阪急沿線文学散歩

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マイケル・ブース『限りなく完璧に近い人々』は北欧の暮らしを評した傑作

 マイケル。ブースの『限りなく完璧に近い人々』なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?が好評です。


 マイケル・ブースと言えば、『英国一家、日本を食べる』が日本でもベストセラーとなって、NHKでもアニメになって放映されており、以前にも記事にさせていただきました。

http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11157872c.html

 日本通の著者が今度はどんな北欧論を繰り広げるのか楽しみに読ませていただきました。
 英国人作家マイケル・ブースは現在デンマークに住んでいるそうですが、その訳は、
<妻が「自分の国に帰りたい」と言ったのだ。だから体中の細胞が「マイケル!あの国に住むのがどういうことか、覚えていないのか?」と叫んでいるにもかかわらず、私は決心した。なぜなら長年にわたる過去の手痛い経験から学んでいたのだ ―長期的に見れば、妻に従うのが最良の道なのだと。>
これは私も同感、いい選択をされたことと思います。

 そして著者は北欧5ヶ国を旅して、その社会システムや国民性について「実際のところ、北欧ってしあわせの国なのか?」と英国的ユーモアをもって膨大なインタビューとリサーチを繰り広げます。

<北欧五カ国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランド)を合わせれば、世界最強の教育システムを持つ国(フィンランド)、健全な政教分離が保たれ、多文化であり、近代的に工業化された、社会の鏡と呼べる国(スウェーデン)、石油による膨大な富を愚かしい超高層ビルやロンドンのパーク通りに立つコールガールにつぎ込んだりせず、分別と倫理観をもって長期的な事業に投資してる国(ノルウェー)、世界で一番、男女平等な社会を実現し、男性の寿命が最も長く、モンツキダラの漁獲量が高い国(アイスランド)、挑戦的な環境政策を持ち、国が社会保障制度を支える潤沢な基金を持っている国(五カ国すべて)が揃う。>

 しかし日本人はどうしてそのような国家を目指せないのかというのも私の関心事でした。
 ご存知のように社会民主主義国家の税負担は非常に大きく、デンマークの納税者負担は58%から72%に達していますが、それが可能なのは、経済的な平等が社会全体にとって価値のあるものだということを、なぜか本能的に理解していたのだろうと述べています。

 そして、このような社会を築けたのは長い歴史の中で培われた国民性に依るところが大きいようです。
<デンマーク人はつねに人を信用する国民であったし、そういった信頼関係と社会的団結が福祉国家へと歩む道の下地を整えたのであって、その逆ではないと主張する。「富を再配分しようとする時には、信頼関係が強い社会のほうがやりやすいのでしょう。再配分されるものが、受け取るべき人たちのもとへ、適切に渡っていると皆が信じることができるのですから。私たちデンマーク人には、つねに信頼関係がありました。そしてこの信頼が、福祉国家を築く土台となったのです」>

 マイケル・ブース氏はインタビューで、「北欧と日本には共通するものがある」とし、
「北欧と日本には共通項がある。伝統的に集団社会であること。経済的な公平性、貧富の差がそれほどないということ。信頼社会であること。」と述べており、日本にも世界一幸せな国になる素地が整っているのかもしれませんが、集団社会、経済的公平性、信頼社会など、いずれも失われつつあるようにも感じています。

(上のグラフのように平等度を表すジニ係数は日本は上昇を続けています)


 以前「視点・論点」で国際医療福祉大学大学院教授 渡邉芳樹氏が「現代スウェーデンからの教訓」と題して、<スウェーデン人は夫婦の間でもむやみに依存し合うことなく純粋な愛と自立と平等を大切にします。離婚時にも慰謝料はありません。また働いて税金を納めてこそ居場所がある社会です。良いサービスは受けるものの、それに頼り過ぎず我慢してでも自立した生き方を貫きます。こうしたことが個々人の能力を最大限に発揮し、国際経済の荒波を生き延びる力となってきたと確信しています。「自分で食べられなくなったら自然体の最期を迎える。日常生活の中での独立死を厭わない。」というのがスウェーデン人の生き様です。人生を律する強い「覚悟」があります。>と国民の覚悟ついてお話されていましたが、
そのような意識が醸成されることも重要なことでしょう。

 資源の乏しい国に住む1億人が豊かな生活をしていくためには、グローバル化が急速に進む市場主義経済の競争社会を生き抜いていかねばならないという宿命にあるのかもしれませんが、もっと人口が減った将来、一人ひとりが賢くなり、お金のかからない余暇を過ごす方法を見出せば、日本も北欧並みの幸福な生活が送れるようになるのかもしれません。
 北欧5カ国の制度も盤石ではなく、多くの問題をかかえているのも事実なのですが、読みながら、人生観にかかわる問題を含めて、色々考えさせられました。




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栗田明子さんから教えていただいた絵本、『トミーが三歳になった日』

 幼い坊やがお尻を丸だしのまま、トランクの上に乗っかって、小さな窓から外を眺めている表紙の絵本。ぼうやのいるところは自由のない収容所でした。

 栗田さんが1981年、『ひろしまのピカ』を売り込みに、オランダのコック社を訪ねた時、逆に編集者から見せられ、すっかり魅せられてしまったという本です。

 栗田さんの著書『海の向こうに本を届ける』では次のように紹介されています。
<1944年の1月22日、トミーは3歳の誕生日を、チェコのテレジンシュタットという街の、ユダヤ人収容所で迎えることになりました。画家の父親は、何一つプレゼントをするものがないので、息子に、収容所の外の世界を描いて贈ってやろうと思いつきます。
 まーるいお月さま、色とりどりの花畑、ひろーい海、南や北のにこにこ顔の子供たち、街から村へと走る汽車など、トミーの喜びそうな絵を、毎日少しずつ描きためました。>


トミーの未来を気遣った父親の愛情がほのぼのと伝わってくる絵です。
<やがて、秘密の絵本作りがドイツ兵にみつかり、トミーの父フリッタ氏はアウシュビッツのガス室に送られてしまいます。しかし、フリッタ氏は、友人の画家、レオ・ハース氏に、トミーのことととともに、壁に塗り込んだ数々の絵のことも託しました。>
 その数々の絵は、戦後養父の手で、アウシュビッツの壁のなかから取り出され、オランダの作家ミース・バウハウス女史によって絵本になったのです。
 その後、栗田さんはマンハイムに住むトミーに会いに行かれたそうで、やさしそうなひげもじゃのおじさんになったトミーは図書館の司書になっていたとのことでした。

 日本語版は『トミーが三歳になった日』(横山和子訳)としてほるぷ社より出版されており、西宮図書館で借りて読むことができました。


絵本の裏表紙には次のように説明されていました。
<収容所のたかい壁の外には、すばらしい世界があります。でも、おさないトミーは、そんなことを、まるで知りません。絵かきだったお父さんのペジュリフは、そこで、息子のために、この世のありとあらゆるものを、絵にかいてやろうと思います。収容所のなかの仕事場で、ドイツ兵の目をぬすんでえがきつづけた絵を、お父さんは、けっして見つからないようにと、壁のなかのひみつの場所に、かくしておきました。
 やがて、お父さんは、アウシュビッツへ送られて、死んでしまいます。けれども、トミーのためのスケッチブックは、戦争をくぐりぬけて生きのこり、いっしょにくらしていたおじさんの手で、ぶじみつけだされました。>

死を覚悟していた父親が、我が子の将来を思い、愛情をこめて描いた絵をひとつひとつ見ていると、胸が熱くなってしまいました。



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いつもブログを見るのを楽しみにしています☆これからも楽しく読ませて頂きますね!

[ 水天宮前・人形町の理容室 ] 2016/11/23 10:23:06 [ 削除 ] [ 通報 ]

いつもブログを見るのを楽しみにしています☆これからも楽しく読ませて頂きますね!

[ 中央区の床屋ならここで決まり ] 2016/11/23 10:25:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

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マーク・トウェイン『ヨーロッパ放浪記』ルツェルンのライオン像へ

 マーク・トウェイン『ヨーロッパ放浪記』にはスイスのルツェルンを訪れたことが述べられています。


 私たちも、ユングフラウ滞在を終え、12世紀創建のベネディクト派修道院のあるエンゲルベルクに立ち寄った後、ルツェルンに向かいました。

 
 ルツェルンにはフランス革命の1792年8月10日にスイス傭兵がチュイルリー宮に押し寄せる革命派を阻止しようとして殉死したことを後世に伝える記念碑として造られた有名なライオン像があります。

<本物のライオン像は低い崖の垂直の壁に鎮座していた −崖の岩をそのまま彫って造ったものだからである。大きさは巨大と言っていいくらいで、姿は堂々たるものである。>

<頭を少し垂れ、折れた槍が肩に刺さり、前に踏み出した足はフランス王家の紋章である百合の花の上にのっている。蔦が崖を這い、風に揺れていた。水の澄んだ渓流が上から流れ落ち、下の池に注いでいた。池の水面には睡蓮が浮かび、その中にライオンの姿が映っていた。>

私が訪れたときは、蔦や睡蓮はありませんでしたが、瀕死の苦しげなライオン像がはっきり見えました。

<周囲には、緑の木々や草が繁っている。この場所は森に囲まれた人目につかない所で、世間の喧騒からは隔離されていた。やはり、ルツェルンのライオンが見る者に感銘を与えるのは、この場所以外にはないのである。>
 木々に囲まれた格好の場所ですが、既に多くの観光客が来て写真を撮っていました。

旧市庁舎で昼食をとった後、街の中を散策。

マークトウェインも渡ったカペル橋へ。

<われわれは湖から勢いよく流れ出ているロイス川にかかる、屋根のついた二本の長い木製の橋を見に行った。このうねるような、湾曲したトンネル形の橋は人を引き付けるものがあって、滔々と流れる川の上に小屋のような外観を呈していた。内部にはスイスの昔の画家たちの奇妙な古い絵が二、三百描かれていた −彼らはデカダンス芸術以前に流行った看板書きである。>

この橋は何度か焼け落ちたようで、橋の内部に掛けてある絵も復元したもののようです。

 市街地を守っていたムーゼック城壁からルツェルン湖と市街地が見晴らせました。


マークトウェインたちは、数日間、青いルツェルンの湖や雪をいただいた周囲の山々を眺めて心ゆくまで楽しんだ後、蒸気船に乗ってリギ山の麓まで行って登ることにします。

ここからリギ山まで14km。

私たちは遊覧船で眺めて戻ってきました。





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1878年マークトゥエインが見たハイデルベルグのキャンパスライフ

 若い息吹を感じる、大学のキャンパスを歩くことが大好きなのですが、今回はハイデルベルグを訪れるチャンスを得ました。

写真は大学広場と旧大学校舎

マークトゥエイン『ヨーロッパ旅行記』第4章には1878年のハイデルベルグの羨ましいキャンパスライフが描かれています。

<常に多くの学生が町にあふれているので、彼らはいつ勉強するのだろうかと不思議に思う。学生の中には、勉強するものもいれば、しない者もいる。する、しないは自分で選べる。ドイツの大学は自由で、特に拘束はないようである。学生たちは大学の寮には住まず、自分の気に入った地区に部屋を借りて住み、好きな時に、好きな所で、食事をとるのである。眠くなったらベッドに入り、起きたいと思わなければ決して起きることはない。>

 日本でいえば明治時代の大学生活ですが、ああ、なんと恵まれた生活でしょう。マークトゥエインも羨むぐらいです。

上の写真は新校舎と14世紀には市壁の塔だった魔女の塔。

 しかしトゥエインの説明では、彼らは9年間のギムナジウムで、奴隷のようにひたすら教師の言いなりになって学び、完璧な教育を受けて卒業した結果のことであり、
<したがって、このようなドイツ人学生は、学びたい講義分野にしか出席せず、一日の残り時間を、ビールを飲んだり、犬を連れて歩いたりして、楽しんでいるのだ。ドイツ人学生は長い間厳しく拘束されてきたので、大学生活の寛大な自由こそは、まさに彼らが必要とし、好み、全面的に支持しているものである。ただし、この自由は長続きはしないから、続く間は最大限に利用し、再び拘束されて、公的な職や専門職の奴隷になる日に備えて、十分な休息をとっているのである。>とのこと。
日本の受験勉強と大学生活も同様かもしれませんが、何處か違っているような気もします。

上の写真は大学図書館。

当時は大学の治外法権が認められていたようで、マークトゥエインは学生牢について次のように説明しています。

200年間実際に使われていた学生牢。


<学生は公法をたくさん犯しても警察に出頭しなくてもよいようだ。彼の事件はきっと大学が裁き、罰するに違いない。警察が不法行為をしている者を見つけ、逮捕しようとすると、違反者は自分は学生だと言い、おそらく警官に入学許可証を見せる。すると警官は彼の住所を尋ねて去り、署に事件を報告する。その犯罪に対して市に裁判権がない場合には、警察は正式に大学にその事件を報告し、それ以上はタッチしない。大学の法廷がその学生を召喚し、証言を聴き、判決を下す。たいてい、科せられる罰は大学の牢獄への投獄だ。>

<壁に牢獄の決まりが書かれてある厚紙の板がかかっていた。私はこれらのひとつかふたつをメモした。たとえば、囚人は入獄するという「特権」のためにわが国の二十セントに相当する額を、刑期を務めて出所するという「特権」に二十セントを、牢獄で一日過ごすごとに十二セントを、暖房と電気代として一日十二セントを払わなければならない。門衛が少額でコーヒーと朝食を持ってきてくれる。囚人が望めば、外にディナーや夕食を注文することができる。彼はそれらの代金を払うことも許される。>

ここは旧兵器庫と厩舎ですが、現在は大学食堂になっています。


ああもう一度どこでもいいから大学で暮らしてみたい。



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マークトゥエインとマイアーフェルスターのハイデルベルグを歩く

 マイアー・フェルスター『アルトハイデルベルグ』は封建的な王政の中で、自由に生きることを奪われた公子カール・ハインリッヒのハイデルベルグの大学でのはかない留学生活での哀歓と、下宿としてえらんだ家の美しい乙女ケティーとの悲恋を描いた物語。

 
当時も今もハイデルベルグは学生の都、自由と歓喜と青春の輝く街でした。

40年ぶりにハイデルベルグを訪ねました。
 ホテルに到着後、早速ネッカー河に架かるカールテオドール橋に行き、ハイデルベルグ城を見上げました。

『アルトハイデルベルグ』では下宿先の主人リューダーが皇太子の属官ルツにハイデルベルグ城の説明をします。
<「ほら、あすこにお城が見えております」と古城のほうを指さした。だがルツは、そのほうへ目をやろうともせず、ふくれっつらをして、いった。「どういう城かということはな、つまり、だれの城か、だれが住んでいるのか、ということだ。うん?どうなんだ」「それが、そのう…あのお城は、もう、壊れておりますんで、はい、フランス兵が、大砲をぶっぱなして、こわしてしまいましたんで…」「では、城ではない」ルツは、にがりきって、いいきった。「こわされた城は、城とはいえない。むしろ。廃墟というべきだ。そういえば、この町は、どこへいっても廃墟のようだな」「いえ、、そんなことはありませんです」リューダーはけしきばんで、いった。この美しい町が廃墟だなんて、そんなことはない。>

 ハイデルベルグ城は確かに廃墟ではありますが、今も美しい姿を保っており、修復工事も行われていました。

時間がないので、ケーブルカーでお城まで登ってみました。

エリザべス門を通って、シュトュックガルテンから見下ろす美しい街並みです。


 マークトゥエインも家族を連れて1878年から翌年の9月までヨーロッパを旅行し、『ヨーロッパ放浪記』(A Tramap Abroad)を1880年に出版しています。


 そこに当時のハイデルベルグ城について詳しく述べられていました。
<二百年前にフランス人によって叩き壊され、傷つけられ、焼かれる前は、ハイデルベルグ城はとても美しかったに違いない。石はピンクがかった茶色でちょっとやそっとでは汚れないように見える。正面のふたつの主要な建物の優美で精巧な装飾は、屋外のためというよりも客間の内部のために意図されたかのように念入りに彫られている。>


下の写真は中庭から見えるフリードリッヒ館です。

<幾房もの果実や花、人間の頭や突き出ている恐ろしいライオンの頭は、作られたばかりであるかのように、あらゆる細部は今でも完全なものである。だが、窓の間に並べられている像は被害を受けた。これらの像は昔の皇帝や選皇帝や同様の高官たちの等身大の像で、鎧をつけ重そうな剣を持っている。腕がなくなっているものもあれば、首がもげているものもある。あわれにもひとつは胴体をちょん切られている。>

フリードリッヒ館の窓の間に並べられている皇帝像。

<廃墟は効果的であるにはしかるべき場所に位置していなければならない。この城は願ってもない場所にある。城は見晴らしの良い高台に立っていて、緑の森に埋もれており、まわりには平坦な地面は全くない。それどころか、樹木におおわれた台地がいくつもあって、きらきら輝く葉の間から底知れぬ裂け目や割れ目を見下ろすと、そこは薄暗く、陽射しも届かない所である。自然は最大の効果を上げるための廃墟の飾り方を知っている。>

マークトゥエインが書いているように絵になるロケーションです。

 マークトゥエインはしばらくハイデルベルグに留まっていたようで、『ヨーロッパ放浪記』をしばらく読み進めます。


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新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』ユングフラウヨッホに立つ

  昭和36年夏、新田次郎はグリンデンワルド駅から三両連結の登山電車でユングフラウヨッホに向けて出発します。
<電車は急斜面を登りはじめた。左方に、アイガーの壁が見えだし、右方には、グリンデンワルドのせまい緑の盆地が見えだした。箱庭のような景色だった。緑の絨毯の中に、赤屋根のおもちゃの家を並べたようにきれいだった。>

 いよいよグリンデンワルドの盆地の箱庭のような景色を見ながら出発です。

 急斜面を登る電車はアプト式。実際の電車では中央の歯車の部分はカバーで見えませんが、模型がありました。


<アイガーの壁は板状節理の様相がはっきりしていた。水平の岩襞が岩壁を横に走っていて、いかにも山全体が安定して見えたが、岩壁に双眼鏡を当てて見ると、簡単に手懸りがつかめそうな岩ではなかった。>

アイガーの板状節理と、その下を走っているのが登山鉄道です。

 途中クライネシャイディック駅で乗り換えです。

<クライネシャイディック駅。乗り換えである。そこはちょっとした広場になっていて、駅と大きなホテルがあった。眼の前にアイガーの絶壁とメンヒ、ユングフラウがそそり立ち、氷河がすぐそこまできていた。ここが植物の限界点であった。ここから上は岩と氷以外に生物はいないのだ。>

 
 新田次郎はこの駅の下で牛を見つけます。
<なにかが動いている。牛だ。この辺は牧場の最高限界らしかった。牛を見ると私は思わずそっちの方へ走りだしていた。>


<牛が不審そうな顔をして私の近づくのを見ていた。茶と白のまだら牛であった。子供の牛である。子供から大人になりかけた牝牛であった。おとなしそうな牛だった。私はそれらの牛としばらく睨めっこをしていた。一頭の牛が私の方へ向かって動き出した。すると、その辺にいた数頭の牛がいっせいに移動を始めた。牛の首につけた鈴が鳴った。>

 上の2枚の写真は私が宿泊したヴェンゲンからロープウェイで登ったメンリッヒエン山上で撮ったものです。カウベルは観光用かと思っていましたが、牛の所有者名と牛の名前がきざみこまれて、今でも使われていました。

さらにクライネシャイデック駅からユングフラウヨッホ駅を目指します。

<電車の速度は遅かった。急斜面を一歩一歩確実に歩を進めていくといった感じだった。電車はアイガーグレッチャー駅(2323m)で五分ばかり停車して、トンネルに入った。実際にはアイガーの腹の中にもぐりこんだのだけれど、アイガーの体内にいるという感じはなかった。>
途中トンネル内で二つの駅で停車して、ユングフラウヨッホ駅(3454m)に到着です。

<客は電車からおりてトンネルの中を出口に向かって一列になって進んで行く。トンネルの先に光があった。光はやがて、トンネルの内部にまで手をさしのべてわれわれを迎えた。突然私は眼のくらむような光の中へ投げ出された。ユングフラウヨッホ三四七五メートル。そこは雪で覆われた山のいただきだった。>

<「ハイヒールでユングフラウ」といううたい文句にひかれて来たものの、この靴で、外へ出るのはどうかなと、その辺の雪質や地形を見廻して考えていた。
 しかし私の後から来た観光客は、危険などということに無関係にさっさと雪の道を登っていった。さすがにハイヒールを穿いている女はいなかったが、山の支度をしている者もいなかった。>


この登山鉄道が開通したのは100年以上前の1912年、大した技術力です。



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新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』を歩く(アイガー北壁)

 新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』は昭和36年の「山と渓谷」に連載されたた紀行文です。


新田次郎はこの年の7月にスイスを初めて訪れ、チューリッヒから汽車でルツエルンに向かい、そこでアプト式電車に乗り換え、インターラーケン経由、グリンデルワルドに向かいます。


そこで初めて見たアイガー北壁を次のように著しています。
<アイガーを見たのは登山電車がグリンデンワルドにつく直前であった。いきなりなんの予告もなしに、右側の車窓に巨大な岩壁が出てきた。窓から乗り出して見ても、そのいただきが見えないほどその山は高かった。アイガー北壁である。この時まで私が持っていた山という概念とは遠くかけ離れたものがそこにあった。
 それはものすごくでっかい岩のかたまりだった。穂高の屏風岩を何倍かにした大きさという表現を使えば、その大きさだけはなんとか言い表すことができるかも知れないけれど、屏風岩とは似ても似つかぬものだった。>

グリンデンワルド駅から見えるアイガー北壁です。日本の山とはまったく違うというのが実感です。

<大気が透明なんだ。乾いた澄んだ空気が山を近く見せ、そして混濁のない真空のような大気を通り抜けて、山巓に当たって反射する光線の作り出す美しさが、あの異様な緊迫感を与えるのだなと思った。>

写真だけではなかなか伝えられない山の姿です。

 また日本の山と西洋の山の違いを、日本人と西洋人の差になぞらえます。
<それぞれの気候風土が違った場合、そこに住む人間がまた違ってくることは当然である。乾いた空気の中で刻みこまれた、ほりの深い、けわしい表情の種族となり、湿潤した空気の中で、やわらかい曲線によって描かれたような地形のもとに育った種族は、おだやかな平面的な容貌になるのは当然のことのように思われた。>
そして<実際こうでも考えないと、アルプスの山と日本の山とはあまりに違いすぎていた。>と述べているのです。

アルプスを訪れたのは2度目ですが、やはりその山の姿には圧倒されました。



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おはようございます。
芦屋市役所で、10月22日(土)のチラシをいただきました。
河出文庫版の全集を、拾い読みして(笑)予習しておきますね。

[ 373 ] 2016/08/31 6:23:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

アルプス三大北壁のひとつ、アイガーですね。

[ せいさん ] 2016/08/31 10:54:38 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さん
芦屋に来られていたのですか。今回は北村良子さんと稲畑汀子さんのお話しビデオが目玉です。よろしくお願いします。

[ seitaro ] 2016/08/31 17:20:28 [ 削除 ] [ 通報 ]

せいさん
お役には立ちませんが、ご無事を祈っています。

[ seitaro ] 2016/08/31 17:21:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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