阪急沿線文学散歩

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『黄金のアデーレ 名画の帰還』素晴らしい映画でした

 先日ビュールレ・コレクションのルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」の数奇な運命についてご紹介したところ、Twitterでアメリカ在住の方から、同じような時代背景の物語として、“Woman in Gold”というGustav Klimtの絵をテーマにした映画があると教えていただきました。

 調べてみると、邦題『黄金のアデーレ 名画の帰還』という2015年11月に劇場公開された作品。
<グスタフ・クリムトが描いた世界的名画「黄金のアデーレ」をめぐって実際に起こった裁判と「黄金のアデーレ」に秘められた数奇な物語を、アカデミー賞女優ヘレン・ミレン主演で描いた>という解説があり、早速TUTAYAから借りてきました。

 この「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 1(黄金のアデーレ)」は1907年にグスタフ・クリムトがウィーンの銀行家でユダヤ系の製糖工場の所有主のフェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻、アデーレをモデルに描いたもの。

大きさはおよそ138 x 138 cm でキャンバスの上に油彩と金彩を施し、複雑で凝った装飾がなされている作品です。

 モデルとなったアデーレの写真も残されていますが、なるほどよく描かれています。
 映画でアデーレ・ブロッホ=バウアーを演じたのはドイツの女優アンチュ・トラウェ。雰囲気がよくでています。

 アデーレは、クリムトの絵をオーストリア・ギャラリーに寄贈するよう遺言し、1925年に死去します。絵は1938年のナチスによるオーストリア併合の後、ナチスに没収されてしまいますが、第二次世界大戦後の1945年に夫のフェルディナントの元に返還されました。しかし、絵のモデルとなった夫人の「夫の死後、絵はオーストリアに寄贈する」という遺言により、絵はそのままオーストリアの美術館に所蔵されていまいました。
 フェルディナントは遺言で資産の相続人として甥や姪を指名していました。姪のアルトマンはアメリカに在住していましたが、クリムトの絵はオーストリアに残されたままになっており、それは妻アデーレの遺言によるものだ、というのがオーストリア政府の見解でした。
 このことでアメリカとオーストリアの間で長らく法廷闘争が繰り広げられ、2006年になって遂にオーストリア法廷による仲裁裁判は、アルトマンにクリムトの絵5点の所有権を認めたのです。
 絵はアメリカに送られ、ロサンゼルスで展示されていましたが、その後、エスティ・ローダーの息子であるロナルド・ローダーに売却されます。

現在、「黄金のアデーレ」はニューヨークの「ノイエ・ガレリエ」に展示されています。

 映画は実話が元となっており、登場人物の写真も公開されているので、演じた俳優と見比べ、興味深く見ることができました。


 映画「クィーン」でアカデミー賞主演女優賞を受賞し、英国女王から「デイム」の称号を授与された女優ヘレン・ミレンが、上品でかなり頑固、お茶目なマリア・アルトマンを見事に演じていました。

ヘレン・ミレンご自身がユーモアにあふれた人物。インタビューで「最後に美の秘訣を教えて下さい」との問いに、
「とても腕の良いメイクアップアーティストを雇うことよ」とユーモアたっぷりに答えていました。

 そして、駆け出し弁護士の E.ランドール・シェーンベルク(ランディ)役をカナダ人俳優のライアン・レイノルズが演じています。

上の写真は、ヘレン・ミレンとライアン・レイノズル。

こちらは実際の二人の写真。

マリアは2011年に94歳で亡くなっていますが、若き日の写真は女優のような美しさ。
 実在のランディはオーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクの孫です。

 映画ではホロコーストの問題やマリア・アルトマンの緊迫したオーストリア脱出シーン等うまく描きこまれ、マリアが裁判のためにオーストリアに戻ることを、初めは頑なに拒んだことや、ドイツ語を喋ろうとしなかったこともよくわかりました。

 私には巨大都市ロサンゼルスと歴史ある落ち着いたウイーンの映像が、アメリカとヨーロッパの文化の違いを対照的に印象付けるもののように思われました。

巨大弁護士事務所。

典型的なアメリカのドライブイン的なレストラン。

一方こちらは、ウイーンのアルトマン一家が住んでいた建物。

昔の街角がそのまま残っています、

ウィーン・コンツェルトハウスに祖父のアルノルト・シェーンベルクのコンサートに行くシーンも。
音楽の都ウィーンへはまだ行ったことがなく、いつか是非訪ねたいと思っています。

 映画は実際にあったナチによって奪われた名画とユダヤ人一家の物語、俳優陣もすばらしく、優れた作品でした。DVDの特典映像には実話の解説もありました。
 映画を通して感じたのは一流国家の裁判というのは、国家の利害など天秤にかけず、正しい判決がなされるということ。日本は一流国家たりうるでしょうか。






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『チョイ住みinプラハ』日本の若者もインターナショナルになったものだ

 春江一也の50年前のチェコスロバキアの民主化運動を素材とした小説『プラハの春』に描かれていた光景を思い出しながら、BSプレミアム『チョイ住みinプラハ』を見ていました。


 小説『プラハの春』では主人公の日本国大使館員・堀江亮介とビーナスのような東ドイツ人の反体制活動家カテリーナ・グレーベとのロマンスが民主化運動とともに描かれています。

『チョイ住み in プラハ』でも、佐藤寛太がマーケットで見つけたチェコの女性との間にロマンスが生まれそうな交流が描かれていて、どうなるかと面白く見ていました。


『プラハの春』に描かれたような日本人男性の海外でのラブアフェアは、森鴎外以来、遠藤周作なども著述していますが、街で見かけた見知らぬ女性に声をかけ、ロマンスの始まりとなりそうな映像がお堅いNHKの番組で放映されていたのも驚きでした。


 出会ったのは地元の人たちで賑わうイジャーク・ファーマーズ・マーケット。

50年前の社会主義国のマーケットの様子は、『プラハの春』では、
<初夏の長い一日、プラハのたたずまいと人々の暮らしに変わった兆しはなかった。国営商店の肉屋に並ぶ相変わらずの行列。年に数回しか輸入されないバナナが並んだマーケットに群がる人々。>と商品の不足の様子が描かれていましたが、現在では豊富で何でもそろっています。

 佐藤寛太は地元料理を作ろうとマーケットに出かけ、そこにいた女性にチェコ料理のレシピを尋ねます。この女性は、どう見ても事前に打ち合わせしたわけでなく、突然佐藤寛太が話しかけたように見えます。

年齢も聞き出して、すぐに21歳と訂正しましたが、佐藤と同い年の1996年生まれとわかります。
ロンドンに留学中で、クリスマスにあわせてプラハに戻ってきたとのこと。

電話番号まで教えあう仲になってしまいました。

もちろん年の功で、伊藤一朗も交際を続けられるようバックアップします。

5日目には。彼女をチョイ住みの部屋に招待して、佐藤寛太が腕を振るいます。

伊藤一朗は得意のギターでバックグラウンド・ミュージックで盛り上げます。

 佐藤寛太さん、私は知らない俳優でしたが、ルックスはご覧の通りで、英語は帰国子女クラスの流暢さでした。経歴を調べたのですが福岡県新宮高校中退ということで、どこで英会話を勉強したのかわかりませんでした。
 それにしても、海外で突然見知らぬ女性に声をかけて、親しくなるなんて、大した若者です。

チェコの女性は美しい人が多いらしく、小説『プラハの春』では、カレル大学文学部講師のハインリッヒ・シュテンツェルが次のように語ります。
<「なにかな、お二人とも、日本の女性が一番美しいとお考えかな。わしは、プラハの女性が世界一と思うておった。プラハの女性が美しいことは、中世の頃から有名なことだった。いくつもの詩劇や文学作品の中で賛美されている。女たらしで知られるモーツァルトも、プラハを初めて訪れ、ご婦人方の美しさに感嘆した手紙をウィーンの友人に書き送っておるしな。また、ベル・エポックのパリで活躍したチェコ人画家アルフォンス・ミュシャは、スラブ叙事詩にイメージしたチェコの女性の美しさをたたえるたくさんの絵画を残した。>

昨年の国立新美術館で開催されていたミュシャ展を思い出しました。
たしかにチェコは美人が多そうです。

春江一也『プラハの春』のプロローグでは、1989年のビロード革命でようやく民主化を達成したチェコスロバキアのハベル大統領夫妻以下の代表団が1992年に訪日した時の様子が述べられれており、大統領顧問として代表団に加わっていた東京オリンピックの花といわれた女子体操ゴールドメダリストのチャフラスカ女史の姿が描かれていました。



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『チョイ住みinプラハ』プラハの春からもう50年か!

 BSプレミアムの『チョイ住みinプラハ』、キャストは俳優の佐藤寛太とミュージシャンの伊藤一朗。


 もう50年も前になる1968年春にチェコスロバキアで起きた民主化の動き「プラハの春」を思い出しながら、現在の街の人々の平和な暮らしを感慨深く見ていました。 
 1968年1月には改革派のドプチェクが党第一書記に就任しましたが、社会主義体制の危機を感じたソ連のブレジネフ政権が8月にワルシャワ条約機構軍 20万人を投入し、その民主化の動きを圧殺。ドプチェクは解任されフサーク政権が誕生したのです。その後、ようやく1989年のビロード革命によりチェコスロバキアの民主化が達成されたのです。

 当時の様子を舞台にした春江一也『プラハの春』は、プラハの美しい景色とロマンスが描かれ、私がいつか行ってみたいと思うようになったきっかけでした。

 小説『プラハの春』に書かれているプラハの市民の街に対する愛着と石畳の様子です。
<亮介が感心していたのは、このルートの道路が石畳であったことである。いや、プラハ市内中心部のほとんどが石畳で、レンガほどの大きさの石がモザイクのように敷き詰めてあった。あらゆる種類の車が走り、市街電車まで通る石畳の道は傷みやすい。しかも冬の雪や凍結のため、でこぼこになってしまうのだ。この傷んだ石畳の道路は、丹念に手作業で修復しなければならなかった。春先、その修復工事があちこちで始まっていた。プラハの街に対する市民の愛着は、並大抵のものではなかった。>

この石畳は現在も守られ、番組スタッフがまったく同じことを述べています。

<美しい建物と彫像を見ようとすると、ついつい顔は上を向きがちですが、実は足元にもプラハの特徴があります。それが石畳。

街全体が世界遺産ですから、路地裏や歩道が石畳になっているのはわかりますが、車道でさえ、その一部は舗装の代わりに石が敷き詰められていて、ガタガタと激しく揺れながら車が通り過ぎていきます。正直に言えば、ずいぶんと歩きづらいし、足も痛くなって困るのですが、一度舗装された道路を、もう一度わざわざ石畳に置き換えたところもあるそうで、どうやら石畳には相当なこだわりがあるようです。>

 さて、代表的なプラハの眺望の一つはカレル橋。

春江一也『プラハの春』では、次のように描かれています。
<橋は眺望を楽しむ、そぞろ歩きの人々で賑やかだった。この橋はカレル四世によって
一三五七年に工事が開始され、十五世紀に完成した石の橋であった。その後十八世紀に橋の両側欄干の上に、キリストの使徒たちの像が三十体並べられた。像は現在まで二百年余り、歴史的遺産として大切に保存されてきたのだ。聖フランシスコ・ザビエル像のそばに二人は立ち止った。>
この光景も現在もそのまま守られています。

 番組を通じて感じたのは、豊かになったように見える人々の暮らし。

学生時代にヨーロッパで出会ったチェコからの学生たちはもっと質素だったような記憶です。

百塔の街と呼ばれるプラハ、世界の都市景観の中でも一、二を争うこの街をいつか訪ねたいと願っています。




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沢木耕太郎『深夜特急』から40年後の“チョイ住みinバンコク

 バッグパッカーのバイブルとまで言われた紀行小説『深夜特急』で沢木耕太郎はバンコクの巨大マーケットを訪ねます。

<土曜と日曜は無料という王宮を見学するつもりで歩いていくと、その手前の大広場に、信じられないくらいの露店が並んでいた。その数、千、いや万にも達するのではないかと思われるほどの壮大さだった。数からいけば廟街以上、世界中でも一ヵ所にこれほど露店が集まっているところは他に例を見ないのではないかという凄まじさだ。>

 先月BSプレミアムで放映された“チョイ住みinバンコク”でも増子直純と白石準也が巨大週末マーケットを訪れますが、これは『深夜特急』から40年後の同じようなマーケットの姿でしょう。
<台の上に商品を並べて数人で売っている店もあれば、たった一人で首から籠を吊り下げて歩き廻っている売り子たちもいる。洋服もあれば、食料品もあり、日用雑貨もあれば、およそ何の役にも立たないようなガラクタも売っている。およそバンコクにある物でここに集まっていないものはない、と言っても決して言い過ぎではなかっただろう。あらゆるものが売られている。私は一歩足を踏み入れただけで嬉しくなってしまった。>

子供たちが大人に混じって働いているとも書かれていましたが、現在はほとんど見られなくなっているようです。
40年前のマーケットには、
<並んでいるのは露店ばかりではない。かなりの数の物乞いがいる。それも思わず眼をそむけたくなるような凄惨な姿をしている。>
と戦後間もない日本でも見られたような様子が描かれていますが、そのような姿も現在の映像にはなく、普通の活気あるマーケットのように見えました。

 増子と白石は最後の晩に地元で話題のタイ料理レストランに行きます。

繁華街の裏にあり、一階が雑貨屋になっているおしゃれなタイレストラン。

前回の記事では繁華街の庶民的な店での料理の値段は40年前の1.5倍程度と書きましたが、このレストランのお値段は日本とあまり変わらないような感じます。


レストランの値段の差は富裕層と庶民の貧富の格差を表しているようにも思えます。

そのような環境下にもかかわらず印象的だったのはバンコクの若者たちの生き生きした姿でした。

最後に豪邸にお別れする二人。
もっと庶民の生活に入り込んでいれば、更に興味深い番組になったのではと思いますが、今の日本人にとって、“チョイ住み”には、40年前沢木耕太郎が泊ったようなホテルや体験は考えられないのかもしれません。寂しいことですが。




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バンコクはどう変わったのか?『深夜特急第一便』からBS“チョイ住み”まで

 BSプレミアムに“チョイ住み”という旅番組があり、バンコクの快適な借家暮らしの様子がでてきましたので、見入ってしまいました。

 普通の家に住み、日用品を買い、食事を作り、近所の地図を覚え、その日ふと思い立った場所へ出かけ、地元の飲み屋でクダをまき、疲れたら家でテレビを見る。現地の人と同じ目線に立つことで、ガイドブックには載っていないその国の姿が見えてくるという番組。

 番組を見ながら思い出していたのは沢木耕太郎の『深夜特急』でした。沢木耕太郎が20代のときに成し遂げたユーラシアの果てまでの旅行記で、当時バックパッカーの間でいわばバイブル的に扱われるようになった作品。1970年代前半の交通事情、宿泊事情、途上国の貧困さの一端も伺えました。

一人だったらこんな旅をしてみたいと思った旅行記で、今もこのシリーズは大切に持っていますが、タイには一度も行ったことがありません。テレビで小説の約40年後のバンコクの姿を見ながら、行ったことがないにも関わらず、なぜか懐かしく感じていました。

『深夜特急』のバンコク到着からです。
<バンコクの天気は晴れ、温度は二十九度、というスチュワーデスのアナウンスがあって十五分後に、飛行機はバンコク・ドムアン空港に着陸した。入国の手続きも税関の検査も拍子抜けするほど簡単だった。空港ビルは閑散としておりどことなく気怠そうな雰囲気が漂っている。それでも出入口にはタクシーの運転手が屯し、盛んに客引きをしていた。>

 増子が到着した空港はバンコク中心部より東へ約30Kmに位置し、敷地面積は沢木が到着したドンムアン空港の5倍、成田国際空港の約3倍の広さを誇るというスワンナプーム国際空港。

増子でさえ新国際空港の大きさには驚いています。
 増子はインフォーメーションで尋ねて、白石の待つ宿泊先へ鉄道で向かいます。

 インフォメーションカウンターの女性が化粧をしているのは、沢木が言っている気怠そうな雰囲気がなすところでしょうか。

近代化したとはいえ、屋台サイドカーがトヨタの高級車とすれ違ったり、

屋外での洋服の手直し屋さんなど、新旧入りまじった街の風景。

『深夜特急』で沢木がバンコクで泊まった最初のホテルはゴールデン・プラザという立派な名前のホテルですが、一泊120バーツ、日本円で1800円。ボーイの女の売り込みに嫌気がさして、別の宿に移ります。
<そこは看板も出ていない、しもたや風の建物の二階にある宿だったが、地図が正確なおかげで簡単に見つけられた。金物問屋の横の階段を登っていくと、暗い踊り場に老婆がひとり椅子に座っていた。>
そこで老婆に部屋を見せてもらいます。
<その部屋はゴールデン・プラザと比べると三分の一もないような広さだった。小さなベッドに小さな窓。クーラーはもちろんあるはずもなく、部屋と不釣合いなほど大きな扇風機が天井からぶら下がっているだけだ。それでも狭いトイレにはシャワーがついている。>
この宿泊費はゴールデン・プラザの四分の一、30バーツ450円でした。

 一方増子と白石が借りた家は、白い塀を張りめぐらせ、頑丈そうで立派な門扉が付いた邸宅。

自転車が置いてあるのは、本来のガレージ、右側の白い建物は日本の豪邸にもみられたドライバーか庭使のための部屋(家?)でしょう。
タイの貧富の格差が垣間見えてきます。

素晴らしい発展を遂げたバンコクの街。

約40年前に訪れた沢木耕太郎はその騒音に驚きます。
<とりわけ意外だったのはその騒音である。バンコクは東京や香港以上にけたたましい街だった。オートバイはマフラーをつけずに走り廻り、サムロと呼ばれるミゼット型のタクシーは爆音のような凄まじい音を残して発進し、バスはバスで絶え間なく警笛を鳴らしている。>

ミゼット型のタクシーは今も健在でしたが、騒音はテレビの映像だけではわかりませんでした。

 食事の値段で、タイの物価がどの程度上がっているのか推定できます。
 沢木耕太郎のバンコクのうどん屋での朝食の値段です。
<出されものは私の望んでいた通りのものだった。スープは胡椒のよくきいた塩味で、ひとくち飲んだ時、日本のなつかしい味がした。麺にも必ずモヤシが使われるということを含めて、それはバンコク版塩ラーメンといった趣きのある食べ物だった値段は五バーツ、約七十五円という。これでバンコクにいる間は飢えなくてもすみそうだと安心した。>

「チョイ住み」では同じ食べ物は出ませんでしたが、庶民的な店で、このエビのバカオライスが160円。

二人でシェアできそうな量の三品で、570円ですから、40年で1.5倍程度の値上がりでしょうか。

二人が食事したこのテント張りのようなお店。

 気になったのは夜間に小学生高学年か中学生くらいの少女が数名、ウエイトレスの仕事をしている姿。
 今の日本では考えられませんが、少女たちの表情は決して暗いものではなく、生き生きしていました。学校の授業が終えて塾通いをする日本の子供たちと比べて、本当はどちらが幸福なのでしょう。




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ケネディ最後の瞬間のフィルムにそんな物語があったとは

 今年入手した貴重な雑誌は1963年のLIFE JOHN F.KENEDDY MEMORIAL EDITION。



 そこに掲載され、その後何度も使われているケネディ最後の瞬間の連続写真は衝撃的でした。


 ところで、その連続写真(8mmフィルム)を撮影した人物を登場させた実録ドラマ『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』(2013年)がBSジャパンで放映されました。


 このフィルムを撮影したのはテキサス州ダラスの婦人服製造業者のエイブラハム・ザプルーダー。

ケネディがすぐ近くのディーリー・プラザにやって来ることを知ったザプルーダーは、大統領の車列を、エルム通り (暗殺発生現場) に面したコンクリート製のパーゴラの上に立って撮影。

姿勢を安定させるため、会社の受付係の女性が背後からザプルーダーを支えていたそうです。

 この時撮影された歴史的フィルムは、『ザプルーダー・フィルム』と呼ばれ、現在その映像はYou Tubeでも見ることができます。

The Kennedy assassination of Abraham Zapruder video
https://www.youtube.com/watch?v=ZbRgab_IOj0

 事件直後に、ザプルーダーはオリジナルとコピー1本を保有し、他の2本のコピーをシークレット・サービスの職員に渡します。


その晩、ザプルーダーは自宅で、『ライフ』誌の編集者から電話を受け、翌朝、編集者は飛行機でダラスに向かい、ザプルーダーと面談、フィルムの出版権の購入について話し合います。


 その後、ザプルーダーは『ライフ』誌にオリジナルのフィルムと、それに係る全ての権利を150,000ドルで売却。『ライフ』誌との取引には、フィルムの313コマ目は公開しないという条件が付けられていたそうです。フィルムの313コマ目とは、大統領が頭部に致命的な銃弾を受けた瞬間が写ったコマでした。

映画の最後で、ザプルーダー本人の写真が出、暗殺事件はザプルーダーにとってトラウマとなり、彼はそのカメラを二度と使うこと出来なくなり、1970年に亡くなったと説明されていました。




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 へ〜凄いです 今年も沢山の記事を楽しませていただき ありがとうございます。凄い博学ですね 尊敬します。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/12/31 8:41:03 [ 削除 ] [ 通報 ]

偶然テレビで見て、聞いて聞いてと記事にしてしまいました。
来年もモンセ店薬局さんの記事を楽しみにしております。

[ seitaro ] 2017/12/31 12:27:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

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エジンバラで見つけた『ジキル博士とハイド氏』のモデルとなった人物

『ジキル博士とハイド氏』は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが『宝島』の3年後に書いたロンドンを舞台とした小説です。

 
 しかし、そのモデルはスティーヴンソンの故郷であるエジンバラの18世紀のウィリアム・ブロディーによる犯罪からヒントを得たと言われています。ブロディは、エジンバラの市会議員やギルドの役員をしながら、泥棒などの犯罪を続けた人物で、エジンバラでは有名な歴史的犯罪者なのです。
 スティーヴンソンは二重人格という精神性と道徳的な善と悪とのジレンマをテーマにし、薬を飲んで人格と容貌が変わるというSF的な要素を加えた作品としました。
 その有名な「ジキル博士とハイド氏」のモデルになった実在の人物をモデルにしたカフェ「Deacon's House Cafe」をエジンバラ城へ向かう途中でみつけました。

入り口には、ここがWilliam Brodieの工房であったと書かれています。

像はブロディのようです。
 入口の上に Brodie’s Closeと書かれていますが、ブロディの袋小路とでも訳すのでしょうか。
京都でいうと「路地」のような細い道が、このあたりによく見られました。


 Deacon's House Caféと通りを挟んで向かいに、ブロディの邸宅があり、現在はパブになっています。

「DEACON BRODIE TAVARN」の壁にはジキル博士とハイド氏のモデルとなった由来が書かれていました。

1700年頃の話であるが、道の名前にもなっているWilliam Brodieは石工ギルドの組合長(deacon)であった。昼間の彼の姿は、全うな人間であったが、夜の姿は一変して、裏社会に身を置いて、ギャンブルやお酒に明け暮れていたのであった。しかし1788年、Brodieはギャンブルの借金を返すために強盗を犯し、首つりの刑に処されたそうである。この話が、エディンバラ出身の小説家、ロバート・ルイス・スティーブンソンの有名な作品「ジキル氏とハイド氏」のインスピレーションになったそうです。

吊り看板にはブロディの二つの姿が描き分けられていました。

中は普通のパブになっていました。

子供の頃読んだ『ジキル博士とハイド氏』ですが、久しぶりに読み返しました。


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ロンドン塔のカラス伝説を初めて著述したのは夏目漱石『倫敦塔』

ロンドン塔に行くと大きなカラスがいました。


こんな看板もあります。


 17世紀にチャールズ2世がロンドン塔に棲みついたカラスの駆除を命じますが、占い師がカラスがいなくなると英国が滅びると予言により、カラスは英国王室の守護神として大切に飼われているのです。
 今もロンドン塔では、ワタリカラス(raven)6羽が飼育されていて、1羽死ぬと野生のカラスを1羽捕えてきて加えるそうです。

 ロンドン塔のカラスについて更に調べていると、Culture TripというサイトでThe Six Ravens At The Tower Of London(ロンドン塔の6羽のカラス)という紹介がありました。
<One of the first descriptions of the Tower of London’s ravens was from a Japanese writer who wrote the 1905 novel Tower of London. >

 ロンドン塔のカラスについての最初の著作は1905年に日本の作家が書いた『倫敦塔』であると述べています。夏目漱石の名前はなく、単に日本の作家とされているのは少し残念ですが。

更に、
<He wrote that those executed in the tower were turned into ravens. It is a fascinating dark story that adds to the magic of the legend.>
 漱石が、処刑された人々がカラスになって帰って来ると書いていることが、この伝説に魅惑的な暗黒の物語を付け加えているとしています。

『倫敦塔』を読んでみましょう。
<烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。>
 処刑された人がカラスになって帰って来るという想像は日本人には容易に理解できますが、キリスト教徒のイギリス人にはどう映ったのでしょう。
<吹く風に楡の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。ギリシャ風の鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒さむそうだから、パンをやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥にただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独で考えているかと思わるるくらい澄ましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入る。>
 漱石は五羽の鴉と書いていますが、正しくは六羽のようです。

 漱石の幻想は、下宿に帰って主人から種明かしをされて破れてしまいます。
<無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉が五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心大いに驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の一半は倫敦塔を見たその日のうちに打ぶち壊こわされてしまった。>

漱石の作品の中で、『倫敦塔』はあまり評価されていないように思いますが、英語版が出版されるくらい、本場のイギリスでは評価されているように思います。



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 カラスの話しは聞いたことがありましたが そう言うことだったんですか 日本人には向かないのでしょうかね・・・

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/09/16 8:57:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

この話、突然漱石の『倫敦塔』がでてきましたので、びっくりしました。

[ seitaro ] 2017/09/16 9:12:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

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夏目漱石が『倫敦塔』で見た「怖い絵展」のポスターの幻想

 ロンドン塔の処刑の様子を描いたポール・ドラローシュ 「レディ・ジェーン・グレイの処刑」 が9月18日まで兵庫県立美術館「怖い絵展」で展示されています。

 白いドレスを着て、目隠しをされ、今まさに断頭台の露と消えそうなうら若き乙女がレディ・ジェーン・グレーです。この時、弱冠16歳。イングランド初の女王となってからわずか9日後のことでした。

 漱石は『倫敦塔』でボーシャン塔(The Beauchamp Tower)を訪れた時、処刑の場面を幻想を見たように描いています。

<気味が悪くなったから通り過ぎて先へ抜ける。銃眼のある角を出ると滅茶苦茶めちゃくちゃに書き綴つづられた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画かくで、小さく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。>
 ボーシャン塔の銃眼のところで「ジェーン」の文字を見つけた漱石は、その処刑の場面に思いを馳せます。

<英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙をそそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂躙られたる薔薇の蕊より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を繙とく者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。>


 ここから漱石の空想の場面が広がります。
<始は両方の眼が霞すんで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点にパッと火が点ぜられる。その火が次第次第に大きくなって内に人が動いているような心持ちがする。次にそれがだんだん明るくなってちょうど双眼鏡の度を合せるように判然と眼に映じて来る。次にその景色がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端はじには男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停まる。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色こんじきの髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺に至るまで、先刻さっき見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違がわぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握の髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真の道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹っとして「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴ズボンの膝に二三点の血が迸ばしると思ったら、すべての光景が忽然と消え失うせた。
 あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない。狐に化ばかされたような顔をして茫然と塔を出る。>
この漱石が見た幻想は、まさにポール・ドラローシュ が描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の場面そのものでした。



夏目漱石『倫敦塔』は青空文庫でも読めます。


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夏目漱石『倫敦塔』を歩く

 漱石は明治33年10月から明治35年12月までの2年間、文部省留学生としてロンドンに留学し、その時のロンドン塔見物を題材にした短編を書いています。

『倫敦塔』を読みながら、歩いてみました。
<二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断わった。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。>
 二度と倫敦塔を訪ねなかったのは、下宿の主人に漱石の想像を悉くつぶされたことも一つの原因になっているようです。
漱石にはロンドンの喧騒が肌に合わず、神経衰弱に陥ったそうですが、次の文章にも表れています。
<表へ出れば人の波にさらわれると思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。>
倫敦塔に行くのも、一枚の地図を頼りに歩いて行ったようです。
<無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を披らいて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。>

 私もホテルから地図を頼りに歩いて行きました。

歩いているとシティ・オブ・ロンドンの境界を示す守護獣のドラゴン像がありました。ロンドン塔はロンドンの中心といえど、正確にはシティ・オブ・ロンドンの境界から外れていました。

 さて漱石の倫敦塔の説明が始まります。
<倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸帳が自と裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆さかしまに戻って古代の一片が現代に漂よい来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古の人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺ながめ入った。>

1902年に漱石が感動した光景は今も保たれています。

絵地図を見ながら倫敦塔の中に入ります。

<空濠にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向こうへ抜ける。中塔とはこの事である。>

エントランスの向こうに見えるのが中塔(Middle Tower)です。

<また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖セントタマス塔が聳えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。>

テムズ川につながる逆賊門(Traitor’s Gate)です。

テムズ川と堀に囲まれた中世の倫敦塔の絵がありました。逆賊門から船が入ろうとしています。

<左へ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇の乱に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。草のごとく人を薙、鶏のごとく人を潰し、乾鮭のごとく屍を積んだのはこの塔である。血塔と名をつけたのも無理はない。>

血塔(Bloody Tower)です。

<血塔の下を抜けて向うへ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔むかしの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。>

倫敦塔の中心に来ました。

白塔(White Tower)です。中に入ってみましょう。

<南側から入って螺旋状の階段を上るとここに有名な武器陳列場がある。時々手を入れるものと見えて皆ぴかぴか光っている。日本におったとき歴史や小説で御目にかかるだけでいっこう要領を得なかったものが一々明瞭になるのははなはだ嬉しい。しかし嬉しいのは一時の事で今ではまるで忘れてしまったからやはり同じ事だ。ただなお記憶に残っているのが甲冑である。その中でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。>

漱石もこの陳列には目を見張ったようです。

 下宿に戻った漱石は主人に倫敦塔の話をしますが、中世の倫敦塔の空想を打ち破られ、最後に次のように述べています。
<これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。それからは人と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また再び見物に行かない事にきめた。>

さて漱石の『倫敦塔』、イギリスではロンドン塔のカラスについて初めて記述した作品として評価されていることがわかりました。それは次回に。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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