阪急沿線文学散歩

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『アドルフに告ぐ』にも登場していた神戸の独逸人倶楽部

 神戸の外国人倶楽部というと、現在は北野町のトアホテル跡地にある神戸外国倶楽部を思い起こしますが、明治の初めの神戸居留地には、二つの社交クラブがありました。アメリカやイギリス出身者を中心とした「インターナショナル・クラブ(明治2年創立、のち明治12年に神戸クラブと改称))」と、ドイツやオランダ、スイス出身者を中心にした、「クラブ・ユニオン(慶応3年創立)」です。


 このうちの後者が明治12年に名称を変更して設立されたものが、「クラブ・コンコルディア」で、居留地79番地にありました。

上の写真は居留地79番にあった当初のクラブハウス


 明治29年にクラブハウスが火災により焼失し、翌明治30年には117番にクラブハウスを移転、新築しています。その後の変遷を経て昭和2年にクラブハウスは山本通2丁目30番地に移転しました。(現住所;中央区山本通一丁目7-16)

 

 この独逸人倶楽部に私がたどり着いたのは、谷崎潤一郎『細雪』で、蒔岡家のお隣に住むドイツ人家族シュトルツ家(モデルとなったのは実在したシュルンボルム家)のお話からでしたが、『アドルフに告ぐ』でも登場しています。

手塚治虫は写真をもとに絵を描いたに違いありません。


バーのある部屋。

これも写真がありました。


 大阪倶楽部で教えていただいた、社交クラブに欠かせない設備の一つのビリヤードも登場します。


こちらはビリヤード室の写真です。


バーの場面のセリフには、

<ドイツの商社や総領事館の人間が活用していたが、事実上そこはナチス党の日本支部であり、スパイの情報交換場所でもあった>

と書かれています。

 たしかに上田浩二・新井訓『戦時下日本のドイツ人たち』には、下の写真が掲載され、

<神戸のドイツ・クラブでナチ党主催の感謝祭の集い。1941年10月初め、のちに正体が暴露されるスパイ、ゾルゲも演説をぶったという>

という説目が書かれていました。


 戦時中のクラブ・コンコルディアは手塚治虫が描いたとおりの場所だったのかもしれません。

さて、この建物が現在どうなっているのか山本通を訪ねてみました。


その跡地は三星堂本社となり、現在は「メディセオ」という医薬品の企業が使っています。


コーナーの壁には銅版が埋め込まれており、

「ドイツクラブ(クラブコンコルディア)跡

左の銅板はドイツクラブの礎石として埋設されていたものを本館改装に際して発掘、記念の為に保存したものです。 昭和56年12月 株式会社三星堂」と説明も加えられていました。





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戦時下の神戸の模様を詳細に調べて創られた『アドルフに告ぐ』

 手塚治虫『アドルフに告ぐ』は、アドルフ・カウフマンとアドルフ・カミルというヒットラーと同じ「アドルフ」というファーストネームを持った2人の少年が巨大な歴史の流れに翻弄されていく様を描いた漫画です。

 カウフマンはドイツ人外交官で熱心なナチス党員のヴォルフガングを父に、日本人の由季江を母に持つハーフの少年ですが、日独混血である事にコンプレックスを抱きながら育ちます。
 一方カミルはドイツから神戸へと亡命したユダヤ人であり、元町でパン屋「ブレーメン」を営む一家の息子。ハーフであることが原因でいじめられていたカウフマンをかばったことから、二人は親友となります。
 手塚治虫はこの二人の少年の出会いの舞台を神戸に設定しました。


因みにカウフマンの家は風見鶏の館にしたようです。


しかし、カウフマンの屋敷の二階のべランダは、窓を見ると風見鶏の館の前にある萌黄の館(旧シャープ邸)をモデルとしていました。


 このようなドイツ人とユダヤ人の出会いは戦時下の神戸の町で起こり得たのか疑問でしたが、先日Nekonquistaさんから上田浩二・新井訓『戦時下日本のドイツ人たち』(集英社新書)を紹介していただき、当時の世相を反映した物語であったことを改めて認識しました。

 たとえば昭和16年ごろまでの日本について、
<日本に住むドイツ人にとって、当時の日本はいろいろな意味で安全地帯だった。もちろん、この時期にドイツを逃れてきたユダヤ人にとっても事情は同じだった。日本人からすれば、ユダヤ人であろうとなかろうとドイツから来た人はドイツ人であり、ナチスの人種イデオロギーにほとんど無関心だった。>としており、二人のアドルフ少年の存在は可能だったわけです。
 またアドルフ・カウフマンが父親からヒットラー・ユーゲントにいれるという場面がありますが、『戦時下日本のドイツ人たち』の「ナチスと若者」の項で、日本で暮らしていたドイツ人のグリムは、次のように述べています。
<当時、私たちは一種の「ヒトラー・ユーゲント」に組み込まれていた。この組織は「日独ユーゲント」とう名称だったが、この名は日本人のハーフの子供も入っていたためだ。ここで、ヒトラーがすべての民族を解放してくれると教わった。>

ヒットラー・ユーゲント来日の写真も掲載されていました。

『アドルフに告ぐ』でも上のように描かれています。
手塚治虫は戦時下の街の暮らしを詳細に調べたうえで、構想を練ったようです。
次回は当時神戸にあった独逸人倶楽部についてご紹介します。




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もう一人の巨匠も描いていた阪神大水害(『アドルフに告ぐ』)

 阪神大水害については、谷崎潤一郎と遠藤周作は自ら経験した災害でもあり、それぞれ『細雪』、『黄色い人』に描いています。

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 「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫も、代表作のひとつ『アドルフに告ぐ』で、その時代背景を描く阪神大水害を史実に基づいて描いています。


<七月三日から五日にかけて阪神地方を襲ったこの豪雨は百年に一度の水害といわれている>


<その日の朝花崗岩による軟弱な地質はたちまち洗い流されて六甲山塊の土砂が嵐のように神戸の街へ乱入した>


 ここに描かれているように7月5日の朝は既に豪雨になっていたのでしょう。しかし、今では信じられないのですが、『細雪』では、その朝悦子は小学校にでかけていました。
<七月に這入ってからも、三日に又しても降り始めて四日も終日降り暮らしていたのであるが、五日の明け方からは俄かに沛然たる豪雨となっていつ止むとも見えぬ気色であった。が、それが一二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎した大水害を起こそうとは誰にも考え及ばなかったので、芦屋の家でも、七時前後には先ず悦子が、いつものようにお春に付き添われながら、尤も雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけていった。>

同じように、遠藤周作も7月5日は灘中へ試験を受けに登校していました

『アドルフに告ぐ』でも主人公の一人アドルフが、神戸キリスト教学校へ登校する場面が描かれています。

<まるで川みたい こんな日でも学校あるの?ぼく休みたいな
 アドルフ日本の学校はどこでも今日はふつんお授業ですよ 負けてはダメよ>
 これは創作ではなく7月5日の朝の日本の風景そのものだったのです。

<昨夜からの雨量は四百ミリを超え、各地で山崩れや土砂崩れが発生しています 洪水は加納町から市役所の方へ流れ出し 三ノ宮のガードは水ですれすれになり 阪神電車の地下駅にも流れ込んでいます>

この三宮阪神ビルが完成したのは昭和8年。この完成にわせて元町にあった十合百貨店神戸支店が、神戸そごうとしてこのビルに移りました。そのわずか5年後の大水害でした。


<豪雨は五日の夕刻になってやっと終わりをつげた 雲間から夏の夕日が久々に照り付けた神戸は惨憺たる荒廃ぶりだった>

後ろに描かれているのは現在のJR三宮駅。
水没した阪神三宮の地下駅に降りる入り口が描かれています。


 さて手塚治虫は昭和3年11月生まれ。阪神大水害の発生した昭和13年7月は、宝塚市に住み、池田師範附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)の3年生でした。
阪神大水害のときの池田、宝塚の状況はよくわかりませんが、その日は手塚治虫も小学校に登校していたのでしょう。



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杉原ビザで神戸に逃れたユダヤ人を描いた『アドルフに告ぐ』

 杉原千畝が日本で知られ始めたのは1985年、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で「ヤド・バシェム賞」を受賞したころから。

 当時、手塚治虫が連載し始めた漫画が『アドルフに告ぐ』です。

 その頃から、手塚治虫は杉原千畝の命のビザのことを知っていたのではないでしょうか。

 『アドルフに告ぐ』第三巻では、神戸でパン屋を営んでいたアドルフ・カミルの父親が、リトアニアに逃れて来ていたユダヤ人を救出するため、リトアニアに向かいます。


 またユダヤ人のゲルトハイマーの娘エリザは、ヒトラー・ユーゲントとなっていたアドルフ・カウフマンの手配で、ジュネーブの日本大使館で亡命手続きをとり、神戸に逃れてくるのです。


 当時亡命してきたユダヤ人の日本の唯一の受け入れ基地となったのが、北野町にあった神戸猶太協会(現在のシナゴーグ)でした。


 「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」にも神戸にたどり着いたユダヤ人難民の写真が掲載されています。


 手嶋龍一オフィシャルサイトでは、スギハラ・ダラーの執筆にあたって、
<日本唯一のユダヤ人組織があり、同胞を支援していた。日米開戦前に渡米したユダヤ人たちは、神戸が夢のようなところだったと話している。異質な者への寛容さ、包容力など本当に国際都市だったのだろう。パンも祖国よりおいしかったと言い、ひとときの安息を得た。物語の主人公たちが出会い、人生を定めることになった約束を交わす地に設定した。>
と述べています。

 また野坂昭如の『火垂るの墓』にも昭和15年ごろのユダヤ人難民のことが書かれていました。
<最後までケーキを出していたのは三宮のユーハイム、半年前にこれで店閉まいだからと、デコレーションケーキをつくり、母がひとつ買って来た、あすこの主人はユダヤ人で、ユダヤ人といえば昭和十五年頃、清太が算術なろうとった篠原の近くの赤屋敷に、ようけユダヤの難民が来て、みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て、靴かて両方左のんをはいて、びっこひいとんのがおった、あれどないしてんやろ、>
と、太平洋戦争開戦直前の様子が描かれています。彼らも杉原千畝のビザで日本に逃れてきたユダヤ人難民だったのでしょう。



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ドイツの学校で、「ヒトラー・ユーゲントと国民突撃隊」は無罪と言った生徒を、担任の教師が射殺するという事件発生。↓
https://youtu.be/LC1pBq1UevU

[ 芋田治虫 ] 2018/04/01 17:02:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

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手塚治虫が大阪大空襲の日に、豊中で食べさせてもらったのは「おにぎり」?

 先日、「ホトトギス」名誉主宰の稲畑汀子様と北村良子様より、戦時中の小林聖心女子学院でのお話を聞かせていただきました。

 当時、稲畑様は寄宿舎におられ、北村様は夙川から通われていたのですが、川西航空機宝塚製作所への爆撃で阪急電車が止まったとき、北村様は小林から夙川まで歩いて帰られたそうです。

 その話をお聞きし、小松左京氏も川崎重工の造船所に学徒動員され、爆撃で電車が全て止まった時は、神戸から自宅のある今津宝津町まで20キロの道のりを歩いて帰られたこと、手塚治虫氏も大阪石綿に動員され、淀川べりの工場から宝塚の自宅まで約30キロの道のりを徒歩で帰られたことを紹介しました。


 更に、手塚治虫が、徒歩で帰る途中、お腹を空かし、ヘトヘトになって豊中の他人の家に食べ物を乞うたところ、「にぎりめし」を出してもらって大変感謝していたとお話すると、お二人から一斉に「その頃、にぎりめしなんて本当に出してもらったの。私たちはお芋がでてきたら最高のご馳走だったわ。」と言われ、「にぎりめし」は私の記憶違いかと思ってしまいました。
 しかし、自宅に帰って調べると、手塚治虫は確かに「にぎりめし」を恵んでもらったと言っているのです。

『手塚治虫講演集』からです。
<埃まみれになって歩くうちに、もう足が棒で、のども乾く、腹もへるで、めげそうになりました。我慢できずに、一軒の家の玄関の戸をたたきました。その家の人が出てきました。私はなにか食べ物を分けてくださいと頼みました。その家の人は、門口にボロボロの学生がお辞儀をしているのを見て哀れに思ったのでしょう。大きなおにぎりを三つも握ってくれました。私はむしゃぶりついて、それをいただいたのです。>

 また昭和54年に週刊ヤングジャンプに連載された『どついたれ』でも、手塚治虫自信をモデルとしたらしい高塚修がにぎりめしを食べるシーンが描かれています。

 描かれているにぎりめしの数は、手塚治虫講演で述べられているように三つです。(真ん中のこま)

『どついたれ』にはモデルがいるといえ、フィクションですから、「にぎりめし」は事実でなかったとも解釈できますが、手塚氏が講演で語られたことは事実のはずです。
 皆、ひもじい思いをしていた食糧難の時代に見知らぬ学生に、「にぎりめし」を出したとは豊中には、何と立派な家があったのでしょう。

 戦後しばらくは占領軍の教会となっていた稲畑邸の応接室で、芦屋ロールをいただきながら、食糧難の時代のお話をお聞きし、戦後の日本の発展と平和をしみじみ感じておりました。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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