阪急沿線文学散歩

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杉原ビザで神戸に逃れたユダヤ人を描いた『アドルフに告ぐ』

 杉原千畝が日本で知られ始めたのは1985年、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で「ヤド・バシェム賞」を受賞したころから。

 当時、手塚治虫が連載し始めた漫画が『アドルフに告ぐ』です。

 その頃から、手塚治虫は杉原千畝の命のビザのことを知っていたのではないでしょうか。

 『アドルフに告ぐ』第三巻では、神戸でパン屋を営んでいたアドルフ・カミルの父親が、リトアニアに逃れて来ていたユダヤ人を救出するため、リトアニアに向かいます。


 またユダヤ人のゲルトハイマーの娘エリザは、ヒトラー・ユーゲントとなっていたアドルフ・カウフマンの手配で、ジュネーブの日本大使館で亡命手続きをとり、神戸に逃れてくるのです。


 当時亡命してきたユダヤ人の日本の唯一の受け入れ基地となったのが、北野町にあった神戸猶太協会(現在のシナゴーグ)でした。


 「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」にも神戸にたどり着いたユダヤ人難民の写真が掲載されています。


 手嶋龍一オフィシャルサイトでは、スギハラ・ダラーの執筆にあたって、
<日本唯一のユダヤ人組織があり、同胞を支援していた。日米開戦前に渡米したユダヤ人たちは、神戸が夢のようなところだったと話している。異質な者への寛容さ、包容力など本当に国際都市だったのだろう。パンも祖国よりおいしかったと言い、ひとときの安息を得た。物語の主人公たちが出会い、人生を定めることになった約束を交わす地に設定した。>
と述べています。

 また野坂昭如の『火垂るの墓』にも昭和15年ごろのユダヤ人難民のことが書かれていました。
<最後までケーキを出していたのは三宮のユーハイム、半年前にこれで店閉まいだからと、デコレーションケーキをつくり、母がひとつ買って来た、あすこの主人はユダヤ人で、ユダヤ人といえば昭和十五年頃、清太が算術なろうとった篠原の近くの赤屋敷に、ようけユダヤの難民が来て、みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て、靴かて両方左のんをはいて、びっこひいとんのがおった、あれどないしてんやろ、>
と、太平洋戦争開戦直前の様子が描かれています。彼らも杉原千畝のビザで日本に逃れてきたユダヤ人難民だったのでしょう。




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手塚治虫が大阪大空襲の日に、豊中で食べさせてもらったのは「おにぎり」?

 先日、「ホトトギス」名誉主宰の稲畑汀子様と北村良子様より、戦時中の小林聖心女子学院でのお話を聞かせていただきました。

 当時、稲畑様は寄宿舎におられ、北村様は夙川から通われていたのですが、川西航空機宝塚製作所への爆撃で阪急電車が止まったとき、北村様は小林から夙川まで歩いて帰られたそうです。

 その話をお聞きし、小松左京氏も川崎重工の造船所に学徒動員され、爆撃で電車が全て止まった時は、神戸から自宅のある今津宝津町まで20キロの道のりを歩いて帰られたこと、手塚治虫氏も大阪石綿に動員され、淀川べりの工場から宝塚の自宅まで約30キロの道のりを徒歩で帰られたことを紹介しました。


 更に、手塚治虫が、徒歩で帰る途中、お腹を空かし、ヘトヘトになって豊中の他人の家に食べ物を乞うたところ、「にぎりめし」を出してもらって大変感謝していたとお話すると、お二人から一斉に「その頃、にぎりめしなんて本当に出してもらったの。私たちはお芋がでてきたら最高のご馳走だったわ。」と言われ、「にぎりめし」は私の記憶違いかと思ってしまいました。
 しかし、自宅に帰って調べると、手塚治虫は確かに「にぎりめし」を恵んでもらったと言っているのです。

『手塚治虫講演集』からです。
<埃まみれになって歩くうちに、もう足が棒で、のども乾く、腹もへるで、めげそうになりました。我慢できずに、一軒の家の玄関の戸をたたきました。その家の人が出てきました。私はなにか食べ物を分けてくださいと頼みました。その家の人は、門口にボロボロの学生がお辞儀をしているのを見て哀れに思ったのでしょう。大きなおにぎりを三つも握ってくれました。私はむしゃぶりついて、それをいただいたのです。>

 また昭和54年に週刊ヤングジャンプに連載された『どついたれ』でも、手塚治虫自信をモデルとしたらしい高塚修がにぎりめしを食べるシーンが描かれています。

 描かれているにぎりめしの数は、手塚治虫講演で述べられているように三つです。(真ん中のこま)

『どついたれ』にはモデルがいるといえ、フィクションですから、「にぎりめし」は事実でなかったとも解釈できますが、手塚氏が講演で語られたことは事実のはずです。
 皆、ひもじい思いをしていた食糧難の時代に見知らぬ学生に、「にぎりめし」を出したとは豊中には、何と立派な家があったのでしょう。

 戦後しばらくは占領軍の教会となっていた稲畑邸の応接室で、芦屋ロールをいただきながら、食糧難の時代のお話をお聞きし、戦後の日本の発展と平和をしみじみ感じておりました。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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