阪急沿線文学散歩

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夙川べりにあった須田克太旧宅を訪ねる

 洋画家・須田克太は司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行しました。

司馬遼太郎『街道をゆく(5)モンゴル紀行』で、日の出を見て感激した須田克太が、司馬遼太郎が寝ていたパオの扉をたたき、散歩に出る場面があります。
<「朝日が、昇っています」と、訪問者の須田画伯が、息をはずませてそう言った。須田さんは、ひとに物事を押し付けることのまったくに人なのだが、朝日の昇るのをみて、遣り場に感動してしまったらしい。これだけはご覧にならないといけません、と言ってくれた。>

 そしてパジャマ姿のままの司馬遼太郎を誘って散歩にでます。
<須田画伯は、どんどん歩いてゆく。モンゴルに来たから歩くのではなく、西宮の夙川の土手下に住む氏の日常がそうで、毎日、朝、五時すぎに起床し、六時から夙川の堤の上の桜並木の道を、六甲山にむかって半里ほど歩くのである。その習慣を、モンゴルに来ても保持しているだけで、ただ寝巻で歩いているだけが、日常と違っていた。>
 須田克太は夙川の堤を朝六時から六甲山にむかって歩いていたと述べられていますが、須田克太の自宅兼アトリエは夙川橋のたもとにありました。

上の航空写真の黄色く囲んだ場所で、かなり広い敷地でした。

訪ねてみると、そこはビルが2つも建てられていました。

生前、須田克太はこの夙川べりを苦楽園口辺りまで、毎朝散歩していたのでしょう。


 須田克太は、ここで絵画教室を開き、近所の子供たちに絵を教えていましたが、その中の一人に村上春樹がいました。
『村上さんのところ』からです。

< 僕が小さい頃(たぶん小学校の低学年だったと思いますが)、須田剋太さんという画家が近所に住んでおられました。司馬遼太郎さんとよく一緒に仕事をしておられたとして有名な方ですが、子供がお好きだったようで、おうちの離れに子供を集めて絵画教室のようなものを開いておられました。僕はそこに行って、絵を習っていました。というか、みんな好きに絵を描いて、それを須田さんがにこにこと「これはいいねえ」とか「ここはこうしたら」とか感想を言うというようなところでした。とても良い方だったと記憶しています。僕が須田さんから受けたアドバイスは、「ものを枠で囲うのはよくないよ。枠をはずして描きなさい」というものでした。なぜかそのことだけを今でもはっきり覚えています。なかなか楽しかったですよ。夙川のわきにある洒落た洋風のお宅でした。>

須田克太邸跡地にはまったくその面影は残されていませんが、前の歩道には、上のような掲示板があり、ポスターが貼られていました。

B1F 須田克太記念館と書かれていましたので、覗いてみましたが、現在は駐車場になっていました。

 西宮の街にこのような文化人の足跡がほとんど残されていないのは、残念でなりません。



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当方昭和40年代に須田先生の絵画教室に通っていたものです。その時から建て替わっていますが、現在でもビルの横に二階建ての須田先生宅と思われる二階建て住宅があります。立ち入りできませんが、横に美術品らしいものが残っており、面影を偲ばせます。

[ K ] 2017/10/25 22:16:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

コメントに気付かず失礼いたしました。
あの家がそうだったのですか。一番下の写真の奥に写っている家ですね。貴重なお話ありがとうございます。

[ seitaro ] 2017/10/29 0:01:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

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修法ケ原の紅葉と外国人墓地(司馬遼太郎『街道をゆく』神戸散歩)

 六甲山森林植物園で紅葉狩りを終えて、三宮方面に向かって下りる途中、再度山公園に立ち寄りました。中学生の頃はよく遠足で三宮から登ってた懐かしい公園です。

 ここの紅葉も素晴らしく、しばらく修法ケ原池のベンチに腰掛け、池に映る紅葉を眺めていました。

 この少し奥に外国人墓地があるのですが、司馬遼太郎『街道をゆく』神戸散歩に、「西洋佳人の墓」と題して、このあたりのことが述べられています。
<小さな池があって、修法ケ原池という。そのまわりは修法ケ原と呼ばれるが、ふつう再度山公園で通っていて、同名のバス停もある。沿道ことごことく樹林である。そのバス停から八〇〇メートルほど奥へ入ると、もう一つのバス停がある。外国人墓地前である。>

修法ケ原池から沿道を歩いて、外国人墓地に向かいました。

この道も素晴らしい紅葉が続きます。


<墓地の道は、自動車道路から枝道になって入っていて、沿道の樹林は真夏でも涼しいにちがいない。やがて、ゆきどまりは黒い鉄柵になっている。>


 神戸外国人墓地は事前に予約しないと中に入ることができませんが、門の左手にある、第一次世界大戦で戦死した阪神間在住のイギリス人・フランス人19名の慰霊のために建設された勇士の慰霊塔にまで登ると、約14ヘクタールという広大な敷地の外国人墓地全体を見晴らすことができます。


 
 宗教別に区画された墓地には、日本人の生活・文化に影響を与えた著名人を含む世界61カ国約2600柱が埋葬されています。


司馬遼太郎は事前申し込みをして、墓地の中を案内してもらいます。
<そのあと、墓域をめぐってさまざまな碑の前に立った。関西学院の創始者の墓、日本で最初に靴をつくった人の墓、米国の初代長崎領事だった人の墓、日本の洋菓子の基礎を築いたモロゾフさんやフロインドリーブさんの墓、明治元年のいわゆる堺事件で死んだフランス水兵十一人の墓。いまでもフランス軍艦が神戸に入港するとかならずこの墓に詣でるという。>
一度予約して墓マイラーをしてみたいと思います。

最後に諏訪山公園にも立ち寄って、神戸港の景色も堪能して帰ってきました。



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横浜の外人墓地とはかなり趣が違いますね。

[ せいさん ] 2016/11/26 17:38:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

本当に横浜とはかなり違います。司馬遼太郎もそのあたりのことを詳しく述べていましたが、省略いたしました。

[ seitaro ] 2016/11/26 23:16:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

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新酒番船西宮久保町の浜での「切手渡し」(司馬遼太郎『菜の花の沖』)

 司馬遼太郎『菜の花の沖』から西宮湊からの新酒番船の出船の様子を見てみましょう。
 おふさは札場の辻(現在の札場筋と旧国道の交差するあたりでしょうか)の近くの旅籠に泊まっていたようです。

<おふさは早々に食事を済まし、札場の辻から浜のほうにむかった。浜ではもう作業がはじまっていた。きのうの樽はもうほとんどが見られない。すでに艀に積まれ、沖の大船にはこばれたのである。>

 

酒樽は大八車に積まれて、艀まで運ばれたのでしょう。


<「番線の出船は、まだでございますか」おふさが、浜で残りの樽をころがしている人にきくと、その人はふりむきもせず、「まだでやす」と、答えた。この土地では、新酒の一番乗の航走の競争が行われるのである。>
この行事は江戸期の初期から明治初期まで続いたそうです。
<この当時、西宮の地下のひとびとは、はるかに江戸へ発つ樽廻船の出港儀式のことを。「切手渡し」とよんだ。おふさが見ていて、その勇壮さに胴が震えてきた。日本中に祭礼や儀式がどれほどあろうとも、これほどに気魄に満ち、個人とその所属集団(船)の意気が、陽にむかって噴きあがるような行事はないのではないか。>
司馬遼太郎はこの「切手渡し」について相当な評価をしています。

 

私が、司馬遼太郎がこの切手渡しを描くに際して、数ある新酒番船の文献の中で、一番参考にされたのが吉井良秀の『老の思ひ出』だろうと推定しているのは、次のように切手渡しの場を久保町の浜としていることからです。
<昼を過ぎて、一刻ばかりすると、西宮の町はからっぽになった。犬まで浜にきた。近郷もふくめて万余の人が久保町の久保浜に詰めかけてしまっている。
 やがて刻がくると、渚に八艘の艀が舳を沖にむけてならんだ。艀といっても八挺櫓の舟で、それぞれの櫓に一人づつの水主が足を踏んばっていつでも漕ぎ出せるように待っている。>
『老の思ひ出』では、
<而して其日に至ると陸地(久保町の浜)は朝来船主や仲間の徽章有る数十の大旗や、幟吹貫を建て並べて、切手渡しの場所を設ける、>と明確に久保町の浜と述べているのです。

 

 ところで現在の久保町は海に面していません。埋め立てが進み、久保町の南側は朝凪町となり、工場の倉庫となっており、久保町の浜というのは存在しなくなりました。

 

昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図をみても、かなり西宮港の整備が進んでしまっています。

明治時代の西宮港の地図から、赤の矢印で示したあたりが、切手渡しが行われた久保浜でしょう。

 

 小説『菜の花の沖』では高田屋嘉兵衛は切手を受け取り、幸先よく宝喜丸に一番乗りし、品川にも惣一番で到着するのです。



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「西宮酒ぐらルネッサンス」へ新酒番船パレードを見に

 多くの西宮ブロガーの皆様が行かれ、既に記事にされている「酒ぐらルネッサンス」。
司馬遼太郎『菜の花の沖』を読んで、新酒番船のご紹介をしていましたら、「酒ぐらルネサンス」で新酒番船パレードが行われることを知り、私もどんなものかと出かけました。

 拝殿前では浜村淳さんを迎えてのオープニングセレモニーの真っ最中。

参拝の後は、早速試飲用プラコップを貰って、その奥に開設された「味わい酒ぐらひろば」の長い行列に並んで、充分日本酒の試飲をさせていただきました。


 それでもまだパレードまで時間があり、神社の前の「だしの店 つみ木」で、遅い昼食を取り休憩です。

 

 その後、パレード開始まで中央商店街をうろうろ。

佐藤愛子さんも甲南女学校からの帰りに食べたという「ゑびす焼き」、久々に食べさせていただきました。

 

 新酒番船については、これまでご紹介したように吉井良秀『老の思ひ出』、司馬遼太郎『菜の花の沖』に述べられていますが、今回は秋吉好著『天保新酒番船』から紹介いたしましょう。


<新酒番船をむかえた浜は、前夜から赤々と篝火がたかれ、十日戎のような賑わいを見せていた。西宮港から今津港までの浜辺には、大勢の見物人がつめかけ、二月二十日の卯の刻(午前六時)の出発を待った。海上でも、旗や幟や吹き流しを立てた応援の伝馬船や屋形船がひしめき、沖では帆をおろした千四百石から二千石積みの樽廻船が、暗い海のなかですべての準備をおわり、満を持しての出航にのぞんでいる。>
現代のスポーツならば、差し詰め長距離ヨットレースでしょうか。

 江戸では、一番で着いた船の水主たちが、赤い半纏を着、「惣一番」ののぼりを立て、太鼓をたたいて下り酒問屋のある新川・新堀界隈を踊りながら練りまわったそうです。

 

いよいよ赤門から新酒番船パレードの出発です。


見送ったはずのパレードに、阪神西宮駅で再び遭遇。


新酒番船の説明の後、武庫川女子大ダンス部の皆様が、赤い半纏を身にまとって「そーれいっちゃ、やれいっちゃ」の掛け声で踊っていました。

 

 明治の初めの新酒番船を見送った後の、西宮での祝賀の様子は、吉井良秀『老の思ひ出』に述べられていました。
<此日船主の家にては祝賀を行うて、関係の人等集って華やかな友禅の襦袢や、羅紗、覆輪で、脊に大なる家の徽章を白く饅頭伏せて顯した法被を着込んで、百人内外が列を為し、鐘太鼓を鳴らして船名や船頭の名を唱え、何丸一じゃ、何某一じゃ、惣一番じゃと各高声に謳歌し、先ず神社に参拝し、市中を練った、>
現在の新酒番船パレードはこれを模したものなのでしょう。

 

さてもう一度司馬遼太郎『菜の花の沖』に戻りましょう。



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西宮の年中行事、新酒番船とは(『菜の花の沖』と『老の思ひ出』より)

 新酒番船とはどのような行事だったのか昭和3年に発行された吉井良秀『老の思ひ出』と司馬遼太郎の『菜の花の沖』を更に読み比べていきます。
まず江戸末期に行われていた行事として説明されている『老の思ひ出』からです。
<茲に何時代から初まった事か分からぬが、新酒番船と云う事があって、我西宮の年中行事の一つで有った。是は毎年春二三月の交に、灘五郷や池田伊丹大阪杯の新酒を初めて江戸へ輸送するに当たり、五六艘若しくは七八艘申合わせて、一時に西宮港を出船し、各品川に先着を競争する、其出船の式を行うので有る、>

西宮神社境内に展示されている弁才船の中で、日本酒を輸送したのが樽船です。

摂津名所図会に描かれた樽船の航行の様子です。


<其競争する理由は、数艘中第一番に品川に到着すると、其酒は優待せられて高価に昇され、船も亦其一ヶ年中は港にて積荷の優先権を与えられる条件が有るから、船主や船頭は献身的勝を願うのである。>


 樽船に新酒を積んで江戸への一番乗りを競った行事でした。


 司馬遼太郎は、新酒番船について、さらに説明を上手く加えています。
『菜の花の沖』からです。
<この土地では、新酒の江戸一番乗りをきそう樽船のことをとくに番船という。荷はじめの新酒ばかりは縁起を祝い、江戸まで航走の競争が行われるのである。この行事は江戸期の初期をすこしくだったころから明治初期までつづいた。これほど長距離の海を、二世紀にわたり、毎年航走レースをした例は、世界でもめずらしいのではないか。
 品川に一番乗りした船には、褒章がある。酒はとくに高価に買い上げられ、その舟についても、優勝した年一年間、品川、西宮での積荷作業の優先権があたえられるのである。>

新酒番船入津繁栄図 慶応二年(1866)の新酒番船の入津後の風景です。


<樽廻船の新酒の番線がはやかったのは、大胆な沖乗りをやったからであろう。この当時、太平洋沿岸の菱垣廻船にしても、日本海沿岸航路の北前船にしても、毎日湊から湊へ日和見しながら歩き、天候が悪ければ何日でも湊にすわりこむという航海の仕方をとっていたから極めて遅かった。樽廻船とそれらの船は構造的には変わらないのだが、ただこの廻船の場合、沿岸の山々の見えない沖へ出、一枚帆を高度に利用し、できるだけ寄航せずにひたすら沖走りしたためであり、当然ながら危険もともなっていた。>


新酒番船について調べていると、大阪文学学校講師の秋吉好氏が『天保新酒番船』という小説を出版されていました。
もう少し新酒番船の話を続けます。



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西宮湊からいよいよ新酒の出船(司馬遼太郎『菜の花の沖』)

「西宮酒ぐらルネサンスと食フェア」でも新酒番船パレードがあるそうですが、 司馬遼太郎『菜の花の沖』に1790年代の西宮湊からの新酒の出船の様子が描かれています。
 1730年に樽廻船が登場するとすぐに大坂安治川口で樽廻船によるレースが開始されます。

 その後1785年からは西宮浦に全艇が集まり出発するようになったそうです。

『菜の花の沖』からです。
<西宮は海浜がひろい。市街地がすでに海のにおいのする砂地であった。その白い地面が海にむかってかすかに傾きつつやがて松原になる。松原から渚までが十分にゆとりがある。そこに、新酒を詰めた四斗樽の行列が合戦前の軍兵のようにひしめいている。
 どの樽もしろじろとして杉のつよい香りをただよわせ、胴には目のさめるように青い竹のたがが巻き締められていた。>


西宮港からの新酒の出船式について吉井良秀『老の思ひ出』でも「新酒番船の事」と題して詳しく述べられています。


<清酒を江戸に輸送するに、明治初年迄は汽船は勿論、西洋形風帆船すら無かって、古風な帆船。即千石船又は樽船と称する物で有った。千石船とは云うて居たが二千石も積む程のも出来たと云う。当地に古くから回船問屋と云うのが幾軒も有って、之が全ての荷物を取扱うたと見える、>

<茲に何時代から初まった事か分からぬが、新酒番船と云う事があって、我西宮の年中行事の一つで有った。是は毎年春二三月の交に、灘五郷や池田伊丹大阪杯の新酒を始めて江戸へ輸送するに当たり、五六艘若しくは七八艘申合わせて、一時に西宮港を出船し、各品川に先着を競争する、其出船の式を行うので有る、>

 

 新酒番船の始まった初期は早造りの新酒ができる10月の秋の頃に開催されていました。
その後、酒造が寒造りに集中してくると、番船の仕立ても遅くなり、幕末安政6年(1859)になると翌年3月に開催されたそうです。

『菜の花の沖』に戻ります。
<おふさは旅籠をとっている。あすは新酒が出るとうので、西宮の宿という宿ははちきれるような人を泊めていた。このため旅籠で二人が逢えるというわけにいかない。>
嘉兵衛はおふさに「夜五つ(八時)に、灯明台のそばに」とささやきます。
<夜、ふたたび砂浜を踏んで、暗い海の方向にむかった。淡路のころから嘉兵衛との逢瀬のとき、おふさは常に砂浜を踏んで歩く。
「出船繋ぎ」と船乗りたちはいうが、八艘の大船は舳を沖へそろえて碇をおろしている。八艘の灯が夢のように海にうかび、虚空に飛ぶ巨大な魂明かりのようにも¥みえる。その右側に、灯明台の赤い灯が闇の中にうかんでいた。おふさはその灯に近づくと、台座の下に嘉兵衛がすでに待っていて、いきなり抱きすくめた。>
さて、小説に登場する灯明台とは今津灯台を想像させます。

大関のホームページの「今津灯台物語」にその歴史が詳しく紹介されていました。
http://www.ozeki.co.jp/join/culture/imazu.html
それによると、今津灯台は1810年、大関酒造の長部家5代目長兵衛が、私費を投じて今津港頭に建設したのが始まりとのこと。したがって事実としては高田屋嘉兵衛が新酒番船に乗った1790年代には、まだ今津灯台は存在していませんでした。

10月3日、4日に開催される「西宮酒ぐらルネサンスと食フェア」でも、西宮神社境内で新酒番船パレード、新酒番船一番酒御振る舞いなどが繰り広げられるそうで、楽しみです。


 



新酒番船パレード
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吉井良秀『老の思ひ出』と司馬遼太郎『菜の花の沖』に描かれた西宮の与力

 吉井良秀『老の思ひ出』と司馬遼太郎『菜の花の沖』に描かれた西宮御番所の比較を続けます。吉井良秀『老の思ひ出』からです。
<此処には大坂奉行所から与力が一人交代で詰めて居り、居附の同心が三軒有って是は同構内の東寄りの地に別に三軒並んで有って、家族も居住して居た、普通の行政や警察は此番所で扱ふたので有る。>


 このように吉井良秀が述べた内容が、司馬遼太郎『菜の花の沖』では、次のように解説が加わり詳しく述べられています。


<与力は馬乗り身分の士分待遇だから、一騎、二騎と数える。大坂町奉行所の与力一騎が、交代で西宮の御番所詰になる。その配下は同心三人である。
 同心は、ふつうの士卒身分制でいうと卒で、足軽身分であり、勤務中袴をつけない。三人の同心は、地付とか居付とかよばれて、御番所構内に御長屋で妻子とともに住んでいる。
 与力・同心あわせてわずか四人で西宮を治めているのだが、どこの地方でもそうであるように行政の年寄以下が上の意をうけて自治しているためにその人数で間に合う。>

 

 司馬遼太郎が吉井良秀の『老の思ひ出』を参考にしていると確信したのは、『老の思ひ出』の次の記述の部分でした。

<番太(ばんた)や、猿など云ふ輩が幾人も出入した、今から思ふと与力や同心輩でも随分と威張り散らしたもので有る、公用で出張する時は番太が先駆して、ホーハァ、ホーハァと連呼して大道を闊歩した事と記憶して居る、>

 

 これが司馬遼太郎『菜の花の沖』では、西宮の浜の船宿で昼を済まし、町方に戻ってきた二人が見たシーンとして描かれていたのです。
<町で、おもしろいものを見た。毛脛をむき出した男が、「ホーハァ、ホーハァ」と叫びながらやってくる。はじめは気でも触れた男かとおもってよく見ると、色白で眉のあがったりりしい顔立ちの男なのである。>


<「ホーハァ、ホーハァ」と叫ぶ体は、ただごとではない。さらにおどろいたのは、その男の奇声によって道を往くひとびとがいそいで軒下へ身をよせることであった。嘉兵衛もおふさも人の真似をして軒下に入りつつ、(たれか、貴人でも来るのか)と思ううちに、事態がわかった。与力一騎がやってくるのである。一騎というのは身分をさす。騎馬ではなく徒歩でやってくる。>


<与力のうしろに従っている草履取は、与力の私的な雇い人である。この練り歩きは、与力の定期的な市中巡視らしい。江戸や大坂なら、町奉行所の与力は、このような見世物の体として練り歩かない。この点、西宮は田舎なのか、ともかくもたった一人駐在している幕府権力の代表者としては、一人であるだけにときどき権力を顕示しておかねばならないらいい。>
与力というのは相当偉かったようです。


司馬遼太郎は、吉井良秀氏の記憶に時代背景の説明を加え、西宮の与力の市中巡視の様子を活き活きと描いていました。



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司馬遼太郎も参考にしていた吉井良秀著『老の思ひ出 一名西宮昔噺』

 司馬遼太郎『菜の花の沖』ではかなり詳しく江戸末期の西宮の様子が描かれています。

西宮市史など参考にされたのではないかと思っておりましたが、御番所の部分は、吉井良秀著『老の思ひ出 一名西宮昔噺』を参考にされたことは、ほぼ間違いないと思いました。


 少し比較してみましょう。
まず司馬遼太郎『菜の花の沖』からです。
<幕府直轄である西宮は、その西方の兵庫とともに、大坂町奉行所の支配であることはすでにふれた。西宮の倉開地というところに、「御番所」というものが置かれていた。大坂町奉行の出張所というべき役所で、西宮の町方・浜方に対する行政権と警察権の一切をこの御番所が持っている。>

 

 さて昭和3年2月11日に発行された吉井良秀『老の思ひ出 一名西宮昔噺』の「番所の事」を読んでみましょう。


<維新前西宮の行政は町方と浜方と二つに分れて有つて、庄屋が各一人、年寄は各二人、若くは三人、次に年行司や組頭が置かれて有つた、惣会所が有つて庄屋が総轄し、年寄は自宅でも事務を扱ふて居た、人別即戸籍杯は年寄が管して居た、>
と行政が町方と浜方の二つに分けられていたことが述べられ、更に
<監督官庁に御番所と云ふが有つて古く倉開地に置かれて有つた、>
と、倉開地にある御番所が町方・浜方を監督していたことが述べられています。


 倉開地というのがどこの地名かわからなかったのですが、郷土資料館の江戸時代の西宮町浜図 を見ると、御番所は西宮戎神社の正面につながる旧国道と札場筋の交わるあたりだったのかもしれません。

 

 司馬遼太郎『菜の花の沖』に戻ります。御番所の情景が次のように描かれています。
<御番所は南面している。大きな長屋門があり、敷地のまわりには高い土手が築かれ、土堤の上に松が茂り、さらに土堤に沿って堀が穿たれているあたり、城とまでゆかないが、典型的な陣屋の結構といっていい。
「これが、西宮をたばねる御番所だ」嘉兵衛は、通りながらおふさに言った。「それはまあ、怖いこと」おふさはくびをすくめつつ小走りになった。「こわがることはない」嘉兵衛は、洲本の御役人衆とおなじで、威張るだけで度胸も中身もない。屁のような人間がこのなかにいるだけだといった。>


<門が閉ざされているために嘉兵衛とおふさがいる路上から構内は見えないが、門を入れば砂利が敷きつめられていて、その正面が大きな玄関である。門を入った脇に、門番小屋がある。
 門から玄関までのみじかい道の両側に、重そうな捕物用の鉄棒、また逃げようとする者ののどを押さえてとらえるY字形の刺股、あるいは槍といったように、長いおそろしげなものが、垣のように立ててある。玄関へ入ると、板壁に弓矢、鉄砲がたてかけられている。>

 

 さて『老の思ひ出 一名西宮昔噺』では御番所の情景は次のように述べられています。
<監督官庁に御番所と云ふが有つて古く倉開地に置かれて有つた、南面した立派な長屋門で、西と南に堀を設け、土堤には並松が植られて有つた、
長屋門を入ると栗石を敷詰めた庭で、正面に玄関が有り、脇に受附のやうなのが有り、庭上の左右には、鉄棒や、差股(さすまた)や、槍や、色々な警備の具が並べられて、玄関には弓矢や、鉄砲が陳列して有つた、子供心に恐ろしい所だと思ふた、>
 これらの長屋門、堀、堤、砂利が敷き詰められた庭、武具などの情景が『菜の花の沖』の執筆にあたって参考にされたのでしょう。正面玄関の脇の受附のやうなのは、小説では門番小屋と解釈されています。


 吉井良秀氏が「子供心に恐ろしい所だと思ふた」と述べた感想について、司馬遼太郎は『菜の花の沖』で、おふさに「それはまあ、怖いこと」と語らせています。
このように比較していると、司馬遼太郎が史実をもとにして小説を創る過程がよくわかります。
もう少し比較を続けましょう。



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江戸初期には酒造の後進地であった灘五郷(司馬遼太郎『菜の花の沖』)

 司馬遼太郎は、高田屋嘉兵衛に西宮の強みが酒造りという地場産業を持っていることにあると語らせ、摂津での酒造業の発展について解説しています。


<ただ、商業港としての摂津西宮には、兵庫にはないつよみがある。地場に産業をもっていることであった。「なんといってもここには酒という強味がある」と、嘉兵衛はおふさにいった。造り酒屋は諸国にあるが、良質の酒を均一的に、かつ多量につくる能力は、摂津がもっともすぐれていた。摂津でも、海岸の西宮からずっと内陸に入った池田や伊丹が、酒造においてすぐれていた。灘の繁栄は、池田や伊丹よりあとである。>
 嘉兵衛の住む江戸末期の兵庫(神戸)と西宮を比較して語っており、更に灘五郷についても説明しています。

 

<ついでながら、西宮もそのなかにふくまれる灘というのは、大坂湾北岸の一地域名である。ふつう、東は武庫川河口から西は湊川の河口までの五里のあいだをいう。
 灘は、西宮郷、今津郷、東郷(魚崎)、中郷(御影)、西郷を総称して灘五郷などというが、灘といい、灘五郷というのは行政区画ではなく、主として酒造の地をいう場合に使う。>


しかし、この灘も池田や伊丹に比べると、酒造の後進地だったようです。
<要するに、酒造の後進地である灘は、先進地の池田や伊丹における先進的な技術を導入したがために発展した。清酒も、豊臣期の末か、江戸初期に伊丹付近で発明されたという。それまでは、酒といえばいわゆるどぶろくであった。伊丹の付近の鴻池(摂津国河辺郡)という村にいた酒造家が、灰汁を入れることによて澄んだ酒をつくったといわれる。>


伊丹酒造組合のホームページを読むと、清酒発祥の地・伊丹の紹介がありました。
<江戸時代には摂津は「津の国」とも呼ばれ、江戸初期の劇作家井原西鶴が『西鶴織留本朝町人鑑』に「津の国のかくれ里」として、「清酒発祥の地・伊丹」の賑わい振りを描いていますように、伊丹郷は永らく日本の酒造業の中心地であり、また極上の清酒の生産地でありました。>


http://itamisake-kma.jp/

 

 司馬遼太郎は、江戸時代に灘五郷から江戸へくだす酒の比率が急増したことを数値で明らかにしていました。
<江戸初期をすぎた享保元年(一七二四年)の文書では、江戸へくだす酒の業者は大坂がなお圧倒的に多く五百九十四軒で、西宮は八十二軒にすぎなかったが、しだいに西宮を中心とする灘五郷が膨張し、右の文書から六十年後の天明四年(一七八四年)の文書では、毎年、江戸へ送られる上方の酒六十七万五千六百七十七樽のうち、四九・九パーセントを締めるにいたる。>


 この60年間での変化の理由は何なんだったのでしょう。良質の酒を均一的に、かつ多量につくる能力なのですが。

 最後は次のように、当時の西宮の強さを述べていました。
<西宮は、その輸出品を地場で産し、地場で船をうごかし、地場の前の海から江戸に送るのである。戸数三千軒でこれだけ実力をもった町は他にない。>

 



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司馬遼太郎が高田屋嘉兵衛に語らせた江戸時代の西宮の発展

 門前の旅籠に泊った翌朝、嘉兵衛はおふさを宿にのこし、樽廻船の問屋和泉屋伊兵衛方に年賀に行きますが、そこで引き止められ、和泉屋を出たのが昼前になってしまいます。


<嘉兵衛にとって摂津西宮はおもしろかった。(もう一日泊まろう)と、おもった。>と、西宮神社に参詣した後、もう一泊することにするのです。


<時が過ぎては、足弱のおふさをつれて兵庫に帰れない。途中夜になれば歩けなくなるのである。それよりも西宮というこの規模の大きい商業をもつ町や湊をよく見ておきたい。
 おふさを旅籠にむかえにゆき、連れ立って戎の宮(戎社)に参詣したあと、町々を歩いた。「西宮は大町じゃ。家の数が三千とうわい」嘉兵衛は自分の町のように説明した。>

 

 そして司馬遼太郎は江戸時代にこのような大きい商業を持っていた西宮が何故大坂レベルまで発展しなかったか、嘉兵衛があたかも考えたかのように、自説を展開します。
<(西宮が交通の要衝であるのに、なぜ大坂にならなかったのか)とも考えたりする。
大坂には琵琶湖の水を運ぶ淀川という大河があり、かつ後背地が広大な農耕地で、大人口を養えるということであろう。>

 


<京と結ぶ陸上交通の要地である西宮の場合、背後に広大な北摂平野をもっているということでは、兵庫よりも大市街を構成する条件がある。ただ河川が、小一里東方に武庫川を持っているほか、まことに貧弱で、結局、豊臣期という貿易時代に西宮がとられず、大坂がひらかれたのは、むりのないことかもしれない。>
大坂、兵庫(神戸)、西宮の街としての歴史的な発展の背景が解き明かされ、続いて酒造りの強みが述べられます。それは次回に。



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なるほど。河川は大きな要素ですね。大坂はもともと広い湾から土地が生まれましたので、開発余地があったのではと思ってます。

[ 香盛修平 ] 2015/09/22 8:49:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

香盛さんコメントありがとうございます。西宮流に掲載されていた岡本さんのインタビュー記事も読ませていただきました。香盛さんも、西宮ブログに参加されませんか。オペラの話や、小説の話、お仕事の話など皆様期待されていると思います。

[ seitaro ] 2015/09/22 18:50:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。バタバタしておりますが、落ち着きましたら始めてみたいと思います。

[ 香盛修平 ] 2015/09/25 9:53:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

香盛さま、楽しみにお待ちしております。

[ seitaro ] 2015/09/25 14:16:53 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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