有栖川有栖『幻坂』の「口縄坂」では冒頭から織田作之助『木の都』の碑が登場します。
<坂が始まるところに、御影石の碑が建っている。鏡のように磨かれて黒光りする表面に、織田作之助の『木の都』の一節が刻まれている。>
刻まれているのは短い小説の最後の部分です。
そして「口縄坂」の主人公美季は「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている。」という書き出しの部分が印象に残ったと述べています。
今回は青空文庫でも読める織田作之助『木の都』から紹介しましょう。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/507_19626.html
<大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
試みに、千日前界隈かいわいの見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津の高台、生玉いくたまの高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼うつそうたる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。>
織田作之助が生まれたのは大正2年、したがって『木の都』に書かれているのは大正末期から昭和の初めにかけての大大阪と呼ばれた大阪。
東洋のマンチェスターと呼ばれた時代ですが、写真のようにオダサクが「煙と埃に濁つた大気の中」と述べている通りの大阪でした。当時それが嫌で、健康的な「郊外生活」を求めて河野多恵子、谷崎潤一郎夫人となる森田松子、湯川秀樹などが阪神間に引っ越しています。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11090333c.html
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10884941c.html
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しかし、そんな中でも『木の都』は残っていました。
『木の都』に戻りましょう。
<数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌しるすだけでも私の想ひはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。>と述べられているように、オダサクお気に入りの口縄坂です。
そこには年少の頃の、夕陽丘女学校の美しい少女への淡い恋の思い出がありました。
<そして、どの坂を登つてその町へ行かうかと、ふと思案したが、足は自然に口繩坂へ向いた。しかし、夕陽丘女学校はどこへ移転してしまつたのか、校門には「青年塾堂」といふ看板が掛つてゐた。かつて中学生の私はこの禁断の校門を一度だけくぐつたことがある。>
続いて夕陽丘女学校の籠球部の美しい少女の思い出が語られています。
今歩いてみると、確かに坂の途中に大阪府立夕陽丘高等女学校跡と刻まれた碑がありました。
坂を上りきって、北へ折れてガタロ横町の方へ行く途中にあった矢野名曲堂というレコード屋の一家の話が続き、最後は
<口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。>
と終わります。
季節は違いますが、口縄坂の途中から振り返った情景です。