婚式を。なぜなら、僕の妻になった彼女はその時、もう洗礼をうける決心をしていたのですから。勿論、その二人きりの式にミサをたれてくれるのは貴方でなければなりませんでした。>

『影法師』はフィクションですが、ほとんど事実を物語っているのではないでしょうか。

写真は上智大学クルトゥルハイム。


 18歳の時に母を仁川に独り残して父の家に移り、ずっと母を裏切ったと感じ苦しんでいた遠藤周作ですが、その母も昭和28年脳溢血で亡くなっています。
 それだけに、カトリック嫌いの父への反発も強く、二つの結婚式を挙げることになったようです。




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遠藤周作の母との別離(『影法師』)

 奇妙なことに、遠藤周作が最も愛し、大きな影響を受けた母・郁について、日経連載の「私の履歴書」をもとにした『落第坊主の履歴書』にはあまり詳しく述べられていません。


 それは母との別れに信仰への悩み以上の苦悩があり、簡単には書けなかったからではないでしょうか。
 遠藤郁が実際に亡くなったのは1953年12月29日、遠藤周作 が30歳 の と き でしたが、自らの心情を吐露している小説『影法師』では、旧制中学校をおえて、浪人2年目のときに主人公の母が亡くなります。

 遠藤周作は昭和15年灘中を卒業し、翌年一時、学生寮聖アロイジオ塾に入り上智大学予科に通いました。

しかし、その厳しさに耐えられず昭和17年2月に退学し、仁川に戻り姫路、浪速、甲南等の高校を受験しますが失敗。


結局、兄正介と相談し母に経済的負担をかけないためとの理由で、当時、会社役員であった父の世田谷経堂の家に移ります。

 小説『影法師』では母の死をこの時期にしているのです。
<母が死んだのはそんな僕が中学校をおえて、どこの上級学校にも入れなかった浪人二年目の時です。次々と受けては落ち、受けては落ちる僕に流石の母も怒り疲れて深い溜息をつくようになりましたが、あの頃の母の顔を思い浮かべると今でも胸が痛む。彼女はこの頃から疲れやすくなり、時々、目まいを感ずると訴えだしました。>
 その頃、予備校に行くと言って母をだまし三宮の喫茶店や映画館で過ごしていた主人公が母の死を知らされ、急いで家に戻ります。
<家まで戻る阪急電車がどんなにのろく感じられたことか。駅からあんなに早く家まで走ったことはありませんでした。ベルを押すと、玄関の戸をあけたのは貴方でした。「もう、死んだ」と貴方は一言、そう呟いた。母は眉と眉との間にかすかな苦悶の痕を残して寝床の上におかれていました。>
その母の姿は昭和28年に亡くなったときの姿をそのまま描写しているようです。
 母の死によって、主人公は東京の父の家に戻ります。
<母の家の処分は貴方と伯母に任せ、僕は東京の父の家に戻りました。親という感情を持てぬ父親夫婦との生活がその日から始まりました。>
そこでの生活について、
<物質的にははるかに恵まれた生活のなかで、僕は自分が母を裏切っているのを毎日感じました。>と述べています。

 年譜では、昭和17年の浪人中に仁川の母のもとを去り、経堂の父の世話になった理由を、「母に経済的負担をかけないため」としていますが、本当の理由は、自我の確立という青年期に 母 の 烈 し さ、そ の 厳 し い信 仰  を 子 に も要 求 してく る圧 力 の 息 苦 し さ に 耐 え ら れ な くな つたからではないでしょうか。 
烈しい母に反逆し逃げ出したという事実が母を棄てたという負い目になり。小説ではその時期を母の死としてしまったのではないでしょうか。




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遠藤周作が一時期上智大学予科に通い仁川に戻った理由(『影法師』から)

 遠藤周作の『影法師』はフィクションではあるものの、私小説的でもあり当時の遠藤の心中を吐露した作品のように思えてなりません。

 遠藤周作は昭和16年灘中を188人中の186番目の成績(『遠藤周作による遠藤周作』に書かれていますが、これも遠藤流の嘘かもしれません)で卒業し、広島高校等受験するも失敗。四月、上智大学予科甲類(ドイツ語クラス)に入学します。
 遠藤周作学会の年譜によると4月ヘルツォーク神父が上智大学文学部教授就任。遠藤周作は上智大学予科に籍を置いたまま、旧制高校を目指し仁川の母の家で受験勉強を続けていましたが、二学期には上智大学予科に通い出します。
そのとき、学内にあった学生寮聖アロイジオ塾に入ります。
写真は1932年に完成した聖アロイジオ塾
 
 このあたりの事情はエッセイではどこにも書かれていないのですが、『影法師』では、基督教の学生や生徒のための寮が御影の高台にできて、聖愛病院の専任神父だった貴方がこの寮の指導司祭になったことから母にその寮に入らないかと勧めます。

<母としては少しでも貴方のそばで僕が生活すれば、落ちた成績も元通りになり、信仰的にも向上するのではないかと考えたのです。こちらは幾度も嫌だと言いましたが貴方も御存知だったきつい母の性格です。その年また芳しくない通信簿をもらって帰った僕は、遂に貴方が舎監になって半年目のあの寄宿舎に入れられました。>
 小説では旧制中学在学中で、寮の場所も御影の高台としていますが、昭和16年上智大学予科に籍を置いたまま仁川で受験勉強していた遠藤が、二学期からヘルツォーク神父のいる上智大学予科に通いだしたのは、母の意向によるものだったのではないでしょうか。

 そして翌年の2月に遠藤周作は上智大学予科を退学し、再び旧制高校を目指して仁川の母のもとで再び受験勉強を続けます。


『影法師』では、寄宿舎の厳格さに耐えられず、十か月もしないうちに母の家に戻ったと書かれています。
<厳格な寄宿舎でした。おそらく貴方が当時、模範としたのは西洋の神学校の寄宿舎か、士官学校の寮ではなかったのですか。言い訳するのではありませんが、僕だってあの頃、努力をしたのだ。しかし、万事が裏目裏目とでた。貴方が僕に「よかれし」と思うことがそうは思えなかった。僕が悪意でなくやったことも、貴方には僕の弱さに見えた。貴方は僕を「母のために」鍛えなおし、叩きなおそうとした。その槌が僕をやがては潰してしまうことに気がつかなかった。>

 実際に遠藤周作が入寮した聖アロイジオ塾はカトリック信者と聖職を目指す求道者だけに入寮が認められ、朝6時に起床し、クトゥルハイム聖堂と聖イグナチオ教会でミサの従者を務めるのが日課。7時30分から朝食、夕食は午後7時からで、夕食後はほかの部屋への出入りが禁止され、9時には終礼があり、食堂で「Salve regina coelitum」などの祈りの歌が歌われ、11時消灯という生活だったそうです。
 遠藤周作は在籍した上智大学予科を、小説通り約10か月で退学していますが、次のように述べられています。
<結局、十か月もしないうちに、僕は貴方の寄宿舎を出て母の家に戻りました。それでも母はさすがに女親で、だらしのない息子になお何か長所と美点をみつけようと懸命でしたが、貴方は僕に失望と軽蔑とをその頃からすっかり持ったようです。>

 やはり遠藤周作が一時期母のもとを離れ、上智大学予科に通った理由は、小説に書かれたように母が周作をヘルツォーク神父の指導を受けさせるように送ったのではないでしょうか。
そして体も弱くその厳しさに反発した周作が入寮後6か月で仁川に戻ってきたのではないでしょうか。




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遠藤周作の灘中での成績が低下した原因はヘルツォーク神父?

 遠藤周作年譜によると、ヘルツォーク神父との出会いは1936年〜1939年頃でした。
<1939年ごろ、夙川から宝塚市仁川の月見ヶ丘に転居。小林聖心の修道会のミサに毎朝通っていた母は、若いながら立派で学識のあるイエズス会のドイツ人神父ペトロ・ヘルツォークと出会い、その指導の下、厳しい祈りの生活を始める。また、自宅の隣には講堂が建てられ、母郁によるヴァイオリン、ピアノ、声楽などのプライベートレッスンやホームコンサート、またヘルツォーク神父らの聖書の講話やミサも行われる。>

写真は仁川の遠藤の家があったあたりです。

遠藤の家は、弁天池の近くの仁川月見ヶ丘5丁目にあり、自宅の隣には講堂も建てられていました。

 小説『影法師』では、灘の聖愛病院(海星病院がモデル?)での、神父と主人公(僕)との出会いが書かれています。
<がっしりとした体を真っ白なローマン・カラーのついた手入れの行き届いた黒服につつみ、栄養のいい顔に紳士的な微笑をうかべた貴方は、僕ら三人の日本人をどぎまぎさせるに充分でした。貴方は丁寧に伯母と母とに挨拶すると、箸と茶碗を手に持ったまま体を石のように固くしている僕を見おろしました。>

小説ではありますが、ヘルツォーク神父の姿がそのまま描かれています。
<そして貴方が出て行ったあと、僕が「男前やなあ」と叫ぶと、母もふかい溜息をつきました。「惜しいわねえ。あんな人が結婚もしないで神父になるなんて」、それから祖母がその母の失言を怒りはじめました。>

更に続けます。
<ここでは僕は貴方と母との精神的な交渉は書かないつもりです。しかし、二年後、貴方は私の伯母や母の指導司祭として家に土曜日ごと訪ねるようになりました。伯母の友人や教会の信者たちも集まってきました。今だから白状しますが、僕には貴方が来られるその日はかなり苦痛でした。母はいつもより僕に更にきびしく、手を洗わせ、散髪に行かせ「神父さまがいらっしたら、きちんとして頂戴」と厳命するからでした。>
 小説に書かれた通り、少年時代の遠藤周作はヘルツォーク神父に反発していたのではないでしょうか。

更に続けます。
<貴方が彼女にとって、僕の未来の理想像であり、そうならねばならぬ人間像になったのです。必然的に僕は貴方に反発し、貴方の清潔な服装、手入れの行き届いた顔や指がイヤになりました。貴方の自信ありげな微笑みや、学識や信仰がいやになりました。>

 そして中学時代の成績が落ちた理由を次のように述べています。
<憶えておられますか。あの頃から僕の学校の成績が次第に落ちはじめたことを。僕はその頃、中学校二年でしたが、意識的に怠惰なだらしない少年になろうとしはじめたのです。なぜなら怠惰でだらしない人間とはまさしく貴方の反対の人間でしたから。貴方のように自分の信仰や生き方に深い信念と自信をもって生きる男に息子をしたてようとする母に対する反抗から、僕はわざと勉強を怠りできるだけ劣等生になろうとしました。>

実際に遠藤が通った灘中は能力別クラス編成で、一年はA組でしたが、二年B組、三年C組と下がり、四年と五年は最下位のD組でした。
 遠藤周作はエッセイなどで、灘中での成績が悪かったのは、本質的に怠け者でグウタラだったからだと述べていますが、フィクションとはいえ『影法師』で述べられたヘルツォーク神父への反発は、当時の遠藤少年の心の叫びを小説の場を借りて吐露した真実ではないでしょうか。



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遠藤周作『沈黙』ロドリゴのモデルはメルシェ神父?

 『沈黙』は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説です。

 ロドリゴのモデルとなったのはイタリア出身の実在の神父ジュゼッペ・キアラと言われており、小説では恩師であるフェレイラ棄教の謎を追うため、日本へ渡来しますが、キチジローの裏切りで長崎奉行所に捕らえられ、そこで信仰を続けるか棄教するかの重い選択を迫られることになります。

 ところで遠藤周作は戦時下に、『沈黙』のかくれ切支丹の心境を経験し、いわば少年キチジローであったと『人生の同伴者』「受洗体験と戦時下のころ」で明かしています。
まずはカトリック夙川教会での受洗体験から、
<それでも話を聞いていたのは、一緒に遊んでいた子どもたちと遊べたからです。ところがこの子たちはみな信者の子どもですから自然に翌年の復活祭に洗礼を受けたんです。それで私も兄も一緒に洗礼を受けました。わかって洗礼を受けたのではなくて、まったく流されるように受けたのです。キリスト教という宗教が自分の世界にこういうかたちで転がり込んでくるとはおもわなかったし、またそれが後々まで自分の人生にどういう影響を与えたりするかなど、何ひとつぜんぜんわからなかった。これが、私の人生にとって第二の出発点となったわけです。ええ、教会は阪神の夙川にそのまま残ってます。当時一緒に洗礼を受けた幼なじみが、行くたびに集まってくれるんですが、教会のなかへ入ると、自分の人生のターニング・ポイントがそのまま残っている。>

 遠藤周作にとってカトリック夙川教会で洗礼を受けたことが人生のターニング・ポイントだったと述べているのです。

 その後、戦争が始まって、信者でないように装っていたと述べています。
<それから、だんだん軍国主義の時代になってきますと、キリスト教の家の子弟というのは、敵性宗教を信じているということで上級生からはいじめられる対象になってました。たとえばロザリオなどを持ったりしていると、所持品検査のとき、なぜこういうものを持っているのかということを言われる。そして学内では信者でないように装わなくてはならず、内で信者という面従腹背のような日々をおくる。>
まさに戦時中の遠藤周作はかくれ切支丹の気持ちだったのでしょう。

<戦争中、夙川教会の神父はフランス人でしたが特高に連れて行かれ、拷問されました。病み衰えて終戦後戻って来ましたが、偉い方で、最初のミサのとき、どうか心配しないでください、私は日本人をひとつも恨みません、と言いました。それっきり死ぬまでその事件について何ひとつ恨みがましいことは洩らしませんでした。死ぬ半年ぐらい前に私が関西に行って彼と会ったとき顔色が悪くて、でも非常に喜んでくれました。だから終戦の時の喜びというのは、他の方と違って戦争が終わったといのではない。おれは二重生活をやめられる、みんなに洗礼を受けていた男だということを、隠し立てしないでもいいということでしたね。その間というものは、いわばかくれ切支丹の心境でした。少年キチジローですからね。>

戦時中、特高に捕らえられたメルシェ神父を、『沈黙』の若き宣教師ロドリゴの姿と重ね合わせ、メルシェ神父を守れなかったことが遠藤周作自身に「いわばかくれ切支丹の心境でした。少年キチジローですからね。」と言わしめたのでしょう。





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遠藤文学の原点がカトリック夙川教会にある理由

 遠藤周作のエッセイ・評論にはよく、カトリック夙川教会について触れていますが、小説に登場するのは、『影法師』だけです。『黄色い人』の教会のモデルもカトリック夙川教会だと思われますが、場所は仁川です。

  
 『影法師』は、聖職者でありながら神の教えに背いて結婚し、教会を去っていくカトリック神父の内面の孤独と寂寥を描こうとしたものですが、それは遠藤周作自身のキリスト信仰への苦悩に繋がるものでもあり、遠藤文学の重要なテーマでした。そしてそれを文学作品とするとき、洗礼を受けたカトリック夙川教会がどうしても心に浮かぶと、小説『影法師』の中で述べているのです。

<この河を時折ふりかえる時、どうしても、僕が洗礼を受けさせられたあの阪神の小さな教会が心に浮かぶ。今でもそのままに残っている小さなカトリック教会。贋ゴシックの尖塔と金色の十字架と夾竹桃の木のある庭。あれはあなたもご存知のように僕の母がその烈しい性格のため父と別れて僕をつれて満州大連から帰国し、彼女の姉をたよって阪神に住んだ頃です。その姉が熱心な信者でしたし、母は孤独な心を姉の奨めるままに信仰で癒しはじめていました。そして僕も必然的に伯母や母につれられて、その教会に出かけたのでした。フランス人の司祭が一人、その教会をあずかっていました。やがて戦争が烈しくなるとこのピレネー生まれの司祭はある日、踏みこんできた二人の憲兵に連れていかれました。スパイの嫌疑を受けたのです。>
この作品は小説ではありますが、遠藤周作が昭和8年に父母の離婚により。母に連れられて兄とともに帰国し、六甲の伯母の関川家でひとなつ同居した事実がそのまま述べられているのです。スパイの嫌疑により憲兵に連れていかれたのは、第三代主任司祭メルシェ神父でした。


 遠藤周作が洗礼を受けたのは、まだ満州事変がはじまったばかりで、暮らしは苦しい時代ではありませんでした。
<クリスマスになれば、深夜、ハレルヤの鐘を高らかに鳴らすことができましたし、復活祭の日は花が門にも扉に飾られ、外人の娘たちのように白いヴェールをかぶった女の子を近所の悪童たちが羨ましそうに眺め、僕たちは大得意でした。その復活祭にフランス人の司祭が十人の子供たちを一列にならべ一人一人に「あなたは基督を信じますか」とあなたはたずねました。すると一人一人が「信じます」と鸚鵡返しに答えたのでした。僕もその一人だった。他の子供たちの口調をまねて僕も「はい、信じます」と大声で叫びました。>

 遠藤周作が洗礼を受けたのは昭和10年6月23日で、復活祭の日ではありませんでしたし、司祭はフランス人のメルシェ神父ではありません。しかし、カトリック夙川教会で洗礼を受け、のちに「合わない洋服」を着せられたように感じはじめ、苦悩したことが、遠藤周作の文学テーマとなったのです。



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遠藤周作が『影法師』で描こうとしたものは

 遠藤周作『影法師』に登場する棄教者のモデルとなっているのは、遠藤母子の精神的指導司祭であったペテロ・ヘルツォーク神父です。

 1935年に来日し、小林聖心の修道院のミサに通う遠藤周作の母、郁と出会い、仁川の遠藤家で聖書講和をするなど親交を深めました。

1941年から上智大学教授となり、1948年からは日本語版「カトリック・ダイジェスト」編集長も務めています。

1955年、上智大学のクルトハイムで行われた遠藤周作と順子夫人の結婚式の司式もしているのですが、1957年に突然失踪し、イエズス会退会。「カトリック・ダイジェスト」時代から事務を手伝っていた日本人の女性と結婚したのです。遠藤周作に与えた衝撃は如何ばかりだったでしょう。

 佐藤泰正氏との対談をまとめた『人生の同伴者』で遠藤周作はこの事件について、次のように説明しています。
<ただ、もうこれは発表してかまわないとおもいますが、『黄色い人』のころ、私の母親や私を精神的に指導していた神父さんが棄教しました。後に母親のことを書いた小説『影法師』にその神父さんのことをちらっと書いたのですが、このころ私には非常にショックな事件でした。棄教した神父というのは私にとって、『沈黙』もそうですが、小説世界のなかで離すことができない存在になっていったのは、このころだろうと思います。>

 小説『影法師』では渋谷の小さなレストランで、棄教した神父に出会った時の様子が描かれます。
<貴方が見たことのない僕の父、貴方が生涯、色々と面倒みて下さった僕の母、それをまだ小説には書いていない。そして貴方自身にも僕は手をつけなかった。いや、嘘だ。僕はあなたのことを、小説家になってから三度、人にわからぬように変形させて書いています。貴方は、あの事件以来、僕にとって長い間、文字通り重要な作中人物でした。重要な作中人物なのに貴方を書いた小説はほとんど失敗してきた。理由はわかっている。それはまだ貴方をしっかり掴めていなかったからだ。しかし失敗を続けたにかかわらず、貴方は僕の心の世界にひっかかるのを決してやめなかった。>
 棄教神父を三度変形させて書いたという作品は、『黄色い人』と『火山』のデュラン神父、『沈黙』のフェレイラだと言われています。

『沈黙』のフェレイラがヘルツォーク神父を変形させた人物だったなら、何度もロドリゴを裏切りながら、結局信仰を捨てきれず、処刑されてしまうキチジロウは遠藤周作自身をモデルにしたのでしょう。
 棄教者たちの心理に迫ることが遠藤文学の一つの目的だったと思われますが、『影法師』では、レストランで食事をする貴方の様子を次のように描いています。
<そして貴方は椅子をきちんと引いて姿勢をただすと指を胸まであげ、皆にみられぬくらいの速さで十字を切った。僕はその時、言い知れぬ感動をおぼえました。(そうか)そんな感動でした。(やっぱりそうだったのか)>
 遠藤周作は、まだ貴方をしっかり掴めていないため、『影法師』までに三度描いた小説を失敗と述べていますが、『影法師』でも、最後は「僕は貴方についてやっとわかるのはまだそれだけです」と結びます。
 棄教者にやさしい眼差しを向ける遠藤周作は、それでもまだその内面を描き切れていないと考えているのです。



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遠藤周作の作品に登場する背教者

 遠藤周作の作品の中には、『沈黙』に代表されるようにレノゲ(背教者)がよく登場します。


 そのことについて、遠藤一家と親交の深かった聖心女子大学 第二代学長のマザー三好切子は「少年周作のあとを追って」で次のように述べています。
<その頃の夙川教会に一見フランス人らしい初老の男性がいた。彼はよく教会に来て、二階の聖歌隊のうしろに坐ってそっとミサにあずかっていた。きくところによると彼は巴里宣教会に属していて、かつてミッショナリーとして日本へ派遣されてきたが後々司祭職をすてたということだった。>

<どのような印象を少年周作が彼から受けたかはわからない。しかし後日、同じ経路をたどった、遠藤一家とごく親しいドイツ人の司祭、H神父の面影がこのフランス人と重なり合って、作家遠藤周作の中には人間の弱さ、特に背信者の人間的弱さへのあたたかい思いやりを養ったのではと思われる。>

 遠藤周作はエッセイ『合わない洋服』などにも夙川の教会で目撃したことについて述べていますが、その体験をもとに小説にした作品が『影法師』です。
 フィクションなのですが、遠藤周作が少年時代に夙川の教会で実際に目にし、感じたことについて書いているようです。
<その教会に時折、一人の老外人がやって来るのでした。信者たちの集まらぬ時間を選んで司祭館にそっと入る彼を僕は野球をしながら見て知っていました。「あれは誰」伯母や母に訊ねましたが、彼女たちはなぜか眼をそらせ黙っていました。しかし足を曳きずるように歩くこの男のことを僕は仲間から教えてもらいました。「あいつ、追い出されたんやで」神父のくせに日本人の女性と結婚し、教会から追放された彼のことを信者たちは決して口には出さず、まるでその名を口に出しただけで自分の信仰が穢されると言うように口をつぐんんだものです。そっと会ってやるのはあのピレネー生まれのフランス人司祭だけだった。僕自身と言えば、そんなこの老人を怖ろしいような、そのくせ好奇心と快感との入りまじった感情でそっと窺っていたものです。>

ここに登場するピレネー生まれのフランス人司祭とは、明らかにメルシェ神父をモデルにした人物です。

『影法師』は聖職者でありながら、神の教えに背いて結婚し、教会を去っていくカトリック神父の内面の孤独と寂寥を描いた作品ですが、「貴方」として登場する元神父さまはマザー三好切子が触れられていたドイツ人のH神父です。

 遠藤文学にも大きな影響を与えてH神父については、『影法師』を紐解きながらどのような人物であったか、探ってみましょう。




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遠藤周作の「合わない洋服」とは?

 遠藤周作のエッセイで『合わない洋服 何のために小説は書くか』には、伯母や母に導かれ、フランス人司祭による洗礼式で「はい、信じます」と答えたことにより、「合わない洋服」を着せられたと述べています。

<だがその後十年たって、私は初めて自分が伯母や母から着せられたこの洋服を意識した。洋服は私の体に一向に合っていなかった。ある部分はダブダブであり、ある部分はチンチクリンだった。そしてそれを知ってから、私はこの洋服をぬごうと幾度も思った。まずそれは何よりも洋服であり、私の体に合う和服ではないように考えられた。私の体とその洋服の間にはどうにもならぬ隙間があり、その隙間がある以上、自分のものとは考えられぬ気がしたからである。>

 この「合わない洋服」について、エッセイ『私とキリスト教』でもっと具体的に述べられています。

<私が自分の信仰の問題として苦しんだことの一つに日本人的な感覚と基督教との矛盾ということがあります。>とし、
それは日本人の感覚の中には神を必要としないものがひそんでいるからだと述べます。
<それは何故だろうと私は当時、この神を必要としない日本人の感覚に一種の恐怖を感じながら、しかしそれを自分の周囲やいや、私自身の中にさえ発見したのでした。基督教の歴史や伝統がないためだろうか。いや、それだけではないようでした。むしろこの神に対する無関心さはもっとも東洋的な汎神論から来ているようであり、日本人には長い間、ぬきがたいほど培われてきたものだと私には思えました。>

 東洋的な諦めの世界については次のように説明しています。
<この東洋的な諦念の世界こそはおそらく日本人のだれもが心の中に郷愁としてもっているものですが、これこそ基督教とはもっとも相反したものなのです。それは神の代わりに大きな自然や、宇宙にそのまま吸い込まれていきたいという感覚です。>

少し余分ですが、私など、ビッグバン理論による137億年前の宇宙の誕生から人類の誕生を学ぶにつけ、汎神論が科学的にさえ思えてきます。

しかし、遠藤周作は基督教を棄てることはありませんでした。
<けれども、この矛盾や不安はかえって私の信仰に刺激を与えてくれました。と申しますのは、私は幾度も基督教を捨てようとしながら、結局、捨てられない自分を発見したからです。カトリックは日本人の私にぶつかり、それと闘いながら、しかし私から決して離れようとはしませんでした。>

その姿はまさに『沈黙』のキチジローの姿に重なります。

『合わない洋服』の最後では、
<後になって私はもうぬごうと思うまいと決心した。私はこの洋服を自分に合わせる和服にしようと思ったのである。>と述べ、
『私の文学』でも、
<そう書けば恐らく大多数の日本の読者は私が一体どこまで基督教に信頼や確信をもっているのかを疑われるだろう。私ははっきり答える。私は基督の教えが他の諸思想より私には一番ふかい一番たかい真理だと考えている。基督の教えに対する信頼感は私の心の底に今日あるのだ。>と基督教への信頼を述べているのです。

 このように西洋人の中にある基督教伝統や生活感覚と、基督教の歴史も伝統も文化の遺産もない日本人の感覚の違いに悩んだ遠藤周作が、原風景を語るうえで、西洋に生まれた基督教の洗礼を日本人司祭ではなくフランス人の司祭から受けたと、事実を変えて語ることが西洋と東洋の文化を対比させ読者の理解を得やすいと考えたのでしょう。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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