阪急沿線文学散歩

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田中康夫「その昔の出来事」(Hanako)に登場するバロンの館のような女子大

 よくこれだけご存知だと感心するくらい、田中康夫氏は阪神間の女子大に詳しく、しばしば小説に登場させています。
雑誌Hanakoの連載に、「その昔の出来事」と題した短編に登場する主人公かをりの通っていた大学は、神戸松蔭女子学院大学のようです。


 卒業後も神戸に残って、家事手伝いとなった友人素世子から結婚式の招待状を受け取り、電話がかかって来ます。

<久し振りね、かをり。元気で仕事、頑張っている?大学が一緒だった。阪急六甲駅からバスで山の方へと上がったところにキャンパスのある女子大。建物が立派だった。数々の建築の賞を受賞している。レンガ造りの校舎が傾斜地に点在している。駅の方から眺めると、それは北イタリアの丘陵地帯にある貴族(バロン)の館のようだった。比較的綺麗な子たちが揃っていると評判だった。>

 松蔭女学校が神戸の山本通りに設立されたのは、1892年のこと。
現在の松蔭女子中・高等学校は阪急王子公園駅の北側の灘区青谷にあり、小磯良平の斉唱でも有名です。


 調べると大学が垂水区に設置されたのは1966年で、現在の場所に移転したのは1980年でした。

 西宮市の安井小学校に通われ、アン清村とのペアでウィンブルドン女子ダブルスに優勝した沢松和子さんもこの大学の卒業生でした。


 灘区に移転したキャンパスは、小説に書かれているレンガ造りではありませんが、レンガ風のタイルが使われており、BCS賞、BELCA賞、第4回神戸市建築文化賞などの建築賞を受賞しています。


BELCA賞受賞の説明には、<中世のヨーロッパの丘に建つ街のイメージを結実させ、建物の外装においても銅版葺き切妻屋根とレンガ色のタイルで統一され、地域の景観をリードする存在となっている。>と説明されていました。


 今の時期、各大学のオープンキャンパスが盛んです。

少子化で大学の経営も大変だと思いますが、伝統ある阪神間の女子校は恵まれているのかもしれません。




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私は、時々国鉄西宮から垂水まで沢松和子と同じ電車で通っていました。

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2015/07/26 18:18:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

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田中康夫『トープ色した兎』(Hanako)主人公は苦楽園に住んでいた女性

 表題の小説は雑誌Hanakoが創刊された1988年から1年間連載され超短編の中の一作です。

 Hanako創刊号の表紙はオーストラリアのアーティスト、ケン・ドーンのイラストでタイトルロゴも彼によるもの。あの頃の雑誌は250円でした。

 

Hanako族という言葉まであったようです。

Wikipediaで調べると、
<対象とする読者像は当時の首都圏の結婚平均年齢の27歳女性。年2回は海外旅行へ行き、ブランド物を思い切って買うけれども、お得情報にも敏感で貯蓄もする。女性誌では珍しい金融関係の広告がある。東京近郊の大学を出て、一流会社に勤めて3〜5年以上、今すぐ会社を辞めても、海外で3カ月は暮らせる資金があり。キャリアと結婚だけではイヤ、というものであった。>
 まさに読者像は『なんとなくクリスタル』の世界に住む女性であり、田中康夫に創刊号から1年間ショートショートの連載を依頼したのも頷けます。

東京生まれで東京育ちの田中康夫が、首都圏の情報だけを集めた雑誌Hanakoの連載に『トープ色した兎』と題して登場させたのが、西宮の苦楽園に住んでいた女性。


『神戸震災日記』でも<八分の一イタリアン・ブラッドの僕の体躯には、関西ブラッドも四分の一流れている。のみならず、京都・大阪・神戸に代表される各都市の風土が其れ其れに好きなのだった。取り分け、西宮の夙川から神戸の御影にかけては、実際にそこで暮らすことを一時期真剣に考えたこともある地域だ。>
と述べているように阪神間への愛着から登場させたのかもしれません。

 

『トープ色した兎』からです。主人公は関西の大学を出て、東京で一人暮らしをして五年目のシステム・エンジニア。大学時代から同級生だった彼について語ります。
<二人とも、自宅が近かった。西宮の苦楽園に住んでいた。付き合いだしたのは大学三年生の春。けれども東京と違って、関西はとてもせまい社会だ。お互い、別々の高校へ通っていた頃から既に顔見知りではあった。
 週二回宝塚で家庭教師をしていた。中学生の女の子。母親の知り合いのお嬢さんだった。電車だと五、六十分近くかかってしまう。もちろん、東京でならば、たいしたこともない時間だろう。でも、関西の感覚では、遠い。そうなってしまうのだ。
 夙川と西宮北口で乗り換えをして、苦楽園口から宝塚の逆瀬川迄、ちょうど、鉤の手のように阪急電車に乗るルート。が、直線で結べば、案外、近い距離でしかなかった。あなたが車で送り迎えをしてくれれば、片道十五分もかからないわ。嫌な顔もせずに週二回、必ず送り迎えをしてくれた。>

甲陽線で苦楽園口から夙川まで、神戸線で夙川から西宮北口へ、今津線に乗り換えて逆瀬川まで。車なら十五分もかからないというのは、田中康夫が実際にこのルートを走ったことがあるから書けたのでしょう。

 小説の最後は、この学生時代はアッシー君を務めてくれた彼について、「特に嫌いになってしまった訳でもないの彼との間に終止符を打つべきなのだろう」と不安な言葉で結んでいます。

 

 

付録

 

ツイッターで田中康夫氏のお気に入りに追加されました。

ご本人か、事務所の方だと思いますが、ありがとうございます。

田中康夫

 



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盤滝トンネル開通前は道がすいてましたが、最近は日によってはものすごく時間がかかるようになりましたね。

[ ふく ] 2015/07/22 20:41:52 [ 削除 ] [ 通報 ]

seitaroさん、こんばんは。
Hanako創刊号手元にありました。
めくってみると、文字の密度がかなり濃いです。最近の雑誌より。

[ もしもし ] 2015/07/22 21:12:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

宝塚まで車で行く機会は少ないのですが、県道82号から抜ける道は、宮本輝『にぎやかな天地』などを思い出しながら走ります。

[ seitaro ] 2015/07/22 21:19:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさん どなたが買われたのでしょう。それにしても今まで大切に保管されていたとは、さすがです。

[ seitaro ] 2015/07/22 21:24:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

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田中康夫の短編『神戸 花隈町』謎解きの旅

 田中康夫『昔みたい』に、私には余り馴染みのない「神戸 花隈町」と題した短編が収められています。


 料亭で開かれた四人の同窓生の女子会の話題で、小説は次のように始まります。
<「伸子がいけなかったんやわ」香織が言った。花隈町にある料亭青葉でだ。地下が駐車場になっている花隈公園のある花隈通りよりも一本、国鉄神戸線寄りの通り。なだらかな坂道になっている。静かな一角。>


 どこかモデルになった料亭があるのではと、花隈公園より一本西よりの料亭を探してみると、位置的に合致するのは料理旅館豊福でした。

 


しかし、こんな描写も出てきます。
<「よろしいですねえ、学生時代にご一緒だった皆さんが、こうやって、お揃いになられて」吉兆とは親戚関係にあるという青葉の女将さんが、ご挨拶に来た。商社に勤める私の父親が、接待で利用しているらしい。丁寧なご挨拶をして下さる。>
 インターネットで調べると、阪急花隈駅とJR元町駅の間に、なんと料亭吉兆の創業者の親族が始めた青葉というお店がありました。しかしこのお店は創業70年の老舗鰻店。


小説の料亭とは少し雰囲気が異なります。
 元町から花隈にかけての料亭がモデルだと思うのですが、きっとそれぞれの店の 話題を繋いで舞台にしたのでしょう。田中康夫は花隈に何か思い入れがあったのかも知れません。


 そして登場する四人が通った女子高、どこかと思ってじっくり読んでみました。
<話題に上がっていたのは、高校時代のことだった。芦屋市との境界近くにあった女子高に、私たちは通っていた。小学校から大学まで、ずうっと一貫教育。>
 どうもこれだけではよく分かりません。小学校は共学で、中学校から男女別学になるそうです。
<中学からは、男女別学となった。男の子たちは、阪急芦屋川の駅から山の方へと、ずうっと上がったところに校舎があった。女子校の方も坂の上にあったけれど、でも、彼らに比べれば、まだ、通学は楽チン。そうして大学は、共学と女子大、それに短大の三つに分かれていた。>
ここまで読んでようやくわかりました。
佐藤愛子さんが通った甲南高等女学校の流れを汲む女子校でした。


神戸市と芦屋市の境界に位置します。

 

追伸

この記事UP後、Twitterの田中康夫 @ loveyassy のサイトのお気に入りに登録いただきました。ご本人のサイトであれば、私の推測もある程度認めていただけたのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 



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田中康夫『昔みたい』から「芦屋市平田町」

1987年に発刊された田中康夫の短編集『昔みたい』の最初の作品が「芦屋市平田町」。


 その主人公は『オン・ハッピネス』と同じ、宝塚市にあるミッション系の女子高を卒業し、同じ修道会が設立した東京の女子大へ進学した長浜さゆりです。
 東京では、最初同高校の出身者ばかり住んでいた駒場の寮に入り、馴染めなくて一年の秋に一人で住むようになったという設定も『オン・ハッピネス』と同じですが、実家は夙川ではなく、芦屋川河口、芦屋公園の対岸にある平田町です。

 

「松に注意」という看板まで掲げられている、平田町の街並みです。

 大学を卒業して実家で暮すさゆりは、平田町について次のように語ります。
<私の住んでいる平田町は、たとえば、代々続く造り酒屋の経営者や、あるいは、大阪の船場でずっと昔から商売をやっているような家が多かった。私の家も、元はと言えば、ドイツから染料を輸入していた船場の商家だった。

 手入れの行き届いた広い庭のある家が続いている。由緒あるお屋敷町だった。こう言ったら何だけれど、東京でもその名が知られている六麓荘町は、元々は、急勾配の土地を電鉄会社かそこかが分譲した新興住宅地だったのだ。>

 

 平田町は、南北は国道43号線と芦屋川右岸河口までの芦屋川西岸の細長いエリアです。


 小説にも書かれているように、大正時代からお屋敷街として大阪・船場の商家がこぞって邸宅を構え、やがて平田町を基点に、浜手から山手に向かって開け、芦屋の邸宅文化を育みました。

 大正12年に建てられ、平田町のシンボルだった旧田中岩吉邸と鵺塚橋。

 この邸宅の主も次々と変遷します。最初の主、田中岩吉氏は台湾鉄工所、東京精糖、田中機械製作所などを経営した実業家。その後、この洋館を受け継いだのは、当時紡績業界に君臨していた近江商家、阿部一族の実業家、阿部彦太郎氏で大阪府多額納税者リストの「常連」としても知られていたそうです。

 戦後はタツタ電線の社長、辰巳卯三郎氏の邸となり、優雅な暮らしが営まれてたようですが、残念ながら最近更地となりマンションに建て替えられています。

 

 現在も残る芦屋市平田町の洋館は、「ひょうごの近代住宅100選」にも選ばれた稲畑邸です。

2015年1月号のKOBBECCOでも「芦屋と平田町 そのあゆみと価値」という特集が組まれ、その中で小学生時代から20歳まで旧田中岩吉邸で過ごされた辰巳一郎氏は平田町について、次のように語っています。
<あの場所は、古き佳き本来の芦屋としてはまたとない場所です。平田町のあの雰囲気は、世界中のどこにもありません。ビバリーヒルズと同じような雰囲気がありますね。ビバリーヒルズも派手そうなイメージですけれど、見た目は地味なんです。お城のような家があっても緑で包まれて見えないんですよ。良いものがあっても見せびらかさないんです。平田町も同じで凛と言うより、慎とした風情があるんです。自分が住んでいたからではないですが、プランナーの目で見ても、日本中探してもあんなに良い場所はありません。>


これから平田町はどのように変わっていくのでしょう。



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夙川フリーク必読の書、田中康夫『オン・ハッピネス』

最終章では夙川の大井手橋、こおろぎ橋が登場します。

 

橋の配置はgriさんの絵地図を拝借。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061426/p10738869c.html


 伊丹空港からタクシーで実家に向かう由美子が大井手橋を渡るシーンです。

<東京から帰って来て大井手橋と呼ばれる夙川にかかる小さな橋を渡る度、橋田由美子はホッと一息吐く。それまでの忙しなさから解放されて、心安まっていくように思えるのだ。祖父の亡骸と対面するために戻ってきた、どんよりした空模様の今日とて、それは変わらない。>

 

ここの風景を見ると心安まっていくというのは、よく分かります。


<由美子は左手の窓の外を眺めた。祖父が毎朝、使っていた電車の駅が見える。川を跨ぐ形でホームは設けられているのだ。その間に一本、歩行者専用の古い橋もある。>
大井手橋から南側を見た風景です。


 かろうじて、こおろぎ橋は見えますが、阪急夙川駅のホームまでは見えないようです。

 昔は夙川駅のホームは川の上までは、なかったような気がします。


<蟋蟀橋と呼ばれるその橋を、幼い頃に祖父母や両親が妹と一緒に幾度となく渡ったことを思い出した。土筆や秋桜を始めとして、四季折々の草花を家まで持ち帰ったことも思い出す。ほんの少し感傷的になったしまい、二、三度瞬きをした。>

 こおろぎ橋は今も趣のある姿で架かっています。

<タクシーは、土手を下り始める。永遠の眠りに就いた祖父が由美子の帰りを待つ住み慣れた家まで後、僅かだ。深く座席に沈めていた体を起こすと彼女は両掌で、額から頬に掛けて落ちてきた髪の毛をそっと掻き上げた。>
という文章で『オン・ハッピネス』は終わります。


 読み終えて、田中康夫氏が本当に夙川の風景に愛着を持っていたことがわかりました。


震災前の風景ですが、夙川を描いた最も近年の作品といっていいでしょう。夙川フリークには必読の書です。



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最終章は夙川の橋からの風景(田中康夫『オン・ハッピネス』)

 田中康夫『オン・ハッピネス』では震災前の夙川の風景がしばしば登場し、著者自信が愛着を感じていたことがよくわかります。それを象徴するかのように大団円を迎える最終章では夙川の大井手橋からの情景が描かれています。


 由美子は大阪の文具・事務機器メーカーの会長であった祖父の仮通夜に参列するため、東京から夙川の実家に戻ります。
<午前九時五十分着の飛行機で伊丹の空港に到着すると、今にも雲が泣き出しそうだった。兵庫県のタクシーが並んでいる乗り場へと、由美子は足早に進む。夙川の実家へ向かうのだ。明け方、母親から電話が掛かってきて、祖父が息を引き取ったと告げられた。>


由美子は生前の祖父の姿を思い浮かべます。
<生前の祖父が毎朝、焦げ茶色した電車を使って大阪の本社まで出掛けていたことを想い出す。渋滞に巻き込まれて無駄な時間を費やすなんて阿呆らしい、と在阪の商工会議所の要職に就いてからもその姿勢を守り通した。>

 焦げ茶色した電車とは阪急電車のことでしょう。当時はまだ夙川に特急は停車しなかったはずです。

 

<猪名川、武庫川と二つの大きな川を渡って西宮市の行政区分へと入った。程なく、鉤の手に左へと曲がる箇所に差し掛かる。越水と呼ばれるその交差点からやや右手にのびる一方通行路を進む。そこまで行けば、由美子が生まれ育った夙川の街並みまで後、ほんの少しだ。>

 伊丹空港から国道171号を通って、大井手橋の方向に向かいます。越水交差点から旧西国街道に入ったようですが、交差点より東側は一方通行ですが、西側は小説で述べられている一方通行にはなっていません。


<タクシーは、夙川の土手へと通じる坂道を上り始める。緑深き六甲山系に源を発して閑静な屋敷町の脇を流れる、こぢんまりとしたこの川の土手には桜の木が植えられていて、開花期には淡くて儚い情景を楽しむことができる。>


この夙川の土手に通じる道から実際に、大井手橋へ向かおうとすると右折せねばなりません。
更に続きます。



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宮本輝と田中康夫の小説の舞台として登場する香雪記念病院

 山崎豊子さんがここにこもって『白い巨塔』を執筆したという香雪記念病院(現;西宮協立リハビリテーション病院)については、既に西宮芦屋研究所員さんが詳しく紹介されています。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061422/p10764048c.html


 建築主は朝日ホスピテル株式会社で、1969年には「BCS賞(建築業協会賞)」を受賞した建物、高級ホテルのようなイメージの病院だったそうです。


 写真は現在の姿ですが、リハビリテーション病院としての再生設計にあたっては、外観のできるかぎりの保存を計りながら、新しい空間づくりを考えられたそうですから、外観はほとんど変わっていません。
http://tsukad.exblog.jp/7515039/

 

 この病院が小説の舞台として登場するのは、まず宮本輝『花の降る午後』。


 北野坂のフランス料理店アヴィニョンの左隣に毛皮の輸入販売を営むブラウン商会が並んでいます。その店主リード・ブラウンは持病の肺気腫を悪化させ、神戸市内の救急病院にいったん収容されたあと、西宮の甲陽園からさらに六甲山を上ったところにある静かな病院に移ります。その病院は香雪記念病院に違いありません。
 主人公典子がブラウンのお見舞いに訪れます。
<「いいお部屋ね。一年前に一度だけ、この病院に来たことがあるの。店のお客さんが入院して、そのお見舞いに来たのよ。その時、夜になると、窓から神戸の海や大阪湾どころか、和歌山あたりの港の灯も見えるって言うてはったけど、本当?」リードは縁なし眼鏡を外し、笑顔で頷いた。「ほんとに遠くまで見える。看護婦が、和歌山の海ですよって教えてくれたけど、私は神戸の夜の海ばかり見てるよ」>

  きっと最上階からの夜景は素晴らしいことでしょう。

 

 写真は病院から少し北にあり、宮本輝『にぎやかな天地』にも登場する甲陽園からさらに六甲山を上ったところにあるカフェ・ザ・テラスからの夜景です。

 

 次に田中康夫『オン・ハッピネス』では、この物語の秘密の鍵を握る由美子の祖父が入院した病院として登場します。由美子が父親から祖父の秘密を打ち明けられる場面です。
<「実は、お祖父ちゃんのことなんやけど」苦楽園と呼ばれる傾斜地の住宅街を更に上がった場所にある病院に、由美子の祖父は半年程前から入院していた。肝機能に障害を起こしているのだった。「えっ、具合が悪化しているの?」由美子は、上擦った声を出してしまう。父親の顔を覗き込んだ。と、予期もしていなかったことを呟かれてしまったのだ。>
 しかし、その祖父も半年程の闘病生活のあと、突然容態が悪化し、亡くなります。東京の大学のゼミナールで発表する順番にあたっていた由美子は、病院へ行けませんでした。

<皆に迷惑を掛ける訳にはいかないわ、と判断したのだった。それに、命自体には今しばらく別状あるまい、と主治医が父親に話してくれたこともあって、発表を済ませてから香雪記念病院へ足を運ぼうと由美子は考えていた。>

「香雪記念病院」という固有名詞がはっきりでるのはこの小説だけかもしれません。

 


現在は「西宮協立リハビリテーション病院」となり、経営者も変わりましたが、昔と変わらぬ姿で夫婦池の畔に静かに佇んでいます。



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東京と阪神間・夙川の風景の違い(田中康夫『オン・ハッピネス』)

 主人公由美子が東京の女子大に入って間もない頃、同じ宝塚の女子校出身の千晶に誘われて、他大学の男子が企画しているパーティに出席します。
 二人で会場の近くまで歩いてきて、千晶は「なんか、ユミの夙川の家の辺りみたいやん。」と声をかけます。
<敷地の広い邸宅が並んでいる。マンションになっている場所もポツンポツンとはあるけれど、押し並べて低層階建てだった。緑が多い。時折、犬の散歩をしている人に出会うくらいで、人通りも少ない。>

 

 いったい東京のどのあたりなんでしょう。白金、田園調布、松濤あたりでしょうか。

<言われてみれば確かに、と由美子は頷きながら、でも、水が無いもの、この辺りには、と心の中で呟いた。六甲山系から流れ出ている夙川だけでなく、もう一本、老松川と呼ばれる小振りな川も、彼女の家の近くにはあるのだった。>

 夙川の支流に老松川はありません。中新田川か、久出川ですが、由美子の実家は大井手橋の西側のようなので、久出川のことでしょう。

<また、少し離れた満池谷町と呼ばれる場所には、ニテコ池という奇妙な名前の大きな池があって、春になると桜の花が咲きこぼれるのだ。>


 奇妙な名前のニテコ池は、『ゴードン・スミスの日本仰天日記』では、原文でNetetotekoi Ikeと著されています。昔は桜の名所でしたが、震災でかなり少なくなったようです。


<川でも池でも海でも、傍に水が無いと人間は落ち着かないものなのよ。そう信じている由美子は、どんなにか立派なたたずまいの地域であろうと、ただ、それだけでは好きになれない。>


 東京にない阪神間の風景としては、六甲山と大阪湾、その間を流れる川、緑に恵まれた風景だと思うのですが、近年の開発でその風景も失われつつあります。
東京の散策では山が見えないので、私はよく方角を失い迷子になってしまいます。



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主人公由美子が通う東京の女子大とは(田中康夫『オン・ハッピネス』)

 田中康夫は『オン・ハッピネス』で、夙川出身の由美子が通う女子大について、次のように描いています。
<在籍している大学の建物は、礼拝堂を始めとして、煉瓦か石で造られていた。また本館の中庭は、見事な仏蘭西式庭園となっている。何種類かの常緑低木が幾何学模様を描いているのだ。専属のガードナーが居て、何時でも丹念に刈り込んでいる。もっともそのキャンパス自体は、かつて大名屋敷であった歴史を有するのだという。校舎から離れるにつれて、松の樹が多くなる。>

 


 モデルになったと思われる大学のキャンパスはさすがによく手入れされていますが、仏蘭西式庭園には見えず、このあたりの描写はその風景としっくりしません。

 


 地下鉄広尾駅から商店街を抜けたあたりの南門には松の樹が数本ありましたが、正門の並木道を歩いても「松の樹が多くなる」という印象もありません。

 

田中康夫が知っているいくつかの女子大のキャンパス風景をミックスして創造したのでしょう。


<そうして、校門は、なんとも有職故実の図鑑にでも載っていそうな代物だった。脇に解説の札が立っている。入学したばかりの頃。しげしげと読んだ記憶が由美子にはある。本柱の後方に控柱を二本立て、その上に女梁、男梁を掛け、更に切り妻屋根を載せた、薬医門と呼ばれる様式なのだ、と記されていた。>

 

 解説の札など立っていなかったように思います。この校門について調べると薬医門という説明はみつからないのですが、確かに構造は述べられている通りでした。



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田中康夫が『オン・ハピネス』で描いた夙川

 田中康夫『オン・ハピネス』で、学園祭のミスコンに出場した由美子と司会者との会話からです。
<「お生まれ、何処ですか?」「西宮市の、夙川です」
一拍置いた後、左手で髪の毛を押さえながら、由美子は答えた。>


 夙川の風景も小説が書かれた頃から、著しく変化しています。
<阪急電車の夙川駅よりも北側には、生垣で囲まれた御屋敷が並んでいる。六甲山系から流れ出た川の土手の松並木も、大層、立派な枝振りだ。耽美主義を追求した著名な作家が一時期、暮した場所としても知られる。>

 

 上の写真は1959年版映画「細雪」の夙川駅の北側のこほろぎ橋のシーン。
震災以降かもしれませんが、阪急夙川駅の北側の御屋敷も少なくなりました。

 最早西宮に残された緑は、航空写真からは夙川沿いの松並木だけのようにも見えます。

 

 耽美主義を追及したと紹介されている谷崎潤一郎が一時期暮した根津邸は、コブレンツ雲井の斜めに入る道を少し上がったところにありました。

<こうした街並みの一廓で高校時代まで過ごしたことを、秘かに彼女は誇りに思っていた。夙川育ちだと相手に教える際、ブルブルッと微かに体に走るものさえ、時にはあるのだ。>


雲井通りあたりは、まだ御屋敷街の雰囲気をとどめていますが、歩いてみると更地になり、分割売却されようとしている所も見受けられます。

 

いつまでこの風景が残されるのでしょう。



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震災の少しあとまでこのあたりに住んでいましたが、生け垣は残っていますが、殆ど震災前の面影をとどめていません。

[ ふく ] 2015/05/19 21:08:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

ヴォーリズの設計した住宅も全てなくなってしまったようです。
『オン・ハッピネス』は震災前の1992年の作品でした。

[ seitaro ] 2015/05/19 21:32:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

何をいまさらみたいな小説だったかと思いますが…知り合いから聞いた話を覚えていて、それを題材にして小説にしたのだと思いますが、モデルになった場所などの周辺の人間からしたら週刊誌の三文ゴシップと紙一重の内容なので、迷惑の一言だと思ったりしてます。

[ ふく ] 2015/05/20 14:45:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

いいですね

[ 医学部受験 ] 2015/05/20 18:07:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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