阪急沿線文学散歩

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宝塚の園井恵子に光を当てた増山実(『風よ僕らに海の歌を』)

 増山実『風よ僕らに海の歌を』は、タカラジェンヌも御用達のイタリアン・レストラン宝塚南口「アモーレ・アベーラ」の創業者オラッツィオ・アベーラ(小説ではアリオッタ)さんをモデルにした物語。したがって、戦時中の宝塚、少女歌劇の様子なども描かれています。  
 著者の増山実さんは、『勇者たちへの伝言』でもそうだったのですが、いぶし銀のような人物や、脇役、市井の人にスポットライトを当てるのがお好きなようで、今回も名脇役の園井恵子のファンが登場します。終戦直後から宝塚ホテルのレストランで働き、現在は余命2週間となった梶という老人です。

 宝塚ファンの祖母と母の影響で小学生の時から大劇場に通い、中学に入った昭和14年ごろにはすっかり宝塚ファンになっていた梶の話です。

<私は、昭和二年の生まれです。少年時代、宝塚という街は、私にとって「夢の街」でした。実家のあった豊中から電車に乗り、阪急宝塚線の宝塚駅の降り立つだけで、胸の奥が締め付けられ、足の指先が恍惚感に包まれたものです。当時の残り香を漂わせるものが宝塚大劇場だけとなってしまった今では想像しにくいと思いますが、おそらく当時、世界の中でも宝塚ほど、あらゆる人間のあらゆる享楽を集めて、あらゆる階層の人間を惹きつけようとした街は、なかったでしょう。>
大正14年生まれの阪田寛夫さんも大の宝塚ファンでしたし、当時は少年ファンも多かったようです。

 梶は脇役のタカラジェンヌ園井恵子に心を奪われ、「今ではもうタカラヅカファンでさえ、彼女の名前を知っている人はほとんどいないでしょうね。」と言いながら次のように紹介します。

<身長が百五十センチと低かったんですが、子役、少年役、お嬢様役や奥方役から老婆訳まで、できない役はない、といわれるほど芸の幅の広い人でした。個性的な美しさがにじむマスクで、白い柔らかな頬に、唇の端がきゅっと上がって、いつもにこにこしている。そんな園井恵子が、私は大好きでした。>

梶は園井恵子を観に、一人で宝塚に出かけます。

<あれは中学に入った翌年の五月でした。学校が休みの日に、豊中からひとりで阪急電車に乗って宝塚にやってきました。どこかで偶然、園井恵子に会えないかと淡い期待を抱いて「花のみち」を歩いたのです。阪急宝塚駅を降りると線路沿いに土産物屋が立ち並び、それが途切れると、宝塚大劇場と宝塚音楽学校まで、川沿いに桜並木の小径が四百メートルほど続きます。これが「花のみち」です。武庫川の古い堤防跡だったので、小径は周囲より一メートルほど高くなっていました。春ならば、並木道はまるで桜のトンネルです。>

現在の「花のみち」。確かに1mほど高くなっています。
そして遂に園井恵子と目を合わせる機会が訪れます。
<一瞬、園井恵子と目が合いました。彼女はひどい近眼で有名でした。しかしその時、彼女は確かに私の顔を見て、微笑んだのです。もちろん恥ずかしくて声などかけられません。ただ園井恵子のまぶしい姿をじっと見ているだけでした。>

 園井恵子は、昭和17年に宝塚を引退し、翌年、映画女優として『無法松の一生』に抜擢されます。

 主役の阪東妻三郎演じる無法松にひそかに慕われながら、子供の成長のために生涯をかける軍人の未亡人という大役を見事に演じたのです。

 彼女は宝塚を辞め、女優に転身し、映画「無法松の一生」に出た後、国策に沿って結成された「桜隊」という軍隊慰問の移動劇団に参加して活躍しますが、昭和20年8月6日、慰問先の広島で、爆心地から700メートルほど離れた寄宿舎の廊下で、被爆したのです。
<その日はちょうど三十二回目の誕生日でした。被爆当初は症状もなく、八日まで広島におり、鉄道が復旧したことを知って神戸に戻り、親代わりだった六甲に住む知人宅で一時は平静を保っていましたが、やがて高熱、皮下出血、下血といった放射線障害の症状が次々と現れ、急激に衰弱したそうです。彼女が放射線障害による原爆症で死んだのは八月二十一日でした。>
大女優の道を歩みつつあった彼女の無念さは如何ばかりだったでしょう。
 8月17日付け母への手紙(絶筆)には「本当の健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら元気でもりもりやります。やりぬきます。これからこそ日本国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うためのお役に立たなければなりません。」と書かれていたそうです。
 
 小説では、次のように書かれていました。
<おそらく朦朧とした意識の中で、死ぬ直前、彼女の心象に映ったものは何だったのでしょう。なつかしい故郷、岩手の風景でしょうか。華やかな舞台の上から観た、観客席でしょうか。行きたいと願い、無念にも叶わなかった、自分の未来の姿でしょうか。>

「岩手県岩手郡岩手町|e-いわてまち.ねっと」によると、平成8年岩手県岩手郡岩手町に、宝塚音楽歌劇学校当時の園井恵子がブロンズ像に再現され、母校川口小学校の児童らの手で除幕され、阪田寛夫氏から贈られた台本によって"お帰りなさい園井さん"という朗読劇が演じられたそうです。





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園井恵子さんのこと、以前ちょっと書きました。
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/e/21be3fcc398433e0e4ff34931bcebf8a

[ imamura ] 2018/01/08 10:12:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

こちらにも。http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/e/75aeb965f3fad1814faa3d2f8a0afbce

[ imamura ] 2018/01/08 10:28:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

imamuraさん、ありがとうございます。ふたつとも読ませていただきました。園井恵子さんのことは忘れられないようにしてもらいたいと思っています。旧宝塚音楽学校「宝塚文化創造館」の建物は残してもらってよかったです。宝塚文芸図書館の建物が消え去ったのは残念でなりませんんが。

[ seitaro ] 2018/01/08 12:42:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

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増山実『風よ僕らに海の歌を』にも登場する宝塚ホテル解体・移転

 増山実『風よ僕らに海の歌を』の主人公ジルベルト・アリオッタは、戦後間もなく宝塚にイタリアン・レストラン・アベーラを開いたオラッツィオ・アベーラさんがモデルとなっています。


 第三章「川のほとりのリストランテ」の第2節では、「アベーラ」の近くの宝塚ホテルについて、触れられています。


宝塚ホテルは2020年に宝塚大劇場の隣へ移転することが決まっています。

<宝塚ホテルの取り壊しが決まったそうですな。マサユキさんが、今、お泊りの、あのホテルです。取り壊しは二〇二〇年ですか。宝塚南口の玄関に開業したのが、大正十五年でしたかな。

もう今年で九十年たって、老朽化したため?それは単なる建前でしょう。建物の老朽化なら、外側はそのまま残して、内部の設備を新しく入れ替えればいい。欧米ではみんなそうしています。古い歴史のある建物は、街の顔であり財産やと誰もがわかっているからです。ましてや、宝塚ホテルのような、「モダン」で美しい建物を取り壊すやなんて……。>
ヨーロッパの旧市街の街並みを残す努力を考えると、その通りなのです。

<取り壊した跡地には、何が建つんですか?タワーマンション?いったい、この宝塚に、いくつタワーマンションを造ったら、気が済むんですかね?宝塚ホテルは阪急の小林一三が造ったものです。彼が造った阪急ブレーブスをつぶし、宝塚ファミリーランドをつぶし、今度は宝塚ホテルをつぶすんですね。小林一三は、きっとあの世で泣いています。おれが造った夢の街を、どうするつもりや、とね。
 実はあのホテルは、私の大切な青春の一部でした。それがもうすぐこの世から消えるんですね。>
私のその一人ですが、大切な青春の思い出を持たれている方も多いのではないでしょうか。

 遠藤周作もその一人でした。1965年の随想「想い出すこと」からです。
<もともと話をするのが不得意なのと、講義などは私の本来の仕事ではないので、大抵はお断りするのだが、関西の大学から依頼されると何となく承諾してノコノコ出かけて行く。そしてそれが京都や大阪での仕事であっても事情が許す限り宿は宝塚ホテルにとる。>


 遠藤周作は、仁川に住んでいたころ宝塚文芸図書館に通っていたのですが、その建物(ロンファン)も容赦なく壊されてしまいました。



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宝塚ホテルは昼間のケーキだったかのバイキングを亡き母が贔屓にしてた時期があり、Uターン就職活動での帰省時に2、3回一緒に行きました。

[ せいさん ] 2017/12/20 22:19:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

せいさん懐かしい思い出をありがとうございます。

[ seitaro ] 2017/12/21 15:32:08 [ 削除 ] [ 通報 ]

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廃線ルートで『亦楽山荘』の隔水亭以上に見逃せない一段下の番小舎

 笹部新太郎が研究室として建てた武田尾の『亦楽山荘』の隔水亭は、増山実『風よ僕らに海の歌を』にも水上勉『櫻守』にも登場します。

桜の道の周回路を歩く方は、隔水亭を見過ごす方はいないようですが、その一段下にあり物置の様に見える番小舎に目を向ける方は少ないようです。

しかし、この番小舎は水上勉『櫻守』は重要な舞台になっているのです。

『櫻守』の主人公弥吉が、武田尾温泉「たまや」で給仕をしていた戦争未亡人の園と、祝言を挙げたあとの場面からです。
<するとそれまで、だまっていた弥吉が上座にいて、「先生、わいら、今晩は、桜山の小舎で寝さしてもらえまへんやろか」といった。新婚初夜を、演習林の番小舎ですごしたいと、弥吉がいうのに、竹部は、ちょっと顎をひいて、だまった。>
竹部のモデルは笹部新太郎です。
 そして竹部は、「好きなようにして下さい。小舎には畳は入っています。なんなら、わしの研究室のよこの六畳に寝てもろてもええ。滝のよこの楊貴妃は今晩は満開ですわ」と答えるのです。

 最初、番小舎とは隔水亭のことかと思ったのですが、研究室として使われていた隔水亭とは違うようです。
<すると弥吉が、「先生」とあらたまった物言いで、「これをしおに、わしらを、武田尾の番小舎に住まわせてもらえませんやろか」といった。>
そしてその場所は、
<武田尾は、滝よこの、研究室の前から、一段ひくくなった台地の端に建ててある。以前に夫婦者も住んだことのがあるし、田舎じみてはいるが、三和土の隅にくどもある。滝から引き入れた竹樋の水が、外の水甕に落ちている。消毒液のまじる水道などそばによれない清澄な、うまい水だし、夏は手のきれるほど冷たかった。>
と説明されており、明らかに隔水亭の下に見える小舎を指しています。

そして二人はしばらくここに住むことになるのです。
隔水亭まで行かれた方は、その下の小舎もお見逃しなく。


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福知山廃線ルートで見逃してはならない亦楽山荘の番小屋

 増山実『風よ僕らに海の歌を』で武田尾温泉にやって来たアリオッタはゆいたちと桜の園『亦楽山荘』に出かけます。
<ふたつめのトンネルをようやく抜けると、暗闇から、突然、一面の桜がわっと目の前に広がりました。あの瞬間のあでやかな風景は、今でも忘れられません。>

季節は初冬で、桜の木も裸になっていますが、この二番目のトンネルを抜けたところが桜の園『亦楽山荘』です。

<線路から山を登って、桜の道から下流の武庫川の流れを眺め、それから谷に降りました。谷には桜守の番小屋がありました。そこには石組みの水飲み場があって、みんなで山の水を飲みました。冷たい水が喉に沁みました。>

山へはこの階段を登って行きます。

上の周回路案内図に従って、反時計廻りに桜坂から桜の道を登って行きます。

桜の道も今は紅葉真っ盛りです。

桜の道にはヤマザクラの大木が何本もありました。春には見事な花を咲かせるでしょう。

途中には桜守のヘルメットをかぶった木彫りのキツネがいます。

この見事な紅葉の下の方が武庫川です。

 相当急な山道を登りきり、谷へ下って行くと桜守の番小屋・隔水亭に到着です。


その下には小説に登場する「石組みの水飲み場」がありましたが、残念ながら「生水のめません」と注意書きが。


<すぐ先に小さな滝がありました。その滝に覆いかぶさるように、見事なヤマザクラが流れに張り出して、枝を延ばしていました。>

隔水亭の横にあった滝です。ヤマザクラの枝は、この時期坊主になっていました。

もみじの道を通って、約60分で戻ってきます。

 この隔水亭は当然、水上勉の『櫻守』にも登場します。
<水は、ところどころに小滝をつくり、瀬をつくり、淵をつくりして、線路の下をくぐって武庫川へ落ちていた。この滝の腹に、竹部は、石垣を積み上げ、山荘を建てている。六畳と八畳の洋間とも和室ともつかぬ研究室であった。水しぶきをあげる滝の両側は、桜と楓が植えてあるので、ぬれた岩面に木もれ陽がふりかかると、春も秋も、息を呑むような絶景だ。>

横に立っていた説明書きでは、現在の隔水亭は2代目とのこと。

 桜の園の周回路は大変険しいルートでしたが、福知山線廃線ルートのハイキングの際は、是非隔水亭まで行ってみてください。



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『風よ僕らに海の歌を』と『櫻守』に登場する『亦楽山荘』への道筋

 増山実『風よ僕らに海の歌を』にも桜守で有名な笹部新太郎の『亦楽山荘』が登場します。
<大正から昭和にかけて、笹部新太郎という有名な桜守がおりました。東大の法科を出て、犬養毅の秘書をしていたほどの人物でしたが、ある時、政界からすっぱり足を洗うて、桜守になりはったという、ちょっと変わったお人です。『亦楽山荘』は彼が生涯をかけて、絶滅が心配されるヤマザクラやサトザクラを自分の足で全国から集めて作りはった山林です。>

 その『亦楽山荘』へ花見に行くため主人公アリオッタは福知山線の線路上を歩いて行ったのでした。
<旅館から武庫川沿いの線路の上を歩いて、トンネルをふたつ抜けた先が『亦楽山荘』の入り口でした。それが一番の近道でした。当時はまだ山沿いの線路に汽車が走っていましたから、トンネルの中を歩くのは、ひやひやしたもんでした。>

地図を見ても、確かに福知山線のトンネルを抜けるしか『亦楽山荘』に行く方法はなさそうなのです。

 実際に笹部新太郎に取材した水上勉は、笹部に感化され、桜の保護育成に目覚めて行く植木職人北弥吉を主人公にした、『櫻守』を書いていますが、読んでみると、やはり笹部新太郎もトンネルを歩いて通ったようです。

笹部新太郎は竹部庸太郎と名を変え、弥吉の雇い主として登場します。
<武田尾駅にとまる国鉄単線だったが、川際すれすれに、崖のトンネルを二つくぐっている。演習林は、このトンネルの上にあるので、一度は線路をまたがねばゆけない。竹部は、弥吉をつれてきた時に、「汽車の時間表をようしらべといて、駅員さんにたのんで、線路を通らしてもろたがよろしおっせ」といった。>
汽車の時刻表を頭に入れて、線路上を歩いていったようです。

旧武田尾駅は上の写真の紅葉の右側の駐車場にありました。

(昭和50年の旧武田尾駅)

<その日も竹部は、駅を降りて、改札を出ようとする弥吉を、北さんこっちやとよびとめ、顔見知りの助役に会釈一つしただけで、煤けた枕木の積まれてある駅員宿舎の前から、ホームを歩いた。ホームが切れるとそのまま線路へ降り、枕木づたいに演習林の入口まできた。線路はゆるやかなカーブで、五分ほど歩くとトンネルに入ったが、そこは、急流で崖がえぐれていた。>

この枕木の上を笹部新太郎は歩いたのです。

一つ目のトンネルです。
<「二十三番トンネルで、枕木のかずは百二十一です」と竹部はいった。暗がりに入ると、前方にどんぐりの実ほどの穴が光っている。百二十一の枕木を、弥吉は、背の高い主人のあとから数えて歩いた。>

枕木の数を数えるを忘れていました。

<二つのトンネルをくぐって、ようやく、山のとば口へ出たが、弥吉は、竹部が心もち猫を負って枕木をかぞえ歩く背姿をみていると、この人は、何年このトンネルを歩いたか、と感慨をおぼえた。>

二つ目のトンネルです。
このトンネルを抜けると桜の園『亦楽山荘』となります。

笹部新太郎やアリオッタがひやひやしながら歩いた線路は、今や廃線跡ハイキングコースとして整備され、多くのハイカーが訪れています。



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増山実『風よ僕らに海の歌を』を読みながら福知山線廃線跡へ

 イタリア名誉領事に連れられて武田尾温泉にやってきたアリオッタは、一週間ほどは誰とも口をききませんでしたが、徐々に話をしはじめ、笑顔も見せるようになります。


 四月の中旬に母と長女みおと私(次女ゆい)は『亦楽山荘』へ花見に出かけます。

<旅館から武庫川沿いの線路の上を歩いて、トンネルをふたつ抜けた先が『亦楽山荘』の入り口でした。それが一番の近道でした。当時はまだ山沿いの線路に汽車が走っていましたから、トンネルの中を歩くのは、ひやひやしたもんでした。>
武田尾温泉から桜の園の『亦楽山荘』に向かうには廃線ルートを歩くの一番早いのですが、昔の人が線路を通らずに行くときは、どうしたのでしょう。

廃線ルートの武田尾側の入口には『亦楽山荘』のある桜の園入口の表示がありました。

五人はここを福知山線が走っていた時代に歩いていったのです。

最初のトンネルは91mの長尾山第三トンネルです。

トンネルを抜けると笹部桜がありました


<トンネルも渓谷に沿って曲がっていますから、中は光が入らす、真っ暗でした。ぴちゃぴちゃぴちゃとトンネルの天井から滴る水の音が、私には何か暗闇に身を潜める不気味な生き物が舌を鳴らしている音に聞こえ、一刻も早くここから駆け出したい気持ちになりました。私の手をさっと握る手がありました。「ダイジョウブ」アリさんの声でした。>


 二番目のトンネルは少し長めの147mの長尾山第二トンネル。
 
<ふたつめのトンネルをようやく抜けると、暗闇から、突然、一面の桜がわっと目の前に広がりました。あの瞬間のあでやかな風景は、今でも忘れられません。>



今回は桜の園『亦楽山荘』では、鮮やかな紅葉が待っていました。



11月になってようやく整備が終わり開放された人気の廃線ルート。

もう少し進んで第二武庫川橋梁まで歩くことにしました。


307mの長尾第一トンネルは懐中電灯が離せません。

トンネルを抜けると見ごたえのある第二武庫川橋梁に到着です。

今回は武庫川渓流の川音を聞きながら紅葉を楽しむ散策でしたが、もう一度桜の咲くころに来てみましょう。



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増山実『風よ僕らに海の歌を』武田尾温泉で芽生えたアリエッタの恋

 姫路の捕虜収容所に収監されていたアリエッタは、栄養失調を心配したイタリア総領事の努力により、日本に協力する旨を表明し日本軍の船の乗組員になります。
 しかし、その船も台湾沖でアメリカ軍に撃沈され、腕と腹に大やけどを負いながらも九死に一生を得たアリオッタは、昭和20年3月に外国人の療養所として使われていた武田尾温泉にやってきます。そこで温泉宿の娘ゆいと出会うのです。

第二章「渓谷の恋」は武田尾温泉の紹介から始まります。
<私が生まれた武田尾温泉というところは、宝塚かから武庫川をずっと上流にさかのぼった、六甲山の東の麓、ちょうど宝塚市と西宮市の境にある、人里離れた辺鄙なところです。まあ、関西の秘境と言うても、それほど大袈裟やありません。いまは福知山線が線路を付け替えて、長尾山のトンネルを抜けてきますが、私が住んでいた頃は、山腹を武庫川の渓流に沿ってうねるように線路が延びていました。>

現在の武田尾駅にはJR宝塚駅から、名塩トンネルを抜けるとわずか8分で到着しました。

写真の様に駅は武庫川を跨ぐ橋とトンネル内にかけてあります。

 山腹を武庫川の渓流に沿ってうねるように延びていた旧福知山線の廃線ルートは、11月にはハイキングコースとして整備され、紅葉を楽しみに多くのハイカーたちが足を運んでいました。

「武田尾」というのは、「武田尾銀蔵」という、温泉を発見した落ち武者の姓からきたそうですが、ゆいの旅館は創業明治三十年の武田尾では一番古い旅館でした。
 ゆいとアリオッタの出会いは次のように語られます。
<うちの旅館から武田尾駅までは、歩いて七、八分ほどかかります。武庫川の右岸沿いを歩いて、木の吊り橋を渡ると、そこが駅です。今はトンネルとトンネルの間の谷に架かった鉄橋の上に駅がありますが、当時は武庫川の渓流にへばりつくようにして駅がありました。川の音だけが聞こえる停車場で私たちはあの人が来るのを待ちました。>

現在の武田尾駅はあの橋の上にあります。

 さて武田尾温泉のゆきの旅館のモデルはどこかと調べてみると、現在まがりなりにも残っているのは4軒ですが、明治30年創業・武庫川右岸の条件にぴったりあてはまるのは「マルキ旅館」でした。

 早速訪ねてみましたが、どうした訳か地図の場所は工事中で更地になって、老舗のマルキ旅館は跡形もなく撤去されていました。

写真の河鹿荘の茅葺屋根が見えている手前の更地になっているところが、マルキ旅館があったところです。

 帰って調べると、武庫川は、夏の台風シーズンになると水害被害をもたらすことが多いため、堤防工事が行われることになり、工事が終わるまで「マルキ旅館」は3年間閉館することになったそうです。

2013年にはこのような姿だったのですが、今は残っていません。

戦前のマルキ旅館の写真です。

更に奥に進むと河鹿旅館の建物。

一番奥には元湯旅館がありましたが、平日は営業していない様子です。

 せっかく武田尾まで来たので、日帰り温泉に入ろうと対岸の紅葉館別庭「あざれ」に向かいました。


入浴料1800円と少し高めではありますが、露天風呂と大浴場を楽しむことができます。

 
 特に大浴場では、こんなに間近に紅葉を楽しむことができました。

コストパフォーマンスは充分で、いつまで浸かっていたくなりました。

昼食も、半個室で、目の前に開けた景色を愛でながら楽しむことができました。

 小説に戻りましょう。
ゆいと母親と既に湯治に来ていたマッツォ―ラの3人が駅で待つところへ、イタリア領事と幽霊のように痩せこけて青白い顔をしたアリオッタが大阪から来た汽車から降りて来ます。

<マツオさんと、背広姿の男にお人に抱きかかえられながら、ふらふらと歩いて宿に向かう、あの人―ジルベルト・アリオッタ ーのを丸めた後ろ姿を見送りながら、私は、この人の未来は、いったいどないなるんやろう、この人は、この武田尾に来てもきっと恢復することなく、そのまま死んでしまうんやないやろか。囂々と流れる渓流の音を耳にしながら、漠然と考えたのでした。>
ここから二人の恋は始まるのです。


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アリオッタは姫路の捕虜収容所へ(増山実『風よ僕らに海の歌を』)

 第二次世界大戦時、イタリア海軍の特務艦「リンドス号」は、神戸沖に停泊中イタリア政府の突然の降伏で自沈を余儀なくされ、祖国へ帰る道を閉ざされます。神戸港に上陸したジルベルト・アリオッタたちイタリア兵は、姫路の捕虜収容所へ連行されます。

『風よ僕らに海の歌を』は史実を基にした小説であり、ジルベルト・アリオッタのモデルとなったオラッツィオ・アベーラさんの息子エルコレ・アベーラさんが、毎日新聞の山縣章子記者のインタビューに答えられ、2016年8月28日の「捕虜収容所の記憶」と題した記事になっていました。一部引用させていただきます。

< イタリア特務艦の乗組員だったオラッツィオ・アベーラさん(故人)は、神戸寄港中にイタリアが連合国に降伏したため、一時捕虜となった。終戦と共に元捕虜は帰国したが、日本人と結婚したオラッツィオさんは、宝塚市でイタリア料理を広めた。長男のエルコレ・アベーラさん(69)は、父親の話を覚えている。>

 その姫路の捕虜収容所について小説『風よ僕らに海の歌を』では、次のように紹介されています。
<ああ、着きましたよ。ここです。このコンビニの駐車場、異様に広い感じがしませんか?最近は大型のコンビニが増えたとはいえ、ここまで広いのは、なかなかないでしょう。四百坪はありますかな。まさか今、このコンビニの駐車場になっている場所に、戦争当時、外国兵の捕虜収容所があったやなんて、それこそ地元の人かて、もう誰も知りません。>

このコンビニの駐車場を探してみました。

<ほら。このあたりの町並み、よう見てください。かなり大きな道路が、碁盤の目の様に通っているでしょう。東から東門通り、中門通り、正門通り、西門通り。全部、製鉄会社の広畑工場から、延びているんです。姫路港に面したこの広畑地区は、戦前から大和製鉄広畑工場の自治区のような町でしてね。当時は「鉄の都」やとか、「大和製鉄王国」と呼ばれていました。>
「大和製鉄」とは明らかに戦前の日本製鉄広畑製鉄所(現;新日鉄住金広畑製鉄所)がモデルとなっています。

戦後は富士製鉄広畑製鉄所として再稼働しますが、その吉田初三郎の鳥瞰図がありました。

 小説には西門通りを北に少し歩いた製鉄所のすぐ近くに昭和17年に捕虜収容所ができたと書かれており、どうも広畑区小坂にあるセブン-イレブン姫路広畑早瀬町北店のようです。
(下の航空写真の印の場所)


 姫路の捕虜収容所についてさらに調べると、
「1942年10月、大阪俘虜収容所神戸分所広畑分遣所として、兵庫県飾磨郡広畑町(現・姫路市広畑区)才に開設。12月10日、広畑派遣所に改編。43年2月18日、第1派遣所と改称。9月、広畑町才から小坂に移転。45年8月、第12分所と改称。
終戦時収容人員302人(米300、英1、豪1)、収容中の死者16人。
なお、43年9月9日に神戸港で降伏・自沈したイタリア特務艦カリテア号の乗組員
約150人も、9月26日から翌年7月16日まで一時的に抑留。収容中の死者3人。」
イタリア特務艦カリテア号の乗組員についても記録されていました。

 また柳谷郁子著「望郷−姫路広畑俘虜収容所通譯日記」にも当時の様子が詳しく書かれています。

米軍が撮影した収容所の写真です。
後ろに写っている山は京見山。
現在は周りの景色が一変し、コンビニから京見山を見晴らすことは困難ですが、グーグルアースで地上からの景色を見ると、写真と同様な景色を見ることができました。

 姫路の収容所では栄養失調で亡くなった方もいたそうですが、毎日新聞の記事では長男のエルコレ・アベーラさんが父親の話として
<「収容所近くのうどん屋のおばさんがうどんをくれ、そのおかげで今も生きている」。おそらく栄養不足で苦しんだのだろう。オラッツィオさんはそれ以上詳しく話はしなかったという。「話すのも辛い体験だったのでは」とエルコレさんは察する。>と書かれていました。

忘れてはならない戦争の記憶です。


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『風よ僕らに海の歌を』神戸沖自沈未遂後の「カリテア号」の運命

 増山実『風よ僕らに海の歌を』はタカラジェンヌも御用達のイタリアン・レストラン宝塚南口「アモーレ・アベーラ」の創業者オラッツィオ・アベーラ(小説ではアリオッタ)さんをモデルにした物語。


 アリオッタが任務に就いていたイタリア軍の戦艦「リンドス号」は、日独伊三国同盟により日本軍占領地に物資を輸送する任務に就いていましたが、船が神戸に寄港中の1943年9月8日、イタリア政府は突如、連合国に「無条件降伏」を発表します。
<イタリア本国からリンドス号に指令が届いた。「日本軍と戦うか、さもなくば自沈せよ」昨日までの味方であった日本軍と戦うか、さもなくば武器を捨てて投降せよ。現場に混乱をもたらす、あまりに唐突で、矛盾をはらんだ指令だった。九月九日午前六時。艦長は自沈用の注水弁を開いた。>
 ここからアリオッタの数奇な運命が始まるのですが、この神戸沖で1943年に自沈した「リンドス号」のモデルとなった「カリテア号」の運命も調べてみると数奇なものでした。

元々の船名はRamb II。1937年進水。ソマリア〜イタリア〜南西ヨーロッパを航行するバナナの輸送船として建造されました。
1940年にイタリア海軍に徴用され、特設巡洋艦となります。艦長:C. Mazzella
1941年に「カリテア号」と改名。

小説では次のように紹介されています。
<父の乗っていた船の名前は「リンドス号」です。もともとはアフリカで穫れたバナナを欧州に輸送する、民間の会社の船だったそうです。それが戦争で「特務艦」としてイタリア軍に徴用されたんです。>

そして、
<「リンドス号」が紅海あたりを航行していた時、戦況が激しくなり、そのあたりの制海権をイギリス軍が握ったんです。父たちの船はイタリアに帰ることもできず、追ってくるイギリス軍からひたすら逃げ、インド洋を経て、南方までやってきました。そこで同盟を結んでいる日本軍の南方物資輸送船として転用されることになり、父たちイアリアの兵士は、そのまま乗組員として、アジアの海域を航行していたということのようです。>
このお話は、殆ど史実に則ったもののようで、「カリテア号」は1942年には日独伊軍事協定に従い日本海軍の管理下に置かれ、川崎重工で冷蔵庫増設工事の後、給糧艦として帝国海軍に協力し、南西方面司令長官の区処下に入り南西方面にて使用されます。

 さて、小説では1943年9月の神戸沖での自沈で終わる「カリテア号」ですが、その後直ちに日本軍によって引き上げられ、接収。1943年10月に「生田川丸」と命名され、11月に佐世保鎮守府所管の特設運送船(給糧船)となります。
 その後聯合艦隊南西方面艦隊所属の特設運送船として南方への輸送に携わりますが、1945年1月サイゴン港内右岸で米第38機動部隊艦載機による空爆で沈没してしまうのです。

上の写真は米第38機動部隊

 1937年にイタリアで進水したバナナ輸送船は、イタリア海軍、日本帝国海軍へと籍を移し、1945年にサイゴンで米軍により撃沈という、8年間の短いながらも波乱に富んだ運命を辿ったのでした。




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増山実『風よ僕らに海の歌を』のモデルとなった宝塚のリストランテへ

 増山実『風よ僕らに海の歌を』は史実をモチーフにしており、主人公ジルベルト・アリオッタは、数奇な運命をたどり、戦後間もなく宝塚にイタリアン・レストラン・アベーラを開いたオラッツィオ・アベーラさんがモデルとなっています。


 アベーラさんは、第二次世界大戦中はイタリア軍の軍人として輸送艦「カリテア号」に乗り込んでいましたが、1943年、神戸港に停泊していたときに、イタリアが降伏したため、アベーラさんたちイタリア兵は日本軍の捕虜となってしまいます。
 その後、姫路の捕虜収容所に入り、戦後に武庫川河畔の武田尾温泉で知り合った日本人と結婚し、1946年湯本町の蓬莱橋近くに「イタリアンレストラン・アベーラ」を開業したそうです。

 現在のお店は宝塚南口駅近くの閑静な住宅街にあり、オラツィオさんが帰天した後の1971年に“アモーレ・アベーラ”として元の自宅を改装して移転した店舗で、子息のエルコレ・アベーラさんがオーナーとなり、父親から伝授したシチリア風テイストを受け継いでおられます。

芝生の庭を見ながらの席もよさそうです。

 店内に入ると、創業者で『風よ僕らに海の歌を』のモデルとなったオラッツィオ・アベーラさんの写真が掛けられていました。

 幾つかのお部屋があるようですが、80席の収容力があり、お昼に伺いましたが、ほぼ満席でした。

 評判のピザも魅力的でしたが、今回オーダーしたのは「アベーラランチ」。

焼きたての柔らかいグリッシーニは初めての味でした。

前菜は生ハムとメロン。

アサリのスパゲティは、貝柱も大きなアサリでトマトソースも美味しくいただきました。

メインはシュニッツェル

ドルチェは抹茶のアイスクリームと苺のケーキ

 食べログでも3.55の評価で、お店の雰囲気も味も、十分満足できました。
さすが日本で一番歴史のあるイタリアンレストラン、その歴史を知るとファンになってしまいます。



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『人生で予想できることがひとつだけある。それは、予想もしないことが起こるということだ』
https://www.facebook.com/masaichi.yokoi1/posts/1561727780524243?pnref=story

[ 笹舟倶楽部 ] 2017/06/11 23:47:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

以前、紹介していただいた「勇者たちへの伝言」を読んでから増田実さんのファンになりました。「風よ僕らに海に歌を」もぜひ読んでみたいし、「アモーレアベーラ」のランチもいただきたいです。

[ mamimi ] 2017/06/12 10:23:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

「風よ僕らに海に歌を」は史実に基づいたストーリーで面白く、その舞台をもう少し訪ねてみるつもりです。

[ seitaro ] 2017/06/16 6:27:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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