阪急沿線文学散歩

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エジンバラで見つけた『ジキル博士とハイド氏』のモデルとなった人物

『ジキル博士とハイド氏』は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが『宝島』の3年後に書いたロンドンを舞台とした小説です。

 
 しかし、そのモデルはスティーヴンソンの故郷であるエジンバラの18世紀のウィリアム・ブロディーによる犯罪からヒントを得たと言われています。ブロディは、エジンバラの市会議員やギルドの役員をしながら、泥棒などの犯罪を続けた人物で、エジンバラでは有名な歴史的犯罪者なのです。
 スティーヴンソンは二重人格という精神性と道徳的な善と悪とのジレンマをテーマにし、薬を飲んで人格と容貌が変わるというSF的な要素を加えた作品としました。
 その有名な「ジキル博士とハイド氏」のモデルになった実在の人物をモデルにしたカフェ「Deacon's House Cafe」をエジンバラ城へ向かう途中でみつけました。

入り口には、ここがWilliam Brodieの工房であったと書かれています。

像はブロディのようです。
 入口の上に Brodie’s Closeと書かれていますが、ブロディの袋小路とでも訳すのでしょうか。
京都でいうと「路地」のような細い道が、このあたりによく見られました。


 Deacon's House Caféと通りを挟んで向かいに、ブロディの邸宅があり、現在はパブになっています。

「DEACON BRODIE TAVARN」の壁にはジキル博士とハイド氏のモデルとなった由来が書かれていました。

1700年頃の話であるが、道の名前にもなっているWilliam Brodieは石工ギルドの組合長(deacon)であった。昼間の彼の姿は、全うな人間であったが、夜の姿は一変して、裏社会に身を置いて、ギャンブルやお酒に明け暮れていたのであった。しかし1788年、Brodieはギャンブルの借金を返すために強盗を犯し、首つりの刑に処されたそうである。この話が、エディンバラ出身の小説家、ロバート・ルイス・スティーブンソンの有名な作品「ジキル氏とハイド氏」のインスピレーションになったそうです。

吊り看板にはブロディの二つの姿が描き分けられていました。

中は普通のパブになっていました。

子供の頃読んだ『ジキル博士とハイド氏』ですが、久しぶりに読み返しました。



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ロンドン塔のカラス伝説を初めて著述したのは夏目漱石『倫敦塔』

ロンドン塔に行くと大きなカラスがいました。


こんな看板もあります。


 17世紀にチャールズ2世がロンドン塔に棲みついたカラスの駆除を命じますが、占い師がカラスがいなくなると英国が滅びると予言により、カラスは英国王室の守護神として大切に飼われているのです。
 今もロンドン塔では、ワタリカラス(raven)6羽が飼育されていて、1羽死ぬと野生のカラスを1羽捕えてきて加えるそうです。

 ロンドン塔のカラスについて更に調べていると、Culture TripというサイトでThe Six Ravens At The Tower Of London(ロンドン塔の6羽のカラス)という紹介がありました。
<One of the first descriptions of the Tower of London’s ravens was from a Japanese writer who wrote the 1905 novel Tower of London. >

 ロンドン塔のカラスについての最初の著作は1905年に日本の作家が書いた『倫敦塔』であると述べています。夏目漱石の名前はなく、単に日本の作家とされているのは少し残念ですが。

更に、
<He wrote that those executed in the tower were turned into ravens. It is a fascinating dark story that adds to the magic of the legend.>
 漱石が、処刑された人々がカラスになって帰って来ると書いていることが、この伝説に魅惑的な暗黒の物語を付け加えているとしています。

『倫敦塔』を読んでみましょう。
<烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。>
 処刑された人がカラスになって帰って来るという想像は日本人には容易に理解できますが、キリスト教徒のイギリス人にはどう映ったのでしょう。
<吹く風に楡の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。ギリシャ風の鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒さむそうだから、パンをやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥にただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独で考えているかと思わるるくらい澄ましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入る。>
 漱石は五羽の鴉と書いていますが、正しくは六羽のようです。

 漱石の幻想は、下宿に帰って主人から種明かしをされて破れてしまいます。
<無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉が五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心大いに驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の一半は倫敦塔を見たその日のうちに打ぶち壊こわされてしまった。>

漱石の作品の中で、『倫敦塔』はあまり評価されていないように思いますが、英語版が出版されるくらい、本場のイギリスでは評価されているように思います。



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 カラスの話しは聞いたことがありましたが そう言うことだったんですか 日本人には向かないのでしょうかね・・・

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/09/16 8:57:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

この話、突然漱石の『倫敦塔』がでてきましたので、びっくりしました。

[ seitaro ] 2017/09/16 9:12:15 [ 削除 ] [ 通報 ]

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夏目漱石が『倫敦塔』で見た「怖い絵展」のポスターの幻想

 ロンドン塔の処刑の様子を描いたポール・ドラローシュ 「レディ・ジェーン・グレイの処刑」 が9月18日まで兵庫県立美術館「怖い絵展」で展示されています。

 白いドレスを着て、目隠しをされ、今まさに断頭台の露と消えそうなうら若き乙女がレディ・ジェーン・グレーです。この時、弱冠16歳。イングランド初の女王となってからわずか9日後のことでした。

 漱石は『倫敦塔』でボーシャン塔(The Beauchamp Tower)を訪れた時、処刑の場面を幻想を見たように描いています。

<気味が悪くなったから通り過ぎて先へ抜ける。銃眼のある角を出ると滅茶苦茶めちゃくちゃに書き綴つづられた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画かくで、小ちいさく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。>
 ボーシャン塔の銃眼のところで「ジェーン」の文字を見つけた漱石は、その処刑の場面に思いを馳せます。

<英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙をそそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂躙られたる薔薇の蕊より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を繙とく者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。>


 ここから漱石の空想の場面が広がります。
<始は両方の眼が霞すんで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点にパッと火が点ぜられる。その火が次第次第に大きくなって内に人が動いているような心持ちがする。次にそれがだんだん明るくなってちょうど双眼鏡の度を合せるように判然と眼に映じて来る。次にその景色がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端はじには男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停まる。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色こんじきの髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺に至るまで、先刻さっき見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違がわぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握の髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真の道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹っとして「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴ズボンの膝に二三点の血が迸ばしると思ったら、すべての光景が忽然と消え失うせた。
 あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない。狐に化ばかされたような顔をして茫然と塔を出る。>
この漱石が見た幻想は、まさにポール・ドラローシュ が描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の場面そのものでした。



夏目漱石『倫敦塔』は青空文庫でも読めます。


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夏目漱石『倫敦塔』を歩く

 漱石は明治33年10月から明治35年12月までの2年間、文部省留学生としてロンドンに留学し、その時のロンドン塔見物を題材にした短編を書いています。

『倫敦塔』を読みながら、歩いてみました。
<二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断わった。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。>
 二度と倫敦塔を訪ねなかったのは、下宿の主人に漱石の想像を悉くつぶされたことも一つの原因になっているようです。
漱石にはロンドンの喧騒が肌に合わず、神経衰弱に陥ったそうですが、次の文章にも表れています。
<表へ出れば人の波にさらわれると思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。>
倫敦塔に行くのも、一枚の地図を頼りに歩いて行ったようです。
<無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を披らいて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。>

 私もホテルから地図を頼りに歩いて行きました。

歩いているとシティ・オブ・ロンドンの境界を示す守護獣のドラゴン像がありました。ロンドン塔はロンドンの中心といえど、正確にはシティ・オブ・ロンドンの境界から外れていました。

 さて漱石の倫敦塔の説明が始まります。
<倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸帳が自と裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆さかしまに戻って古代の一片が現代に漂よい来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古の人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺ながめ入った。>

1902年に漱石が感動した光景は今も保たれています。

絵地図を見ながら倫敦塔の中に入ります。

<空濠にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向こうへ抜ける。中塔とはこの事である。>

エントランスの向こうに見えるのが中塔(Middle Tower)です。

<また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖セントタマス塔が聳えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。>

テムズ川につながる逆賊門(Traitor’s Gate)です。

テムズ川と堀に囲まれた中世の倫敦塔の絵がありました。逆賊門から船が入ろうとしています。

<左へ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇の乱に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。草のごとく人を薙、鶏のごとく人を潰し、乾鮭のごとく屍を積んだのはこの塔である。血塔と名をつけたのも無理はない。>

血塔(Bloody Tower)です。

<血塔の下を抜けて向うへ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔むかしの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。>

倫敦塔の中心に来ました。

白塔(White Tower)です。中に入ってみましょう。

<南側から入って螺旋状の階段を上るとここに有名な武器陳列場がある。時々手を入れるものと見えて皆ぴかぴか光っている。日本におったとき歴史や小説で御目にかかるだけでいっこう要領を得なかったものが一々明瞭になるのははなはだ嬉しい。しかし嬉しいのは一時の事で今ではまるで忘れてしまったからやはり同じ事だ。ただなお記憶に残っているのが甲冑である。その中でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。>

漱石もこの陳列には目を見張ったようです。

 下宿に戻った漱石は主人に倫敦塔の話をしますが、中世の倫敦塔の空想を打ち破られ、最後に次のように述べています。
<これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。それからは人と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また再び見物に行かない事にきめた。>

さて漱石の『倫敦塔』、イギリスではロンドン塔のカラスについて初めて記述した作品として評価されていることがわかりました。それは次回に。



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中世の建築物・貴族の館ビルズレー・マナー・ハウス

 イギリスの建物として、どうしても見ておきたかったのは、シャーロック・ホームズやダウントン・アビーなどで登場する貴族の館、マナー・ハウス。
 マナー・ハウスとは中世の荘園(マナー)において、地主たる荘園領主が建設した邸宅です。

 コッツウォルズではヒドコート・マナー・ガーデンでイングリッシュ庭園を楽しむことができましたが、幸運にも湖水地方でストラット・フォン・エイボンから約3マイルのところにあるビルズレー・マナー・ホテルに宿泊することができました。

1066年のノルマン・コンクェストの時代から、この荘園はTrussel家の持ち物で、当初は木製のマナー・ハウスだったようです。

400年にわたってTrussel家のものだったマナー・ハウスは多くの人の手をわたり、修復もされず放置されていたようですが、20世紀の初頭に Sudeleyの第5代男爵Charles Hanbury Traceyによって修復されたそうです。

この門の奥が母屋です。

建築様式はエリザべサン・スタイル。

玄関上部には家主を象徴する紋章が飾られていたはずですが、ホテルとなった現在はその上にランプが取り付けられていました。

中に入ると、大きなマントルピースが迎えてくれました。

庭に出てみましょう。

100年の歴史がある装飾庭園がありました。

装飾庭園から見たマナー・ハウスです。

 シェイクスピアは、しばしばこのビルズレー・マナー・ハウスを訪れ、庭園を歩きながら詩や戯曲の構想を練り、図書室で『お気に召すまま』を書いたと伝わっているそうです。

またこの荘園の広い敷地内に、11世紀に教会が建てられ、そこでシェイクスピアとアン・ハサウェイの結婚式が執り行われたとのことで、シェイクスピアとのつながりも深いマナー・ハウスです。


2階の廊下には1600年代の主の肖像や、剣の飾りなどが掛けられていました。

下に見えるのが食堂で、朝食はここでいただきました。

典型的なイングリッシュ・ブレックファースト。少し取りすぎました。
 わずか一泊でしたが、マナー・ハウスの雰囲気を楽しみ、もっとゆっくり過ごしたかったホテルです。



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コッツウォルズ地方の町を彩るハチミツ色の石の住宅街

 コッツウォルズはイングランドでも屈指の美しさを誇るカント リーサイド。その魅力は淡い緑の中に建つ、ハチミツ色のライムストーン(コッツウォルド・ストーン)でできた住宅でしょう。

 チッピング・カムデンは中世に毛織物の町として栄えた町。この地方で採れるハチミツ色のコッツウォルド・ストーンでできた家々が続きます。

 ボートン・オン・ザ・ウォーターは、ウインドラッシュ川のほとりの小さな町。

駐車場の前にもコッツウォルド・ストーンでできた大きな家がありました。

風情ある石塀の道を歩くとウィンドラッシュ川に出ます。

川と橋とハチミツ色の町並みの美しい風景です。

町の中心にあるホテル、ザ・ダイアルハウスは1698年の建物。

 次に少し南に下って、ウィリアム・モリスが「イングランドで最も美しい村」と評したハイブリーへ。

アーリントン・ロウにあるコテージ群は1380年に修道院の羊毛貯蔵所として建てられたもの。

この建物は17世紀に職工のために一連のコテージに改装されたそうです。

 ハイブリーには伝統的な家屋が多く並び、落ち着いたコッツウォルズの風景が楽しめました。


 これらの住宅の建築様式はどう呼ぶのか調べていましたら、カントリーサイドに良く似合う独自のスタイルとして、単純にコッツウォルズ・スタイルと呼ぶそうです。

 この地方でのみ採れるコッツウォルド・ストーン(石灰岩)。北東部ではハチミツ色のこのライムストーンは、中部では黄金色となり、さらに南西に下がるに従って真珠のような柔らかい白色へと変化するそうです。写真でおわかりになったでしょうか。




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ストラトフォード・アポン・エイボンはチューダー様式の家が一杯

 チューダー朝時代に建築された建物のスタイルは、外壁に梁材をあしらった白黒(または茶)の外観の建物が有名です。

例えばシェークスピアの生家。


 1594年に建てられた典型的なハーフ・ティンバー(木組み)のストラットフォード・アポン・エイボンの最古のパブThe Garric Inn。梁や筋かいを多く入れることで強度を増し、背の高い建物を実現しています。
 その右側の建物はハーバード・ハウス。1596年に、ハーバード大学の母体を創設したジョン・ハーバードの祖父であるトマス・ロジャースが建てたもの。1909年、イングランド人の小説家でストラトフォード・アポン・エイボンに住んでいたマリー・コレリの提案と熱狂的な支援により、この家はシカゴに住むアメリカ人の百万長者であるエドワード・モリスによって購入され、大規模な修復の後、ハーバード大学に寄贈され、ハーバード・ハウスとして知られるようになったそうです。

 先の尖ったアーチ型の玄関ドア―もチューダー・アーチと呼ばれる典型的なチューダー様式。
 窓は縦長で、細かく仕切られた鉛や鉄の格子に小さなガラス板が一枚一枚はめ込まれています。

 また建物の2階以上の部分が1階よりも張り出すのもチューダー様式の特徴。

町の中心部に残っているシェークスピアの通ったグラマー・スクールにもその特徴がみられます。

張り出した部分はJettyと呼ばれています。

シェークスピアの孫娘エリザベスが夫トーマス・ナッシュと一緒に住んだ家です。

立派な茅葺き屋根が印象的なシェークスピアの妻アン・ハサウェイが結婚前に家族と住んでいた家もチューダー様式の代表的な家です。

かなり大きな農家だったそうで、内部には12部屋あり、今も16世紀のアンティーク家具が置かれています。

このようにストラットフォード・アポン・エイボンでは典型的なチューダー様式の住宅があふれていました。

こんな貸店舗もありました。いくらで貸してくれるのでしょう。


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エディンバラで見たスコティッシュ・サンドストーンの住宅

 スコットランドでは多くの住宅がサンドストーン(砂岩)造りになっていました。。石の色は黄土色のスコティッシュ・バフ・サンドストーンと赤味のあるスコティッシュ・レッド・サンドストーンに二分されるようです。
 赤味のある方は、ハイランド、黄土色のものはローランド産のようですが、ローランド地方に属するエディンバラでも、それぞれの建物を見ることができました。

バフ・サンドストーンの建物。

こちらは同じ地区内のレッド・サンドストーンの建物。
いずれもセミ・デタッチド・ハウス(二戸建て一軒家)で、トゥエンティーズ&サーティーズ・スタイルと呼ばれる、1930年代の建築ラッシュ時に建てられた中産階級用の規格型プランではないでしょうか。

レストランRamsdens at The Three Bridgesも由緒ある建物のようです。

 レッド・サンド・ストーンが使われ1903年にオープンした5つ星のホテルウォルドルフ アストリア エディンバラ ザ カレドニアンはジョージアン・スタイル。

The Scotch Whiskey Experience も同じジョージアン・スタイルの建物。
 いずれも、ダッチゲーブルと呼ばれる階段状のユニークな妻壁が目立ちます。

 エリザベス女王のスコットランドにおける公邸であるホリールード宮殿はシンメトリックなバロック様式です。

 どの建物もサンド・ストーン特有の肌合いと柔らかみが魅力的でした。



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英国の住宅建築・湖水地方石積みの家を訪ねる

 建物好きの私にとって、イギリスの旅で見た住宅は周りの風景に溶け込んだ歴史を感じる素晴らしい建物ばかりでした。
 日本に戻って、英国住宅建築様式の変遷や建材についてまとめた小尾光一著『英国住宅に魅せられて』という本を参考にしながら、撮った写真の家について調べてみました。


まずは湖水地方の石積みの家です。
湖水地方の観光の後、一般家庭訪問というプログラムで家の中も案内してもらえる機会を得ました。湖水地方で多く見られる典型的な石積みのお家です。

 この地域で採れる石はカンブリアン・ストーンと呼ばれる粘板岩の非常に硬い石。

外観は上の写真のようになっていて、セミ・デタッチドハウス (Semi-Detached House)と呼ばれる一棟の建物を中央で区分し、2軒の家が区分している壁を共有するイギリスではよく見られる家の形になっています。
 建築様式は年表を見ると、1901年〜1918年頃のエドワーディアン・スタイルと思われます。その典型的な外観の特徴は、張り出した三角形の妻壁の下に、1,2階つながった出窓がくっついたデザインです。

チムニーポットは現在も本当に役に立っているのか、気になっていましたが、応接間に通して頂くと、暖炉の場所にMorso製の薪ストーブが据えられており、冬は薪をも燃やして暖をとるそうです。

天井には石膏製シーリング。

 近くのウィンダミア湖が一望できるオレストヘッドという小山に登った時、途中にFirewood logs for saleという看板が目につきました。

日本ならストーブは資源や煤煙の問題もあり、すたれましたが、自然と共生できる環境を保つことができるイギリスでは、実際に炎の見える暖炉やストーブは生活に欠かせないようです。
湖水地方は石積みの家が多く見られ、チムニーポットも目立っています。

向こうに見えるのがウィンダミア湖です。

さて、家の中に戻りましょう。明るいキッチン。

手作りのケーキまで用意していただきました。

ベッドルーム。

娘さんはハネムーンに日本を訪問されたそうで、お土産の日本人形が飾られていました。

ご趣味のふくろうの置物も沢山。

裏庭と呼ぶのでしゅか。一段下のイングリッシュガーデン。

ご近所もこのような石積みの家ばかり。

セントラルヒーティングも進んで、使われなくなったチムニーポットがこのようにフラワーポットとして使われていました。

でもイギリスの住宅の屋根からチムニーポットが消えることはなさそうです。



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紀元1世紀に建設されたローマ式温泉へ

 世界遺産にも登録されているイングランド西部の都市バースにあるローマ時代の浴場跡、ローマン・バス博物館を訪ねました。

現在でもこれほど立派な温泉施設を造ることは、採算面から考えても難しいと思いますが、紀元1世紀に造られたローマン・バスを目の当たりにして驚嘆しました。

館内に入る前に簡単な説明がありました。

日本語のオーディオガイドを借りてここから館内に。

現在の地上レベルは2000年前よりかなり高くなっており、館内に入ると、大浴場の2階に出ます。

 大浴場を見渡すように2階の欄干には8人のローマ皇帝と将軍の石像が立っていますが、これはこの大浴場が発見された 19世紀末につくられたものです。

左側の彫像がカエサル、右側の彫像がクラウディウス帝です。

浴場の建物は1世紀末に建てられましたが、その後300年間手が加えられ、4世紀には、上の図に描かれたような姿になっています。現在は屋根がありませんが、元々はドーム型の屋根が付いていました。

模型が展示されていましたが、大浴場の後ろの建物がスリス・ミネルヴァ神殿です。
 スリスとは、先住民のケルト人が崇拝していた泉の女神のことで、ローマ人は、ローマ神話の治癒の女神ミネルヴァと先住民の女神スリスと同一視していたのです。

4世紀のアクア・スリス(バース)の街の絵です。
スリス・ミネルヴァ神殿と大浴場などの公共施設を中心に街が造られ、周りを壁で囲んでいることがわかります。(上を流れるのはエイヴォン川)

源泉は今も枯れず、46℃、13リッター/秒の割合で湧出しています。

ローマ人の温泉利用技術は当時から優れていて、源泉の周りにオークの杭を打ち、鉛のシートで2mの高さのリザーバーを作り、そこから各浴場へ配湯したそうで、鉛管もその時代から使われていたのです。

大浴場一階に行くと、ローマ人の扮装をした人がいました。

The King’s Bathと呼ばれる浴場がありました。

史実ではないようですが、ブリタニア列王史の中で、最初に風呂を作ったブリトン王、ブラダッドによって紀元前836年に温泉が発見されたとされており、伝説上のブラダッドの像が17世紀にThe King’s Bathに据えられています。

絵の様に、熱風を床下に送って暖房するシステムもありました。


その上の部屋はマッサージ室や、サウナ室として使われ、

風呂上がりの休憩、談話に使われていたようです。

再現映像が、実物大で見れるようになっていましたが、美観を損ねないようにでしょうか、女性モデルでした。実際はどうだったのでしょう。

最後に、温泉水を飲むことができるようになっていました。

We adore springs of hot waterと書かれており、温泉は神聖なものと考えられていたようです。源泉は聖なる泉(Sacred Spring)と名付けられていますし、隣にはスリス・ミネルヴァ神殿が建設されているのですから。
 日本でも、城崎温泉に温泉寺があることなどを考えると、同じような思想があったのでしょうか。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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