阪急沿線文学散歩

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奈良の志賀直哉旧居を訪ねる

 志賀直哉は大正14年から奈良に移り、幸町の借家で過ごした後、昭和4年から自ら設計した上高畑町の家に昭和13年まで住んでおり、代表作『暗夜行路』もここで執筆された作品です。上高畑町の家には、多くの文化人たちを招き芸術を論じ、子供たちの家庭教育を行い、家族との絆を育んだ生活だったそうです。

 
 志賀直哉は奈良の自然を愛したようで、エッセイで次のように述べています。
<私は土地としては関西を好んでいる。一生、奈良で暮らしても自分はいいが、男の児を其処で育てることは少し考えた。奈良の人が皆、そうだと云うのではないが、土地についた、退嬰的な気分は、自然、住む者の気持ちに影響する。男の児のためにそれを恐れた。又、仮に子供がそれに影響されまいと心に努力する場合を考えても、丁度引き上げていい頃だと思った。>
どうも子供の教育問題が奈良から東京へ移った原因のようです。
 
 谷崎潤一郎と同じく、関西人があまり好きでなかったようで、次のようにも述べています。
<然し住民は東京の方が段違いにいい。言語、慣習、その他色々なものが私に親しいからでもあろうが、他に親切で大体関西人に較べて文化の進んだ感じがあると思った。前にも一度書いたが、関西と関東と、土地と人とを別々に好きだという事は、私の不幸だと今も想っている。>
どうも関西人は不親切で、文化が遅れているという印象のようです。

ともかく旧志賀直哉邸に入ってみましょう。
敷地は435坪、建物は2階建て134坪という広大さで、和風、洋風、中国風の様式が取り入れられており、建築物単味でも見ごたえがあります。

数奇屋作りの一階書斎です。

ここは、執筆に関係ないものは一切排除し、余計なものを置かなかったそうです。

一階の6畳の茶室です。

直哉は来客と気軽に話をしたり、将棋をさしたりする部屋にするつもりだったようですが、結局、夫人と子供たちのお茶のお稽古に使われたそうです。

中庭です。

食堂は約20畳もある広さ。
ひっきりなしに訪れる来客はここで家族と一緒に食事をし、子供たちの娯楽室でもあったそうです。

ここが「高畑サロン」が開かれたサンルームです。
大きく明るいガラス張りの天窓があり、床は特注の瓦敷塼です。
 この部屋に多くの文人画家が集い、芸術を語り人生を論じたり、麻雀、囲碁、トランプ等の娯楽に興じたそうです。

社交の一コマ。中列に武者小路実篤、志賀直哉の顔が見えます。

お風呂は珍しい角型の五右衛門風呂。中を覗く鉄釜になっていました。

窓から若草山が見える客間です。
小林多喜二らがここに泊まったそうです。

二階の書斎です。
直哉の昭和6年4月に書かれた日記に「 これから二階の書斎を充分に利用しよう」という記述があり、『暗夜行路』もここで書き上げたそうです。

裏庭の小プールです。
直哉は、大正3年に結婚して昭和7年までの間に2男7女をもうけており、子供たちのために作った庭の一角の小さなプールです。

 志賀直哉は、この旧居に9年間住み、関西人にはあまり馴染めなかったようですが、奈良の美しさについては次のように述べています。
<兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名畫の殘欠が美しいやうに美しい。御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じやうには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。5月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も奈良を憶う種となるだろう>


 志賀直哉旧居のお隣に、たかばたけ茶論という喫茶店がありました。

オープン。カフェからは山岳画家・足立源一郎画伯が大正8年、南仏プロヴァンスの田舎家をモチーフに建てられた洋館や樹齢100年以上というヒマラヤ杉を眺めることができます。

奈良の散歩に疲れたときは、ここで休憩されるのがお勧めです。



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その志賀直哉旧居は、私が尊敬する宮崎翁の息子さんの嫁さんの実家だったのです。今はそのようになってますが。わたしも何年か前に見学に行って帰ってきて翁に話したら、「うちの嫁の実家…」とかで驚きました。

[ akaru ] 2017/03/27 10:56:58 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですか。一度だけ、多分そのご夫妻にAraiさんのご紹介でお会いいたしました。ボランティアをされていて、立派な方でした。

[ seitaro ] 2017/03/27 15:58:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

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文学作品にもしばしば登場する奈良ホテルへ

 西宮から奈良へ行くのが便利になったので、先日見逃した奈良国立博物館の特別陳列「お水取り」を見に行ってきました。


 見学の後は、奈良公園を周り、文学作品にもしばしば登場する奈良ホテルで一休み。


 ティーラウンジでケーキセットをいただき、その後、まるで博物館のようなホテルの内部も見てきました。

 ティーラウンジに入る前の部屋にある「ザ・バー」、一度バーカウンターに座って見たいものです。

 司馬遼太郎は『街道をゆく』の「奈良散歩」で、奈良公園と旧興福寺境内の関係について、明治維新成立当時の神仏分離から紹介し、旧興福寺の大乗院跡にある奈良ホテルについても言及しています。
<そんなことを思いながら、私は、かつて興福寺の大乗院が所在した場所にいる。奈良ホテルである。明治四十二年にできたこのホテルは、奈良の風景に調和するように、桃山風の建築様式を基本主題として設計され、その後、多少修復されたが、いまもそのたたずまいのまま、大乗院庭園址の丘陵上に立っている。>

 
 本館は創業当時の姿をとどめており、設計は東京駅駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビ。寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は和洋折衷様式となっています。

 奈良ホテルの築山から日本ナショナルトラスト保護資産となっている名勝 旧大乗院庭園が見晴らせます。

 古い記述としては、大正5年に高浜虚子が国民新聞の新聞記者時代に連載した「奈良ホテル」の記事がありました。

 高浜虚子が奈良ホテルに到着すると、ポーターが荷物を運び、支配人の中村氏が出てきます。
<氏は直ぐそこの卓子や肘掛け椅子の沢山置いてある處に私を案内して先ず香いのいい珈琲をすすめ、心置きなく逗留するようにと言ってくれた。
 そこは表の扉を開けて入った直ぐの広間であったが、自ずから客間の形をなしていて、そこにしつらえているストーブの外郭は赤い大きな鳥居であった。>

大正5年に高浜虚子が見た、ロビーにある暖炉と赤い鳥居が今でも残されていました。

2階へ続く階段といい、正に和洋折衷様式。

客室へ続く赤絨毯の廊下の雰囲気は、同じクラックホテルの箱根富士屋ホテルとよく似ています。

ロビーには大正11年に宿泊したアインシュタインが弾いたというピアノも置かれています。

オードリー・ヘップバーンが宿泊した時の写真も展示されていました。

 さて堀辰雄は昭和16年10月に18日間、奈良ホテルに滞在し、大和路を書いています。

『大和路・信濃路』の「十月」からです。
<一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
 くれがた奈良に着いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭を剃ることにした。>

上の写真は堀辰雄が滞在した部屋です。

 ところで、堀辰雄が宿泊した前年に宿泊し、奈良ホテルのサービスにクレームをつけている文豪の小説がありました。谷崎潤一郎の『細雪』です。

 昭和15年6月上旬の土曜日曜に、貞之介は幸子夫妻は二人だけで奈良の新緑を見に出かけ、奈良ホテルに泊まります。
<土曜の晩は奈良ホテルに泊まり、翌日春日神社から三月堂,大仏殿を経て西の京へ廻ったが、幸子は午頃から耳の附け根の裏側のところが紅く脹れて痒みを覚え、鬢の毛が触るとその痒さがひとしおであるのに悩んだ。>
 どうも奈良ホテルの寝室で貞之助の幸子も南京虫に噛まれたらしいのです。
<「ほんに、そうやわ。―あのホテル、ちょっとも親切なこともないし、サアヴィスなんかも成ってない思うたら、南京虫がいるなんて、何と云うひどいホテルやろ」
幸子は、折角の二日の行楽が南京虫のために滅茶々々にされたことを思ふと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方なかった。>
 『細雪』は小説ですが、谷崎潤一郎と松子の暮らしがそのまま題材にされている部分もあるので、ひょっとすると事実かもしれませんが、どうなんでしょう。

それにしても立派なクラシック・ホテルでした。


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奈良東大寺の修二会(御水取行法)が登場する三島由紀夫『宴のあと』

 3月1日から奈良東大寺二月堂の修二会がはじまり、行って参りました。

最近は便利になって、阪神西宮から奈良行きの快速急行で行くと約1時間で近鉄奈良駅に到着します。

 
二月堂の修二会の様子が生き生きと描かれている小説が、三島由紀夫の『宴のあと』です。

(写真は英語版となった『宴のあと』)

 ところで、この『宴のあと』は高級料亭「般若苑」の女将・畔上輝井と、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎をモデルにした小説で、1961年にモデルとされた有田八郎からプライバシーを侵すものであるとして三島と新潮社が訴えられ、長期の裁判沙汰となり、「プライバシー」と「表現の自由」の問題が日本で初めて法廷で争われたといういわくつきの作品です。

『宴のあと』に登場する料亭「雪後庵」は、東京・白金台に実在した高級料亭「般若苑」がモデル。

 
 またモデルとなった1959年の東京都知事選挙では、有田は当初出馬を固辞しますが、妻の輝井が幹部に頼み、社会党から再出馬に踏み切らせ、選挙資金調達のため、輝井が料亭桂を売り払い、般若苑の収益を全て選挙準備に投じたというものです。

 選挙中には「元外務大臣有田八郎氏夫人―割烹料亭般若苑マダム物語」という怪文書がばらまかれた話も、小説に登場していますが、その怪文書がAmazonで1万円で売りに出されているのには驚きました。

 さて『宴のあと』の第七章二月堂御水取 に戻りましょう。
小説では野口が雪後庵のかづを誘い、新聞社の招待でジャーナリストらと共に、見物人の最も集まる十二日に出かけるのです。

写真は今年三月一日午後七時前の様子です。

<大松明のはじまる時刻は迫っていたので、一行は僧侶に案内されて、二月堂の舞台の下へ、夜闇にひしめいている群衆をかき分けて行った。>

実物大の籠松明が展示されていました。

この大竹の上部に松明をつけるようです。

松明づくりの作業中でした。

<群衆の雪崩れ込むのを防ぐために組まれた竹矢来のほとりまで、立派なお客たちは案内された。そこは竹矢来ごしにすぐ目の前に、登廊の石段の下に接している。>

立派なお客たちが案内されたところは、この竹矢来で囲まれた芝生の斜面のところのようです。明るいうちからカメラマンたちがその下で待ち構えていました。

<今や「七度の使」がはじまっていた。松明をかざした加供奉行が、勇ましく股立とった姿で、石段を何度も駆け上り駆け下りしていた。時香の案内、用事の案内、出仕の案内……、その「案内」の高声と松明の火のしたたりとが、ものものしい気配を整えた。>

この廻廊を上がり下りするのです。

ついに松明が登りはじめました。

<童子は二十貫もある松明竹を肩一つに担って、石段を登ってゆく。火はたらたらとこぼれ、石段のそこかしこに紅蓮を咲かせる。時あって登廊の柱にも火がついて燃え出すのである。そのあと白衣の仕丁が、水を含ませた箒で掃き消しながら登ってゆく。>

 登廊を昇りきった松明は二月堂の舞台の左端の勾欄で次の松明が登りだすのを待ちます。

<そのときすでに大松明は登廊を昇りきり、二月堂の舞台の廻廊の、左端の勾欄に身を憩めた。再びかーっという火の響きがかづの耳もとに起こった。次の松明が登廊の下から現れたのである。>

松明が舞台の上を走ります。

 <これと同時に舞台の上の松明は、炎の獅子のように狂奔して、ふりまわされ、おびただしい火の粉が、群衆の頭上委に降った。ついで火は、廻廊の上を右端へ向かって走り出し、広い庇の内側はあかあかと照らし出された。そして右端の勾欄で、やや火勢の衰えた松明がふりまわされるとき、鉾杉の深い緑は、飛び交う火の粉に巻かれて、一際鮮やかになった。>

廻廊の右端の勾欄で松明は高々と揚げられます。

その後松明が振り回され落ちていきます。

 かづは「どうでしょう!どうでしょう!奈良まで来た甲斐がありましたわ」と言いますが、私も初めて目の当たりにして、奈良時代から続く修二会には感動してしまいました。



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seitaro様
迫力ある貴重な映像とご説明、無学な私ですが、よく理解出来まして感動致して居ります 有難うございました。

[ チエリー ] 2017/03/04 18:47:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

チェリーさま 写真も下手ですのに、楽しんでいただけて喜んでいます。12日は大変混雑するようですが、その他の日はそれほどでもないようですので、是非一度ご家族で。

[ seitaro ] 2017/03/04 21:07:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

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篠綾子『白蓮の阿修羅』に惹かれ興福寺へ

 10月10日まで、興福寺の国宝に指定されている五重塔・三重塔が初めて同時開扉され、初層に安置される四方仏、弁才天像が拝観できると聞き、行ってまいりました。

西宮から奈良へは阪神西宮から奈良行きの快速急行に乗れば、乗り換えなしで行け、大変便利になりました。


興福寺五重塔はやはり猿沢の池からの光景が一番です。


 五重塔、三重塔の拝観の後は、楽しみにしていた阿修羅像の拝観に、国宝館へ。楽しみにしていたと申しますのは、昨年末に出版された篠綾子『白蓮の阿修羅』を読んだのがきっかけです。

『白蓮の阿修羅』には天平時代を代表する光明皇后、光明皇后の異母姉妹である藤原長娥子、そして、長娥子が長屋親王との間に儲けた教勝という女性が登場し、篠綾子さんは「あとがき」で<光明皇后が強く抱いてきた「家」への思い ーそこから、教勝はどうやって解き放たれたのだろう。それが、本書執筆の一番の動機だ>とし、最後に、<三人の女性たちの三様の生き様を、美しく魅惑的な興福寺阿修羅像を生み出した奈良時代の息遣いと共に味わっていただければ、これに勝る喜びはありません。>と結ばれており、素直に感動して興福寺に行ってみたくなったのです。

 Amazonでは、次のように紹介されています。
<天平6年、正月11日、興福寺西金堂の落慶供養が行われた。安置された30体近くの仏像群の中で、ひときわ目を引いたのが、後に「日本人にもっとも愛された仏像」と言われる、あの阿修羅像だった。「神というより、人のようではないか」――若き仏師がそこに込めた思いとは。苛烈な権力争いを繰り広げる男たちと付き従う女たちの葛藤、ひたむきな愛をドラマチックに描き上げた、日本人の魂の琴線に触れる感動の物語。>

 それでは興福寺西金堂の落慶供養に始まる序章からです
<天平六(七三四)年、正月十一日、興福寺西金堂の落慶供養が行われた。春日山の麓にある興福寺の参道を、輿から降りた皇后光明子は、ゆったりとした足取りで進んでゆく。ふと足を止めて西の方を見やれば、ここよりずっと下方に、皇后周辺の建物群の屋根が小さく見えた。皇宮の南を守る朱雀門から、朱雀大路がまっすぐ南に延びており、都城の最南端は羅城門によって守られている。>

現在、平城京跡には朱雀門が復元されています。

興福寺の案内図でわかるように西金堂は再建されず、石碑が残っているのみです。


光明子と中に入って見ましょう。
<万福が先導して、光明子を西金堂の中へと招き入れた。中はかぐわしい香が薫かれ、美しく荘厳されている。安置された仏像群は、目にまばゆいほどの朱や緑青、黄金で装飾されていた。>

 西金堂に納められた像は、全部で三十体近く。丈六の釈迦如来像一体を中心に、脇侍の菩薩像二体、羅漢像十体、梵天および帝釈天像それぞれ一体、四天王像、八部衆像がその脇に安置されていました。
 それらの八部衆像に目をやっていた光明子の足取りが、ある一体の像の前で止まります。
<「これはいったい……」皇后の背後に付き従っていた仏師万福とその弟子たちも、一様に歩みを止める。「神というより、人のようではないか」光明子の呟きを耳に留めた万福が、前に進み出ようとした時、「いや、人らしいのは顔だけか。三面六臂のお姿は確かに阿修羅像じゃ」光明子は続けて言った。
「仰せの通りでござります、皇后さま」万福が恭しく答えた。
「それにしても、昔、絵に見た阿修羅像とは何と違っていることか。優しげな若子のようにも見え、頼りなげな乙女子のようにも見える。万福よ、そもそも阿修羅像は戦いの神だったのであろう」>

 この序章のあと、若い仏師福麻呂が阿修羅像を完成するまでの物語が始まります。
<心の内部に吹き荒れる怒りと憎しみゆえに、つり上がった眦―。そんな己自身を見つめる、孤独で悲しみに満ちた内省の眼差し―。そして、最後にたどり着いた、永遠を見つめ、愛する者を見つめる切ないまでに凛とした眼差し―。左面、右面、正面のそれぞれの違いを表現しなければ― 。>と三つの顔の眼差しの違いを表し尽くす苦しみが描かれていました。

幸いなことに、創建時の西金堂にあった阿修羅像など八部衆像は国宝館に安置されています。館内は当然撮影禁止となっていますが、絵葉書から拝借した阿修羅像です。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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