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【西宮】阪急沿線文学散歩【西宮ブログ】

阪急沿線文学散歩

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『砂の城』に描かれた遠藤周作が体験した川西航空機宝塚製作所の爆撃

『砂の城』で東京の大学に通い休みに甲東園の実家に帰ってくる恩智勝之は、仁川で暮らした遠藤周作をモデルにしたようで、戦時中の体験が小説に著わされています。

遠藤周作が体験した川西航空機宝塚製作所の爆撃も、泰子の母の体験として書かれています。
<幸い神戸や大阪はまがそれほど被害はなく、三月に入りましたが、その三月の二十六日、母さんも敵機におそわれました。
その日、母さんは午後の工場に行く予定で家で待機していたのが幸いだったのです。朝の十時ごろ、突然、鉄橋をすさまじい速度で通過する列車―あれとそっくりの音が甲東園の裏山からひびきました。びっくりして庭に走り出ると、B29とグラマンとの編隊が頭上を通っています。「逃げて」と家の中でお祖母さまが叫びました。グラマン戦闘機が矢のように屋根の上をかすめたのです。その影がはっきりと地面にうつり、思わず顔をあげた母さんには敵機に乗っている飛行士の姿まで見えたように思えました。母さんが家の中に逃げ込んだ瞬間、地震のように大地がゆらぎました。>

『砂の城』では、爆撃されたのは3月26日となっていますが、実際の川西航空機宝塚製作所が爆撃されたのは昭和20年7月24日のことでした。この日、B29と小型機との計約150機によって爆弾が投下され、20機ないし40機の編隊による波状攻撃が加えられました。
 このように歴史的事実の起こった月日を違えているのは、記憶違いではなく、小説であるということを読者に認識してもらうための遠藤の常套手段でした。

<これらすべての響きは五分か十分の後に終わりました。五十機の敵機は甲東園からそう遠くなもない川西飛行機工場に襲いかかり、小憎らしいほどの速さで引き上げました。防空壕を出た時、足から血を出した子供を背負った母親が泣きながら道を歩いてきました。母も子も泥だらけで、話を聞くと、配給物を取りに行く途中、突然、グラマンに襲われ、そばの溝にうずくまっていたのだと言います。>

上の写真は宝塚製作所の航空写真

 遠藤周作はエッセイ「阪神の夏」に川西航空機爆撃の日に、偶然仁川の家に帰っていたと述べています。
<戦争が激しくなったころ、私は慶応予科生だったが、時折、満員の列車でここに戻ると、なんとなく暗く重苦しい雰囲気から逃れられたような気がしてホッとしたものである。だが終戦少し前に偶然この仁川の家へ帰っていた日、突然、B29の爆撃が線路の向こうにある川西の飛行機工場(現在の競馬場にあった)を襲ってきた。列車の通りすぎるような鋭い響きと地響きの中で私は工場を燃やす炎と煙とを見た。少年のころから自分にとっては一番なつかしい仁川がやられるようではもうこの戦争はだめだなとその時、思った。>

川西航空機宝塚製作所があったのは、現在の競馬場で、赤矢印の位置が遠藤周作が住んでいた場所でした。これほど近くでしたから、どんなに怖かったことでしょう。





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『砂の城』の恩智勝之のモデルは遠藤周作?

 遠藤周作『砂の城』で主人公泰子の母が初恋をした相手は甲東園の恩智病院の息子勝之でした。勝之は東京の大学に行っていて、夏休みや冬休みに帰ってくるのです。

(月刊神戸っ子1970年4月号より)

遠藤周作の年譜では、昭和16年18歳で、上智大学予科に入学したものの、「籍をおいたまま、旧制高等学校を目指して仁川で受験勉強を続け、六月、受験勉強に対して空虚感がこみあげ、宝塚文芸図書館に通って日本や外国の名作をむさぼるように読み始め、はじめて小説の面白さを知る」と書かれています。

写真は仁川月見ヶ丘5丁目の遠藤郁・周作が住んでいたあたりの現在のようす。

 昭和17年には、父の世田谷区経堂の家に移り、昭和18年に慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったために勘当され、カトリック学生寮の白鳩寮(聖フィリッポ寮)で過ごすことになります。
このあたり、『砂の城』の恩智病院の息子でありながら東京の文科系の大学予科に通っている勝之と遠藤周作は境遇が多くの点で一致するのです。

昭和19年の春休みに泰子の母と勝之は、遠藤周作が通っていた宝塚図書館で出会います。

<「本なぞ読む時間がもうぼくにはなくなるんです」「なぜですの」何も知らぬ母さんは無邪気にたずねました。と、彼はびっくりしたように、「まいったな。秋には、ぼくたち学生も徴兵延期の特権を失って、みんな入営するんです」「みんな?」「文科系の学生はね」「勝之さんも行くんですか」「ええ。そうなるでしょう」急に悲しさで胸がいっぱいになりました。十七歳の女の子にも死の匂いがすぐ彼の眼の前に迫っていることがよくわかったのです。>

 昭和19年の遠藤周作は、戦局苛烈のため授業はほとんどなく、川崎の勤労動員の工場で働いていました。そして文科の学生の徴兵猶予制が撤廃されたため、徴兵検査を受けますが、肋膜炎を起こした後のため第一乙種で、入隊一年延期となっていました。この頃の遠藤自身の心境が、『砂の城』の勝之を通して語られているのです。

<「だから、ぼくはこの春休み、できるだけ本を読もうと決心したんです。東京に戻ればそんな余裕はないですからね。授業らしい授業はほとんどやらなくなったし、軍事教練や工場での作業で夜はもうクタクタに疲れますから」「わたしもそうです。勤労奉仕から家に帰るとバタン、キューなんです」彼は母さんの顔をみて笑いました。日に焼けて、歯の白い青年らしい笑顔を見て母さんはまた赤くなりました。
ベンチに腰かけて東京での寮生活や工場のことを聞きました。勝之さんは川崎の工場でわたしたちと同じように飛行機の部品を作っているのでした。話の間、またラッパの音が聞こえてきました。その音はベンチに腰かけている勝之さんと母さんとにもう美しいんのにひたる時代は終わったのだと告げているようでした。>

遠藤周作は、戦時中の体験を小説にしておきたいと、『砂の城』を執筆したのではないでしょうか。




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遠藤周作『砂の城』出会いは宝塚文芸図書館

 遠藤周作『砂の城』の泰子の母が書き残した手紙から続けます。
 泰子の母が十七歳になった春の出来事が綴られています。戦局が苦しくなった昭和十九年のことのようです。
<春休みが来ました。母さんはその春休み、宝塚の図書館で本を借りだしては毎日、読みふけっていました。食べものはなく、ラジオからは荒々しい軍歌が聞え周りのすべてが荒廃してくると、学校でむかし習ったうつくしい詩や小説をもっともっと知りたくなったのです。
図書館の周りの桜が満開でした。本を借りだすと、その霞のような花の下のベンチで胸をときめかせながら頁をめくりました。>
この宝塚の図書館とは、宝塚文芸図書館のことで、遠藤周作が足しげく通った図書館でした。

(絵地図の黄色の矢印のところ)

遠藤周作はエッセイ「心のふるさと」で、宝塚の図書館について次のように述べています。
<仁川から阪急電車で四つ目に宝塚がある。私は夏休みなど、ほとんど毎日、この宝塚にでかけた。駅から桜の路が大劇場まで続いており、図書館が劇場の庭にあった。当時の私は宝塚のミュージカルには、まったく興味も関心もなく、女性が男性の真似をして恋を囁くのを気持ち悪いと思っていた。私が宝塚に通ったのは、そこの図書館が本をタダで貸し出ししてくれるからだった。トルストイもドストエフスキーの代表作も、モーパッサンも私はみな借り出して読んだ。当時、小説家になる意志など毛頭もなかったが、その小さな第一歩は仁川とこの宝塚ではじまったと言ってよい。>

この遠藤周作が通った図書館は、最後は中華レストラン「ロンファン」として使われていましたが、残念ながら建物は昨年撤去され今はありません。

宝塚文芸図書館月報も発行されていました。

図書館として使われていた当時の写真です。

『砂の城』に戻りましょう。泰子の母がある日、図書館から出ようとすると、甲東園の恩地病院の息子から声をかけられます。
<「ぼくも時々、この図書館に来るんです。意外といい本がそろっていますしね。待ってくれませんか。一冊、借りてくるから」彼と一緒に歩いていると嬉しいような、しかし息苦しい気持ちがしました。図書館を出て、植物園の方に行くと、戦争のため人手が少ないのか樹木は手入れしていないようでしたが、桜や雪やなぎやれんぎょうが満開で、花の部屋にいるような感じです。劇場は閉鎖されて海軍の予科練習生の宿舎になっているため、ラッパを練習する音が時々遠くから聞えてきた。>

昭和19年には宝塚大劇場は閉鎖され海軍航空隊に接収されていました。

昭和19年3月4日で休場するとの新聞広告です。そこには宝塚児童厚生園、動植物園、新温泉等は営業と書かれています。

写真は植物園の大温室です。昭和19年の春はまだ営業していたようです。



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遠藤周作『砂の城』甲東園で母が見た景色は

 遠藤周作『砂の城』で、主人公泰子の結核で亡くなった母が、泰子の16歳の誕生日にあけるよう遺した手紙から続けます。

<もし、いつか機会があったら、電車にのって西宮北口という駅で宝塚行に行く阪急の支線に乗り換えてごらんなさい。十六歳の時の母さんが見た山や空をきっとあなたもそのまま眺めることができるでしょうから。
母さんはあのあたりの風景が大好きでした。海からは離れているのに、まるで海岸近くのように松林が至るところにあり、松林のなかに別荘風の家々がちらばり、六甲山から流れてくる川の川原が白くかがやき、その川の彼方に山脈が青く拡がっているのでした。母さんはそんなところで少女時代かを送ったのです。>

 母が戦前の少女時代に住んでいた「甲東園」は、明治時代に大阪の実業家、芝川又右衛門が開発し、ぶどうなどの果樹を植えた「甲東(芝川)農園」が起源で、当時植えられた梅の木が現在の「甲東梅林」として残されています。明治33年に「甲東農園」は「甲東園」と変わり、阪急西宝線(現・今津線)の開通時に、その名称が駅名となったそうです。

 泰子の母が住んでいたのは昭和18年の頃のことでしょうが、当時の甲東園はどのような風景だったのでしょう。「六甲山から流れてくる川」とは仁川のことです。

現在の仁川ですが、白い川原はほとんど見えず、草が茂っています。

当時の様子がわかりそうな資料の一つは、昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥観図。

西宮の中央部はかなり詳しく描かれていますが、今津線あたりは、東端に近く、阪急今津線も湾曲させて描いています。甲東園駅や仁川駅の周りには住宅がありますが、その周りは林や畑だったようです。仁川と逆瀬川の間に宝塚ゴルフ倶楽部が描かれています。

西宮市制90周年「西宮という街」に昭和28年の甲東園駅の東側から六甲山系、甲山を臨んだ写真が掲載されていました。

民家が見えますが、やはり田畑と林が多かったようです。

<その頃母さんはセーラー服にモンペをはいていました。モンペをはいているのは学校からの命令でした。ながい戦争が更に烈しくなって、十六歳の娘たちも年相応のはなやかな服装をすることは許されず、そんな作業むきの恰好で登校させられていたのです。>

昭和18年、女学生たちはモンペ姿でした。
そして泰子の母は、甲東園の恩地病院の坊ちゃんに初恋します。


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遠藤周作ゆかりの地が舞台となった『砂の城』

『砂の城』は昭和51年主婦の友社より刊行された作品で、学生運動やハイジャックなどの時代背景ともに、遠藤周作が『沈黙』執筆にあたり何度も訪れた長崎、留学時代にも滞在したことのあるパリの風景、そして少年時代に過ごした西宮・宝塚を舞台にし、自身も患った結核体験も題材にした青春小説です。


 主人公泰子が4歳の時、母は結核で亡くなりますが、小説の冒頭は、16歳の誕生日に本人に見せて欲しいと託した母の手紙に始まり、思わず引き込まれていきます。
 泰子の住む町は大村湾の見える町。遠藤周作は日本最初のキリシタン大名大村純忠が治めていた大村領を舞台に取り入れたかったのではないでしょうか。
<商店街を右に折れると寺町に入る。こんな昼下がりでも、ひっそりと静まりかえった道が長い塀にはさまれて真直ぐに続いていた。塀の上からもうすっかり青みをました楠の葉がおおいかぶさるようにのぞいていた。泰子は雨上がりのこの道が好きで、ここを通るたび自分の故郷はこの街と思ったり、いつかお嫁にいっても生涯、よそには移りたくないと考えたりした。>
 これだけでは、泰子の住む町はどのあたりかはっきりしませんでしたが、次の文章からほぼわかりました。
<鬱蒼と樹木に覆われた城山から初蝉の鳴き声が聞こえてくる。城山といっても、もう石垣しか残っていないが、むかし大村家の一族が住んでいた場所なのである。>

この城山とは玖島(大村)城の二の丸、三の丸跡に繁茂する樹林で、長崎県の文化財にもなっている玖島崎樹叢のことのようです。
大村市のこの近くに電気器具店を営む素子の実家が設定されたようです。

 泰子の誕生日の日、学校から帰ると父は金庫から紫色の袱紗に包まれた白い封筒を渡します。
生前の母が父に託した「素子ちゃん」という書き出しで始まる手紙でした。
<母さんはこの手紙をあなたが十六歳になった誕生日にお父さまから渡して頂くようたのむつもりです。なぜなら、今の泰子ちゃんはまだ字も読めないですし、ここに書いてあることも、よくわからないでしょう。あなたを毎日、見たいけれど、幼児がこの病棟に来ることはきびしく禁じられているので、ほかの母親のように膝の上にあなたをおいてお話をしてきかせることもできないからです。>
 結核を患い死の恐怖と闘った遠藤周作だからこそ、このような美しい文章を書くことができたのでしょう。
<でも何から書きましょう。この手紙をわたすのは。あなたが十六歳の誕生日の時なのね。なぜ、その日までこの手紙を見せないのか、ふしぎでしょう。でも母さんには、十六になったあなたが、同じ年の時の母さんとどう重なりあい、どう違うか、知りたいと思います。
だから、この手紙を母さんが十六歳になった時の話からはじめましょう。そうすればあなたも身につまされて読んでくれるでしょう。その頃母さんの家族は亡くなったお祖父さまの仕事で、大阪と神戸との間にある甲東園という場所に住んでいました。住んでいた家は今は空襲でなくなってしまいましたが、もし、いつか機会があったら、電車にのって西宮北口という駅で宝塚に行く阪急の支線に乗り換えてごらんなさい。十六歳の時の母さんが見た山や空をきっとあなたもそのまま眺めることができるでしょう。>
この西宮北口から宝塚に行く阪急の支線とは、有川浩原作の映画『阪急電車』で一躍有名になった阪急今津線です。

甲東園は西宮北口から二番目の駅。

阪急甲東園駅から上ヶ原台地に向かう坂道です。このあたりに泰子の母は、少女時代住んでいたのです。
もう少し続けましょう。






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遠藤周作センチメンタルジャーニーの最後は消えた芦屋浜

 遠藤周作『口笛をふく時』の最終章では、主人公小津が昭和49年ごろになって、戦前に通っていた灘中から、甲南女子大を廻り、業平橋からぬゑ塚橋付近の東愛子の家の跡地、そして最後に芦屋浜に向かいます。
<「もう、いい」彼は悲しく運転手に命じた。「やっぱり、海岸に行ってくれ」海。芦屋の海。夏休み。入道雲が湧き、青い海にみんなが泳いでいた。海。芦屋の海。
「ここでんねん」運転手はブレーキをかけて醜いコンクリートの堤防の前で車をとめた。>
 小津は、友人の平目が溺れかけて、東愛子に助けられた、少年時代の甘く切ない思い出の芦屋海水浴場を訪れたのです。

タクシーを降りた小津はこの階段を登ったのでしょう。

<「ここ。海がないじゃないか」「そやさかい、埋立てましてんと言いましたやろ」海の風は何処からも吹いてこなかった。海の匂いもどこからもしなかった。小津はコンクリートの堤防の上に登り、あっと声をだした。>
 小津(遠藤周作)が芦屋浜を訪れた昭和49年は、丁度埋立てが終わった時期で、当時の写真がありました。
黄色の矢印で示したところが芦屋川の河口で、その東側にあった芦屋海水浴場は全て埋立られてしまったのです。
い。
<ずっと遠くまで砂漠のように埋め立てられているのだ。その砂漠のような埋立地にミキサー車が二台、地面を走っているだけであとは何もない。あの日、平目が波にもまれながら愛子たちを追いかけたのは、どのあたりだっただろう。今、海は消えた。白い浜もなくなった。美しいもの、懐かしいものはここだけではなく、日本のすべてから消えていく時代なのだ。>

昔の芦屋浜を思い出させるのは河口にわずかに残った「50mの海岸線」だけです。

遠藤が小説に醜いコンクリートと書いている堤防は、ウォールペインテイングされ、今も残っています。

 また遠藤周作が昭和49年に見た埋め立て地には、現在、村上春樹が『辺境・近況』でモノリスの群れと呼んだ巨大集合住宅が建ち並んでいます。

『日本列島改造論』がブームとなったのは昭和47年。
遠藤周作は小説に、「美しいもの、懐かしいものはここだけではなく、日本のすべてから消えていく時代なのだ。」と書き残していたのです。




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遠藤周作のセンチメンタルジャーニー・いよいよ芦屋へ

 遠藤周作『口笛をふく時』の最終章で、旧制灘中を卒業した小津は、灘高、甲南女子大を訪ねたあと、東愛子が住んでいた思い出の芦屋にタクシーで向かいます。
<「次は芦屋だよ」小津は運転手に命じた。国道電車は廃止されたけれど、芦屋まで行く国道には見憶えがあった。昔は空地や野原のみえた両側も今はぎっしりと商店やガソリンスタンドで埋められていたが、まだ残っている停留所の標示は小津の胸に限りない懐かしさと哀しさとをよび起こした。>
国道2号線に戻って、昔の風景を懐かしみながら小津は芦屋に向かいます。

小津(遠藤周作)が回想しているのは戦前の阪神国道の風景ですが、野坂昭如にとっても阪神国道は思い出深い道で、終戦の年に中郷町から満池谷まで、リヤカーを引いた道です。


『口笛をふく時』に戻りましょう。
<タクシーは今、ゆっくりゆるやかな坂路を走っていた。昔、国道電車はここまで来ると、軋んだような音をたてて、のろのろとこの坂道をのぼったものだ。>

芦屋川は天井川となっているため、業平橋の手前から、ゆっくりとした坂になっています。

<松の林。芦屋川にそった路に植えられた松がみえはじめると小津の胸は言いようのない感慨にしめつけられた。>

業平橋まで登ってくると、芦屋川下流に沿って松林が見えてきます。

<「芦屋のどこに行きまんねん」と運転手が訊ねた。「海岸」「海岸でっか」「そう」「何もおまへんで」小津は黙って食い入るような眼で両側の家々を見つめていた。あの頃の黒い屋根と黒い塀をもった屋敷はなくなり、それに代わってあかるい洋館や高級マンションが建ち並んでいる。松林の中には小さなテニスコートが作られて、若い男たちがテニスをやっている。>

小津は芦屋川沿いの道に沿って海岸の方へ向かったようです。

松林の中のテニスコートとは、芦屋公園テニスコートのことのようですが、遠藤周作が灘中に通っていたころはまだなかったようです。
<橋があった。あの橋だった。「橋をわたって」小津は思わず叫んだ。「そう。その路を真直ぐに」東愛子の家。平目と彼とがその塀を撫で、そのあたりをうろついた家。なくなっていた。それは白っぽいマンションの一角に変わっていた。>

あの橋とは「ぬゑ塚橋」ですが、西に渡ると下流に白っぽいマンションが見えます。


遠藤周作はこの一角に東愛子の家を想定したのでしょう。



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遠藤周作のセンチメンタルジャーニー・灘高の次は甲南女子へ

 遠藤周作『口笛をふく時』最終章で出張で関西を訪れた
主人公小津は、仕事を終えた後時間ができ、旧制中学時代に過ごした思い出の場所を巡ります。灘高で遠藤周作も国語を習った、伝説の国語教師橋本武先生と出会ったあと、東愛子が通っていた甲南女学校に向かいます。

<タクシーはまだ辛抱づよく小津を待っていてくれた。「甲南という女子学校があるだろう」「ありまっせ。そこへ行くんでっか。旦那は文部省関係の方ですか」車は坂路をのぼった。

小津(遠藤周作)が灘中に通っていたころの甲南女学校は住吉川の西側の東灘区田中町4丁目12-1にありましたが、現在は本山南中学校となり、甲南女子学園発祥之地の石碑が建てられています。


タクシーの運転手は東灘区森北町の甲南女子大に向かったようです。

「ちがう 甲南はこんな上じゃなかった」「移転しましてん。ほれ、見えまっしゃろ、あの、大きな白い建物」ホテルのような白い建物と青い芝生が近づいてきた。車を運転した女子学生たちが上り坂からおりてくる。彼女たちは自家用車で通学しているのだ。>
 この地は広岡浅子の娘婿の広岡恵三・亀子夫妻のヴォーリズ設計による大邸宅があった場所なのです。

<車をとめてもらって彼は甲南女子大と書かれた門の向こうに見える広い芝生や建物を眺めた。あかるい笑い声をたてながら女子学生たちが下校していくが、彼女たちはセーラー服を着た東愛子たちとはすっかり違って、色とりどりの華やかな洋服を着ている。戦争を知らない世代なのだ。>

タクシーの運転手が、すぐ近くにある甲南女子中学・高等学校に行けば今もセーラー服の甲南女子高生に会えたはずだったのですが。 

 機会に恵まれ、容易には入れてもらえない構内を参観させていただきました。

戦時教練中のセーラー服姿の女生徒たちなど、戦時中の貴重な写真も保管されています。
歴代の卒業アルバムも残されており、東愛子のモデルとなった昭和16年の佐藤愛子さんの卒業アルバムもありました。



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遠藤周作の小説にも登場していた灘高の伝説の教師・橋本武氏

 遠藤周作『口笛をふく時』の最後の章で旧制灘中出身の主人公小津が、昭和49年頃友人と過ごした灘高を懐かしんで訪問する場面が描かれています。


<彼がそっと建物のなかに入ると先生らしい人が教員室の扉をあけてあらわれた。その先生はオールバックにした髪が白くはなっていたが、絵かきのようにあかるい上衣を着ていた。小津の記憶にこの先生の若い頃の姿があった。そう……たしかに国語の先生だった。「銀の匙」という小説が好きで、その小説の話をされたのを彼は、今、思い出した。だが、名が頭のどこかに、ひっかかって浮かんでこない。アダ名は……(エチオピア……)それだけは憶えている。その頃、この先生は真っ黒な顔をしておられたので、そんなアダ名がついたのだ。>

灘高の国語教師で「銀の匙」といえばあの伝説の橋本武先生です。

<「父兄の方ですか」たずねられて「いや」狼狽した小津はあわてて首をふった。「むかし、灘中におりました者で……仕事で久しぶりにこちらに参りましたから」「ほう……それはなつかしい」先生も小津の少年時代を思い出すように顔を眺め「何回生でしたかな」「九回生です。小津といいます」しかし彼の名は先生の記憶にはないようだった。>
遠藤周作が灘中に通ったのは昭和10年(12歳)から昭和15年(17歳)まで。

橋本武先生は昭和9年に東京高等師範学校を卒業後、旧制灘中学校に国語教師として赴任していましたから、遠藤が橋本先生の教え子の一人であったことは間違いありません、

<遠くで生徒たちが運動している声が聞こえた。窓の向こうに小津の知らぬ新しい校舎が並んでいる。「変わりましたねえ。この学校も」「そうですなア」先生はうなずいて「むかしの灘中とは違います。むかしと違うて生徒は自発的に勉強しますからね。校舎もこんなに良くなりましたし……私を憶えていますか」「「はい。でもお名前が思い出せません」「橋本です。校長の勝山先生と私とが今ではこの学校で一番、ふるい」>


 遠藤周作はエッセイで、灘中時代の出来事を度々述べていますが、橋本先生が登場するのはこの小説だけです。
橋本先生の授業は文庫本『銀の匙』(中勘助)1冊を横道に逸れながら中学3年間かけて読み込み、教科書は一切使わないという国語の授業。生涯心の糧となるような教材で授業がしたい、その思いが公立校の滑り止めに過ぎなかった灘校を、全国一の進学校に導き、数多のリーダーを生み出すことになったという伝説を生みました。
 昭和59年に灘校を退職されていますが、今も「銀の匙」教室は、伝説の授業として語り草となっているそうです。

 『銀の匙』はまだ読んだことがないのですが、あらすじは
<なかなか開かなかった茶箪笥の抽匣(ひきだし)からみつけた銀の匙.伯母さんの無限の愛情に包まれて過ごした日々.少年時代の思い出を中勘助(1885−1965)が自伝風に綴ったこの作品には,子ども自身の感情世界が,子どもが感じ体験したままに素直に描き出されている.漱石が未曾有の秀作として絶賛した名作.改版.(解説=和辻哲郎)>
というもの。漱石が絶賛とは、少し難しそうですが、読んでみなくてはなりません。



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『口笛をふく時』は遠藤周作のセンチメンタルジャーニー・灘高へ

『口笛をふく時』の主人公小津は遠藤周作の経歴と同じ、旧制灘中出身。小説の最後の章で、小津は中学時代を過ごした灘高、甲南女子、芦屋を訪ねます。
<小津は出張で関西に行った。二日かかって神戸と大阪とで色々な人に会い、打ち合わせをすませたが、予定の夜の新幹線に乗るまで、まだ四時間ほどの余裕があった。ホテルに戻る気にもなれず、思案していると、ふと妙案が浮かんだ。母校だった灘高を訪ねてみようと思ったのである。卒業してから長い長い歳月が流れている。>
 小津(遠藤周作)が通っていたころとは違って、灘高は全国の秀才が集まる進学校となっていましたが、彼が母校をたずねようと思ったのは、自分や平目たちの想い出をもう一度、心に甦らせたかったからでした。
<彼はタクシーに乗って、国道の住吉川まで行ってくれと頼んだ。「国道でっか」「そうだ。国道電車が走っている路があるだろう」そう言って彼はまぶたの裏に、古ぼけた褐色のあの電車を浮かべた。平目や自分を毎日、のせてくれたノロノロとした電車。その電車に愛子のようの甲南の生徒たちも乗ったのである。>

 遠藤周作も中学時代は夙川から住吉川まで乗っていた国道電車ですが、この小説が発刊された昭和49年には廃線になっていました。
<「ああ、あの電車やったら」と運転手はギヤを入れながら教えてくれた。「もうなくなりましてん」「廃線になったのか」「もう、あんな、のろい電車に乗る人もおりまへんやろ」しかし神戸から大阪に向かう国道だけはまだ残っていた。昔は空地があり、野原があったその国道の周囲にはぎっしりと店やビルが並んでいた。>

現在の阪神国道です。

<「住吉川はまだあるかね」「ありまっせ」彼はまた、白い川原に月見草が咲いていたあの川のことを心に甦らせたが、間もなく見えた住吉川は川原も姿を消して、ただ味気ないセメントで固められた大きな溝に変わっていた。>

現在のコンクリートで固められた住吉川です。

<灘高の校舎が見えた。むかし校舎の周りから国道までは松林がとりかこんでいたのに、その松林の大部分は削られて家が並んでいる。>

左側の道が灘高に続く道ですが、松は下流側に少しだけ残っています。

<校門の前でタクシーをとめて、運転手に十分ほど待ってくれるように頼むと、彼はそっと中にはいった。教員室や柔道場のあった前面の建物は幾分、くろずみ、古びたようだったが昔のままだった。>

この後、遠藤周作が習った先生が、小説に登場しますが、その場面は次回に。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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