阪急沿線文学散歩

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山崎豊子『女の勲章』取材しないで書いた小説

 『大阪づくし私の産声 山崎豊子自作を語る2』で「取材しないで書いた小説」として『女の勲章』の執筆時のことを次のように述べられています。


 それによると、毎日新聞連載時に病気が回復せず、パリへの取材を諦められたそうです。
<だが、病気は一向、回復せず、パリ取材は不可能ということがはっきりした時点で、当時、日本には二枚しかないと聞かされている畳二帖大のパリの立体地図を入手した。書斎の壁一杯に貼り、地図の中の街通りを歩き、目指す地点に来ると、カラースライドを映し、参考資料の頁を丹念に繰った。ある時はルーブル美術館であり、ある時はサン。ジェルマン・デ・プレの街角であったりしたが、この地図とカラースライドと資料読みに一日平均五、六時間、原稿執筆が四、五時間という作業が続いた。>


『女の勲章』が毎日新聞に連載されたのは昭和35年のこと。

 今でこそ、グーグルマップのストリートビューを利用すれば、簡単に自分で行きたい世界の都市を散策することができますが、当時は大変だったようです。
 因みに、大庭式子がエール・フランスでパリへ向かった航路は、懐かしい南回り。
<旅を楽しませるスチュワーデスの応対が、静かな機内に響いた。式子は、祈るように眼を閉じた。サイゴン、カラチ、ベイルート、ローマ、そしてパリ、四十時間後には式子も、白石教授のいるパリへ到着するのだった。>
パリへ40時間もかかった時代でした。

 さて大庭式子が泊まったホテルはどこだったのでしょう。

目覚めた朝の窓からの景色です。
<眼下にチュイルリー公園の並木が広がり、左側にルーブル宮が見え、チュイルリー公園の向こうにセーヌ河の河岸のガードル・ドルセの時計台が見え、その間にセーヌが緩やかに流れていると思うと、式子はパリの街の中にいる自分を感じた。>

小説に登場するホテルの名前はサンジャーム。

チュイルリー庭園とルーヴル美術館の向かい、パリの中心部に位置するホテル、サン ジャーム アルバニー パリ ホテル スパにちがいありません。(赤矢印の位置)

上の写真の右手前のホテルです。

ホテルの窓からの景色は小説通りです。

しかし、フジテレビのスペシャルドラマでロケされたホテルは、シャトーのようにも見えるのですが、どこかわかりませんでした。(写真4枚目)



ドラマでは、チュルリー公園や、シテ島、モンマルトルの石段など美しい映像が流れていました。






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いつもブログを見るのを楽しみにしています☆これからも楽しく読ませて頂きますね!

[ 相模大野で話題の美容室 美容院 mod's hair BEAUTY 相模大野店 ] 2017/06/05 16:25:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

時々見ています。好きな作品が沢山取り上げられていて勉強になります。ツイッターでこの記事を紹介させていただきました。

[ ゴネッタ ] 2017/06/08 1:15:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

コネッタさん、ツイッターで紹介までいただき、ありがとうございます。ご興味ある作品も機会があれば教えてください。よろしくお願いいたします。

[ seitaro ] 2017/06/08 6:37:41 [ 削除 ] [ 通報 ]

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山崎豊子『女の勲章』パリの有名デザイナー、ジャン・ランベールのモデルは?

 『女の勲章』では、主人公大庭式子が、フランスの有名なデザイナー、ジャン・ランベールの型紙の購入権を獲得するため、パリに飛び立ちます。彼の作品は今までにない全く新しい立体製図と裁断で作られており、大庭式子は型紙を買い、日本に紹介しようとしていたのです。

今回のフジテレビスペシャルドラマで主演を務める松嶋菜々子さんが身にまとうシフォンのドレスは、世界最高峰のファッションメゾン「クリスチャン・ディオール」の作品とのこと。

 実は、『女の勲章』のモデルと言われる上田安子さんが1953年に大丸心斎橋店主任顧問デザイナーの立場で渡仏し、日本へクリスチャン・ディオールのオートクチュール技術を初めて紹介したのです。

 したがって、『女の勲章』のパリの有名デザイナー、ジャン・ランベールのモデルもクリスチャン・ディオールだったのでしょう。そういえば俳優の顔が似ています。

 上田安子さんは1957年に『一流デザイナーになるまで』と題するディオールの自叙伝を穴山昂子氏と共訳で発刊されており、その復刻版が2008年に刊行されました。

復刻版のあとがきで、上田学園顧問の上田あつ子氏が次のように述べています。
<緻密な計算に基づき、デザインの仕上がりや生地の性質などに合わせて何十種類もの芯地を使い分けながら一着の洋服を完成させ、優雅で立体的なシルエットを限りなく効果的に表現するディオールの作品は、当時、まだ平面的だった日本の洋服づくりの概念を覆すほど、卓越した美的完成度を有していたのです。彼女が初めてディオールの作品を目のあたりにしたとき、「私がしてきたことはデザインではなかった」と絶句するほどの衝撃を味わったそうです。>


上田安子記念館に入ると、上田安子の代表作が展示されています。


1956年に渡仏したときの写真も飾られていました。

しかし、『女の勲章』はフィクションです。



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いつもブログを見るのを楽しみにしています☆写真もいいですね☆これからも楽しく読ませて頂きます!

[ 新宿エリア 美容院 最新ヘア mod's hair 新宿サウス店 【モッズ・ヘア】のホットペッパー ] 2017/06/02 23:03:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

 白い巨塔を読み終わったら読んでみます。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/06/03 8:45:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

 ブログ読ませて戴き有難う御座いました。

 上田安子さんついて掘り起こすと小説の材料がたくさんありそうで面白ですね。

 上田さんがお生まれになった頃、明治40年、ご両親は船場でカメラの製造と機材の販売会社「上田カメラ商会」を経営されており、製造のカメラ「スター」は上田カメラ商会のヒット商品だったそうです。

 今から50年程前、山登りの先輩に何度も聞かされた小話で恐縮ですが、昭和11年大阪で女性だけの山岳会「クラブ・エーデルワス」を上田さんと長谷川静子さんとが中心にスタートさせ、山・スキーに熱中されていた時代がありました。そんな熱中時代の逸話を沢山伝聞しておりました。

 其の一話「昭和17年に徴兵が決っている先輩と、上田さんお二人で4月期の北アルプス鹿島槍ヶ岳から五龍岳の縦走を成し遂げている山行時の一コマの逸話ですが、春先、まだ冷たい雪解け、水量の増した大谷原を遡行に、此れまで着用されていたスラックスを脱ぎ、両足太ももの肌を露にさらけ、肌着の「パンツ一丁」の姿で渡りきった様子を、先輩から、面白可笑しく何度も何度も語ってくれた事、懐かしく思い出しました。」上田さん当時37歳そこは二人きりのシーン。、自身の肌身より、スラックスや登山靴を濡らすことに躊躇されたのでしょう。
 
、関西の山岳人が上田安子さんの事を語るとき、満面の笑みで「上田のやっさん」或は「上田のやっちゃん」と、愛称で呼んでいたようです。
 男性の山仲間からは「マドンナ的」存在でもあったのでしょう。

[ shiratori ] 2017/06/03 14:09:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

shiratoriさま、知らなかったお話ばかりで、大変興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

[ seitaro ] 2017/06/03 23:00:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

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山崎豊子『女の勲章』の発想のヒントとなったデザイナーは?

『女の勲章』の発想のヒントとなったデザイナーについて、山崎豊子は『大阪づくし 私の産声』の第三章「半年勉強、半年執筆 −私の小説信条」で、次のように述べています。

<毎日新聞で婦人欄の服飾を持たされたことがありまして、その時にある一人のデザイナーからヒントを得て、それを船場生まれのデザイナーに置きかえたんです。>

 ここで山崎豊子が語っているのは夙川に一粒社ヴォーリズ建築事務所設計の記念館がある上田安子さんのことなのです。


 もう一人のモデルと言われる、船場生まれのデザイナー近藤年子さんについて、WebマガジンClippy, 2017/4/15 の記事に紹介されていました。
http://clippy.red/dorama20170415-2/
<大阪・船場生まれの近藤年子さんは、戦後、近所の若い女性を集めて洋裁塾兼店舗を開き、占領軍兵士の婦人たちの洋服を縫いながらデザイナーとして自立する。ファッションブランド「TOSSY(トッシー)」を設立し、大阪・平野町にオーダー店、梅田新道にプレタポルテ店をはじめ、阪神百貨店や東京・代官山にも出店(現在は全て閉店)するなど、関西のファッション界を盛り上げた。現在は、社団法人「総合デザイナー協会」の参与を務める。>
 そして、モデルにされたことが複雑な思いだったと語られています。
<山崎さんは足しげく近藤さんの元に通い、取材を重ねたという。小説発表後、「山崎さんの小説のモデルになったと騒がれ、大変だったそうですよ」と困ったような笑みを浮かべるのは近藤さんの姪、畳谷久仁子さんだ。「山崎さんがいろいろ参考になさったとはいえ、ストーリーはあくまでフィクション、虚構の世界です。それが小説のイメージをそのまま抱かれ…。本人はデザイナーとしてブランドのPRにもなるからいいのでしょうが、家族はけっこう複雑な思いでいたと聞いています」と続ける。>

 上田安子さんがモデルになった影響についても、西宮文学案内で石野伸子さんが『夙川ゆかりのヒロインたち』と題した講演で、次のように話されていました。

<発表された小説はファッション界の内情を赤裸々に描いたもので、さらに学校内外の男女関係を生々しく描いたものでした。虚実ないまぜの物語により、上田は好奇の目にさらされたに違いありません。事実、小説発表からかなり時間が経った時期に私は新聞社の婦人欄の記者となり、ファッションを取材する機会もありましたが、まだひそひそ話をする関係者は多くありました。また、当時をよく知る先輩記者からは「上田先生の前では山崎豊子も女の勲章も御法度よ」とクギを刺されました。>
 上田安子さんは、山崎豊子と距離を置き不仲になったそうですが、それでも批判的なことは語らず、晩年は不仲も解消されたそうです。
やはり、取材されるということは恐ろしい。



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山崎豊子『女の勲章』大庭式子の静養先は旧六甲オリエンタルホテル

 山崎豊子『女の勲章』で、関西デザイナー協会主催の大規模なファッションショウを終えた大庭式子は真夏の間、六甲山のオリエンタルホテルで静養します。

4月15日のフジテレビスペシャルドラマでは、原作のイメージを壊さないよう脚色され、ロケ地はわかりませんが「甲山湖ホテル」として登場していました。

 原作では、ホテルのテラスからの景色が次のように書かれています。
<大庭式子の眼の下に、幾つかの小高い山が淡い稜線を描きながら起伏していた。先程まで濃い山肌を見せていた六甲山脈が、夕陽の陰になって薄く翳りかけ、山裾に続く帯のように細長い街は、まだ夕暮れの翳を受けず、そこだけが切り取ったような明るさで輝き、街の向こうに広がる海も、鏡のような白い光を反射している。>
 このような描写を読んでいると、山崎豊子も六甲オリエンタルホテルに避暑に訪れ、しばらく逗留したのではないかと思ってしまいました。

 六甲オリエンタルホテルは阪神電気鉄道が六甲山開発の一環としてオリエンタルホテルに営業委託して昭和9年に開業したホテルですが、2007年に営業を停止していますが、現在も建物は残されています。

この建物は昭和43年に竣工していますから、『女の勲章』が連載された昭和36年は、まだ山上の趣のある建物でした。


 夏季講習の間、甲子園の聖和服飾学院の運営を任されていた津川倫子も、夏期講習の時間割と教材見本を持って、六甲オリエンタルホテルの式子を訪ねます。

 同じ日に銀四郎も、式子を訪ねて来て、三人はホテルから天狗岩への散歩に出かけます。

<何を思ったのか、銀四郎は、ついさっきまでの冷たさから、急に優しい口調になり、窓の外を見た。先ほどまで、澄んでいた夜気が急に白くぬるみ始め、夕闇の底から瞬いていた街の灯も姿を消し、静かに霧が流れ始めていた。
「きれいだすな。三人で散歩に行きまひょう」「でも、六甲の霧はたちはじめると、とても深くて、こんな日に出かけるのは危ないわ」「せっかく来たんでっさかい、ちょっとだけ出かけまひょう、気を付けて歩いたら大丈夫だす」>

 この散歩道、スペシャルドラマでは甲山湖ホテルの「葉沓の小路」として登場していました。

原作で登場する天狗岩は六甲オリエンタルホテルから南へ300m程度のところにあります。

天狗岩からの夜景は絶景です。

<扉を押して、外へ出ると、樹立の間から霧が白く湧いていた。ホテルの横の小道を折れると、雑木林に囲まれた道が、大きく曲がりながら天狗岩へ行きつく散歩道につながっていたが、霧に遮られて、三メートル先が見えなかった。>

六甲山の霧は有名ですが、関東のどこかと思われる「葉沓の小路」のシーンはどこで撮ったのでしょう。



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山崎豊子『女の勲章』舞台は甲子園の聖和服飾学院

 山崎豊子『女の勲章』がフジテレビ系列で二夜連続スペシャルドラマとして放映されていました。


 山崎豊子は原作では、聖和服飾学院の場所を甲子園に設定していました。小説『女の勲章』は次のように始まります。
<日輪の型を象って嵌め込んだステンドグラスが、夕陽の直射を受けて、燃えつくような光の輪になっている。大庭式子は、飽かずにそれを眺めていた。>

 スペシャルドラマでも、この小説で大庭式子の心の隅に潜んでいた本能的な欲望に似たものを象徴するというステンドグラスが、日輪ではありませんが見事に創られていました。

 この大庭式子が創立した聖和服飾学院は、甲子園球場から500mほどの住宅街の一角に設定されています。

<郊外の住宅街の一角であるから、陽が暮れかけると人通りが少なくなり、五百メートルほど先の甲子園の浜側からは、潮風が吹きわたり、北側に見える甲子園球場の壁も鼠色に冷えていた。>


 更に場所のヒントになるのは商店街です。
小説の最後で、式子が車で聖和服飾学院に向かう場面からです。
<上甲子園まで来ると、車は国道を逸れ海に向かった狭い道を走り、甲子園球場の裏に出た。海の方から思いがけぬ潮風が吹き付け、人気のない球場の中を不気味な風音をたてて吹き抜けて行くようであった。式子は、運転手に車を停めさせると、そこから自分の学校に向かってゆっくり歩いて行った。五メートル程の道幅を挟んだ商店街を通り過ぎて、学校の前まで来ると、式子は、なぜ、甲子園まで来てしまったのか、何をしようと思って来たのか、しきりに思い返そうといたが、思い返せなかった。>

この商店街、実在するのかと調べてみると、どうも新甲子園商店街のようです。


「新」というもののその歴史は古く、昭和28年に設立され、1960年代頃まで商店街は活況を呈していたそうです。その後、相次いで進出してきた大型店の影響を受けて、苦戦を強いられるようになり、さらに阪神・淡路大震災によって木造の市場は全壊。市場の再建が危ぶまれた中で、土地所有者や商店主らの度重なる話し合いの末、若手商店主たちが中心となって再建されたそうです。

山崎豊子は聖和服飾学院をこの近くの住宅街に設定したようです。(航空写真の矢印あたり)

甲子園球場から500mほどの住宅街という位置関係もぴったりでした。

テレビドラマでは、初代学長を新渡戸稲造が務め、アントニン。レーモンド設計で国の登録有形文化財にも登録されている東京女子大学をロケ地として選んだようです。

東京女子大学の公式アカウントの4月7日のTwitterにその写真が投稿されていました。

https://twitter.com/twcuPR?lang=ja

撮影に使われたのは正門入って左手にある、キャンパスマップでBと示された7号館のようです。


ホームページには次のように説明されていました。
創立初期の建造物のひとつで、現在も教室棟として使用されています。
建築年:1924(大正13)年
平成4年度BELCA賞(ロングライフ・ビルディング部門)受賞
平成10年度文化庁登録有形文化財登録

文化庁登録有形文化財ともなれば、建物に装飾を加えるにも、相当気を使ったのではないでしょうか。

 それにしても山崎豊子の小説のロケは関西でしてもらいたかった。


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 随分と詳しくお調べになったのですね。読ませて戴き大変参考になりました。

 小説の人物素材として「上田安子さん」についても、参考取材されていたようですね。

[ shiratori ] 2017/05/06 15:38:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

東京女子大は以前見学しましたので、映像も興味深く見ておりました。上田安子さんについても少し触れてみたいと思っています。

[ seitaro ] 2017/05/06 19:34:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

書題「女の勲章」が毎日新聞紙上に発表されたのが1961年・・・

其れから23年後の1984年、かって女性のみを対象とされていた「宝冠賞」つまり「女の勲章」をめでたく授与された上田安子さん・・・

山崎豊子さんには20年以上も先取れる、予知能力がおありだったのでは・・・偶然とはいえ恐ろしいほどの想像力

[ shiratori ] 2017/05/07 9:31:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

そんなことがあったのですか。
ありがとうございました。「宝冠賞」少し調べてみます。

[ seitaro ] 2017/05/07 10:40:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

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広野ゴルフ倶楽部15番ホール(山崎豊子『華麗なる一族』)

 広野ゴルフ倶楽部は、世界屈指のゴルフ場と言われるだけあってコースレイアウトをはじめ他のゴルフ場とは格段の違いがありました。スタート時刻は到着してから決め、ゆっくりスタート。ゴルフカートはなく、すべて歩きます。
ゴルフバッグも手押しで2バッグ一人のキャディが引きますので、4サムで廻ると、二人のキャディが付きます。それでもハーフラウンド2時間で廻れました。

 

 昼前に9番ホールを上がり、もう一つの楽しみの昼食です。

 

クラブハウスの階段を上がり、2階の趣のある食堂へ。

日替わりランチのポークヘレカツ。シェフの腕前は見事です。


 後半も食事を終えて、ゆっくりしてから自由な時間にスタートです。
インコースは戦略性に富むホールばかり。『華麗なる一族』からです。
<万俵大介は、娘婿の美馬中と十五番ホールのティー・グラウンドまで来ると、「さあ、中君、今度は君がオナーだ」と美馬を顧みた。「やっと十三番を切り抜けたかと思ったら、今度は魔の十五番ホールですか、いつもこのホールでは痛い目にあわされてますから、一度パーを取ってみたいですな」美馬はホールだてを検討するように地形を見定めた。>

 

 

 十五番ホールティー・グラウンド。ここからは分かりませんが、ほぼ中央に大きな谷があります。
<美馬はきっと前方を見据え、クラブを振った。クラブ・ヘッドが空を切り、ボールは追い風に乗って谷の手前、二百四十ヤードの辺りのフェア・ウエイまで飛んだ。
「ほう、本日、最高の当りだね、まさに風さまさまじゃないか」大介は冗談を云い、ティー・グラウンドに立つと、体重、身長、腕の強さに合わせて別注し、クラブ・ヘッドに自分のイニシャルを入れたケニー・スミスのクラブを取り、柔軟な身のこなしで、第一打を飛ばした。ボールは美馬の後方、四十ヤードの地点で止まった。>

 

 

 当時のドライバーはパーシモンのはず。それで美馬は240ヤード、万俵大介はケニー・スミスの特注クラブとはいえ200ヤードも飛ばしたのですから、二人とも大した腕前です。
<「さてと−」大介は、ボールの落ちた地点から前方を見た。七十ヤードほど先にある大きな谷とバンカーがこの地点から見ると、ティー・グラウンドで見た時以上の距離をもって横たわり、前方のフェアウェイがほんの少ししかないように見える。普通なら谷越えしてフェア・ウェイを狙って長打するところを、大介は敢えて九番のアイアンを取り出し、ショットした。ボールは谷のすぐ手前で止まった。こうして手堅く刻んで打って行き、あとは得意のアプローチで勝負する。>

 中間地点の谷の位置。万俵大介は二打目をこのあたりに刻みました。
 結局18番ホールを上がってみるとトータルスコアでは大介が勝ちます。

 


<「やっぱり今度も駄目でしたか。この次は雪辱したいものです」美馬が次回を期するように云ったが、「いや、私だって、まだ二、三年は君の首根っこを押さえ続けてみせるよ」
大介は愉快そうに応じ、二人は上気した顔の汗を拭いながら、クラブハウスへ引き上げた。>

二人はラウンジでビールを飲みながら金融再編の話をし、広野ゴルフ倶楽部でのシーンは終わります。


 それにしても、広野ゴルフ倶楽部は私のこれまで知っているゴルフ場とはまったく違う、別世界でした。



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『華麗なる一族』にも登場する広野ゴルフ倶楽部へ

 世界ゴルフ場ランキング100に毎年選ばれる日本のゴルフ場は3〜4コースしかありませんが、その日本のゴルフ場の中で、常に一番目に選ばれる広野ゴルフ倶楽部。山崎豊子『華麗なる一族』でも登場します。

 日本一の名門ゴルフ場でプレーできる機会はないだろうと諦めていましたが、先日そのチャンスに恵まれました。

 

 場所は三木市、現在は周りがベッドタウンとなっている神戸電鉄広野ゴルフ場前駅の目の前にあります。

 

 渡辺節氏の設計による英国風の倶楽部ハウスです。

『華麗なる一族』では阪神銀行の頭取万俵大介と大蔵省主計局次長で娘婿の美馬中のゴルフのシーンが描かれています。
<なだらかな平原に広がる兵庫県三木の広野ゴルフ倶楽部は、日曜日の午前中であったが、人影もあまりなく、松林に囲まれたコースは、名門ゴルフ倶楽部らしい落ち着いたたずまいを見せている。>
 広野ゴルフ倶楽部は昭和7年開業。設計はアリソンバンカーで有名な英国人C.H.アリソン。

 


倶楽部ハウスから見た練習グリーンと18番ホールグリーンです。
 

 ところで倶楽部ハウスの隣に、JGAのゴルフミュージアムがあり、乾豊彦氏(元乾汽船会長。元広野ゴルフ倶楽部理事長、日本ゴルフ協会名誉会長)の胸像がありました。戦時中、農場に徴用されていた広野ゴルフ場を、1947年乾氏を中心に7名の委員会を結成し、批判されながらもいち早くコース再建に着手したそうです。

 乾氏といえば思い出すのは御影の蘇州園から更に上に上がった所にある旧乾邸。

この建物の設計も広野ゴルフ倶楽部の倶楽部ハウスを設計した渡辺節氏でした。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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