阪急沿線文学散歩

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協文大に機動隊導入(かんべむさし『黙せし君よ』)

 昭和44年、協文大では全学集会で革新評議会から緊急動議が出されます。

<「議論は尽くされた。ここにおいてわが革新評議会は、経営学部における闘争の一時休戦と入試期間中の封鎖解除を提案し、出席者諸君による議決を要請する。この提案に賛成の学生諸君は、拍手を願いたい」瞬間、すべてのざわめきが消えて満員の大教室に緊迫した静寂が生まれ、そのあと、前方左側のあたりから音が生まれていた。>
 強行採決され、緊急動議は賛成多数で可決されたことになります。更に、学部長命令による自治会の解散命令と学生の校舎内への立ち入り禁止措置。


 そして遂に機動隊が導入されます。


<一週間ほど前、入試の接近に業を煮やした大学側が遂に警察力の導入を決定し、一般学生のおらぬ早朝を選んで出動を要請した。公的実力によって全学部の封鎖が解除され、占拠し泊まり込んでいた全共闘のメンバー達は、強制退去させられたのである。>

 

 図書館の壁にペインティングされた造反有理。

小説ではこんなふうに。
<しかもそこに、さらなる大躍進を目指して国中が熱狂しているらしき中国から、ひとつの言葉が聞こえてきていた。造反有理。謀反には道理がある−
反抗し反乱して打倒しようとするとき、真理はその者の側にあるというのだ。>
あの頃の学生は紅衛兵と同じだったのかと思ってしまいます。


 当時の阪急甲東園駅付近の様子は次のように描かれています。
<現場では衝突を見、機動隊員の暴行を目撃して全身の血を逆流させる。騒然とした雰囲気に、まさにいまは動乱の時代だと思う。日本革命など夢想であると判定しているが、国内の各種状況がこのまま進んで拡大すれば、瞬間的には、内乱状態にまで達するのではないかと思ったりもする。ところが、そのあとそうやって頭を興奮させながら帰りかけると、正門から二百メートルも離れればそこはいつも通りの静かな住宅街なのだ。そして高台かが起こっていようが、まったく関係のない様子で日常が進行している。つまり協文大の紛争は丘の上の紛争さのである>


 当時関西学院正門前の道路に機動隊の護送車が数台停まっていたのを覚えていますが、甲東園駅付近は描かれているとおち、まったく平和な世界でした。


 最後の図書館陥落のシーンが描かれています。

<図書館の正面玄関前一帯には、切り離したポプラやヒマラヤ杉の巨木で、頑丈強大なバリケードが構築されている。それを隊員たちがエンジン・カッターで切断し、装甲車が押しのけて破壊し、撤去していく。二階三階の窓から頻繁に投げ落とされる火炎瓶やブロックを避け、ガス弾と放水で制圧しながら、玄関への突入路を開いていく。つづけさまに炎があがり、噴射される銀線がそれを圧して水煙を立てる。発射音と切断音が断続し、スピーカーを通した警告や命令の声が反響して、さらにその全体に上空で旋回するヘリの音がかぶさってくる。>

 

 時計台にあるスクールモットーMastery for Serviceの土台の上に飾られたエンブレムに替わって革命家ゲバラの肖像が掲げられていたようです。




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かんべむさし・堀晃共著『時空いちびり百景』の夙川編は落語?

かんべむさし・堀晃共著『時空いちびり百景』は「SFいちびり眼鏡」のタイトルで毎日新聞に連載されたショートショートをまとめたものだそうです。

 

 あとがきには最近亡くなられた桂米朝師匠のお話も載せられていました。


<二人がともにファンである桂米朝師匠が毎週読んで下さっており、独演会の楽屋でお目にかかったとき、つぎのようなお言葉をいただき感激したことがあります。「だんだん落語になってきましたナ」この感想はかんべにとっては大変な「ほめ言葉」であったのです。>


 もともと関西の各地を素材にしたSFショートショート連載という構想だったようですが、夙川編「礼は酒にて」はかんべ氏が米朝師匠の言に力を得たのか、SF作品ではなくむしろ落語です。


<ある年の春、ちょうど花見に最適という週末の夜に、六甲山から突然の大風がふきおろしてまいりました。これが甲子園に向かえば、虎が元気百倍で暴れて結構なのでございますが、このときには悪いことに夙川一帯を襲い、阪急夙川から上は苦楽園、下は香櫨園、川沿いの桜を端から端まで散らしてしもた。さあ一夜明けました日曜日、夙川駅前商店街の親爺さん連中が困りましてな。>
と始まります。

 

 夙川駅前商店街という名は多分実在しなかったのではないかと思うのですが、駅前の写真が、先日の市役所の歴史資料写真展に展示されていました。(昭和45年というのは少し疑問ですが)

 そこに登場するのが愛犬ポチを従えた花咲か爺さん。木という木に花を咲かせてしまいます。(これがSFといえばSF)

 街の親爺さん連中が御礼はいかがいたしましょうと尋ねます。
<「いや、酒を一杯飲ませてもらえば、それで結構で」「酒を一杯。あの、サカヅキにでございますか。それともドンブリ鉢か何かで?」そしたら横からポチが、「椀。椀椀!」>
これでショートショートは終わりですが、どしても「おあとがよろしいようで」と付け加えたくなります。

 



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夙川駅前商店街の本屋さんとか、夙北市場の八百屋さんとか、州側市場のパン屋さんと我が家では使い分けていました。商店街なのか商店会なのかわかりませんが、一応ひとまとまりになっておられたと記憶します。消防車に乗っておられたのは殆ど駅前商店街のみなさんで、野球チームがあり叔父が入れてもらってたと記憶します。

[ ふく ] 2015/04/14 8:32:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

懐かし写真ありがとうございます。昭和45年というのは?ですが、夙川駅を降りてすぐ北側にタクシー乗り場・そして本屋さんだったように思います。ダイエーが出来た前後に街並みが変わったように思います。夙北市場もですが、昭和40年代には阪急の高架下の商店街への循環バスがはしっており、苦楽園口界隈でも往復バスを利用したり、行きは楽ですので歩いてくだって帰りは荷物をもってバスを利用したりということが可能でした。
新甲陽にも市場がありました。水道道踏切から新甲陽への道は「伊藤さんのテニスコート」そして信じられないかもしれませんが、養鶏場もありました。すっかり住宅地になってしまいましたが・・・・

[ フー博士 ] 2015/04/18 20:47:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

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昭和43年協文大、遂に無期限ストに突入(かんべむさし『黙せし君よ』)

 かんべむさし『黙せし君よ』では昭和43年の世界の出来事とともに、関西学院大学がモデルとなっている協文大の学内の様子が描かれています。


<十月、一連の問題について全共闘が大衆団交を要求し、大学側がこれを拒否したため、各学部ごとのストライキに入ろうとした。
 そして伊吹の属する商学部では、スト権確立投票のための学生大会が予定されていた。ところがその機先を制するつもりか、突然教授会が執行部役員に校舎からの退去命令を出し、排除しようとした。そのためにまたしても、体育会系学生の「力」が使われた。これで一般学生が怒り、数日後の学生大会で無期限ストを可決したため、学部のバリケード封鎖が開始されることになった。>


 関西学院の商学部のバリケード封鎖は実際には昭和42年に既に始まっていました。

 

 昭和43年3月の卒業式の図書館前での記念撮影の目の前で、全共闘派学生によるデモがあったようです。

 この年はどんな年だったのでしょう。記憶が薄れていますが、友人伊吹がビデオ・ライブラリーに入って映像を見ています。
<「俺もビデオで、東大の安田講堂封鎖解除から万国博の開会式まで見てしまった。検索リストを見ると、その万博開催と同じ頃に新日鉄が発足してたんだな。それに自動車業界が好況で、外貨獲得のスターだなんてニュースもあった。紛争の時代は1969年で終わり、進歩と調和の70年が来たわけだな」もっとも彼らの乗った車が走っている新御堂筋、大阪の梅田と千里丘陵を結ぶその高速道路も、万国博開催時に開通したものだった。>

 

安田講堂封鎖解除は昭和44年1月のこと、それだけは映像が鮮明に記憶に残っています。しかし、よく考えてみると、現在のこの平和なキャンパスで学んでいる学生はあの事件のずっと後に生まれているのです。

 

 結局昭和44年の東大入試は中止となりましたが、昭和45年には大阪万博が開催され、学園紛争も下火になりました。

 

 小説に書かれていたように、新御堂筋線もこの時できたのかと振り返っていました。



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こんばんは〜
ココアの件、コメントありがとうございました。
リンクの連絡がおそくなり、申し訳ございませんでした。

4月に入り、晴れて『自由の身』を満喫されていることと存じます。
また、お目にかかれる日を楽しみに…

[ Lady J ] 2015/04/01 22:31:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

実は予定が変わり、スケジュール調整で大変なことになっております。でもまたお会いできる日を楽しみにしております。

[ seitaro ] 2015/04/01 22:43:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

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学園紛争が始まったのは昭和42年?(かんべむさし『黙せし君よ』)

 かんべむさし『黙せし君よ』は、オフィス家具販売店マナベスに勤める主人公・柏木喬が梅田の地下街コンコースから阪神梅田駅に向かう帰宅シーンから始まります。

<さまざまな人間が、交差する複数の川を作りつつ、おのおのの目指す方向へと最短距離を取って歩いていく。地下鉄御堂筋線・谷町線・JR、それに阪急と阪神の両私鉄……
テナントもすでにシャッターを下ろしたこの時期、ここはそれらターミナル駅への、通りぬけ広場となっているのだった。そんななかのひとつ、曽根崎方向から阪神電車梅田駅へと流れてきた川のなかに、サラリーマンの二人連れが含まれていた。>


柏木の自宅は芦屋のようです。

<甲子園を出れば、特急はしにさき五分ほどで西宮、さらに五分ほどで、柏木の下車駅である芦屋に停車することになっている。>


 柏木は学生時代の記憶を呼び戻すために、日記帖代わりに使っていたノートを数冊持って芦屋市立図書館に向かいます。

<「ちょっと、出かけてくるよ」幸い歩いて五分ほどの距離、芦屋浜シーサイドタウンの手前に図書館があるので、昼食後、そこへ隠れることにしたのである。>


<読むことによって記憶層を刺激された顔が、過去の光景や感情を、現在ただいま、リアルに再生し始めるからなのだ。「なるほどなあ」いまも彼は、1967年、昭和42年秋のある記述から当時のシーンをありありと想起し、思っていたところである。>


 著者かんべむさし(本名;阪上順)氏は昭和41年の春、関西学院に入学。


昭和41年4月15日の学生新聞入学者名簿に府立桜塚高校の欄の最後(県西の前)に確かに阪上順氏の名前が掲載されていました。

 早稲田大学で学費値上げ反対の紛争が始まったのが昭和41年、関西学院では父兄会費値上げ問題などで紛争が始まっていましたが、本格的になりだしたのは昭和42年の11月に学費値上げが発表されてからだったようです。


<そして記憶を探ってみれば、協文大における紛争の序曲は、ちょうどこの頃に奏でられ始めていたのだということもわかった。学費値上げ反対・カリキュラム改悪阻止・裏六甲第二キャンパス構想を白紙撤回せよ。各学部の自治会がそれらの要求を掲げ、座り込みをし、携帯スピーカーの声を張り上げて、大学側に交渉を迫っていた。>


昭和42年11月の関西学院の学生集会です。
<正門前や学部の玄関前に立てられた巨大な立て看板には、それらとともに、こういうスローガンも朱色の文字で踊っていた。エンプラ寄港反対・佐藤訪ベト実力阻止・安保条約廃棄・反帝反スタ・産学協同体制を粉砕せよ……まだ執行部やセクトに属する活動家のみの動きであり、構内はおおむね平静だったのだが、ときにはデモも行われていたのである。>

12月には遂に全学ストライキに入ります。

 


正門の様子です。私はまだ高校生でした。



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かんべむさし『黙せし君よ』に描かれた協和文科大学のキャンパス風景

柏木喬はバスで大学の正門前に到着します。


<その低い石塀と正門の、構内の建物と統一した淡いベージュの色調が視野に大きく広がったとき、バスは停止していたのだった。>

 

それでは柏木とともに協文大のキャンパスに入ってみましょう。


<彼は上着を持ちかえ、口元を強く結んで正門を通過し、構内に入った。少し歩けば、正面にラグビー場ほどもある芝生の広場があり、そのむこうに時計台と急斜面の屋根が目立つ三階建ての図書館、さらにその彼方に山が見えている。>
小説では関西学院とは別の大学としていますので、甲山という名前は出てこず、単に山と書かれています。
<広場の右手が法学部の校舎になっており、左は商学部のそれであって、どちらも以前のまま優雅な二階建ての姿を保っている。>


 関西学院の実際の配置は、中央芝生の正面の時計台を挟んで、左手が経済学部、右手が文学部の建物になっており、小説では変えたようです。
<図書館に隠れて見えないが、経営学部の校舎はその裏手右にあり隣接する全学部共用の別館ともども、当時から鉄筋校舎だった。
また商学部の裏には大講堂を隔てて経済学部があり、図書館の左奥にあたる位置には文学部の校舎が建っている。学生会館や生協施設などは、いま彼が立っている位置からいえば、これまた左斜めの奥にある。>

 


学生会館や生協施設は関西学院の配置のまま使ったようですが、各学部の建物の位置は変えて説明されています。


<広大な敷地に、緑を豊に残し、池や小川のせせらぎまで配して、建物を点在させている。自然環境という点では、ここはまことに恵まれたキャンパスだと言えるのだった。>
全体のキャンパス風景は関西学院そのものです。

 


(写真は関西学院大学博物館のジオラマ)



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桂米朝師匠を敬愛していたかんべむさし氏の作品『幻夢の邂逅』

 去る3月19日に人間国宝の落語家・桂米朝さんが肺炎で亡くなられ、大きく報道されています。先日大手前大学さくら夙川キャンパスで開催されたかんべむさし氏文芸講演会後の茶話会で、上方落語に造詣が深いかんべ氏から、桂米朝さんのお話や、桂米朝と三島由紀夫の邂逅を題材にした作品『幻夢の邂逅』についてお聞きしたばかりでした。


 桂米朝(本名、中川 清)さんは1925年旧関東州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の上方噺家。1945年2月に応召し、姫路の山間部に急造兵舎があった歩兵部隊に入隊しますが、急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の病院に入院、病院で終戦を迎えました。
 『幻夢の邂逅』では次のように述べられています。
<本籍地は古くからの城下町であり、明治以降は師団司令部が置かれ、各兵科の連隊が駐屯する軍都になっていた。距離としては短い移動であるが、自分は山間の舞台からそこの陸軍病院にまわされ、入院生活を送ることにになった。>


 一方、三島 由紀夫(本名、平岡 公威)も同い年の1925年生まれ、本籍地は兵庫県印南郡志方村.。1944年、兵庫県加古川市の加古川公会堂で徴兵検査を受け、第2乙種合格となります。

『仮面の告白』によれば、本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」でしたが結果は合格してしまいます。そして桂米朝さんと同時期の1945年2月には応召され、父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立し、入隊検査を受けますが、折からかかっていた気管支炎を軍医が肺浸潤と誤診し、即日帰郷となります。

青野ヶ原には現在も自衛隊演習場が残されています。


 それらの事実からかんべむさし氏が桂米朝と三島由紀夫の邂逅を物語にしたのが『幻夢の邂逅』(初出;小松左京マガジン十月号)でした。


 桂米朝は夢の中で、入院していた姫路の陸軍病院で三島由紀夫と出会うのです。桂米朝の寝ている寝台が空いており、そこに若い新顔が連れてこられます。
<その彼が、看護婦に手を添えられ、おぼつかない足取りでとなりの寝台にやってきたで、自分は異様な衝撃を受け、彼が入院に至った背後には、複雑な経緯があるはずだと直感していた。(この男は、壊れかけている!)とっさにそう思ったのは、肉体面のみならず精神面においてもであって、これを逆から言えば、双方を「壊され」かけて、極度に消耗している人間だと感じたのだ。なぜなら、眉だけは妙に濃いのだけれど、坊主頭で頬のこけた逆三角形の顔は異常に青白く、両肩は肉が落ちて下がり、胸も薄くて大きめの患者衣が重たげに見えてた。>


 昭和45年11月25日、桂米朝は尼崎の自宅二階でようやく四時過ぎに寝床につき、四回目の夢を見て、眠りから覚めかけたのが午前十一時半過ぎ。そのとき、階下で内弟子が騒ぐ声を耳にします。
<「何や、何を騒いどるんや!」大声で問うと、一人が会談を駆け上がってきて、興奮の口調で報告したのだ。「師匠、えらいことです。テレビのニュース速報で言うてますけど、三島由紀が自衛隊に立てこもって、総監か誰かを人質にとってるそうですわ」>

 

 最後の夢を見た日が、三島事件の日に設定され、桂米朝も入院せずそのまま軍隊にいたならという、IFの重なった、兵庫県人にとっては考えさせられる面白い構成の物語でした。


 この作品の最後に、かんべ氏は[作者付記]として、
<この作品の執筆に際しましては、桂米朝師匠より御許可を頂戴し、戦中戦後のエピソードなどもお聞かせいただきました、心より、篤く御礼申し上げます。
 なお、申すまでもなく、この作品は青野ヶ原「すれ違い」の事実をもとに、虚実を融合させて構成したフィクションです。したがって、一切の文責は当方に帰します。>


小野市と加西市にまたがる青野原台地には元大阪第二陸軍病院が、戦後厚生省に移管され国立病院機構兵庫青野原病院として存続しています。
桂米朝さんのご冥福をお祈りいたします。



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関西学院大学全学封鎖の思い出の物語『黙せし君よ』

 かんべむさし著『黙せし君よ』は、大学紛争の時代に大学に在籍していた団塊世代の主人公が、40歳過ぎてから当時を振り返る物語。


『上ヶ原爆笑大学』とは正反対のシリアスな物語でした。


『黙せし君よ』に登場する大学は次のように説明される協和文科大学。
<神戸大、甲南大、神戸女子薬大、甲南女子大、そして芦屋大、神戸女学院大、聖和大、関西学院大……
 これらとともに、六甲の山並みを背に、東神戸から芦屋西宮に至るベルト状の大学地帯を構成している、協和文科大学。>
と、協文大は関学大とは明らかに別の大学として書かれていますが、描かれた風景、場所は関学そのものでした。


 オフィス家具や機器の販売会社マナべスに勤務する主人公柏木喬が久し振りに大学を訪れる場面です。
<各駅停車だけがとまる、阪急の小さな駅。その改札口を出ると、そこに短い商店街がのびていた。書店があり、喫茶店があり、銀行の支店があって、医院がある。そのいくつかは建て替えられて立派になっていたが、ほとんどは当時のままの姿で並んでいる。
 そして柏木のすぐ右手には、まったく昔と同じ狭いバス乗り場があった。協文大前行きと、そこを経由する山手循環の車輌が並んで、それぞれ発車時刻を待っているのだった。>
阪急今津線は各駅停車しか走っていませんが、この小さな駅とは甲東園駅のことです。

 昔は駅前の書店の向かいに小さな広場があり、バス停になっていましたが、そこにはビルが建ち、現在のバス停は道路上になっています。学校帰りによく立ち寄った駅前の書店もなくなっていました。


<歩くとすれば、曲がりくねった坂道をのぼるか、急な石段を息をはずませてあがるかして、まず高台に到着しなければならない。大学の正面までは、そこからさらに五百メーターほどの距離があるからなのである。>


 阪急甲東園駅から上ヶ原台地に上るこの道は、私が関学の手前にある高校に通った道でした。ルートは3つくらいありますが、小説に書かれているように坂の途中から階段を上るのはきつく、帰りのみ階段ルートでした。


 行きはバスの通るクネクネ道を上りますが、歩いていると高校時代、夏季補習で蝉が鳴く坂を汗をかきながら登ったことや、冬に雪が積った時は、滑って転びそうになったことなど懐かしく思い出していました。

途中はバス道から外れて細い道をショートカットします。

 

 小説で柏木は、バスを選択して大学まで上って行きます。

 

 高台に到着して見える協和文科大学とは、まさしくかんべむさしが在学中には一度も試験を受けることなく卒業した関西学院大学のことでした。



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おはようございます。
来週の27日(金)午後7時から、西宮北口の西宮市プレラホールで、『日本文学全集の作り方』と題したトークイベントが開催されます。
河出書房新社から刊行のはじまっている同全集のプロモーションで、池澤夏樹さんと小池昌代さんが出演されます。
版元が河出書房新社ですから、同全集には須賀敦子さんにも1巻充てられており、地元ゆかりの作家ですから、当然トークのなかでふれられるはずです。
もし、ご関心とお時間の都合がつくようでしたら、ぜひどうぞ。
ただし、事前にネットから参加申し込みが必要ですので、詳しくは「河出書房新社」もしくは「西宮市プレラホール」のホームページでご確認ねがいます。
すでにご存知でしたら、ごめんなさい。

追伸 5月31日のカトリック夙川教会、早速申し込ませていただきました。

[ 373 ] 2015/03/21 9:14:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『決戦・日本シリーズ』阪神・阪急対決は昭和49年?

 ハヤカワ文庫かんべむさし『決戦・日本シリーズ』の筒井康隆氏による解説では次のように述べられています。

<昭和48年、かんべむさしは早川書房がSF刊行十五周年記念として募集したSF三大コンテストの小説部門に「決戦・日本シリーズ」で応募した。予選に手間どり、選考委員会が最終候補作十篇を前にして開かれたのが翌49年の中ごろであった。>と述べています。


 この日本シリーズは阪神・阪急戦なのですが、普通に考えれば作品応募の昭和48年の想定だと思われるのですが、登場する監督、選手の名前からしてどう考えても昭和49年のメンバーなのです。

スポーツイッポン社(スポーツニッポン?)25周年記念行事として、日本シリーズの企画を立てたシーズン、セ・リーグでは阪神タイガースが、パ・リーグでは阪急ブレーブスがそれぞれ絶好調で首位を走り、球団監督がインタビューに登場します。
<机の上にひろげたスポイチでも、紙上インタビューという囲み記事で、阪神タイガースの銭田監督は言っている。「ペナントにむかって、このまま突撃です。おおい、Z旗揚げろ、無電を打て。トラ・トラ・トラ…」
阪急の田植監督はこう言っている。「ペナントは、いわば男性憧れの美女です。そして、ドライデンも述べたように、勇者のみよく、勇者のみよく、勇者のみよく美女に値す…なのです」>

 阪急田植監督とは上田監督に違いないのですが、昭和48年は西本監督最後の年、上田監督は昭和49年のペナントレースからです。


 因みに阪神、銭田監督は最初吉田監督と思ったのですが、吉田監督は昭和50年からで、昭和47年シーズン途中に村山監督から引継ぎ、昭和49年まで監督を務めた金田正泰氏に違いありません。


 このシーズン予想通り阪神と阪急が優勝し、決戦・日本シリーズ。3勝3敗1引き分けで西宮球場に舞台が移って、最後の決戦。十万人の大観衆(本当に入るのか?)を迎えて九回裏最後のシーンです。


<そして、遂に最後の瞬間がやってきた。三対二、阪神リードで迎えた九回裏阪急の攻撃。ワンアウトの後、9番ピッチャー邪魔田にかわって、ピンチヒッター渋柿ヒットで出塁。トップに戻って、河豚本三塁側のセーフティ・バンドでランナー一・二塁。2番白熊、送りバントでツーアウト二・三塁。大観衆死人のごとく硬直し、田植監督タイムをかけてトイレへ走り込む。3番果糖に対して阪神は敬遠策。九回裏二死満塁、得点差ただ一点。
「4番、ライト、長寿(ながいき)」うぐいす穣の声澄んで、ウォーンとひろがる大観衆の緊張のため息。>

 このメンバー、実名にすると、上田監督、9番ピッチャー山田、ピンチヒッター正垣、トップ福本、二番大熊、三番加藤、四番長池となるのですが、これは正に昭和49年の上田監督の布陣なのです。


 最後のシーンは昭和48年金田監督のもとで25勝をあげた江夏の投球シーンです。
阪神は昭和49年も金田監督、江夏投手という布陣でした。

<難波のアナウンサーが、かすれた声で喋りだした。「さあ、大変な状況です。最後の一球、真夏ふりかぶった。ランナーいっせいにスタートを切った!」ウワーッという大歓声が巻き起こった。>
 決戦を制したのはどちらのチームか。
ハヤカワ文庫の『決戦・日本シリーズ』は絶版となりましたが、4月6日にちくま文庫から刊行予定の『70年代日本SFベスト集成4 1974年度版』 筒井康隆編に収録されているそうです



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朗報!阪神対阪急、かんべむさし著『決戦・日本シリーズ』が復刊される!

 かんべむさし氏が、早川書房SF刊行十五周年記念のコンテストの小説部門に応募した作品、『決戦・日本シリーズ』。


「昭和48年のペナントレース、阪神タイガースと阪急ブレーブスが優勝して日本シリーズになったら、勝った方の電車が負けた方の線路に乗り入れて日本一のパレードをする。電車に乗り込むのは監督以下選手全員とファン千人。車内ではどんちゃん騒ぎをして、電車は敵の線路を突っ走る。その間、負けた方は、特急も急行も時間待ちして優勝パレード電車を通過させなくてはならない。」という西宮市の阪神甲子園球場と阪急西宮球場で戦われるハチャメチャ日本シリーズ。

阪急沿線文学散歩には欠かせない一冊です。

 しかし、この本既に絶版になっており、西宮市立図書館にも芦屋市立図書館にもなく、私は仕方なしにamazonで中古品を購入しました。(最初の写真)
 古本の文庫本ですが当時でも1000円以上、現在のamazonで調べても、最安値が中古可のレベルで1249円です。

 しかし、間もなく復刊(という言葉は正しくないかもしれませんが)されるのです。

 

2月28日(土)に大手前大学で開催されたかんべむさし氏の文芸講演会、そのあと引き続き約1時間の茶話会まで開催していただき、面白いお話を沢山聞かせていただきました。

 

写真は左から堀晃氏、かんべむさし氏、柏木 隆雄学長です。

 前回講演されたSF作家堀晃氏からのお話です。
4月にちくま文庫から刊行予定の『70年代日本SFベスト集成4 1974年度版』 筒井康隆編にかんべむさし氏の『決戦・日本シリーズ』が収録されているそうです。
その解説を 堀晃氏が書かれたそうです。
かんべむさし氏を世に送り出したこの作品。しかし、かんべ氏は講演会後の茶話会で、次のように述べられていました。
「文章は粗いし、話のもって行き方も下手。いやなもんですよ。関学ですから、今津線使っていた。広告の仕事しながら、阪神・阪急が優勝したらどんな騒ぎになるか、要するにあほなこと考えるのが好きやった。」

 

 ところで写真の右端の柏木学長の経歴、ホームページで見ると驚きます。
仏文学博士(パリ第VII大学 第III期博士)
1944年8月10日三重県松阪生まれ。
県立松阪工業高校工業化学科を卒業、住友金属工業に入社、中央研究所勤務の後、1965年大阪大学文学部入学、1969年同仏文学専攻卒業。1975年同大学院文学研究科博士課程修了。同年4月神戸女学院大学文学部専任講師、助教授を経て1983年4月大阪大学文学部助教授、1991年4月同教授(仏文学講座)2004年大阪大学大学院研究科長・文学部長、2008年4月大阪大学名誉教授。放送大学大阪学習センター所長就任。日本フランス語フランス文学会会長。2011年大手前大学副学長、2012年4月より現職。専攻:フランス文学、日仏比較文学
 次回は是非とも柏木学長のご講演を聴かせていただきたいものです。



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おはようございます。
もう20年ちかく前、神戸のギャラリーで、成田一徹さん、ウノ・カマキリさん、楢喜八さんの3人展が開催され、おじゃましました。
運良く成田さんと楢さんが在廊されており、成田さんとは面識があったので楢さんを紹介していただきました。
『SFマガジン』の担当編集者から「かんべさんの作品は、よくイラストを依頼していただきました」とおっしゃっていました。

柏木学長のお仕事は、ちくま文庫でバルザックの翻訳を何冊か読ませていただいたのですが、どこに隠れているのか、さっぱり見つかりません。
フランス文学は、ほとんど不案内ですが、あのソフトな語り口で、その魅力をやさしく解説していただけそうですから、わたしも講演会があれば拝聴したいです。

[ 373 ] 2015/03/07 8:53:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

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大手前大学「かんべむさし氏文芸講演会」と幻の夙川パインクレスト物語

 2月28日(土)に恒例の大手前大学交流文化研究所主催文芸講演会が開催されました。


今回は西宮市在住のSF作家かんべむさし氏による「SF・笑い・発想を語る」。
かんべむさし氏の発想の原点となっている、小・中学時代の「プラモデルの世界」、高校時代から始めた「メモノート」、「上方落語の世界」、大学受験で身につけた「記憶術の世界」、広告代理店勤め時代の「広告の世界」、そして「SFの世界」、ラジオ大阪で3年間番組を担当して新たな分野として切り開いた「ラジオの世界」、時間切れで説明を省かれましたが「神の世界」についてのお話です。


それぞれの世界について、いつもの関西弁の明快な落語口調で、途中5分程度のトイレ休憩を挟み、2時間途切れることなくお話いただきました。

 その中で、発想からSFストーリーまでの創作過程を披露された最も面白かったお話を一つ。

 かんべ氏は小松左京マガジン第16巻に『幻夢の邂逅』と題して三島由紀夫と桂米朝が姫路で邂逅するというif物語を書かれているそうですが、同様の夙川を舞台にしたif物語の発想のお話です。

 かんべ氏がかっぱ横丁で入手した昭和16年毎日年鑑別冊日本人名録をめくっていると、大阪帝国大学教授正田建次郎(数学者)の名前に目が止まり、住所が西宮市夙川パインクレストアパート内となっているのを見つけます。

 


正田建次郎氏は大数学者でありますが、弟・英三郎氏の長女が美智子皇后陛下にあたります。

 当時、三島由紀夫の父・平岡梓氏も夙川パインクレストに寄宿していたそうです。(かんべ氏は『幻夢の邂逅』の執筆にあたり、平岡梓氏のことも相当調査されていたのでしょう)
 確かに調べてみると、平岡梓氏は東京帝国大学を卒業後、農商務省に入省、昭和12年農林省営林局大阪営林局長となり、昭和16年に農林省水産局長に就任するまでの約3年間、大阪に単身赴任しており、この間、夙川パインクレストに逗留していたようで、ひょっとして二人は親交があたかもしれないということからのかんべ氏の発想です。
 

昭和23年、平岡梓の息子の三島由紀夫(当時大蔵省大蔵事務官)と正田美智子様との結婚話が持ち上がり、そのお見合いは、東京歌舞伎座で、ひそやかにお互いの家族が顔を合わせるという形で進められます。
 由緒ある両家の東大卒の御曹司と聖心女子大卒の令嬢との結婚話ですから、とんとん拍子に進むのですが、ある時、美智子様の伯父の正田建次郎氏がその話を聞きつけます。
しかし、夙川パインクレスト時代の平岡梓氏は無茶苦茶で相当な遊び人だったそうで、野坂昭如の『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』では
<梓は、定太郎について、“酒よし女よし、一世紀ほど時代のずれた人物”といっているが、梓の女遊びもかなりのもの、十三年から十六年にかけて、大阪営林局長在職中、ダンサーに入れ揚げ、神戸福原遊郭の小店に、馴染みがいた。また宗右衛門町、花隈、先斗町の茶屋にも足を向けて放恣にふるまっている。>とまで書かれている人物です。


そこで平岡梓と夙川パインクレストで親交があった正田建次郎が、彼の息子なら親の性格そのものだろうと大反対したことから、この結婚話はこじれて潰され、美智子様は皇后陛下になられたと、発想がどんどん膨らんでいくというお話でした。
 『幻夢の邂逅』の執筆にあたっては、登場人物となる桂米朝師匠の了解を得られたそうです。しかし夙川パインクレスト物語は皇后陛下に了解をもらいに行くわけにはいかず、宮内庁に話したらすぐ没になるので、今日初めて人前で話したが、作品にはできないであろうというのが結論でした。ああ残念。

 

因みに現在のパインクレスト跡地に行くと石垣のみ昔の面影がありました。



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かんべむさし | コメント( 1 ) | トラックバック( 0)

おはようございます。
早々にレポート、ありがとうございます。
急かしてしまったようで、ごめんなさい。
『幻夢の邂逅』はたしか、徳間文庫のアンソロジーで読ませていただきました。
執筆されなかった、もうひとつの『幻夢の邂逅』については、もうただひたすら、へえ〜っ!です。
SF作家の想像力って、さすが非凡ですねぇ!

[ 373 ] 2015/03/03 8:20:26 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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