阪急沿線文学散歩

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『シズコズ・ドータ―』の著者キョウコ・モリは西宮に住んでいた

 キョウコ・モリは、神戸女学院在学中に、嫌いな家族から逃れるために、二十歳で日本を離れイリノイ州の大学に入学します。その後、ほとんど帰国しなかったキョウコの目は、アメリカ人の感覚で日本を見るようになっていました。

 日本を捨てたキョウコは、真実を率直に話さない日本人の、礼儀正しいとされる表現や慣習に違和感を覚え、それらを『悲しい嘘』と題したノンフィクションの12のストーリーで語ります。

原著はもちろん英語で書かれ、“Polite Lies” On Being a Woman Caught Between Cultures『礼儀正しい嘘』(二つの文化のはざまで生きる女性として)という副題がついています。翻訳は、もはや日本語で表現できなくなったキョウコ・モリではなく、部谷真奈美さん。

 キョウコが最も嫌った父親は当時神戸に本社を置いていた某鉄鋼メーカーのエンジニアでしたが、第二章家族には本名で登場し、次のように描かれています。
<そして母が死ぬまでは、まるで母子家庭のように肩寄せ合って暮らしていた。週末や夏休みになってもっと大きな家族のところに仲間入りすることはあっても、毎日の生活のなかに父の影を見ることはほとんどなかった。父のヒロシはいつも私たちの起きだす前に仕事に出かけ、眠ったあとに帰ってきたから。出張で戻らない日もしょっちゅうだった。たしかに父くらいの年齢なら、こんな仕事ぶりも普通のことだったと思う。ただ彼の場合は、週末も家に寄りつかず、たいてい大学時代の友人とラグビーやゴルフをしに出かけてしまっていた。>
 父親のヒロシ・モリ氏は京大ラグビー部でした。これはおそらく高度成長真っ只中の昭和45年頃のお話で、私もその二十年後には同じような生活をしていたことを考えると、我が娘たちはどのように映っていたのだろうと、今更ながら心配になってきます。

 キョウコは生まれてからずっと芦屋育ちと思っていました。
たとえば、従妹のカズミとの中華料理店での会話では、
<芦屋で育った令嬢は、夕食の席で死とか病気についていつまでも話したりはしない。わたしたちは、死、病気、不幸といった縁起の悪い言葉は、どんな席でも口にするのを避けるよう教えられていた。>と述べています。

 しかし、日米の住所表記の差について述べる中で、西宮に住んでいたという文章がありました。
<日本の住所というのは、単純で理にかなっているように見えるけれど、実はそうでない。わたしは昔、西宮市松ヶ丘町十二丁目十七番地という住所にっ住んでいたことがある。これは、西宮という市にある、松ヶ丘と呼ばれる町の、十二番目の丁の、十七戸目に建っている家という意味だった。けれど、町内を走っている細くて曲がりくねった道々には名前がないせいで、どこからが十二丁目なのか人には説明できなかった。>

西宮では丁はないですし、番地の呼び方は何度か変わっていますので、正しいかどうかわかりませんが、西宮市松ヶ丘町12-17を調べると、苦楽園口の生協のすぐ近くにありました。
彼女はいったい何歳の頃、松ヶ丘町に住んでいたのでしょう。

『悲しい嘘』では、
<ふたつの文化をまたいで生きていくには、難しいことがたくさんある。なかでも、何か違うと感じることがあったときにそれをどう判断するかは一番難しい。「違っているけれど、それなりに意味のあるもの」は受け入れなくてはいけない。>
と述べ、日米の異なる文化を生きるキョウコ・モリの苦しみが素直に書かれていますが、最後は「過去ばかり見つめていても問題は解決できない。」とアメリカでの暮らしの中で力強く生きていこうとします。
日米の比較文化論的な面もある、読み応えのあるノンフィクションでした。



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『シズコズ ドータ―』キョウコ・モリの父

 キョウコ・モリ著・池田真紀子訳『シズコズ ドータ―』の単行本の帯には、
<史上初、逆輸入の新しい日本文学 美しい花に彩られた神戸を背景にキョウコ・モリが綴る魂を揺さぶる愛の物語>と書かれ、原著は1993年ニューヨークタイムズ・ベストブック受賞という秀作でした。


「編集後記」にはキョウコ・モリについて、次のように紹介されています。
<著者キョウコ・モリは、一九五七年神戸に生まれる。父親は鉄鋼会社の重役を務め、経済的に恵まれた家庭に育つ。神戸女学院大学付属の中学に合格した直後の十二歳のとき、最愛の濃密な日々を過ごした「日本」から離れようと心に決めていたようだ。神戸女学院大学に二年間在籍後、アメリカ・イリノイ州のロックフォード大学に編入学をし、さらにウィスコンシン大学の大学院に進学する。以来アメリカに移住して現在に至る。>

 この紹介からキョウコ・モリについて興味を持ち、和訳されていない著書The Dream of Water (1995)  Yarn: Remembering the Way Home (2009)まで読み進むことになりました。

 英文の上記2冊は私小説に近く、会社の名前や個人の名前が本名のまま記されており、あまりにも赤裸々に綴られているので、それがゆえに和訳されないのかもしれません。

 例えば、Yarnの第一章では、父、母、継母のことなどが詳しく書かれています。

 1954年にK製鉄で秘書として働いた母Takakoはエンジニアの父Hiroshiと出会い、恋に落ちます。独身時代にHiroshiが結核になり一年間サナトリウムに入院したとき、看病のためTakakoは仕事をやめ、その間、針仕事で彼女の両親や弟妹を支えます。その後Hiroshiの傲慢さや虚勢を見抜いていた両親の反対を押し切って、結婚します。
 父Hiroshiは母がKyokoを妊娠したときから、他の女をさがしはじめ、結婚して5年後には最早、毎晩は家に帰ってこなくなっていました。
 7年間、母はKyokoと弟のJumpeiを寝かしつけた後、一人で刺繍と縫い物に没頭します。そして夜中の1時か2時に父はバーからよく電話してきて、家に帰らず、そのまま出張に行くと伝えるのです。
 Kyokoが11歳になると一家は芦屋の山手の大きな家に引っ越します。父は当時5,6人の女友だちがおり、夜になると父を探して電話してくるのですが、仕事で家にいないと答えると、女性はうそつきと責めるのでした。
そして母親は1969年の3月に自殺してしまうのです。
母の死の2か月後、父はKyokoが家事ができないからと、愛人だったMichikoを家に迎え入れ、理解のない父と、まるでシンデレラのお話のような典型的な継母との関係が描かれます。
 Kyokoは神戸女学院大学2年のときに、家族から離れるためスカラーシップを得てアメリカ留学し、そのままアメリカに滞在し続け、決して父を許すことはありませんでした。

 今回のこのような悲劇的な英文のストーリーを翻訳して、敢えてブログに掲載したのは、この7月に初めて私の会社の阪神地区OB会に出席し、シズコズドータ―のお話をしたところ、父Hiroshiをご存知の方が数人おられ、彼の若かりし頃の話を聞くことができたからです。
 K大学卒で学生時代からラグビーをされていたそうで、会社でもラグビー部に入り、一線を退いてからも休みの日には審判をしていたそうですから、The Dream of Waterに書かれているとおりでした。会社では営業と技術部門を結びつける先駆的な業務を展開したりして、大変評価の高い人物であり、最後は関係会社の社長まで務めた方でした。

 家庭を顧みず、家族からの評価と会社での評価がこれほど違うのは珍しいかもしれませんが、あの高度成長時代の歪がもたらした産物だったのかもしれません。
 二人の娘を持つ私も、娘たちが中学から大学にかけての大切な時期に、単身赴任していたり、家に帰ることも遅く、娘たちとほとんど会話をすることなく過ごしました。二人とも巣立ってしまった現在、父親がどのように見えていたかというのは最大の関心事です。



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1944年、女学院の噴水のほとり(キョウコ・モリ『めぐみ』より)

 キョウコ・モリ『めぐみ』では、主人公めぐみの通う女子校は「芦屋女学院」として登場しますが、明らかに著者のキョウコ・モリが通った神戸女学院がモデルとなっています。
 第八章噴水のほとり By the Fountain では中庭の噴水の光景が描かれていました。
<山辺先生と私は、数歩を進んで、中庭の真ん中にある噴水の前で立ち止まった。大きな水しぶきをあげるかわりに、水の中からゆっくり泡がのぼってきていた。白いスイレンの葉が浮かぶ小さな丸い池の水面は、泡の粒で揺れ動くこともなく、スイレンの根の間にはちっちゃな金魚が泳いでいる。>

(写真は秋に撮らせていただいた神戸女学院の中庭の噴水。後ろの左手がソール・チャペルです。)


 めぐみは噴水の前で聖書の山辺先生から、聖霊降臨祭の礼拝の準備のメンバーに加わるよう誘われ、授業のあと山辺先生の部屋を訪ねます。
<山辺先生の部屋の向こうの壁には、一九四四年に撮った大きな白黒の写真が貼ってあった。白いワンピースの少女が十五人と、濃い色のスーツを着た女性の先生ふたりが、中庭の噴水のまわりに半円を描いて腰かけている。学校で礼拝を行うことが政府によって禁止されたあとでも、朝の礼拝に集まっていた中学と高校の生徒たちだ。当時、キリスト教は敵国アメリカのものであり、愛国的ではないと考えられていた。公立学校では、毎朝、授業の前に神道の儀式を行い、御真影に最敬礼していた。キリスト教会に所属する人はすべて、スパイの疑いがかけられた。>
 当時、礼拝が禁止されても十五人の生徒が校長先生と聖書の藤本先生とともに礼拝堂に集まり平和を祈っていたそうです。白黒の写真は、藤本先生が1960年に退職したとき、壁に貼ったまま山辺先生に残したものでした。

 

『めぐみ』は小説(フィクション)なのですが、キョウコ・モリの自伝と読み比べると、ほとんど彼女の体験に基づいた小説のように思われます。小説に描かれた写真が実在すのではないかと、西宮中央図書館で『神戸女学院 目で見る100年』を閲覧させていただきました。


 戦時中、甲山を背にしたグランドで長刀訓練に励む女生徒たち。今ではとても想像もできない光景です。


小説に御真影の話が出てきましたが、ソール・チャペル前にあった奉安庫の写真がありました。

 当時ここに納められた御真影に最敬礼していたのでしょうか。


ソール・チャペルの写真も有り、そこには<はげしく廻転する時代の流れの中で、ソール・チャペルが問いかけているのは何であろうか。>という言葉が添えられていました。

(上の写真は現在のソール・チャペル)

 

 小説ではめぐみの母親が1944年の噴水のほとりの写真に写っていました。
<私はこの学校に入る前からこの写真を見たことがあった。加藤のおばさん、内田のおばさん、それに私の母は三人とも、同じ写真の小さいものをアルバムに貼っていた。六歳か七歳のころには、写真の中のおばさんたちを指差すことができた。それぞれに見間違いようがない面影があった。ただ若いだけ。母はちょうど真ん中に座っていて、長い髪が完璧な卵形をした輪郭を縁どり、大きな目は「さあ、逮捕してごらんあさいよ、覚悟はできてるわ」とでも言うように、レンズをまっすぐに見つめていた。>
 小説ではありますが、登場する写真は実在したものではないでしょうか。残念ながら『神戸女学院 目で見る100年』には掲載されていませんでしたが。



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1975年ごろの芦屋浜の風景

 キョウコ・モリは小学生の頃、よく母親と芦屋浜を散歩したそうです。彼女の著作『めぐみ』にも、埋め立てられる前の、芦屋浜の情景が描かれていました。
主人公めぐみは友人の徹に、「じゃあ。ドライブにでも行くか。海の方に行ってみよう、いいか?」と誘われて、芦屋浜に向かいます。


<防波堤のそばの古ぼけた釣具屋の前に車をとめた。車のドアを開けた瞬間、堤防の向こう側に打ちつける波の音が聞こえた。急な階段を上って下りると、砂浜だった。打ち寄せる波が轟き、砂浜にぶつかって、長いため息のようにまた入り江に流れ去ってゆく。
「座るか」徹が砂の上にどさっと腰を下ろした。一メートルほどのところに藻や黒褐色のイガイが並んでいて、最後の満ち潮のとき海水がどこまで来ていたかを告げていた。>


 昔の芦屋浜の航空写真です。

 

 急な階段を上ると、海は無くなっていました。

 


村上春樹も、遠藤周作も、宮本輝も埋め立てられた芦屋浜を見て嘆いた風景。

キョウコ・モリが中学生の頃はまだ芦屋浜が残っていました。

<浪はどーんと打ち寄せたり、ため息のように去ったりを繰り返している。まるで入り江の水が私たちに近づきたいと、たった一度でも岸に触れたいと焦がれているかのようだった。私は悲しい気持ちになった。「さてと、話そうかい」徹が促した。
悲しい波の音を聞きながら、ふいに何と言ったらいいのかわからなくなった。母たちと一緒に歩き、貝殻を集めて笑ったこの
浜辺に座って、父の愛人のことを話すなんて、どうしてできるだろうか。>

 

 現在わずか50m程度残された芦屋川河口の海岸線です。

キョウコ・モリは幼い 頃、海岸線の近くの社宅に住み、母親と浜辺を歩き、貝殻を集めた思い出を小説に描いていました。


1959年版映画「細雪」の最後は幸子と雪子が芦屋浜を歩いていくシーンで終わっていました。

 



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小説『めぐみ』に登場する芦屋のジャズバー『オーキッド・ジャズ・クラブ』

 村上春樹は『風の歌を聴け』で芦屋川沿いのビルに「ジェイズ・バー」を登場させましたが、芦屋にそのモデルがあったのかどうか良くわかりません。


芦屋市山手に住んでいたキョウコ・モリも、小説『めぐみ』に芦屋駅近くのジャズ・バーとして『オーキッド・ジャズ・クラブ』を登場させました。


 主人公めぐみと幼馴染の聖が駅前を歩いて行く場面です。
<駅を過ぎ、パン屋、惣菜屋、ブティックが並ぶ通りを進んでゆく。どちらも口をきかない。ブロックの終わりまで来ると、聖は、薄紫色に塗ったドアのあるバーの前でふいに立ち止まった。『オーキッド・ジャズ・クラブ』ドアの看板にはそう書かれていた。>
 芦屋にあったジャズ・バーを調べると、昔国鉄(JR)芦屋駅北 兵庫銀行隣り嵯峨マンション2F(船戸町2-5)に中島らもさんも通っていたというジャズ喫茶 Half Note があったそうで、『オーキッド・ジャズ・クラブ』の場所と一致しそうです。

 

 めぐみは聖から、年上の徹がそのバーで働いていることを聞きます。
<教会へ向かう途中で、駅の前の道を通った。聖が教えてくれたジャズ・バーのネオンサインが灯っていた。緑のつると紫の花が、薄紫に塗られたドアで点滅している。>
 実在したHalf Noteも薄紫のドアだったのでしょうか。店内の様子も描かれていました。
<私はドアに手をかけ、肩で押すように中に入った。ドアがしまり、私は真っ暗な店内に取り残された。一瞬うろたえたけれど、もうあと戻りはできない。誰もいないカウンターの方へ歩いていった。小さな天井のライトがプラネタリウムを思い出させる。>


<カウンターの奥の棚に、ワイングラスが溶けかけたつららのように逆さまにかけられていた。バーテンダーが洗いかけの皿から目をあげる。そのあとも一瞬、ステンレスのシンクに水が落ちるざーっという音が続いた。次の瞬間、その音は消え、ステレオのピアノのソロ演奏だけが残った。>
女学院時代には芦屋の山手に住んでいたキョウコ・モリもよくHalf Noteに行っていたのかもしれません。

 



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Half Note、確か行ったことがあると記憶しています。

[ せいさん ] 2016/02/11 16:31:31 [ 削除 ] [ 通報 ]

怖いおばさんのイメージがあります。

[ ふく ] 2016/02/11 16:38:21 [ 削除 ] [ 通報 ]

中高時代、ここに出入りしている人はちょっと何というのでしょうか。独特でした。灘・甲陽・関学・甲南・女学院・聖心あたりの子どもが。背伸びしていってました。Jazzはどこまで好きだったかわかりません。高3の物理のレポートはここで知り合った灘と甲陽の生徒さんたちにみんなで書いてもらったような記憶があります。かまぼこ屋さんに養子に入られたかたも来ておられました。怖いおばさんがいたイメージですが私はあんまり詳しく覚えていません。常連の友だちに聞けばすぐ思い出してくれると思います。

[ ふく ] 2016/02/11 16:53:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

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小説の舞台として登場する芦屋市立山手小学校(キョウコ・モリ『めぐみ』)

 芦屋市立山手小学校は小川洋子『ミーナの行進』で本田美奈子がコビトカバに乗って通う学校として次のように登場します。
<神戸の私立小学校に行かなかったのは、すべてミーナの健康が理由だった。スクールバスであれベンツであれ、排気ガスのにおいは発作の要因となった。一番家に近く、通学の負担が少ないという理由でY小学校が選ばれた。そこまでなら、途中芦屋川に架かる開森橋を渡って、歩いて二十分くらいの距離だった。ただ問題なのは急な坂道だった。>

 

 キョウコ・モリが実際に通った小学校は山手小学校だったようで、『めぐみ』に登場する小学校も山手小学校です。
<芦屋川に沿った砂利道から眺めると、川の水は少なく見える。この数年、ずっとこのくらいの水位だ。市の歴史の授業で習ったように、むかし洪水や大津波があったなんて、ちょっと想像できない。カワセミが川面をかすめて飛んでゆき、視界から消えた。北東の丘の上に、なつかしい小学校が杉の間から突き出るように建っている。正面のクリーム色の壁を背景に、小さな窓の行列が陽射しを受けてきらめく。>


 現在は木立や住宅に視界が遮られ、開森橋のあたりから校舎は見えませんが、昔ははっきりと見えていたようです。

(開森橋と山手小学校)


 山手小学校の沿革を見ていますと、校舎は阪神淡路大震災で甚大な被害を受け、平成13年に新校舎竣工とありますので、小説に描かれている校舎とは違っているようです。


 めぐみは幼馴染の徹の車で、なつかしの小学校を見に行きます。
<信号が変わり、車は丘を登りはじめた。急な上り坂で、シートにぐっと押しつけられる。肩がうしろにそって、まるで坂の下に向かって後方宙返りをしているみたいだ。>
開森橋から遠藤新のヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)前も急な坂道を登ります。

<数分後、車は小学校の駐車場に入った。徹がヘッドライトを消してエンジンを止めると、目の前に街が見下ろせた。ライトアップされた海岸線の向こうには、暗い海が弓の形に広がっている。>

 


現在の山手小学校あたりからの景色です。


昭和27年の山手小学校から海岸を望む写真がありました。

キョウコ・モリの記憶にある景色は、こちらに近いものだったのでしょう。


<人気のない校庭が白い電灯に照らし出されていた。なつかいい遊具がまだ残っている。シーソー、滑り台、ジャングルジム、ぶらんこ。すべて、むかしと同じうすい緑色に塗られている。奥の北のすみには、毎朝の朝礼で校長先生が立って話をした青い朝礼台があいかわらず置かれていた。私が一年生のとき、六年生だった徹が生徒会長をしていた。毎週水曜日には、徹が朝礼台に立って生徒会の報告をしていた。あおれから五年後に、女子で初めて生徒会長に選ばれた私と同じように。>


小説の舞台にもなっている伝統ある芦屋市立山手小学校でした。



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キョウコ・モリ『めぐみ』に登場する私立芦屋女学院とタイム・カプセル

キョウコ・モリ『めぐみ』で主人公清水めぐみが通う高校は私立芦屋女学院です。
<私が通っている私立芦屋女学院には制服はない。ジーンズにふわふわの赤いセーターを着て、長い髪をポニーテールにした私は、きっと子どもっぽく見えるにちがいない。>


原作『One Bird』のPaper Backの表紙は、上記の芦屋女学院に通うめぐみの姿を描いたものでした。


 著者のキョウコ・モリは1957年生まれ、神戸女学院大学二年のとき、アメリカのロックフォード大学に編入学しています。

 したがってここで登場する私立芦屋女学院とは、自分自身の出身校である神戸女学院をモデルにしたのでしょう。

 1975年、主人公のめぐみは15歳で、学校で住友銀行主催のタイム・カプセル・プロジェクトに参加する話がでてきます。めぐみが朝6時に起きて作文を書こうとしている場面です。
<そのうえ、作文のテーマはひどく退屈で、おおざっぱすぎた。『一九七五年に高校生であるということ』。この作文は、住友銀行後援の『タイム・カプセル・プロジェクト』のためのものだ。住友銀行大阪本店の金庫室の鍵のついたトランクが用意されていて、西暦二千年に開けることになっている。新聞、雑誌、本、映画のポスター、写真の他に、各学区から一編ずつ作文を選び、中に入れておく。私の学校では、この四月に高校に上がる学年から上の生徒が全員、作文を提出することになっていた。>


 現在は三井住友銀行となっている住友ビルの大阪本店では西暦2000年に金庫室のトランクは開けられたのでしょうか。


 キョウコ・モリの作文がタイム・カプセルに保管された一編として選ばれたかどうかはわかりませんが、あまりにも具体的に詳しく書かれているので、実際に神戸女学院の高等部時代にキョウコ・モリが経験したお話ではないでしょうか。

 



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ふるさとの芦屋を小説で描きたかったキョウコ・モリ

 キョウコ・モリは長編小説『めぐみ』(原題『One Bird』)の著者あとがきで、「野鳥を育てた経験を本にしたくて、そして、ふるさとの芦屋を描きたかったこともあって…」と述べています。


 したがって『めぐみ』には芦屋の教会や小学校、芦屋浜の風景、更にはオーキッド・ジャズ・クラブというジャズ・バーまで登場します。(村上春樹の『風の歌に聴け』に登場するジェイズ・バーのようなジャズ・バーが芦屋に実在したのでしょうか。)

 芦屋の風景の一つとして、めぐみが昔よく母と散歩したという皇太子の墓所が登場します。
<丘の下の街の灯を見渡して、私の家から南に三、四キロの徹の家の辺りを探す。すぐに見つかった。大きな鍵穴の形をした真っ暗な森のそばの、白とオレンジの灯が集まっている一角。むかしはよく、母たちと一緒にあの森のまわりを散歩した。森は、四世紀につくられた皇太子の墓所なので、塀で囲まれていて中には入れない。ほんの子供のころの私は、あの森全体が皇太子の墓なのだと信じていた。杉の根元のあたりに皇太子のひざが埋まっていると、長さが1.5キロもある足の上に草地が広がっているのだと想像していた。当時の人々は、いまのひとよりも体が大きかったのだと思っていた。>
 芦屋に有る「四世紀につくられた皇太子の墓所」といえば、翠ヶ丘町にある阿保親王塚古墳に間違いないでしょう。

 

 航空写真を見ると、山手幹線がすぐ傍を走り、周りは住宅街となっていますが、ここだけは今も森が残されています。ただ「大きな鍵穴の形をした」とは、前方後円墳をイメージしたものではないかと思われますが、親王塚古墳は約36メートル、高さ約3メートルの円墳です。

 私も訪ねてみました。

 正面にある石燈籠は長州藩主毛利候の寄進とされており、一対は阪神大震災によって失われたそうです。

 

 宮内庁の管轄となっているようで、ちょうど剪定、清掃作業に来ていたトラックにも「宮内庁」と表示されていました。

 


 宮内庁の掲示板があり、やはり立入り禁止です。

 

 まわりは生垣で囲われて立ち入ることができませんが、わずかに残された森に小鳥たちが集まっているようで、さえずり声が聞こえていました。

 


キョウコ・モリが散歩したのは45年ぐらい以前のことですから、あたりの風景も現在とはかなり違っていたことでしょう。


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キョウコ・モリが山手小学校・神戸女学院時代の友人に捧げた小説『めぐみ』

 キョウコ・モリの『シズコズ・ドーター』に続く第二作目の長編小説『めぐみ』
(原題『One Bird』)は1995年に米国で刊行され、ニューヨーク・タイムズから「どんな期待をも上回る最高傑作!前作を越える素晴らしいストーリーと文体!」と絶賛されています。私も彼女の小説としては『シズコズ・ドーター』より優れた作品だと思います。

 

 著者あとがきで、グリーンベイ・ビーチ鳥獣保護で野鳥のリハビリテーションを手伝ったことから、「野鳥を育てた経験を本にしたくて、私はこの『めぐみ』を書いた。」と述べているように、主人公清水めぐみの心の動きと、野鳥の生態を重ねた作品となっています。


(写真は主人公の清水めぐみが春に芦屋の家の庭で出会ったヒレンジャク;野鳥図鑑より)


 野鳥と草花が好きなキョウコ・モリは、小説の着想について次のように述べています。
<またこの小説を書くときには、いまも連絡をとりあっている日本の古い友人からも着想を得た。例えば、冒頭シーンは、小学校三年生のときはじめてできた親友、三木尚子さんからヒントをもらって書いたもの。二年前、二月末のまだ寒い時期に神戸の尚子さんは、もう春の花を育てはじめていた。平箱に入った、顔を出したばかりの苗は、電気座布団にのせられて、すきま風から守られていた。孵って間もないひな鳥を育てたとき、私も鳥たちを電気座布団にのせていた。私と尚子さんの共通点だ…電気座布団の上で何かを育てている。私、小説に尚子さんの花を登場させたいと思った。私の育てた鳥たちを登場させたように。
 二年前に日本を訪れたこのとき、尚子さんの他にも、神戸女学院時代の友人、ミヤ、ヒロコ、サチにも会うことができた。>


写真は現在のキョウコ・モリの書斎の窓(WASHINGTONIANより)


<私の夢に出てくる友人たちや私は、いつも九歳だったり十歳だったり、十三歳だったり十四歳だったりする。そして、いつも楽しそうに遊んでいる。だからこの小説は、私の友人たちに捧げたい。まずアメリカの友人たちに。この中には野鳥のことを教えてくれたひともいる。そして子供時代の大切なひと、日本の友人たちに。>


キョウコ・モリの子供時代の思い出は、家族との悲しいことばかりではなく、友人たちとの楽しい思い出も数多くあったようで、ほっとしました。
これからその舞台として登場する芦屋の光景などを紹介してまいります。



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1990年キョウコ・モリは友人と三宮のゲイロードへ(THE DREAM OF WATER)

 KYOKO MORI ‘ THE DREAM OF WATER’ からです。
キョウコ・モリは神戸女学院時代の友人ミヤの車で三宮に向かいます。


<ミヤと私は、よく母と買い物に行った大丸の地下のパーキングに車を入れた。パーキングは地階のワインやチーズ、チョコレート、パン菓子類の食料品売り場に繋がっていた。コーヒーの香で、母とともに買い物に来たとき、途中でよくコーヒーショップで休んだことを思い出した。私たちの好きな場所は、港が見晴らせるもうひとつのデパートの屋上で、紅茶とケーキを楽しみながら港の船の数を数えたりした。>
 大丸神戸店の建物は震災で崩壊後、1997年に再建されており、旧居留地の雰囲気を残した1階のカフェも当時はなかったかと思いますが、私の好きなカフェです。


 地上に出たキョウコとミヤはどこへ行こうか相談し、キョウコは

“Okay. How about Gaylord?”と提案します。
<私はインディアンレストランの一つを尋ねた。「あのお店はまだあるの?」「ええ、春に夫とJayceesの彼の友達と一緒にお店に行ったのよ」>
 私の学生時代からあったゲイロード。当時はインド料理の店も少なく、三宮の地下街にあったお店に、時々行った思い出があります。
<私たちは国際会館の方へ通りを横切り、地下への階段を下った。私たちの右側に、ゲイロードがあり、明るい赤色のドアの入口に像の描かれた壁掛けがかかっていた。暗い店内の内装は、すべてが私の記憶どおりで、ワインレッドの壁があり、黒いテーブルの上では蝋燭の火がちらちらしていた。サリを着た女性が私たちを豪華な赤い椅子に案内した。2、3のテーブルがふさがっているだけだった。東インド人のウェイターが日本語で私たちの注文を聞き、お辞儀した。>


現在はどうなっているのかと探してみると、神戸市立博物館の前に今もお店がありました。

なつかしく入ってみました。



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建物が変わって面影はなくなっていますがまだあります。知り合いのイギリス人が、あんな恥ずかしい名前つけられたら、カレー好きだけど行けないと言ってました。当時は日本ではそんな意味に使われてませんでしたから…でしょうか。

[ ふく ] 2016/01/08 8:02:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

創業者二人の頭文字から、こんな名前にしたそうですが、創業時にはGAYという言葉も、現在の意味では使われていなかったのかもしれませんね。懐かしいお店です。

[ seitaro ] 2016/01/08 9:08:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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