阪急沿線文学散歩

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小松左京『くだんのはは』に描かれていた西宮大空襲


小松左京の『くだんのはは』の舞台は芦屋ですが、西宮大空襲の様子が描かれていました。


<西宮大空襲の夜、僕は起き出して行って、東の空の赤黒い火炎と、パチパチとマグネシウムのようにはじける中空の火の玉を見つめた。僕はいつもの習慣でゲートルをまいたまま寝ていたが、その夜ばかりは阪神間も終わりかと思って、いつでも逃げられる用意をした。「こちらに来ますでしょうか?」ともんぺ姿のお咲さんがきいた。
「近いよ。今やられるてるのは東口のへんだ」と僕は言った。「この次芦屋を狙うかも知れない」「だんだん近くなりますね」とお咲さんは呟いた。
「あれは香櫨園あたりじゃありませんか?」
ふと横に白い物が立った。見ると浴衣姿に茶羽織をはおったおばさんが、胸の所で袂を重ね合わせて、西宮の空を見上げていた。>


 その日、実際に、小松左京は今津の自宅で空襲を受けていました。
西宮の空襲は五回にわたり実施されたようで、総務省のホームページに、その様子が詳しく述べられています。

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_11.html

 一番被害が大きかったのは昭和20年8月5日の夜半から始まった第5回の空襲のようです。
< 8月5日午後10時ころ空襲警報が発令されたが、これはまもなく解除された。ところが午後12時前になって再び警戒警報が出され、ついで空襲警報が発令され数機編隊で波状攻撃が加えられ、文字どおり焼夷弾・爆弾の雨がふった。火柱は市中いたるところに立ちのぼり、猛烈な火炎が夜空をこがして、爆発音や対空砲火がとどろいた。市民は防火にめざましい活動を示したが物量をほこる波状攻撃に対しては、ほとんど効果を挙げえなかった。こうして恐怖の一夜が明けると、市の南部市街地はほとんど全滅するという悲惨な姿に変わっていた。
 これらの数次にわたる空襲による西宮市の罹災面積は全市面積の18.4%にのぼった。兵庫県下の戦災都市のうち、面積では神戸市についで第2位を占め、第3位は尼崎市であった。本市の被害がいかに甚大であったかをうかがうことができる。>

 
 焼け野原になった西宮ですが、小松左京氏の今津の家はかろうじて焼け残っていたそうです。
『くだんのはは』の舞台となった芦屋のお邸も空襲からは守られました。
<「逃げませんか?」と僕は言った。「山の手へ行った方が安全ですよ」
「いいえ、大丈夫」とおばさんは静かな声で答えた。
「もう一回来て、それでおしまいです。ここは焼けません」>

恐いお話でした。




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小松左京『くだんのはは』の芦屋のお邸と田辺聖子さんの芦屋評

 小松左京の『くだんのはは』に登場するお邸は芦屋浜のすぐ近くに設定されていました。


<芦屋のほんとうの大邸宅街は、阪急や国鉄の沿線よりも、川沿いにもっと浜に向かって下った、阪神電車芦屋駅付近にある。山の手の方は新興階級のもので、由緒の古い大阪の実業家の邸宅は、このあたりと、西宮の香櫨園、夙川界隈に多かった。ほとんどの家が石垣をめぐらした上に立っており、塀は高くて忍び返しがつき、外からは深い植えこみの向うに二階の屋根をうかがえるにすぎない。その屋根に立つ避雷針の先端の金やプラチナの輝きが、こういった邸に住む階級の象徴の様に見えた。 そのお邸はこのひっそりとした一角の、はずれ近くにあった。一丁先からはもう浜辺の松原が始まり、木の間をわたる風は潮気を含んで、海鳴りの音も間近だった。>

 

 阪神間モダニズムの時代に、大阪の実業家、商人達が移り住んだ芦屋川畔でした。

 ところで田辺聖子さんはこの町には、少し厳しめです。
<芦屋は谷崎さんの「細雪」で有名であるが、古いお邸町なので、もう手入れするところのなくなった、精巧な工芸品のように磨きぬかれている。私には息づまる思いがして、小説の舞台にしたい誘惑は感じられない。>

<芦屋の豪邸のあたりを散歩すると、いまもふしぎな気分に打たれる。えんえんとつづく塀、うっそうたる庭木、まるで城砦のような巨大な邸、などを道から眺めると、そういう豪邸をつくり、そこに住もう、という発想自体に私は畏怖の念を持ってしまう。それは、おふざけをゆるさない世界である。ちゃらんぽらんをゆるさない次元である。永遠を信ずる世界である。>

 どうも田辺さんの気性と相容れない町のようです。


<近頃は芦屋に高層住宅も出来、また芦屋川畔にきれいなショッピングビルがあちこちできて、町の気分があたらしくなり、よくなった。しゃれていて、ヨソにない、というようなものを芦屋でみつけることができ、あれは楽しいのであるが、なぜかこの町はある種の突っ張りがあり、肩が凝る。解放的な気分のないところが神戸とは全くちがう。排他的なのかもしれない。>
これでは田辺聖子さんの芦屋を舞台にした小説を探すのは難しそうです。



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「くだんのはは」
初めて読んだ時はかなり衝撃的でした。
そういえば、芦屋のお屋敷でしたよね・・・

[ 相模大野の美容院アクセス案内 ] 2015/07/31 8:41:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

身近な場所を舞台にした怪談で、恐いお話でした。

[ seitaro ] 2015/07/31 21:21:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

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小松左京が『くだんのはは』で描いた戦争体験

 小松左京は『くだんのはは』の中で終戦の年の阪神間の情景を描いています。

冒頭は次のように始まります。
<戦時中、僕の家は阪神間の芦屋で焼けた。昭和二十年の六月、暑い日の正午頃の空襲だった。僕はその時中学三年だった。工場動員で毎日神戸の造船所に通って特殊潜航艇を造っていた。腹をへらし、栄養失調になりかけ、痩せこけてとげとげしい目付きをした、汚らしい感じの少年だった。僕だけでなく僕たちみんながそうだった。>

 

 昭和20年、小松左京は神戸一中の三年生でしたが、小説にあるように、神戸の川崎造船所に動員され特殊潜航艇の部品の罫書き作業をしていました。


『やぶれかぶれ青春記』からです。


<私たちの動員された先は、神戸のK造船所といって、今では超マンモスタンカーをつくっている、日本有数の大造船所である。戦争中は、輸送船のほかに、小型潜航艇をつくっていた。>
 当時小松左京は今津駅近くの宝津町に住んでおり、その家は空襲にあったものの、焼け残りました。当時の様子が、『やぶれかぶれ青春記』に述べられています。
<これをいっても誰も信じてもらえないのだが、エレクトロン焼夷弾のときは、昼間でおとなたちもいたので早めに消し止めたのに対して、油脂焼夷弾のときは夜間で、足腰立たない焼け出された医師老夫妻以外、父も旅行中で、私がたった一人で消し止めたのである。
玄関先におちた二発を濡れたむしろで消しとめ、軒下でもえはじめたのをひっつかんで裏の畠に放り出し、軒びさしの一発を庭へはたきおとし、最後に二階の大屋根につきささって、燃え始めたのを、登っていって火たたきの棒で道路へ叩き落とした。>

 小松左京が孤軍奮闘し、焼夷弾攻撃からの火災を救ったのは、奇跡的なことのようで、野坂昭如は、濡れむしろや火たたきぼうがまったく役にたたなかったと述べていました。

 

『くだんのはは』では空襲を受けた後、神戸の造船所から芦屋まで歩いて帰ったことが書かれていました。
<阪神間代空襲の時、僕たちは神戸の西端にある工場から、平野の山の麓まで走って退避していた。給食はふいになるし、待避は無駄になったので、僕たちはぶつぶつ言った。芦屋がやられているらしいと聞いても、目前の疲労に腹を立てて、気にもかけなかった。またいつものように工場から芦屋まで歩いて帰るのだと思うと、神戸港から芦屋まで十三キロ、すき腹と疲労をかかえ、炎天を歩きながら歩いて帰る辛さは、何回味わっても決して慣れることはない。空襲があれば必ず阪神も阪急も国鉄もとまってしまい、翌日まで動かないこともあった。>

 さて本当に小松左京は神戸の川崎造船から歩いて帰ったのかというのが、私の疑問でしたが、『やぶれかぶれ青春期』に芦屋より更に遠い20キロの道のりを西宮まで歩いたことが書かれていました。
<昼の空襲で山麓に逃げたあと、また工場へ帰り、そのあとが途方も無い憂鬱だった。空襲はたいてい線路も狙い、一度あると国鉄一本、私鉄三本ある電車が全部とまってしまう。そうなると、神戸の工場から西宮の自宅まで約二十キロ余、重い脚をひきずって歩いて帰らなければならない。ふつうに歩いて五時間の距離を、体力消耗と、道が焼け落ちた瓦礫の山にうまっていたりで、まわり道をしなければならないので、六時間以上もかかった。かえりつくころは、夏の日が、もう薄暗くなっており、足は靴の中でぶよぶよにはれあがっていた。>
この様な戦争体験と「件」伝説を繋ぎ合わせた小説が「くだんのはは」でした



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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