阪急沿線文学散歩

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中井久夫氏も甲山上空に飛ぶ戦闘機を見ていた(『戦争と平和 ある観察』)

 戦後70年、神戸の震災から20年の節目の年となる今年に、精神科医としてだけではなく文筆家としても著名な中井久夫氏が、あの戦争についてどう考えどう過ごしてきたかを語る『戦争と平和 ある観察』が刊行され、早速読ませていただきました。

 戦時の家族の様子についても詳しく述べられており、大叔父は川崎造船所の潜水艦部長、父親は阪急の社員で、宝塚ホテルに赴任されていたそうです。


「私のこと」という章では、次のように述べられています。
<私は昭和九年生まれですからもう中国との戦争ははじまっていました。終戦は小学校六年生の年でした。私は旧制高校と新制高校のぎりぎりの世代で、私の少し上の世代は動員で工場などにもいっています。>
 その中井久夫氏の「少し上の世代」には、当時今津に住んでいた小松左京氏がおられ、偶然にも中井氏の大叔父が勤められていた川崎造船所の特殊潜航艇のけがき作業に学徒動員されていたのです。その経験をもとに、小松氏は『くだんのはは』というホラー小説を書いています。
 そのようなお話を今年の8月に「阪神間文学にみる大戦下の街と暮らし」と題して、講演させていただきました。


 中井氏の少し上の世代の作家に、大正12年生まれの遠藤周作、昭和4年生まれの須賀敦子、昭和5年生まれの野坂昭如、昭和6年生まれの小松左京がおられ、4氏は戦時下の阪神間の風景を小説やエッセイに描いています。その風景の中に中井久夫氏もいたことが『戦争と平和 ある観察』を読ませていただき、わかりました。
<空襲警報があったときは、先生方は学校で学童を死なすことは避けたいので早めに家に帰されました。川西航空機を爆撃するためだと思うのですが、標高三〇〇mちょっとの甲山の手前に見えるくらいにアメリカの飛行機が低空を飛んでいきました。そのとき、父親は私が庭に掘った防空壕をあざわらって、「こりゃだめだ、そんなものよりそこらあたりの麦畑にもぐって運命をまて」と言いました。>

 川西航空機の爆撃を目撃したのが、母の住む仁川に帰省していた遠藤周作で、その様子を小説『黄色い人』の冒頭で次のように書いています。
<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場をなめつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>

 また野坂昭如も甲山上空を飛ぶ戦闘機をニテコ池のほとりで目撃し、『舞台再訪 私の小説から』(三笠書房)で次のように述べています。


<満池谷の堤防から海を眺めると沈没した船のマストが三本ならび、山を見ると、雲の切れ間から、銀粉をまいたようなP51が、仁川とおぼしきあたりに急降下を繰り返し、さらに足もとの畠の中央に、素掘りの壕があり、……>
 神戸大空襲の恐ろしさを体験した野坂昭如は、中井久夫氏の父親が庭に掘った防空壕をあざわらっていたように、素堀りの壕など信じておらず横穴に逃げ込んだそうです。
<山ぎわにまで、B29の爆弾が落ちはじめ、ぼくはふつうの壕などてんから信用できず、丘陵の斜面利用した横穴にとびこみ、火の洗礼を受けていない人たちは、臆病とそしり、面とむかってなじったが、生命にはかえられぬ>
 野坂昭如氏もついに永眠されました。ご冥福をお祈りいたします。

 

さて中井久夫氏も戦中は甲山の見えるあたりに住まれていたようですが、何処だったのでしょう。

 




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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