阪急沿線文学散歩

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井上靖『猟銃』でどうしても腑に落ちない阪急夙川駅の場面

 井上靖の『猟銃』は1949年に発表された芦屋、西宮を舞台とする短編で、出世作。

 内容は1人の男性への3人の女性(不倫相手・男性の妻・不倫相手の娘)からの手紙」を通して、4人の男女の4者4様の複雑な心理模様を描き切った恋愛心理小説です。

 実業家・三杉穣介の不倫相手彩子(三杉の妻みどりの従姉妹)とその娘薔子(しょうこ)の住む家は芦屋に設定されています。
『猟銃』の中の、薔子の三杉に宛てた手紙に阪急夙川駅の場面が登場します。

<お友達と一緒に学校へ行く途中、阪急電車の夙川まで来て、私は課外の英語読本を家に忘れて来た事を思い出したのです。そしてお友達に駅で待っていて戴いて、自分一人家に取りに帰ったのですが、家の御門の前まで来て、私は何故か門の中へ這入る事が出来なかったのです。>
 読み始めた時は、学校が夙川駅からの徒歩圏内にあり、薔子は阪急芦屋川駅から電車に乗り、夙川駅を降りた時、教科書を忘れたことを思い出したのかと思ったのですが、どうも違うようです。
<私は御門の前に立って、躑躅の植込みを見詰めたまま、這入ろうか、這入るまいか、暫く考え込んでいました。結局英語読本を持って来ることはあきらめて、又お友達の待っている夙川の駅へ引返したのです。>
 ここでは薔子の家が阪急夙川駅の近くの様に感じられます。
しかし、その後、次のような文章が続きます。
<そして私は言いようのない孤独な気持ちで、蘆屋川に沿った道を石を蹴り蹴り歩いて、駅へ着くと、お友達の話しかけるのも上の空で聞きながら、待合室の木のベンチに身を持たせかけていたのです。>


上の写真は1959年版映画「細雪」に登場する芦屋川上流右岸と左岸の風景ですが、この道を薔子は石を蹴り蹴り駅に戻ったのでしょう。

 そうするとどうしても駅は、阪急夙川駅ではなく、阪急芦屋駅でなくてはならないのです。


井上靖がかつて香櫨園に住み、夙川の風景に愛着を持っていたことはよくわかるのですが、この付近の地理を知る西宮・芦屋の住民にとって、この記述はどうしても腑に落ちないのです。

 遠藤周作は小説で、故意に駅の数を違えたり、阪神大水害や川西航空機空襲の日を違えて書いていますが、この手法は小説であって事実とは違うことを読者に認識させるためではないかと、理解しています。
 しかし、『猟銃』の夙川駅と芦屋川駅の違いは、井上靖の記憶違いで書いてしまったような気がしてならないのです。




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中学生の時に 井上靖が好きで読んでますと先生に言ったら 「こんなのは中年のおじさんが読むもんやで」と言われたことを思い出しました。

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/31 8:52:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

さすがです。中学時代から井上靖の作品に惹かれていたとは。先生が文学作品に理解がなかたのでしょうね。

[ seitaro ] 2017/10/31 9:20:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

二十歳のころに講演会に行ったことがあります。難しい話でした。

[ akaru ] 2017/11/03 19:04:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

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白神喜美子『花過ぎ 井上靖覚書』

 産経新聞の石野伸子さんの講演「阪神間ゆかりの作家たち」で、教えていただいた面白い本が白神喜美子著『花過ぎ 井上靖覚書』。著者は井上靖が毎日新聞大阪本社学芸部副部長のとき、「サンデー毎日」編集部にいた女性。

その内容は、
<文豪のめざましい活躍の陰に、その人のために身を捨てて尽くした愛の女性があった。が、ついに別れの日が来て彼女は静かに去る…。三十余年の沈黙を破り、いましずかにその人のことを語る。>
という、井上靖の死後2年を経て上梓された、いわば暴露本です。

 たしかに井上靖の小説には不倫をテーマにした作品がいくつかあります。そのひとつが『猟銃』で、主な舞台は芦屋市、西宮市です。
 内容は「1人の男性への3人の女性(不倫相手・男性の妻・不倫相手の娘)からの手紙」を通して、4人の男女の4者4様の複雑な心理模様を描き切った恋愛心理小説」。

昨年は中谷美紀主演で舞台化もされました。


 実業家・三杉穣介の不倫相手彩子のモデルは、井上靖の茨木時代の一時期深い関係にあったT夫人。
『猟銃』の中の、“みどりの手紙”に使われている短歌、
「いかにしておはすらむものか寄らばもしたかき静謐(しじま)の崩れむものを」
の作者だったそうです。

<これは昨年の秋、書斎にいらっしゃる貴方の事を思って、その時の気持ちを歌の形に綴ったものであります。>(『猟銃』)

 さらに、彩子の手紙(遺書)に、三上穣介と天王山の紅葉を観に行ったことが述べられています。

<時雨に現れた山崎の天王山の紅葉の美しさは今も私の目にあります。どうしてあんなに美しかったのでしょう。私たちは駅前の有名な茶室妙喜庵の閉ざされた古い門の屋根の下で時雨をやり過ごし乍ら、駅の直ぐ背後から急な勾配をなして大きく眼の前に立ちはだかっている天王山を見上げて、思わず二人ともその美しさに息を呑んだものでした。>

写真は茶室妙喜庵。

 ここで使われた名セリフを語ったのは、『花過ぎ』では、T夫人であると述べられています。
<こんな美しい天王山の紅葉を見たのは貴方と僕と二人きりです。二人きりで同時に見てしまったのです。もう取り返しはつきません……
 と、「猟銃」で三杉穣介が言ったことになっているが、茶碗に執着とか、紅葉を二人で見て仕舞ったと言ったのは、T夫人であると彼から聞いている。
 彼より幾つか年上で、恵まれた環境の人妻。エキセントリックな感性と才気。彼が強く魅せられたのは解る。>

 井上靖とT夫人の終幕は、夫人の夫君の南国への栄転だったそうで、夫人が去って間もなく、白神喜美子は井上靖と出会うのです。
『猟銃』は文章の美しさが際立ちますが、やはり実体験がなければあのような名文は書けないのでしょうか。



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昭和11年の井上靖が暮らした香櫨園

 井上靖は『闘牛』、『あした来る人』、『貧血と花と爆弾』、『昨日と明日の間』など数多くの作品で、高級住宅地として香櫨園を登場させています。しかし、井上靖が香櫨園に住んだのは昭和11年から12年にかけての僅か1年間でした。
井上靖略年譜を見ると、

昭和10年 28歳
京都帝国大学名誉教授、足立文太郎の長女・ふみと結婚
昭和11年 29歳
京都帝国大学卒業、「流転」により第1回千葉亀雄賞を受賞、大阪毎日新聞社に入社
昭和12年 30歳
軍隊に召集され、中国の北部各地に駐屯

となっており、大阪毎日新聞入社から軍隊に召集されるまでの新婚の1年間を、香櫨園で暮らしたのです。

 香櫨園で暮らした経緯について、夫人の井上ふみ著『やがて芽をふく』に詳しく述べられていました。
<昭和十一年八月一日付で毎日新聞大阪本社の『サンデー毎日』に入社することになったので、私たち家族は会社の近くに引っ越すことになった。子供の頃から一番面倒をよくみてくれて、私が好きであった従兄の世話で、そのすぐ近くの西宮市香櫨園に引っ越した。
 材木屋のご隠居の住居であったというその家は、さすがにしっかりした建物であった。玄関と八畳、四畳半、それに台所、その隣に三畳のお手伝いさんの部屋があった。>

井上靖が暮した川添町の家は、「西宮歴史資料写真展」にも展示されていました。

<家の前に広い空き地があって、子供たちが野球の練習をしていた。海が近くて、靖は休日などには、赤ん坊を抱いてよく散歩に行った。>

井上靖が川添町に住んでいた昭和11年の鳥瞰図です。黄色の矢印のところですが、現在とは違い、家の数もまばらで、家の前は広い空き地だったようです。
 鳥瞰図に描かれている夙川沿いの松並木を、生まれて間もない赤ん坊を抱いて香櫨園海水浴場のあたりまで散歩したのでしょう。
<そうした昭和十二年八月末、靖は赤紙を受け取った。長女幾世が這っていた。思い出に残る日である。何はともあれ、靖は三日後には、本籍のある郷里の伊豆湯ヶ島に戻らなければならない。靖の両親は、まだそこに元気で住んでした。
 私も幾世を連れて、足立の母と湯ヶ島へ行って靖を送りだした。すぐまた戻って、この西宮の家を引き揚げ、靖の留守中は京都の実家で過ごすことになった。>
 僅か一年で離れざるをえなくなった香櫨園ですが、新婚早々住んだ土地は忘れがたかったのでしょう。井上靖の小説には何度も登場しています。



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阪急西宮球場を舞台とした井上靖『闘牛』は小谷正一の実話がモデル

 井上靖『闘牛』は、社運を賭けた闘牛大会の実現に奔走する新聞編集局長津上と、その行動の裏側に潜む孤独な心情を、敗戦直後の混乱した世相の中に描き出した芥川賞受賞作。

 戦後を代表するイベントプロモーター・小谷正一が西宮球場で仕掛けた闘牛大会をモデルとしています。なお井上と小谷は元々大阪毎日新聞の同期入社で親しい関係でした。


 井上靖『闘牛』は次のように始まります。
<来春一月二十日から三日間阪神球場で闘牛大会を開催するという社告が、大阪新夕刊紙上にでかでかと発表されたのは二十一年十二月中旬だった。その日編集局長の津上は社告の載った仮刷りが刷上がると、それを一枚ポケットに入れて、…>
 主人公津上が小谷正一をモデルとした人物で、大阪新夕刊紙とは、昭和21年に毎日新聞の系列紙として創刊された「夕刊新大阪」のことで、当時毎日新聞事業部副部長だった小谷正一は、夕刊新大阪の報道部長兼企画部長として出向したのです。

夕刊新大阪については足立巻一著『夕刊流星号』で創刊から滅亡までが詳しく描かれています。


 小谷正一は同社の創刊1周年記念事業として四国の宇和島から大阪に22頭の牛を運び、西宮球場で闘牛大会を行いました。戦後の殺伐として楽しみの少ない時に大阪の大衆が熱狂する催しを提供しようという企ては度重なる困難を乗り切って実現しましたが、無情な雨のため興行は大失敗に終わり、
資本金19万5千円を上回る20万円の赤字が残ったそうです。

小説に登場する「阪神球場」とは阪急西宮ガーデンズのところにあった阪急西宮球場のことですが、その風景が次のように描かれていました。

<さき子は阪神球場に津上を訪ねて行った。今に雪でも舞い落ちて来そうな、薄ら陽の、寒い日の午後だった。西宮北口で電車を降りた。いつも電車からは見ているが、その巨大な円形のスタジアムの近代的な建物の中に入って行くのはさき子はこの日が初めてであった。人気のないがらんとした建物の空洞を突当って左手に折れると、建物の大きさにはひどく不似合いな船室のようなちいさな事務所があった。>

当時としては大変立派なスタジアムでした。

 雨に祟られて採算面では大失敗に終わる闘牛大会でしたが、大会前には大手薬品会社が入場券のすべてを買い取りたいと申し出たのを、小谷は薬品会社の宣伝にだけ使われるのではメリットがないと、手堅い方法を断ってしまったのです。

 このあたりの迫真に迫る交渉について、小説でも「東洋製薬の青年社長三浦吉之輔」と主人公津川の交渉場面が描かれています。申し出を断られた三浦は津川に次のように語ります。
<三浦は、なお暫く考え込んでいたが、思い切ったように立ち上がった。そうしてもう一度真直ぐに津上の方に顔を向けると、「気象台ではここ数日中に雨になると言っていますがー」と言った。津上は無礼極まる青年の言葉を途中で遮った。「知っています。新聞社としても、もともとこの仕事は賭博です」「なるほど」三浦は帽子を取りながら、初めて交渉はこれで終わったといった素直な微笑を浮かべた。>
 この製薬会社とはどこのことだったのでしょう。ひょっとして大塚製薬?
 当時の大塚製薬の社長は若干31歳の大塚正士氏でしたから、小説の三浦社長にぴったりなのですが。

 結局、闘牛大会の第一日目、第二日目を完全に雨が降りこめ、二日目の夕方から上がったそうです。

 順延になった闘牛大会の西宮球場のスタンドに、小谷と親しい当時毎日新聞大阪本社の学芸部副部長をしていた井上靖も来ていたのです。井上は新聞社から一週間の休暇をとり、小説『闘牛』に没頭したそうです。
 因みに、闘牛大会の四か月後、小谷は倉敷の大原美術館のコレクションを借り出し、阪急百貨店を会場として「欧州名作絵画展」を企画、開催し、予想以上の人の入りで、純益二十万円をあげ、闘牛の損失を一気に取り戻したそうです。

 ところで以前、阪急西宮ギャラリーに行ったとき、西宮球場で開催された闘牛の様子が映像で紹介されていました。


しかしそれは昭和36年の映像でしたので、小谷正一が企画した闘牛大会はその後も引き継がれ開催されていたようです。

 その後阪急西宮ギャラリーが縮小されてしまったのは残念なことです。


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井上靖『黒い蝶』は小谷正一をモデルとしたもう一つの物語

 井上靖と小谷正一は同じ年に大阪毎日新聞に入社し、お互いを認め合う間柄で、井上靖は、小谷正一をモデルにして、いくつかの小説をかいています。

 『黒い蝶』は事業に失敗して破産した主人公・三田村伸作が、あるきっかけからソ連の天才ヴァイオリニスト「ムラビヨフ」の招聘に取り組んでいく姿を描いたものです。
 この小説は戦後間もない時代背景をもとに、多くの特徴のある人物が登場し、読みだすと思わず引き込まれる物語になっていますが、小谷正一のソ連からのオイストラフ招聘の活動を知ると、更に面白く読めます。

 小谷正一がソ連のオイストラフを招聘した様子は、馬場康夫著『「エンタメ」の夜明け』に書かれていました。


 それは小谷が昭和28年に毎日新聞から独立し、ラジオ・テレヴィ・センターを設立、「東京ヴィデオ・ホール」を開設してからのことです。まだソ連とも国交が開かれていない時代に、鉄のカーテンの向こうから凄腕のヴァイオリニストを呼ぼうとしたのです。

<調べると、それはソ連のバイオリニスト、ダビッド・オイストラフのことであった。目をかけていたバイオリニストの辻久子に、「そいつはメニューインより上手いか?」と訊ねると、辻は「オイストラフが現れて以降、他の演奏家は太陽の前の星と化した」というトスカニーニの言葉を教えた。>
とあります。


またソ連との関係については、
<後日小谷は、外務省の高官に会って、もしもソ連政府がオイストラフの来日を承諾した場合、日本政府はそれを許可してくれるか、と訊ねた。高官は呆れてこう言った。「国交のない国との交流なんて、何をたわごとを言っとるのかね」政府筋の情報を総合すると、対ソ強硬主義の吉田内閣がつづく間はまず不可能、とのことだった。>
と述べられています。
 しかし、昭和24年に吉田内閣が総辞職に追い込まれ、三木武吉の運動によって反吉田派が結集した日本民主党の鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成され、第一次鳩山一郎内閣が誕生します。このあたりのことは、井上靖の小説『黒い蝶』でも触れられています。

<吉田内閣から鳩山内閣へ変わって最も目立つことは対中ソ政策の転換であった。中共行きの一般旅券を政府が初めてペニシリン協会へ交付したというニュースがその最初の現れであった。続いてソ連外相が対日関係の正常化を意図し、そえに対する用意があるということを声明したというニュースが各紙の一面のトップ記事として登場した。>

 時代の流れも後押しし、小説ではムラビヨフがストックホルム経由羽田空港に到着するのですが、三田村が出迎えに行く場面で終わります。

この様子は、馬場康夫『「エンタメ」の夜明け』では、次のように述べられています。
<1954年2月19日の真夜中。オイストラフを乗せたスカンジナビア航空機が1時間遅れで羽田空港に着陸した。小谷が大阪ミナミのバーで、仲間に「今いちばん不可能な仕事は鉄のカーテンの向こうから誰かを呼ぶことや」と言われ、オイストラフの招聘を決意してから、3年の月日が経っていた。>

 オイストラフを出迎えるために羽田に向かうバスには、小谷正一と井上靖が同乗していました。
『黒い蝶』は小説としての面白さ、ドキュメンタリーっぽい面白さが両方楽しめる作品でした。



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井上靖『貧血と花と爆弾』に登場する天才少女辻久子と新日本放送

 井上靖が大阪毎日新聞の同期入社で伝説のプロデューサーと呼ばれた小谷正一の民間放送局(新日本放送のちの毎日放送)開設をモデルにした『貧血と花と爆弾』には、見原清子というヴァイオリニストの辻久子さんをモデルとしたと思われる人物も登場します。

<木谷はその日大阪の生んだ天才少女と言われているヴァイオリニスト三原清子父娘が始終出入りしていて、半ば彼女の事務所ででもあるような印象を人に与えている梅田の小さい喫茶店の扉を押した。>

 天才少女と言われた辻久子さんは西宮の甲子園に住まれていたこともあり、その自宅を売り払って、ストラディバリウス(3500万円)を購入したという逸話もある名バイオリニストです。


 父親辻吉之助をモデルに、事実に近い形で描かれた部分もありました。
『貧血と花と爆弾』からです。
<木谷は夕刊新聞時代から今日まで終始一貫して三原清子を影になり陽向になり後援して来ていた。それも三原清子の天分に対する愛情というより、父周平の魅力も彼に対する愛情ともつかぬものが大きく木谷に働いていた。>

 実際にも、小谷正一は昭和十三年、大阪毎日新聞入社二年目で十三歳のバイオリニスト辻久子と、自分がバイオリンで果たせなかった夢を娘に託した父親辻吉之助に出会います。そんな辻吉之助に魅せられた小谷は辻久子のリサイタルを、周囲を説得し事業部主催で敢行し、成功させたのです。

写真は大阪毎日新聞本社(日本古写真データベースより)

小谷正一伝説『無理難題プロデュースします』からです。

<小谷が企画した初のリサイタルは中之島公会堂いっぱいの聴衆を前に、山田耕作の「大阪で生まれた天才を育て上げるために、皆様のお力添えを頂きたい」という挨拶で始められた。楽屋には思いがけずソプラノ歌手の三浦環が姿を現して久子を励ました。リサイタルは大成功を収めた。小谷は事業部長と相談し、入場量から諸経費を差し引いた八〇〇円を「出演料」として辻親子に渡した。>
 その後、小谷と辻親娘のつきあいは戦後まで長く続いたようです。

 小谷正一が開設当時事業部長として着任した新日本放送は最初、阪急ビルに仮住まいしていました。
<新しく誕生するA新聞社系の民間放送会社の名をS日本放送と命名することに決まったのは、一月十日であった。>
A新聞社とは毎日新聞、S日本放送とは新日本放送です。

<その日事業部員を集めて転勤の挨拶をすると、木谷は四時頃、S日本放送会社の社屋が建つ筈になっている梅田のH電鉄ビルの六階に、エレベーターで上がっていった。>

<木谷は、設立事務所と準備委員会を置く部屋の見当をつけると、そこの階段を昇り屋上へと出て行った。ここに七階八階の二層の建築物が建設され、そこに、スタジオが、ミキサー・ルームが、モニター・ルームが、放送部、技術部、総務部、営業部の各室が設けられる筈であった。>

 新日本放送設立には、阪急の総帥小林一三も、「べっぴんさん」で登場した大急百貨店社長・大島保(伊武雅刀)のモデルとなった阪急百貨店社長・清水雅も絡んでいました。

昭和26年の阪急ビルの写真がありました。ビルの屋上に新日本放送の二層の建物が増設されているのがわかります。

『貧血と花と爆弾』は戦後の復興期の実話にもとづいた物語で、当時の出来事を知ると、登場人物を推定しながら興味深く読める小説でした。



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井上靖『貧血と花と爆弾』に描かれた夙川公園、その主人公のモデルは?

 井上靖の短編小説『貧血と花と爆弾』は昭和27年文藝春秋2月号に発表された作品です。


 A新聞社で事業部長をしていた木谷竜太は、新たな事業として始める日本最初の民間放送会社の設立に携わることになります。放送会社の設立に奔走する木谷は、秋に来日する世界的なヴァイオリニストの演奏権を、ライバルのS新聞社が獲得したこと知り、ヴァイオリニストが来日した際の、日本でのただ一回の独占放送権を獲得しようと画策する物語。

 主人公木谷竜太の自宅は、井上靖が毎日新聞記者時代に下宿していた香櫨園駅近くに設定されています。

 
 夜11時に帰宅した木谷が、放送の契約についてどうしても伝えなければならないことを想い出し、自宅からA新聞の編集局に戻る場面です。
<木谷は湯を二、三杯頭からかぶると、風呂場を飛び出し、再び洋服を着て、家人に、今夜はもう帰れないだろうと言って家を飛び出した。海岸から駅へ真直ぐに伸びている夜更けの舗道には、犬一匹通っていなかった。十間か十五間置きに、街燈が眩ゆい程の光を舗道に投げかけ、道の両側の赤松の幹がその付近だけ芝居の書割のように、不自然な色彩で鮮やかに浮かび上がって見えていた。>
 これを読むと、自宅は香櫨園駅より海寄りに設定したようです。

現在はオアシスロードと呼ばれている道を駆けて行きます。

<一番海寄りの郊外電車の踏切を駆け抜けると、漸く道の舗装はとれ、今度はいやにふわふわと和かい感触が靴の下に感じられた。その時木谷はほっとすると同時に、軽い眩暈を感じた。>

当時はまだ阪神は高架にはなっておらず、香櫨園駅の東側に踏切がありました。

 この作品、単なる成功物語かと思いきや、実話に基づいていることがわかり、事実と対比しながら読むと更に面白くなりました。主人公の木谷は、井上靖の毎日新聞社記者時代の同僚であり、後に伝説のプロヂューサーと呼ばれた小谷正一をモデルとしています。

 小谷正一伝説として、早瀬圭一によるノンフィクション『無理難題「プロデュース」します』に当時の活躍ぶりが詳しく紹介されています。

 『貧血と花と爆弾』では、木谷が「A日本放送」設立とヴァイオリニスト「ラーネッド」の放送権獲得に奔走する姿が描かれていますが、実際に小谷は1951年の「新日本放送」(現在の毎日放送)設立に関わっており、新日本放送は小谷によって、朝日新聞が招聘したアメリカの世界的ヴァイオリニスト「ユーディ・メニューイン」の独占放送権を獲得しているのです。

『無理難題「プロデュース」します』には井上靖の小説には描かれていない興味深い事実も書かれており、次回に紹介いたします。



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井上靖『あした来る人』に登場する香櫨園のお屋敷

 井上靖は毎日新聞記者時代の昭和11年頃、川添町に住んでいたことから、作品にしばしば夙川公園を登場させています。

(写真は川添町の井上靖が下宿していた家)

 1954年に朝日新聞に連載された『あした来る人』は、映画にもなったメロドラマチックなストーリー展開ですが、高級住宅地としての香櫨園の情景が描かれています。


 香櫨園に住む梶大介は、山名杏子という若く美しい女性に、銀座に洋裁店を持たせて事業支援していることが唯一の浪費という大実業家です。

映画では梶大助は山村聡が、山名杏子は新珠三千代が演じています。

 梶の娘・八千代は、登山家大貫克平と結婚していますが、克平は、山と妻とどちらが大切かと聞かれて、山よ答えるほど山に入れこんでおり、お互いすれ違ってばかりいます。
 たまたま知り合った杏子と克平は、知らず知らずに相手を意識するようになり、カラコルムを目指す克平らは杏子の店の2階を根城に準備を始め、一方八千代は、カジキ研究のスポンサー依頼に梶のところに来た曽根二郎と知り合い、八千代は曽根の素朴さに惹かれるという複雑なストーリー展開です。

八千代を演じたのは月丘夢二、曽根次郎は三國連太郎です。

井上靖『あした来る人』からです。
<香櫨園までの切符を買った。  阪神電車の香櫨園で降りると、酒場で電話をかけた時、八千代から言われたように、海の方へ向って歩いて行った。そして海へ突き当る少し手前で、いい加減見当をつけて、右手の低地へ降りて行った。そして最初の家で、梶大助の家をたずねた。
「梶さんの家ですか」若い会社員の細君らしい女は言った。「はあ」「お向いです」
見ると、向いの家は、さして大きい構えではないが、半洋風の造りで、石塀のまわったなんとなく金のかかっている感じの家である。>

梶大助の家は香櫨園駅を降りて、南に下った川添橋付近に設定したのでしょうか。

このあたりマンションが多くなりましたが、新聞連載当時の昭和29年頃は、まだまだお屋敷街の雰囲気が残っていたようです。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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