阪急沿線文学散歩

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今年も車谷長吉『灘の男』のけんか祭りへ

 姫路出身で 『赤目四十八瀧心中未遂』で木賞を受賞した車谷長吉著『灘の男』は、腕っ節の強い男たちが命をかけて闘う一大行事「灘のけんか祭り」の本拠地にいた二人の伝説の人物の物語。


 塩を牛車で運ぶ仕事から、浜田運送という百台余りのトラックを有する会社を成した「濱長」こと濱田長蔵と、船の錨鎖などの部品を扱う製造会社を興した濱中重太郎。幼き頃は喧嘩相手だった二人は成人後、村の顔役としてお互いを尊敬するようになるという二人の豪快な男の人生が、車谷長吉の丹念な取材により描かれています。

 その主人公濱田長蔵の長男の長伸さんは今も宇佐崎村の総代。縁ある人に、その桟敷席に呼ばれて、15日「灘のけんか祭り」の昼宮にでかけてきました。

写真は昨年のけんか祭りの宵宮で撮った宇佐崎の総代、長伸はん。

『灘の男』ではけんか祭りは次のように紹介されています。
<灘七村には、世に「灘の喧嘩祭り」と呼ばれる祭りがある。毎年十月十四日十五日の吉日。松原八幡宮の秋の例大祭である。十四日が宵宮、十五日が昼宮。七村の各村には、絢爛豪華な屋台があり、宵宮には八幡さんの境内で七台の屋台の練り合わせをする。>
 
昨年は十四日の宵宮を観覧させていただきましたが、今年は十五日の昼宮へ。
<昼宮には毎年、順番に「練り番」というものが決まっており、その練り番の村の者が、三台の神輿の練り合わせをする。練り合わせ、と言うより、大きな神輿のぶつけ合いである。そのぶつけ合いが余りに烈しいので、「灘の喧嘩祭り」などと言われるのである。無論、練り番ではない村の。六台の屋台の練り合わせもする。>
 お昼頃、山陽電鉄の特急で、祭りの日だけ臨時停車する「白浜の宮」駅で下車、練り場の矢倉畑に到着しました。

まだ神輿は到着していませんが、奥に見える山が御旅山で、段々畑には大勢の観客が待っていました。

<妻鹿村と松原村の地境に、御旅山、海山という二つの山が向かい合っており、山は段々畑になっていて、恰も羅馬のコロセウムのような形をしている。段々畑の底は丸い矢倉畑である。>
この地形が一役かって灘祭りを盛大にしたようです。
<灘祭りがなんでかくも盛大になったか、言うたら、御旅山と海山に挟まれて、自然の桟敷が出来とうでしょう。あの桟敷に十五萬人も坐れるわな。あのロケーションのよさが、盛大になった最大の理由ですわ、次に灘には経済力があったこと。>

いよいよ屋台が到着し、練り合わせが始まりました。左側が御旅山、右側が海山です。

<昼宮には八幡さんで練り合わせをしたあと、松原村の露払いのテンテン突きを先頭に、三台の神輿、六台の屋台が、その矢倉畑へ渡御をする。段々畑は桟敷席になっており、約十五萬人の人が見つめる中、そこでも神輿のぶつけ合い、屋台の練り合わせをする。大太鼓を打ち鳴らし、「よいやさァ、よいやさァ」「よいやせェ、よいやせェの掛け声がこだまする。その時、練り子は全員が荒法師である。修羅である。>

よやく宇佐崎の屋台がやってきました。

宇佐崎の桟敷から大きな拍手と声援が上がります。

<灘の男はこの祭りを己の生き甲斐にし、誇りにし、精神の脊髄ともしている。大阪方面へ働きに出ている者でも、祭りの日には、特別休暇を取って帰って来、神輿や屋台の練り合わせをする。神輿のぶつけ合いは壮烈で、神輿が壊れれば壊れるほど、神意に叶うのである。勢い、ぶつけ合いは苛烈になり、毎年、怪我人が出る。時には死者が出る。血が流れる。血を見れば、さらに、人の血は滾る。この祭りの神髄はそこにある。>

帰りに広場に出ると、3台の救急車が待機していました。
そういえば、祭りの途中でも救急車が何台か来ていたようです。

<この祭りが、この土地に独特の精神風土を作っている。粋で、いなせで、権太くれ。>
桟敷席でお酒と祭りのごっつおに舌鼓を打ち、見ているだけで興奮した一日でした。



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「ラストサムライ」「軍師官兵衛」のロケ地にもなった書写山円教寺へ

 遂に3月末で姫路を離れることになり、あわてて書写山円教寺へ。昨年は花見の時期にトライしたのですが、車の大渋滞で断念。書写山は、姫路市の北部にある標高370mの市内で一番高い山で、山上にある円教寺は西国霊場の第27番札所として知られており、1千余年前に性空上人によって開かれた天台宗のお寺。

 樹齢数百年の木々に囲まれた円教寺はハリウッド映画「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でロケ地としても使われており、その景観と建造物を楽しみに書写山に登りました。

 書写山ロープウェイで山上駅まで登りますが、そこから更に1時間程度の散策コースが広がり、自然を堪能できます。


山上駅から、楓などの木が立ち並ぶ参道を歩くと仁王門が見えてきます。

円教寺は966年(平安時代)、性空上人により開かれた天台密教のお寺で、鎌倉時代に様々な伽藍が建てられたそうです。

仁王門を過ぎ、さらに暫く歩くと、巨大な伽藍の摩尼殿に到着します。

性空上人が桜の木に天人が礼拝する姿を見て、生えている桜の木に如意輪観音を刻み、その周囲に柱を建て、屋根を付けたのがこの摩尼殿の始まりとか。

天禄元年(970年)の創建です。

摩尼殿の裏の通路を通って、更に奥へ進みます。

やがて大講堂・食堂・常行堂がコの字型に並ぶ「三之堂(みつのどう)」がある平坦地にでます。
 ラスト・サムライでもこのように登場。
コの字の真中に当たる空間部分は大きな伽藍3つに囲まれ、何か世界が違うような、静寂の場です。

円教寺の本堂にあたる大講堂は、986年(平安時代)の創建で、現在の建物は室町時代の再建されたそうですが、経文の講義を聴いたり、座禅・論議などをした場所で
す。

食堂


食堂は修行僧の寝食に使われた場所と考えられています。


ラスト・サムライでは、この食堂で撮られたシーンが、細かく効果的に映画に組み込まれています。

常行堂

常行堂には大講堂に対した舞台が造られていて、釈迦如来に奉納するための舞や雅楽が行われていたそうです。

ご本尊は阿弥陀如来。

勝元(渡辺謙)が阿弥陀如来の前でお経を唱え、その後勝元とオールグレン(トム・クルーズ)が英語で挨拶を交わすシーンです。

本多家廟屋
大講堂の東南の隅に本多家廟屋があり、土塀で囲まれています。

姫路城主・本多家の墓所であり、五棟の廟屋と本多忠刻らの墓碑が並んでいます


勝元がオールグレンと桜の中、武士道について語るシーンです。

ようやく奥の院までたどり着きました。


開山堂

圓教寺開山の性空上人をまつる堂です。

書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核です。

ちょうど特別公開の時期に訪れることができましたので、国指定重要文化財を真近に見ることができました。

ブロガーにとって嬉しいのは内部の撮影が許可されていること。


現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作で、軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻があり、西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説まであります。

ラスト・サムライでは奥の院は雪景色のシーンで登場します。姫路で実際にこのようなシーンが見れるのは年に一回あるかないかです。CG映像かと思ってしまいました。

 西の比叡山と称されるほどの古刹、名刹でありながら静寂を保った境内、自然も多く残されていて、日本の伝統を感じる素晴らしい場所でした。

エドワード・ズウィック監督が一目ぼれしたというのもよくわかります。



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遠藤新の設計による建物が姫路にもありました

 フランク・ロイド・ライトの愛弟子で、西宮の甲子園ホテルや芦屋の旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)で馴染み深い遠藤新が設計した建造物が姫路にもありました。

 昭和16年、当時の日本製鐵の迎賓館として遠藤新が52歳の時に設計した京見会館、今も70年以上前のままの姿で、はりま勝原駅からゆるやかな坂道を登り切った京見山の麓にあります。


 三度目の訪問なのですが、遠藤新の設計と知り、今回は館内の案内をお頼みしました。


 大型客船のキャビンを模したというリビングルーム、玄関や館内の丸窓など、いたるところに客船をイメージする意匠が見られます。


 リビングルームには平面図、立面図が展示されています。東の端にはダンス場まであり、クリスマスパーティや、生バンドが入ったダンスパーティが開かれたそうです。

 

現在はこのように会議場などに使われているようで、正面には新日鉄住金の社旗が掲げられていました。

 

 現在も迎賓館として使われているようで、春にはグランドピアノの形状をした池のほとりの枝垂桜を愛でる観桜会が開かれるそうです。

 さすが新日鉄住金と驚いたのは、昭和51年に当時の皇太子ご夫妻、現天皇と美智子皇后の広畑製鉄所ご訪問のおり、宿泊にあたり、新館(遠藤新の設計ではありません)が増築され、現在もその部屋が当時のまま保存されていること。

池の向こうの石垣の後ろに見えているのが新館で、本館とは渡り廊下でつながっています。

 

このような和室が二部屋続いています。

 


部屋の備品なども宿泊された当時のままのものが残されているそうで、なつかしいソニーのトリニトロンカラーテレビが置かれていました。

 

この茶碗もその時使われたものだそうです。

 

アルバムには京見会館到着時の、若き日の天皇、皇后両陛下の写真もありました。


 このように当時のまま宿泊された部屋が保存されているのは、さすが新日鉄住金、他の企業ではとても真似ができません。遠藤新設計の本館も安泰でしょう。


見学の後は、スチール缶で乾杯。これもアルミ缶に押され、市中ではなかなか入手できません。

 



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はじめまして
当時 子供のころ 近所に住んでいて 陛下御料が近くを通るので道を掃き掃除させられたの思い出しました
製鉄所勤務の父にも「鉄屋なんだからアルミ缶のジュース飲むな」と 怒られてました 笑

[ 京見っ子 ] 2016/07/15 4:21:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

京見っ子さん はじめまして。コメントありがとうございます。今年の3月まで姫路に単身赴任していましたが、4月に西宮に戻ってまいりました。京見会館の見学は大変いい思い出になりました。私も製鉄所勤務が長かったのですが、スチール缶の徹底はさすが新日鉄と昔から感じていました。それが現在も受け継がれており再び感心させられました。

[ seitaro ] 2016/07/15 21:22:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

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車谷長吉『灘の男』から「灘の喧嘩祭り」

 お旅山で催された10月15日の「灘のけんかまつり」本宮の様子はNHKニュースでも流れていましたが、車谷長吉の『灘の男』では祭りの由来なども詳しく述べられています。


<灘七村には、世に「灘の喧嘩祭り」と呼ばれる祭りがある。毎年十月十四日十五日の吉日。松原八幡宮の秋の例大祭である。十四日が宵宮、十五日が昼宮。七村の各村には、絢爛豪華な屋台(やったい)があり、宵宮には八幡さんの境内で七台の屋台の練り合わせをする。昼宮には毎年、順番に「練り番」というものが決まっており、その練り番の村の者が、三台の神輿の練り合わせをする。練り合わせというより、大きな神輿のぶつけ合いである。そのぶつけ合いが余りに烈しいので、「灘の喧嘩祭り」などと言われるのである。無論、練り番ではない村の、六台の屋台の練り合わせもする。>

 

14日宵宮での松原八幡での屋台の練り合わせの様子です。

 

掛け声とともに、二つの屋台を合わせて競う姿も迫力がありました。

 

翌日の本宮でぶつけ合わされる三台の神輿が神殿に鎮座していました。


<この神輿のぶつけ合いは、神功皇后の三韓征伐の祈り、この地で船に付いた牡蠣を掻き落とした故事にちなみ、ぶつけ合いによって、神輿が壊れれば壊れるほど神意に叶うと言われている。>

<昔は、神輿は宇佐崎村の大庄屋が寄進するのがならわしだった。それで宇佐崎村が練り番の時に、法被の背中に蟹の印が入る。神輿を新調したら漆を塗るが、蟹は漆に負けない生物で、練り子も漆に負けないように蟹の印しを入れるのだった。神輿を新調しない年でも、宇佐崎村が練り番になると、法被に蟹の印しを入れる。>

 

今年は宇佐崎村が練り番で、小説で紹介されている通りの法被に蟹の印が見れました。
10月14日15日の祭りの日は、毎年平日でも灘地区の各小学校、灘中学校は休校となります。

 またこの日は締め込み姿の男性は山陽電車にタダで乗れるとか。
<各村の総代とは、この祭り遂行の総責任者である。松原八幡神社総代会といのがある。区長とは村の行政の長である。総代と区長は同一人物が務めるのである。
 従って灘祭りは男中心の祭りである。この二日間には、灘からよそへ出ている親戚衆の人たちが大勢見えるので、女達は松茸や蟹など山海の珍味を盛ったごっつぉ(ご馳走)を用意する。だいたい灘七村ではどこの家でも、かつては一年間の稼ぎをこの二日間の祭りに費やした。それが誇りであり、重荷でもある。だから日々の歩みは、祭りを中心に一年が回転している。>


私どもも「松茸や蟹など山海の珍味を盛ったごっつぉ」のご相伴にあずかりました。


大変なごっつぉでしたので、この後は少なくとも一週間はダイエットを続けないと。



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最近姫路に行くことが多いのですが、車のマナーの悪さはスゴイです。大阪も決して褒められませんが、姫路はあまりにも…。信号を信じてはいけないとつくづく思っています。あれなんとかならんでしょうかねえ。姫路の人の気質でしょうか?

[ akaru ] 2015/10/20 8:16:29 [ 削除 ] [ 通報 ]

その通りで、タクシーの運転手さんさえそのように話しています。一言で言うとガラが悪いと言われるのですが、私自身は結構馴染んでおり、播州弁も違和感無くなりました。

[ seitaro ] 2015/10/20 9:42:56 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「灘のけんかまつり」宵宮へ行ってまいりました

『死ぬまでに、一度は見ておけ、灘祭り』と言われる日本三大荒神輿のひとつ、兵庫県の重要無形民族文化財にも指定されている通称『灘のけんか祭り』(正式名称『松原八幡宮秋季例大祭』) の宵宮に行ってまいりました。

 姫路城から南南東へ約5q、灘地区と呼ばれる、旧七ヶ村の絢爛豪華な屋台が激しく練り競います。
 灘のけんかまつりについて、詳しく触れられているのが、『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞した車谷長吉の『灘の男』。


「灘のけんか祭り」の本拠地にいた伝説の二人、塩を牛車で運ぶ仕事から浜田運送という会社を成した「濱長」こと濱田長蔵と、船の錨鎖などの部品を扱う製造会社を興した濱中重太郎の物語です。『灘の男』は次のように濱田長蔵はんの話から始まります。
<「はあ、わしが濱長や。灘の濱田長蔵や。わしはもう何(なん)もいらん。」播州平野の真ん中に位置するのが姫路城である。姫路城から南一帯を「ひろまえ」、北は「おく」という。城から東南の、播州灘に面した地域を「灘」という。>
ここで灘とは神戸市灘区のことではありません。

 

警備指揮所の台の上から、祭りの進行アナウンスをするのは名門灘中(姫路市立)の女生徒です。


<「おく」から播磨灘へ流れて来る市川の、河口の村を妻鹿村と言い、その妻鹿村か東へ松原村、中村、宇佐崎村、八家村、木場港、東山村が並んでいる。これを灘七村という。播州の中でも、灘はある独特の気風が渦まいている土地である。

長蔵はんはかつては、宇佐崎村の総代(区長)を務めたほどの人である。いまは長男の長伸はんが総代を務めている。>


 宵宮が執り行われる松原八幡神社前の桟敷席を利用できる人は、地元の人のみで、抽選になっているのですが、ラッキーなことに小説に登場する伝説の人物濱田長蔵はんの長男の長伸はんにつてがあり、桟敷席に座ることができました。

 

現在の宇佐崎村の総代を務める長伸はんが回ってこられました。


<濱田の親父はええ恰好するのが嫌いなんや。人の前で挨拶するんが苦手なんや、そやから総代になるの嫌がったんや。けど、この土地に生まれて育ったら、せなしゃあない。なんぼ厭や思とっても、総代に選ばれたら、金もようけいるわいな。それだけの器量があるということや。祭りの日には、お宮の前や矢倉畑で屋台(やったい)練る時、総代は屋台の上へ上がって、ステッキ振るやろ、あれ男の誉れやが。>


御歳七十歳とのことですが、練り上げる屋台(やったい)の上でステッキを元気に振っておられました。

『灘の男』から灘のけんかまつりの紹介を続けます。



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車谷長吉氏は、私の小、中、高校時代の級友です。子供の頃は互いの家を行き来したりしました。高校卒業後は音信不通になりましたが・・・。彼との晩年の関わりを以下のHPで綴りました。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/kurumatani.htm

[ 明日香 亮 ] 2015/10/16 5:52:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

明日香さんも飾磨出身でしたか。車谷長吉『灘の男』の生粋播州弁を面白く読んでおりました。ブログ1部2部全て読ませていただきました。氏の紆余曲折の人生の一端を垣間見るような思いでした。

[ seitaro ] 2015/10/16 7:03:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

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坊っちゃんのうらなり先生も見た大正時代に始まった姫路城の電飾

 マドンナとは縁がなかったうらなり先生ですが、小林信彦『うらなり』では姫路に移って、校長の勧める見合い話から美人の女性と大正元年に結婚します。

 うらなりの母と妻の間はかならずしもうまく行かなかったようですが、人生の区切りとしてその頃の姫路城の様子が描かれています。
<大正天皇が即位の儀式を挙げられたのは大正四年十一月十日で、街は慶祝一色に染めらた。姫路城の天守閣には電飾が点され、夜空に浮かび上がった。官民合同の奉祝会がおこなわれ、仮装行列や提灯行列がつづいた。母が急性心筋梗塞で逝ったのはその年の暮れである。>

  市制百周年記念誌「姫路百年」には、大正天皇の即位の礼が行われた大正4年11月10日を中心に姫路城の大天守に電飾が施されたと記され、写真も掲載されていました。


『うらなり』からです。
<妻は二人の子供を産んだ。女一人と男一人で、一人目は大正二年の生まれである。天守閣の電飾を見に行った時、妻は赤ん坊を連れていたことになる。電飾が点ったのはもう一度、市制施行三十年記念の大正七年だった。この辺りはまだ記憶に残っている。>
 特別な大行事に合わせて天守閣の電飾がなされたようです。
インターネットで調べていると、「大正天皇御大典記念のイルミネーション」と題した気になる記事がありました。
 2011年11月16日の神戸新聞からです。

<「天下の白鷺城を永久の不夜城に」‐。姫路城を終夜イルミネーションで飾る計画について報じた1920(大正9)年1月13日の神戸新聞が、上郡町の民家から見つかった。大正天皇の即位を記念して電飾を施した姫路城の写真は姫路市史などに掲載されているが、時期は1915(同4)年と異なる。姫路城のイルミネーションは、大正期から度々実施されてきたようだ。>


 果たして大正天皇の即位の礼が行われた大正4年に電飾はなされていたのでしょうか。
 新聞記事には「5層の天守閣に常夜的イルミネーションを点ずべく計画し、目下姫路水力電気会社で設計中」「天守閣の輪郭一円に、経費約2千円の予定で灯数50個ないし100個」と紹介されています。

先日の夜桜見物で見た姫路城のライトアップです。大正時代とはライトアップの方法はかなり変わりました。



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うらなり先生の姫路デートスポット

『坊っちゃん』を題材にした小林信彦著『うらなり』からです。

 うらなりは姫路に来て、しばらくして居酒屋の娘と懇意になります。明治30年代のお話です。
<お勘定の時に愛想笑いを返していたが、そのうち、あながち義理の笑いでないような気がしてきた。私は三十過ぎたばかりで、おそらくは淋しそうに見えたのだろう。私のことだから、充分に警戒した上で、書写山圓教寺を案内してもらえないか、と声をかけた。娘は足を指さして、こんな具合だから、石段を登るのはきつい、と言い、他の寺に案内すると答えた。>
 書写山圓教寺は「西の比叡山」とも称され、西国三十三霊場の二十七番札所。

ラストサムライのロケにも使われたお寺です。

 


 圓教寺の階段は足が不自由な人にはつらいでしょうが、ロープウエイのなかった時代にうらなりは女性を誘ってどのようにして圓教寺に登るつもりだったのでしょう。


<私たちは他の寺に行った。お夏清十郎の比翼塚があったような気がするが、この記憶はあてにならない。>


 井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで有名な『お夏清十郎』は播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした作品です。
 二人の霊を慰める比翼塚が、姫路城の北東にある慶雲寺にあります。うらなりの記憶はきっとこのお寺でしょう。

 


毎年8月9日、10日に、昭和の時代にはじまったお夏・清十郎まつりが開催されており、今年は67回目になります。

 

うらなりは次の週も女性を誘って別の寺に行きます。
<次の週、また別の寺に行った。遊園地は混んでいるし、浜には集団水練の中学生がいるしで、男女がさんぽできる場所はそうはない。>


お寺や神社は明治時代のうらなり先生にとっては絶好のデートスポットだったようです。


<姫路城の修理がもうすぐ完成するとか、十二所神社の藤棚は季節には見事だ、といった他愛ない話ばかりだった。私は幸せだったが、彼女がどう感じていたかはわからない。>
 十二所神社は、姫路城の近くにある神社で医薬の神様。

 

 その境内に播州皿屋敷の主人公お菊を祀ったお菊神社があります。

お菊が十二所神社に参詣していたという伝承から祀られたそうですが、十二所神社から藤棚を歩くとお菊神社となります。

 


五月になれば見事な藤の棚になります。



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『坊っちゃん』の「うらなり」先生は姫路に移り住んでいた

 夏目漱石の『坊っちゃん』が発表されたのは明治39年。

 マドンナと縁談のあった英語教師うらなりは、教頭の赤シャツにマドンナを奪われたうえ、延岡に左遷されてしまいます。

 

『坊っちゃん』を読んだ小林信彦は、

<ぼくの考えでは、坊っちゃんの行動は、うらなりから見たら、まるで理解できないのじゃないかと思うのですよ。不条理劇みたいでね。その、うらなりの視点から見た「坊っちゃん」を書いてみたいのですよ>と語り、『うらなり』という作品を2006年に発表しています。


『うらなり』からです。
<二年後、仲介する人があって、姫路市の商業学校の教師になった。すぐに役立つ商業人の養成をめざす学校で、算術、簿記とならんで英語も重点的な科目だった。
 都会に憧れているくせに、大阪はあまりにも刺激的でこわく、バタ臭い神戸も眩しい気がした。姫路城は修理中であったが、市は交通の要衝でもあり、軍都でもあった。>

 現在の姫路城は平成の大修理がようやく終わり、3月末から天守閣にも登れるようになりました。明治時代は陸軍の駐屯地となり荒れ果てて無残な姿をさらしていたそうで、明治43年から44年まで明治の大修理が行われました。したがって小林信彦が描いたうらなりは明治41年に延岡に左遷され、明治43年ごろ姫路に移り住んだことになります。

 

 明治43年から行われた明治の大修理では大天守の東側から全長150メートルの桟橋を掛け、トロッコで木材を運び入れたそうです。

<初めは移転に反対していた母も、やがて家屋敷を人に貸して、姫路にきた。あの校長や教頭が支配する中学に私が戻れないし、戻る気もないことがようやくわかったのだろう。
 広峯神社をはじめ神社仏閣が多いのが、母を和ませた。しばらくしてから母は、遠山の娘が大阪の富豪に嫁いでいると、私に告げた。あの母親の知恵だろうと私はぼんやり考えた。>
(遠山の娘がマドンナです)

 ここで登場する広峯神社は、姫路駅から北に7kmほどのところにある広峰山にあり、黒田官兵衛の祖父が仕官先を探しながら社家たちと交わり、黒田家秘伝の目薬を神社のお札と一緒に売ってもらい財をなし、黒田家発展の基礎を築いたという縁のお寺です。

 

しばらく『うらなり』から明治時代の姫路の風景を追ってみます。

 



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姫路城夜桜会と円地文子『千姫春秋記』

 姫路城の5年間にわたる平成の大修理がようやく終わり、先月末グランドーオープン。先日、二の丸まで無料開放されている夜桜見物に行ってまいりました。


 昭和時代には何度も修理が繰り返されており、一般に昭和の大修理とは昭和31年から8年間にわたる第二次修理のことだそうです。
 その昭和の大修理が完成に近づいている昭和38年4月9日に「婦人公論」の講演会のため姫路城を訪れた円地文子は、姫路城を初めて見たときの感激を文学に託した作品が『千姫春秋記』です。


「桜のシーンから始めよう」 −円地文子は大手門をくぐった瞬間、そう思ったそうです。『千姫春秋記』は次のように始まります。


<元和四年の春三月中旬のある朝、播州姫路城の前に立っている二人の女があった。女といっても一人は頭を鼠色の頭巾に包んだ中年の尼僧で、今一人は十五、六歳かと思われる垂れ下げ髪の少女である。>

夜桜会では千姫も迎えてくれました。(人形ではありません)


<尼はつつしんだ風に、眼を伏せていたが、娘の方は折から爛漫と咲きほこる桜の花の雲に彩られた曲輪曲輪の白壁の塀や櫓のおびただしい瓦の層の上に更に青空に高く聳え立っている天守閣の優美な威容に自然に目が向いて行くらしく、幾度もその方をふり仰いでいた。>


昭和38年の春、円地文子さんには夜桜も見ていただけたでしょうか。


さすがにプロの美しいライトアップで、昼間の桜とは趣を異にします。

 

 

 

 

夜桜会は14日までです。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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