阪急沿線文学散歩

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/bungakusanpo

谷崎潤一郎も通ったという三宮のバー・アカデミーが消えていた

 谷崎潤一郎も通ったというバー「アカデミー」に一度行ってみたいと思っていました。その頃は上筒井通りにあって、戦後、布引町に移ってきたそうです。
 思い立って加納町に向かったのですが、その前に途中で立ち寄ったのが、東門街のはずれにあるBARふくろう。

バーテンダーが一代で続ける店としては三宮で最も古いバーで、来年は50周年を迎えるそうです。

店内にはあちこちにふくろうが。

マスターの福田さんにアカデミーのことをお話すると、もう閉店されたとのこと。
その日はあきらめて、後日その跡地に行ってみました。

 私の好きな作家のひとり辻原登も短編小説『夏の帽子』の舞台に「アカデミー」を登場させています。
 谷崎賞を受賞した主人公誠一郎は芦屋だがルナホールでの受賞記念講演の後、新神戸オリエンタルホテルに戻り、十六、七年前に昔の彼女に紹介されて行った「アカデミー」に向かいます。

<三宮から県道30号、通称税関通りを新神戸駅のほうへ向かって歩いて、中山手通りと交差する加納町三丁目の北東角に「アカデミー」というバーがあった。住所は布引二丁目。私は、かつてこに三、四回行ったことがある。忘れていたのだが、いまもまだやっているだろうか。>

 ここを以前昼間に通った時、その外観だけは写真に撮っていました。

<だが、それはあった。同じ場所に、昔と全く変わらないしもたやふうのたたずまいで。車がひっきりなしに行き交う中山手通りから、いきなりマカダム舗装の細道がツゲやツデイの植込みの中へ十数メートルのびて、壁に蔦を絡ませた二階家に通じている。>

 イスズベーカリーのお隣にあったバーアカデミー。

 現在はこのように更地になってしまいまい、もはや店内に入ることはかないませんが、その様子が『夏の帽子』に詳しく描かれています。
<「いらっしゃい」高くしわがれたマスターの声。私は会釈を返して、店内を見回す。少しも変わっていない山小屋ふうのつくり。左側の壁に、畳一枚くらいの漆喰のボードが嵌め込まれている。仄明るい白熱球のもとに、セピア色のボートから美しい少年の横顔やカトレアの花、鳥籠とその中のカナリア、切り取られた鎧窓、コウモリ傘、獅子舞の頭、瓶首を握った手、パイプ、水パイプ、三人の子供の裸像、神戸の街並みなどの油絵が浮かび上がる。それぞれの絵のわきにはサインがある。R.KOISO, K.TAMURA, S.OKA……。小磯良平、田村孝之助、岡鹿之介、伊藤慶之助、坂本益夫、詩人竹中郁の名前もある。戦後日本を代表する神戸画壇の雄たちが、ここで酒を飲み、画論をたたかわせ、戯れに描いた絵。>

このアカデミーにあった壁画は解体時に取り外されて、六甲アイランド「ゆかりの美術館」に保存されたそうで、公開される日を楽しみにしています。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11497747c.html
辻原登 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

辻原登『ジャスミン』最後のクライマックスは御影の蘇州園が舞台

 辻原登『ジャスミン』の最後で、御影の蘇州園が許禮平と彼の孫娘の夫で中国領事の張良との対決の舞台として登場します。

 許禮平は御影の深田池の近くの老人ホームに立ち寄ったあと、徒歩で蘇州園に向かいます。
<御影の斜面の広大な敷地に、中国式園林をつくって、中に和風建築の母屋といくつもの亭を配し、蘇州園と名付けた。もとは関西を本拠とする大手生命保険会社の創立者が別邸として建てたものを、戦後、神戸華僑の林家が買い取って、広東料理の高級レストランとした。三十年ぐらい前なら、もし運がいいと、メインダイニングやバーで、三島由紀夫と握手を交わすこともできたし、そこどき有馬稲子さえそよ風に吹かれた桃の花のように舞い込んできた。>

 

蘇州園には昔の写真も展示されています。


<許禮平は先に来ていて、ダイニングルームの隅の席にいた。庭に一番近い場所だ。外の音が入ってきて、他の客に話を聞かれるおそれはまずない。しかし、それも取り越し苦労にすぎず、さすが大災害の直後でもあり、広いメインダイニングには遠くに二組の客の姿を認めるだけだった。>

 

ダイニングルームです。許禮平はどこに座っていたのでしょう。


<「おや、雨だ。木の葉が雨に打たれて、うれしそうだ」母屋は和風建築だが、レストランにするさいにかなり改装されて、窓を連続アーチ窓にし、芝生の庭に張り出したテラスをつくり、テラスの屋根をヒノキの素朴な彫刻を施した六本の列柱で支えた。雨は庭灯を浴びて一粒一粒それと見分けられ、一粒一粒きちんと芝生の上に落ちていた。>

 写真の手前が和風建築の母屋です。奥のダイニングルームのある白い建物に六本の列柱が見えています。


<雨垂れの音を聴きながら木床の廊下を歩き、二つほど角を曲がって、張良はシェードをかけた明かりで仄暗い部屋に案内される。カウンターはなく、ゆったりとした革張りの肘掛椅子と低いテーブルが置かれている。巨大なマホガニーの棚にはさまざまな酒瓶が並んでいた。客は彼ら一組だけである。>

バーのカウンターです。
この部屋で許禮平と中国の大阪総領事館情報担当領事張良との気魄がみなぎる交渉がなされたのです。張良はハイヤーで大阪に帰る途中、「おれは譲歩したが、負けたわけではない」とつぶやいていました。

 

 今回の写真は一昨年の12月に使わせていただいたときに撮影したものですが、三階かの紅葉の眺めも素晴らしいものでした。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11314434c.html
辻原登 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

辻原登『ジャスミン』冒頭から登場するトア・ロードのテイテは実在していた

 辻原登『ジャスミン』の冒頭は次のように神戸の鼎鼎(テイテ)というフランス料理店のシーンから始まります。


<鼎鼎(テイテ)は昔から鼎鐘で、主人でコックの石英は三代目である。祖父の石勇は広東人で、フィッシャー商会支配人のコックとして上海からやってきて、のちに独立してトアロードのなかほどに小さな広東料理店を開いた。しかし、現在の鼎鼎はフランス料理矢である。メニューも仕様もオーソドックスなものだが、バターをいっさい使わない料理で評判をとっている。鼎鼎という店名は中国でも珍しい。鼎はかなえ、二つ続けると勢いが盛んなさまになる。北京語ではディンディン、広東語ではテイテイ。しかし、石勇はよびやすいようにテイテとよませた。>
 

 このお店の歴史や様子がかなり詳しく描写されているので、実在したのだろうかと調べてはみたもののわかりませんでした。しかし最近、辻原さんが文庫版の村田喜代子著『龍秘御天歌』の解説を読み、そのなかに広東料理店テイテの名を見つけました。
<その頃、私の家は神戸の深江南町にあった。村田さんは神戸を四度訪れている。新神戸オリエンタルホテルに泊まっている村田さんを家内を連れて誘い出し、ロープウェイで再度山や摩耶山にのぼり、御影の「西村」でコーヒーをのみ、コーヒー党の村田さんにぶあついコーヒーカップをプレゼントした。

 


旧谷崎潤一郎邸の倚松庵や住吉山手の白鶴美術館をのぞく。深江南町の家に立ち寄って、私がコーヒーをいれる。夜は、トアロードのテイテか熊内町の雅苑の広東料理、篠原北町の兆陽庵、六甲道に近い樽正などで食事した。
やがて私は横浜の保土ヶ谷に引っ越した。>
http://umedayoon.web.fc2.com/shohyo1/ryuuhigyotennka.htm


 芦屋市平田町(ジャスミンの主人公の姉が住んでいたところ)のすぐお隣、深江文化村のあったところ)に辻原さんはお住まいだったのです。

 そして神戸の街の風景、食事を楽しまれたようです。これを読んでトアロードに広東料理店テイテが実在し、辻原さんが行かれていたことがわかりました。


 そして遂に1991年の神戸っ子アーカイブの「KOBEうまいもん&ドリンキングMAP」にトアロード中山手三丁目付近にTEITEの名前を見つけることができました。

 

『ジャスミン』の冒頭に登場するテイテですが、最後の震災直後に主人公彬彦と李杏が神戸の町を歩く場面では、次のように登場します。
<山麓道を西に進む。下山手から三宮にかけて、パッと大きな火柱がいくつも上がった。トアロードの鼎鼎もこのぶんでは無事ではすまないだろう、と彬彦は唾をのみ込んだ。>
 そして店仕舞いすることを華僑の許禮平から聞き、おみやげのジャスミン茶をふるまわれるのです。


<やがて、許は銀紙にくるんだものを手にもどってくる。「きのう石さんがきてね」「鼎鼎の石英さんですか」「そう、鼎鼎の石英。建物は完全につぶれてしまった。店仕舞いするそうです。トアロードはほぼ全滅です。さびしうなる」彬彦は、みつると鯔を食べたときのことを思い出していた。鼎鼎が店をたたむ。許禮平の声が重なった。
「その石さんが、最近手に入ったんだそうだが、これはすごいジャスミン茶です、といって持ってきてくれた。北京でも福州でも売ってないもんやそうや。>


小説ではフランス料理店に変わり、最後には必ずジャスミン茶がでてくる店として描かれていますが、震災前まで実在した広東料理店テイテ。NHK神戸放送局の近くにありました。


現在はその面影もなくなってしまいました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11312217c.html
辻原登 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

辻原登『ジャスミン』 三度滅びた神戸、そしてルミナリエ

 阪神・淡路大震災犠牲者への鎮魂と、都市の復興・再生への夢と希望を託した『神戸ルミナリエ』は今年21回目を迎えました。昨日噴水広場付近の作品が強風で倒壊してしまったのは残念なことでした。


 辻原登『ジャスミン』の最後では、震災の日の様子が生々しく描かれています。

神戸を愛した作家だからこそ、その光景を描かずにおれなかったのでしょう。辻原登は「文学金魚」で次のように述べています。(大阪に本社がある義理の兄の会社に総務部長として通っていた時のことです)
<神戸から阪神電車で大阪の梅田に通ったんですが、何といっても神戸というまちの素晴らしさは忘れられないですね。後に六甲、前方に大阪湾と瀬戸内海と淡路島。とにかくまちが美しい。人間はセンスが良くて、食いものはうまい。神戸に転勤した人間は出世を忘れる、という言葉がありますが、まさにその通り。そこに地震が来て、それから十年後、僕は『ジャスミン』を書いた。>
http://gold-fish-press.com/archives/23809

 

『ジャスミン』では「神戸は三度滅びることになる」という言葉がでてきまが、あれから20年が経過し、町の姿は再び甦り、震災を知らない若者も増えています。
 主人公彬彦と李杏は震災の日、船で西宮ヨットハーバーに下り立ち、妹の住む芦屋平田町のマンションへ向かいます。

(写真は現在の平田町)


続いて御影の深田池のほとりの母親の住む御影特養老人ホームへ、

(写真は現在の御影の深田池公園)


 さらに山麓道から山本通りを西に進み、かつて神戸華僑の実力者許禮平が住んでいたという設定になっている旧グラシアニ邸(2012年焼失)の前を通り、


 当時許が住んでいた諏訪山のマンションまで、三時間半かけて歩きます。この間の描写はあまりにも生々しく、辛くなるので引用は差し控えますが、途中で住吉川の落合橋を渡る二人の会話からです。


<「神戸のまちって、川が多いのね」と李杏はいった。「そう、川だらけ。黄河を知っている杏杏には、恥ずかしくて、川なんていえたしろものではないけれど」あまり言われないことだが、芦屋川から須磨まで、二十キロほどのあいだに二十以上の川が流れている。

 すべて六甲山系を水源にして、北から南へ、街を縦に切って海へ流れ込む。川というより小さな滝の連続で、水流も多くない。しかし、一九三八年七月五日、これらの川がいっせいに氾濫を起して街を押し流した。洪水というより山津波だった。「今から五十七年前だけれど、このあたりから下は」と彬彦はと黒煙と炎が高く上がっている海のほうを指差した。>

 一度目は阪神大水害であり、谷崎潤一郎『細雪』での描写はあまりにも有名ですが、当時灘中に通っていた遠藤周作は小説『黄色い人』やエッセイで当時の様子が描かれています。


<「全部、大河のようになって、濁流が渦巻いていたそうだ。黄河のようだった、と母はいっていた。その七年あとには、空襲で焼け野原のなった」彼は神戸空襲の死者の数を口にしかけて、死者是不該用数字計算的(死者はかぞえることはできないわ)、と叫んだ李杏の言葉を思い出し、黙った。>
 神戸空襲については、野坂昭如や、妹尾河童が小説などで詳しく描いています。
『ジャスミン』から続けます。
<「川が多いから、橋も多いのね」「そう、何の変哲もない小さな橋ばかりだけど、神戸は橋の最も多いまちなんだ。でも、これで神戸は三度滅びることになる」>


 戦争で滅びた神戸の町を知る須賀敦子さんは、震災後の三宮市役所の前に立ち、
<いったい、私はこの五十年なにをしてきたのだろう。震災から二ヵ月半、夕暮れの三宮の市役所まえでタクシーを降りて周囲をみまわしたとき、自分にも思いがけないこんな言葉が、軋むように頭のなかを駆け抜けた。電線があちこちに垂れ下がり、へなへなとすわりこんだようなビル群の風景に、五十年前の焼け跡と高架下のヤミ市しかなかった三宮が重なった。>
と述べているのです。


今年はもう21回目のルミナリエとなりました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11305960c.html
辻原登 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

辻原登『ジャスミン』に描かれた阪神淡路大震災(ホテルアナガから西宮マリーナへ)

 主人公彬彦と李杏は淡路人形浄瑠璃を見に行き、南淡のホテルアナガのヴィラに宿泊しますが、その朝に阪神淡路大震災が発生します。


<「淡路が震源だってね」「はい、北淡のようです。おけがはございませんか」「大丈夫です。他の棟はどうなんだろう」「ヴィラのお泊りはお客様だけでしたので。よろしければ、本館のロビーにおこしください。あたたかいお飲み物とご朝食をご用意させていただいておりますので」>
二人はヴィラを出て、坂道を下り本館に向かいます。


 テレビには神戸の街の風景が映し出されており、本館のロビーに集まった客たちは早く帰ろうと苛立っています。彬彦も芦屋の平田町のマンションに一人で住む妹みつるの安否が確認できず、ホテルの留まるよう進言されますが、何とか芦屋まで行こうとします。
<客の声が聞こえた。「ホテルのクルーザーがあるでしょう。あれを出してもらえないのか」「申し訳ございません。クルージングは四月から十一月の間となっておりまして、現在、当ホテルには操船できる者がおりません」「私は小型船舶一級の免許を持っているよ。だめかな」「まことに相済みませんが、それはご勘弁ください」彬彦はタクシーに乗り込む前にもう一度、みつるへの電話を試みたが、だめだった。>

 

会話に登場するホテルアナガのクルーザーです。

 

 とりあえずタクシーに乗った二人は、大鳴門橋から四国に渡り、瀬戸大橋経由児島まで行ってくれないかと頼みますが、勘弁してくれと断わられます。阿那賀の集落を走って漁港に二十艘ほどの船と十人ほどの漁師がいるのをみつけ、漁船で渡ろうと頼んでみます。


 漁師からは「あほかいな。こんなちっさい船で、神戸やなんて、めげるに決まっとる」と一旦断わられますが、グラスファイバー製25トンの徹の船なら行けそうだと、船長に連絡して、阿那賀港を出発します。


<無線が入った。「こちら、阿那賀漁協。徹ちゃん、いまどこや」「江井崎の沖、五百メートルくらい」「神戸はどこも接岸できへんで。港はみんなやられとるらしい。液状化でバースはぐちゃぐちゃや」「芦屋はどうや」「芦屋に港、あったかいな」「川があるやろう、芦屋川。あの河口は砂浜になっとる。とにかくあのへんまで行ってみるわ。あかんかったら泳いでもらう。」「気の毒なこと、いいな。気ィつけてな」>

<左手に六甲アイランドがぼんやり浮かんだ。それを回り込めばすぐ芦屋川の河口だ。河口の右岸が平田町になる。「あかん。あの浜に着けるのは無理や。護岸がみんな崩れとる」「どこなら漬けられる?」彬彦はどなった。徹は答えず、黙って四、五百メートル東に向かって船を進めた。やや煙が薄らいできたような気がする。あそこ、と指さした。「西宮のヨットハーバーや。あそこなら着けられそうや」>
新西宮ヨットハーバーができたのは震災後ですから、西宮マリーナあたりで上陸したようです。

 

 しかし、『ジャスミン』でのホテルアナガからの描写といい、その後の阪神淡路大震災の描写といい迫真に迫るものがあります。著者の辻原登は当時実際にホテルアナガに宿泊していたのでしょうか、それとも取材でこのような描写ができたのでしょうか。


 



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11301482c.html
辻原登 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

このブログトップページへ
seitaroイメージ
阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<