阪急沿線文学散歩

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谷崎潤一『細雪』と遠藤周作『黄色い人』に描かれた阪神大水害

 谷崎潤一郎の『細雪』を読むと、阪神大水害の日の様子がよくわかります。

<いったい今年は五月時分から例年よりも降雨量が多く、入梅になってからはずっと降り続けていて、七月に這入ってからも、三日に又しても降り始めて四日も終日降り暮らしていたのであるが、五日の明け方からは俄かに沛然たる豪雨となっていつ止むとも見えぬ気色であった。が、それが一二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎した大水害を起こそうとは誰にも考え及ばなかったので、芦屋の家でも、七時前後には先ず悦子が、いつものようにお春に付き添われながら、尤も雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけていった。>


 阪神大水害の状況は六甲SABOによると、
https://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/history/s13/s13-index.php
「昭和13年7月3日〜5日にかけて雨が降り続きました。とくに5日の午前中は、1時間に最大で60.8oも降る大雨となります。 雨で緩んでいた地盤は耐え切れずに各所で崩壊。川も氾濫し、土石流となって町へ押し寄せました」
という事実と『細雪』の描写はぴったり一致します。

 一方、遠藤周作はこの時15歳、7月5日の朝は悦子と同様、土砂降りの雨の中を夙川の家から灘中に行き、試験を受けていました。

エッセイ「二つの大事件」からです。
<風水害の時もやはり試験だった。私たち生徒は烈しい雨音をききながら答案用紙に向き合っていた。私の答案用紙はほとんど真っ白だった。突然、教室があいて誰かが蒼白な顔をして連絡してきた。「試験は中止」先生は大声を出された。「皆、非難する……」
 試験はやめになり、私は二、三人の友だちと御影から夙川まで濁水につかり、横倒しになった樹木や家屋の間をぬって帰った。その時も災害のひどさを私は感じなくて、翌日、新聞をみて、よく自分も助かったとびっくりしたのである。そしてあの真白な答案用紙を出さずにすんだことをひそかに悦んだ。もう、むかし、むかしの話である。>

写真は灘中の傍の住吉川の様子。

 この経験を『黄色い人』にも登場させています。
デュランの日記に、「あれは昭和十二年の九月十一日だった」として、御影の教会に雨をおかしてウッサン神父を訪ねて一泊したときの思い出を、次のように書いています。
<翌朝も雨はやまなかった。濁流は路という路にうずまいていたが、駅近の住宅はみなそのままなので、私たちは大したことはなかったのだろうと話し合った。私たちも日本にきて四、五年、秋の颱風には馴れていたのである。だから昼すぎ、空が晴れると、私を引きとめるウッサン神父に別れをつげて、靴をぬいだまま、少し引いた黄濁した水の中を陽気な気持ちで帰りはじめたのだ。だが、阪神電車はまだ動いていなかった。>
小説では大水害が発生したのは昭和12年9月11日としていますが、これは遠藤周作がよく使う手法で、フィクションであることを読者に認識させるため、史実の発生日を異なった日に設定しているのです。

また、「黄濁した水の中を陽気な気持ちで帰りはじめた」と書いているのは、きっと遠藤周作が試験から解放された時の喜びを思いだしたからでしょう。





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これほど寂しげな甲山が何度も登場する小説が他にあったでしょうか

 遠藤周作『黄色い人』には何度も甲山が登場しています。甲山がこれほど登場する小説は他にないでしょう。


 しかし、テーマが遠藤周作のキリスト教信仰への苦悩であるだけに、その姿は寂しげです。
主人公千葉が逮捕されたブロウ神父に送ろうとして書いている手紙の中に、最初に登場する甲山です。
<おなじ阪神の住宅地でも芦屋や御影とちがい、ここは空気も乾き土地の色も白く、ふしぎに異国の小さな田舎村のような風景をもっていました。それは武庫川の支流である仁川がそこから流れる、まるい死火山の甲山とそれをとりまく花崗岩質の丘のたたずまいのせいでした。>

 仁川から見た甲山です。当時はまだ六甲山も白い山肌を見せていました。

 こちらは遠藤が住んでいた仁川の家の近くの弁天池から見える甲山。

 そして甲山の上を飛ぶアメリカ軍の戦闘機の様子も描かれています。
<そんなある日、病院の行きがけ、デュランさんの裏手の松林を通りました。丁度、警報がなったようでしたが、ぼくは、いつものように鉄かぶとも防空頭巾も用意していませんでした。どこかで金属をすり合わせたような鋭い音がしました。みあげると一機の敵機が甲山の中腹をぬって、灰色の空を急スピードで飛んでいくのが見えました。>

これは遠藤周作が実際に見た光景だったのでしょう。

 また遠藤周作の仁川在住時代の六甲おろしは強く印象に残っていたようです。
<甲山から氷のように冷たい風が川面をわたって吹きおろしてきます。川岸のどの家も灯を消し警報にそなえています。>

上の写真は逆瀬川と甲山。

 そして背教者デュランの日記にも、甲山から吹きおろす寒風の強さが次のように書かれています。
<まだ町はねしずまり、ひっそりとしていた。仁川橋まで来たとき、甲山から吹きおろす氷のような風が、物凄い勢いで顔にあたってきた。>

仁川橋は地図の黄線で囲んだ部分です。

<仁川橋まで歩きながら、私は最初のブロウの不思議な言葉の意味をとることができなかった。風は今日もはげしく甲山から吹きおろしていた。それを防ごうとして顔を手で覆った時、私はふたたびそこに自分の死相をみた。その死相は私がこの日記をつけた最初の日、ミサの帰りにこの仁川橋で、甲山から吹きおろす寒風をまともに受け、顔を手で覆った時、闇のなかに認めたものとは全く違っていた。>

こちらの写真は、『黄色い人』にも登場する関西学院と甲山
です。見事な借景。
阪急仁川駅から関西学院に通う学生も多いようです。



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背教者の人間的弱さへのあたたかい思いやりを見せる遠藤周作

 遠藤周作『黄色い人』では、遠藤周作が悩み続けた日本人的な感覚とキリスト教との矛盾の問題が著わされています。


 小説の中では、その悩みを背教者デュランに語らせています。
<彼等日本人は神なしですべてをすまされるのだった。教会も罪の苦しみも、救済の願望も、私たち白人が人間の条件と考えた悉くに無関心、無感覚に、あいまいなままで生きられるのだ。これはどうしたことだ。>

 同じことを遠藤はエッセイ『私とキリスト教』で汎神論と結びつけ、詳しく述べています。
<それは何故だろうと私は当時、この神を必要としない日本人の感覚に一種の恐怖を感じながら、しかしそれを自分の周囲やいや、私自身の中にさえ発見したのでした。基督教の歴史や伝統がないためだろうか。いや、それだけではないようでした。むしろこの神に対する無関心さはもっとも東洋的な汎神論から来ているようであり、日本人には長い間、ぬきがたいほど培われてきたものだと私には思えました。>

 遠藤周作は背教者に、自分の信仰の悩みに通じるものを感じていたと思われます。

 そのことについて、聖心女子大学第二代学長で遠藤周作の家庭教師もしたことのあるSr.三好切子は「少年周作のあとを追って」と題したエッセイで、次のように述べています。
<もう一つのこと。それはその頃の夙川教会に一見フランス人らしい初老の男性がいた。彼はよく教会に来て、二階の賛美歌隊のうしろに坐ってそっとミサにあずかっていた。

 きくところによると彼は巴里宣教会に属していて、かってミッショナリーとして日本へ派遣されてきたが後々司祭職をすてたという事だった。どのような印象を少年周作が彼から受けたかはわからない。しかし後日、同じ経路をたどった、遠藤一家とごく親しいドイツ人の司祭、H神父の面影がこのフランス人のと重なり合って、作家遠藤周作の中に人間の弱さ、特に背教者の人間的弱さへのあたたかい思いやりを養ったのではと思われる。彼の作品にはよくレノゲ(背教者)が出てくる。>

 ここに言及されている作品の一つが『黄色い人』なのです。その最後は次のように結ばれます。
<だが、同じ白い人でもデュランさんのことならまだ、ぼく等には理解できるような気がします。しかし、貴方のように純白な世界ほどぼく等、黄いろい者たちから隔たったものはない。それがこの手紙をしたためさせた、理由になるかもしれません。>
 貴方とは特高に連行され、高槻の収容所に拘留されているブロウ神父(モデルはメルシェ神父)ですが、遠藤周作は同じ白い人でも、背教者デュランの方が理解できると述べ、あたたかい思いやりをみせているのです。




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遠藤周作はメルシェ神父拘留時の家宅捜査の状況を知っていた?

 遠藤周作『黄色い人』では、背教者の元神父デュランが自殺するために五年前に手に入れたブロウニングのピストルを、まるでユダがキリストを裏切ったように、ブロー神父(メルシェ神父がモデル)の司祭館の棚の書類の間にピストルを隠し、警察に密告するのです。
 イブがアダムを悪に誘ったように、デュランはキミコから悪を呼びかけられたかのごとく行動します。
<(警察にブロウが拳銃をかくしていると手紙を送るのよ。先手をうたなければならへん。筆跡をみつけられないため一字一字新聞紙から切り取って糊ではるのよ……)
 午後私は新聞を切り抜き、ブロウを密告する手紙を作り、それを仁川橋のポストに投げ入れた……。>


写真は現在の仁川橋。

 このように『黄色い人』では、密告により司祭館が捜査され、ブロー神父が逮捕されたようなストーリー展開になっています。
 遠藤周作がこのようなストーリーにしたのは、昭和20年5月にスパイ容疑で逮捕されたメルシェ神父逮捕時になされた家宅捜査の状況を、仁川に帰省していた遠藤周作は伝え聞いていたからでしょう。

 メルシェ神父は逮捕拘留時のつらい経験について、解放後も沈黙を貫き帰天しました。その後三十年以上経ってから遂に開示されたメルシェ神父の獄中記からです。

<ここにいたるまで、彼らはまだ私を一度も尋問していませんでしたが、この間、憲兵らは夙川教会で私に関する危険文書を探して、時間を無駄にしていたのでした。司祭館の隅々まで、聖堂、香部屋、私の寝室の天井を破り、床下にもぐり、オルガンを分解してまで、秘密兵器を発見するべく捜査したのでした。>

尖塔の下、庭の中央にあるのが当時のカトリック夙川教会の司祭館です。

 実際にはスパイ容疑を実証するための書類が捜査対象となっていたようですが、遠藤周作はあたかもこの捜査状況を知っていたかのように、『黄色い人』では、書棚の書類の間に拳銃を隠させたのでした。




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昭和20年遠藤周作と野坂昭如は甲山上空の同じグラマン機を見ていた?

 遠藤周作『黄色い人』は戦時中、仁川の母の家に戻っていた遠藤自身の経験をもとにした情景が描かれています。

その中で、甲山上空から川西航空機宝塚製作所へのグラマン襲来を次のように描いています。
<どこかで金属をすり合わせたような鋭い音がしました。みあげると一機の敵機が甲山の中腹をぬって、灰色の空を急スピードでとんでいくのが見えました。「川西の工場を偵察しはじめたのだな」たちどまり、しばらくの間山かげに消え去った飛行機の跡をぼくは、さがしました。それを追いうつ高射砲の音一つしないもの憂げな午後でした。>

 更に主人公千葉は甲山上空から飛んできたグラマンに狙われるのです。
<弾の音はきこえませんでしたが、グラマン機がぼくを狙っていたのはたしかです。死が脳裏をかすめました。にも拘わらず、この古墳の腐土の臭いのなかで死は、ぼくには自然のなりゆきのように思えました。グラマンの動き、機械の響きだけがこの甘美な死を乱していました。>

 遠藤周作が実際にグラマン機に狙われたかどうかはわかりませんが、7月に仁川に戻っていた時に甲山上空を飛ぶグラマンを見ていたのでしょう。

 遠藤周作は仁川から甲山上空を見ていたのですが、ニテコ池から甲山上空でグラマンが飛ぶ様子を見ていたのが野坂昭如です。

 野坂昭如は一歳半の義妹を連れて昭和20年7月に満池谷町の親戚の家に疎開しており、自伝的小説『ひとでなし』で次のように述べています。
<七月に入ると、敵小型機が、まず気まぐれに阪神間の上空を通過し、時に、急降下特有の爆音で市民をおびやかした。まだ、食いものはあり、ぼくと律子、妹は、病院通いを口実に毎日出歩く。二度、甲山上空から飛来したグラマンが、狙ったわけでもないだろうが、夙川堤防と、国道にいた、ぼくたちの上を超低空で飛び去った。カサ上げされた堤防の、流れに沿い、公園となっていて、遊歩道なのか、内側に二メートルの張り出しがある。キーンと響き、グォーンと低い轟音となるその爆音に、ぼくは妹を背負ったまま、律子と、その張り出しに飛び降り、律子におおいかぶさった。>

野坂はグラマンから狙われた経験を他のエッセイにも書いています。

 この二つの小説を読み比べると、遠藤周作と野坂昭如はひょっとすると昭和20年7月に同じグラマン機を見ていたかもしれないと思えてくるのです。




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遠藤周作がカトリック夙川教会の思い出を書き綴った『黄色い人』

 『黄色い人』は遠藤周作が日本人としてのカトリシズムに対する悩みを小説にした初期の作品です。その舞台は仁川のカトリック教会なのですが、特高に連行されたブロー神父などの登場人物や逸話は、遠藤周作が受洗したカトリック夙川教会をモデルにしている考えて間違いありません。


 例えばこんな情景が描かれています。
<教会の庭には夾竹桃の赤い花が咲き、公教要理をならう子供たちが伝道婦のアヤさんと口をそろえて唱和している声が聞こえました。「天主の十戒とはなんですか」「天主の十戒とは……」子供のころ、ぼくもこの児童たちと同じように、若い仏蘭西人の司祭だった貴方から天主の存在を教えられ、その十戒を暗記させられたものです。その時も夾竹桃の花が赤く咲き、貴方の黒い修道服のローマン・カラーが真白だったのを覚えています。>
 遠藤周作がカトリック夙川教会で受洗したころの情景を小説に描いているのですが、夾竹桃が記憶に刻まれているようです。
 現在のカトリック夙川教会には、夾竹桃は一本も残っていませんが、遠藤が通っていた頃の写真を見ると、塀のところに夾竹桃が植えられていたことがわかります。


 またここに登場しているアヤさんは「伝道婦兼聖母幼稚園の保母のアヤ子さん」ですが、戦前は下の写真の赤矢印の位置に幼稚園が併設されていたのです。


 下の写真は遠藤周作が教会でしょっちゅういたずらをしてメルシェ神父から怒られていた頃の昭和13年のメルシェ神父と幼稚園児たちの写真です。

右端に写っている保母さんのどちらかが伝道婦のアヤさんのモデルかもしれません。

 ところで夙川カトリック教会の聖堂はブスケ神父が敬愛してやまなかった聖テレジアに献げられ、以後夙川教会は「幼きイエズスの聖テレジア教会」と呼ばれています。

 そのテレジアの名前が『黄色い人』のデュランの日記にも登場します。
<司祭であったころ、私はたびたび臨終の場にあたった。なくなった堂本さん、斎藤夫人、それから私があの頃、「小さき花のテレジア」といって、だれよりも可愛がった鮎子ちゃんに終油の秘蹟をあたえたのは、この私である。>

 初代主任司祭のブスケ神父は、「小さき花」と題した聖女小さきテレジアの自叙伝の翻訳、出版もされていました。
 
 ひょっとすると遠藤周作の記憶の中に、メルシェ神父から「小さき花のテレジア」と呼ばれていた可愛いい女の子がいたのかもしれません。




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フランス人司祭メルシェ神父は何故開戦直後に抑留されなかったか

 遠藤周作「『黄色い人』を再読していると、背教者のデュランの昭和19年12月9日の日記に次のような記述があります。
<「小林の聖母女学園にも、彼等はなんども来ていますよ。伊太利の修道女たちは、一昨日、電話をかけましたら、高槻の警察署に連行されて、どこかへ送られるらしい」
「仏人で連れられたものは?」私は怯えた声で、その問いを口にだした。咎めるような眼差しで、ブロウは私をチラッと眺めた。「安心なさい。あなたは大丈夫ですよ。国籍は日本にしてあるんだから」>

 聖母女学園のモデルと思われる小林聖心女子学院の外人マザーの抑留については、
「学院のあゆみU試練のとき」に詳しく述べられています。

http://www.interq.or.jp/venus/mikokoro/50nen2.htm

 小説の登場人物背教者デュランは日本人女性と結婚して、日本国籍となっているのですが、メルシェ神父をモデルとしたブロウ神父はフランス国籍のまま。

 第二次世界大戦についてのまともな歴史教育を受けることがなかった私の疑問は、何故カトリック夙川教会のフランス人主任司祭のメルシェ神父は開戦直後には抑留されず、昭和20年5月に特高に連行されるまで司祭を続けることができたかということでした。


 フランスは開戦後まもなくドイツに占領されてしまいましたが、ロンドンに亡命したドゴールがレジスタンス活動を続けていましたので、敵国とみなされていたのではと思っていたのですが、降伏後発足したヴィシー政府は親ナチ派で、枢軸国とされていたことが理由のようです。

 これを機会に、日本における戦時下の外国民間人がどのような扱いを受けていたのか調べてみました。参考資料は小宮まゆみ著歴史文化ライブラリー267『敵国人抑留』。

 それによると、1941年10月に東条英機内閣が成立し日米開戦が避けがたい状況となり、多くの「敵性外国人」は引揚げたものの、残留した外国人もまた多くいました。
 そして、宣教師について、「カトリック系の学校では、駐日ローマ法王庁使節パウロ・マレラ大司教の意向により、高齢者や病弱者を除き大多数の宣教師が残留した」と述べています。

 敵国人抑留の変遷は四つの時期に分けられ、
第一期(1941年12月開戦〜1942年8月)成人男子を抑留対象
第二期(1942年9月〜1943年9月)女性宣教師や修道女も対象
第三期(1943年10月〜1945年初め)枢軸国を離脱した
                イタリア人も抑留

 (1943年のイタリア人の抑留は増山実『風よ僕らに海の歌を』でも描かれています)

第四期(1945年初め〜終戦)本土決戦に備えてドイツ人やフランス人まで抑留し空襲や飢餓で抑留者が危険に晒された時期

フランスの扱いについては、次のように述べられています。
<フランスは1944年9月、ド・ゴール政権がパリ帰還を果たし、対日宣戦布告を再確認した。それでも日本政府は、仏領インドシナ政府との協力関係を重視して、フランス人は敵国人扱いしてこなかった。しかし1945年3月、日本軍がフランス植民地政府を武力で解体して以降は、フランス人を敵国人と見なさないわけにはいかなくなった。>

この時期、特高の目が一層厳しくなり、メルシェ神父は単なる強制抑留ではなく、スパイの嫌疑をかけられ1945年5月に逮捕されたのでした。



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遠藤周作は昭和20年のメルシェ神父逮捕の日は仁川にいた?

 遠藤周作『黄色い人』の高槻の収容所に拘束されたブロー神父はカトリック夙川教会のメルシェ神父をモデルにしています。


 小説の冒頭は<黄昏、B29は紀伊半島をぬけて海に去りました。おそろしいほど静かです。>から始まり、川西航空機宝塚製作所の爆撃があった夜、主人公千葉が収容所のブロー神父へ送ろうとしている手紙から始まります。

 川西航空機の爆撃があった日は、エッセイ『阪神の夏』に書かれているように遠藤は仁川の母の家に戻っていました。

(矢印の位置が遠藤の家があった所、競馬場のところに川崎航空機ら空塚製作所がありました)

 ブロー神父が特高に連れていかれたのは、その3ヵ月もたたない前の出来事として書かれています。
<その通り昨年の寒かった冬のこと、デュランさんと会った夜、貴方が西宮の特高につれていかれた朝のことをカンタンに述べようとしているのですが、まだ三か月もたたぬあれらの思い出も、………>

 史実ではメルシェ神父がスパイ容疑で逮捕されたの昭和 20年5月7日、川西航空機宝塚製作所が爆撃されたのは昭和20年7月24日で、季節は小説に書かれている冬ではありませんが、「3ヵ月もたたない前」と完全に一致しています。
このように読んでくると、『黄色い人』は、戦時中遠藤周作が仁川に戻っていた頃の状況をベースに書いた小説のようで、メルシェ神父が連行されたことも知っていたのでしょう。

 また遠藤周作は昭和18年4月、慶應義塾大学文学部予科に入学しますが、父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、父の家を出て、信濃町のカトリック学生寮白鳩寮に入りました。
『黄色い人』では面白いことに主人公千葉は遠藤が断念した慶應の医学部の学生です。
<覚えていられるでしょうが、四谷の医学部に進んだ一昨年の夏、仁川に帰省して教会をたずねた時、貴方は不安げな眼差しで、このうすい膜を感得されたようでした。>
 昭和18年の夏休みに、遠藤は小説に書かれているように帰省し、カトリック夙川教会のメルシェ神父を訪ねていたかもしれません。

 更に年譜によると、昭和19年に戦局が苛烈となり、慶應での授業はほとんどなく、遠藤は勤労動員で川崎の工場に通っていました。文科の学生の徴兵猶予制が撤廃されたため、夏に徴兵検査を受けます(『砂の城』ではこの時代の様子が描かれています)。しかし肋膜炎を起こした後のため第一乙種で、入隊一年延期となっていました。
この肋膜炎については、『黄色い人』では次のように書かれています。
<この四か月目の朝千駄ヶ谷の下宿で、咳きこみ少量の血痰を吐きました。レントゲンでみると左の肺に直径二糎ほどの白濁した空洞があります。「肋膜は癒着しているから気胸はできないけどさ」研究室で診察してくれた先輩の助手はぼくを見ないように床に視線を落としながらひとりごとのように呟きました。「休学して田舎で休んでいれば良くなるさ。徴兵をのがれてよかったじゃねえか」それから彼はくるしげな声をだして嗤いました。>

 そして、昭和20年3月に東京大空襲で白鳩寮が閉鎖となり、年譜では経堂の父の家に戻るとなっていますが、この時期に学校の授業もなく、勤労動員に耐える体でもなく、仁川の母の家に帰省していたのではないでしょうか。

『黄色い人』でも、ブロー神父が拘束される前から千葉は仁川に戻っていたことになっているのです。
 私の推測が正しく、当時遠藤周作がメルシェ神父の近くにいたならば、神父が特高に連行されるのを守れなかったと悔いていることにも頷けるのです。




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遠藤周作『黄色い人』再読・告解室の思い出

 遠藤周作の小説を読んでいると、エッセイで自分自身の経験を語っている場面が、そのまま小説に登場していることに気づきます。
『黄色い人』は昭和30年に「群像」に発表された初期の作品ですが、そこにも後にエッセイで述べられている場面がしばしば登場します。それらを比較しながら、『黄色い人』を再読してみました。

 『黄色い人』の冒頭のB29の川西工場爆撃場面は、エッセイ『阪神の夏』に書かれている通り、遠藤周作が仁川に戻っていた時経験したことでした。

 次に『黄色い人』に登場するのが主人公千葉の告解室の思い出です。
<神父さん、あなたはむかし、ぼくをなにもわからぬ無邪気な少年だと思い込まれていました。日曜のあさごと、貴方のミサの答えを唱え、それから教会の小さな告解室で、どもりながら罪を告白したあの頃のぼくを思いだして下さい。>
(写真は遠藤周作が通った頃のカトリック夙川教会)
 
 小説では仁川のカトリック教会となっていますが、これは明らかに遠藤周作の灘中時代のカトリック夙川教会での思い出を、ほとんどそのまま小説にしているのです。
『黄色い人』から続けます。
<ただ告解をしなければならぬ信者の義務のためだけに、無理矢理に勉強をなまけたことや学校できたない話を友だちにきいたことをつくってぼくは貴方に告白したものです。目の粗い木綿の幕で周囲の光と音とを遮った暗い狭い密室の中で貴方はぼくのおびえた声をききとろうと耳をちかづけました。>

 更に千葉は教会の罪の分類について次のように述べています。
<結局、神父さん、人間の業とか罪とかはあなたたちの教会の告解室ですまされるように簡単にきめたり、分類したりできるものではないのではありませんか。>

さて、この告解室での思い出を、遠藤周作はエッセイ集『私の愛した小説』(初出;昭和58年「新潮」)のなかで、四十数年ぶりにカトリック夙川教会を訪れたときに思い出して次のように述べています。

<毎週の日曜日のミサの前に告白室でさせる罪のゆるしの記憶が甦った。カトリックに馴染みない読者に説明すると、当時のミサの前には、あらかじめ信者は祈祷書をめくり、信者のために色々な罪をくわけして書いた頁を読んで準備したものだ。>

(写真の右奥にあるのが告白室)


 ここで、小説に書かれた罪の分類に対する疑惑が述べられているのです。
<しかし同時にあの時、子供ながらにも私には罪とはそんな風に分類できるほど簡単に説明できるのか、という疑惑がもう湧いていた。告白室に入り、金網の向こうに耳をかたむけている仏蘭西人の老神父に「嘘をたびたび、つきました」などとその時さえ嘘を呟きながら少年の嘘にも複雑な種類があり、複雑な段階があり、複雑な因果のあることを感じ、それが言葉ではとてもいいあらわされぬことに思い至っていた。>
このように小説とエッセイを読み比べると、遠藤周作が解説してくれているようで、小説の理解が一層深まります。





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夙川地区を横切る山手幹線は昭和13年には既に計画されていた

 遠藤周作が昭和8年から昭和14年まで住んでいた夙川の借家は曙池の畔にあったことが判明しました。
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 その時期の地図を調べていると、色々興味深い事実がわかってきました。
 夙川地区は1907年(明治41年)「香櫨園遊園地」(事業主・香野蔵冶、櫨山啓次郎)として開発されましたが、1918年(大正2年)には廃園となり、続いてサミュエル商会から大神中央土地(株)に変わり住宅開発が進められました。

(今も雲井児童遊園に残る大神中央土地の石碑)

1923年(大正12年)まで夙川地区は大社村森具でしたが、分離独立し「香櫨園区」と命名されています。
1933年(昭和8年)4月 には、それまで大社村だった夙川区が西宮市に編入され、その昭和8年の地図がありました。
 西宮市に編入された当初までは、「香櫨園」と呼ばれていたようで、地図からも読み取れます。

この時期に遠藤周作はカトリック夙川教会のすぐ近くの曙池の畔の借家に移ってきたのです。

上は吉田初三郎の昭和11年の鳥観図。黄色で囲んだところが曙池。

 更に1938年(昭和13年)の夙川区の地図を見てみると、「香櫨園」という地名は消失し、霞町、松園町、羽衣町、殿山町、雲井町などの町名になっていました。

そして、驚いたことに震災後ようやく開通した山手幹線が、昭和13年の地図に都市計画道路として破線で示されていたのです。
この地図から見ると、山手幹線が曙池を横断しており、遠藤周作が住んでいた夙川の借家の住所は霞町25番地にあったようです。

ご参考に現在の地図を付けますが、山手幹線は昭和13年の計画通りの位置を走っています。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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