阪急沿線文学散歩

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稲垣足穂が『星を売る店』で描いた神戸モダニズム時代のトアロード

 谷崎潤一郎は『赤い屋根』でモダニズム時代のトアロードを生き生きと描きましたが、稲垣足穂も同時代のトアロードの様子を、幻想的な小説『星を売る店』で描いています。


 小説の冒頭で紙箱から素早くタバコを抜き取り口にくわえるTという男が登場しますが、タルホの友人で詩人の竹中郁さんをモデルにしたようです。


 山本通りからトアホテルの下に出た主人公の私は、角を曲がってトアロードを下りだします。

航空写真中央南北に走る道です。
<理髪館や、花屋や、教会や、小ホテルや、仕立屋や、浮世絵と刺繍を出した店や、女帽子店が両側に並んで、下方から玉子色のハドスンがリズミカルな音を立てて登ってくる。>

 トアロードには神戸ハリスト正教会もあったようですが、一番目立っていたのは中山岩太の写真にもある聖公教会(オール・セント・チャーチ)のようです。

小松益喜画文帖では次のように説明されています。
<焼失したオール・セソト・チャーチも、信仰の対象とするにふさわしい美しい教会であった。三角のトンがり帽に四枚の鎧戸を持ち、その下の壁は、凡て素焼の橙色瓦で覆われていた。最前部は地味な色の赤煉瓦だった。庭には西洋の極楽花である爽竹桃が一面に咲き乱れていた。この教会の裏側一帯は華僑の住家だったし、教会の下には同文書院があった。>


『星を売る店』のトアロードの描写にある小ホテルとは西東三鬼が滞在したNHK神戸放送局のところにあったトーア・アパートメント・ホテルかもしれません。

 女帽子店とはマキシンのことかと思ってしまいましたが、神戸っ子2015年8月号によるとトアロードのお店ができたのは昭和9年ということなので、小説に登場する女帽子店とは別のようです。



<函館帰りのアルパカ服がやってくる。白い麻服にでっぷりした躰をつつんで、上等の葉巻の香りを残してゆくヘルメットの老紳士があり、水兵服の片手をつり上げて他方の手でスカートをからげてせっせと帰途を急ぐ奥さんもある。チューインガムを噛みながら、映画の話をして行きすぎる半ズボンの連れもあり、青い布を頭に巻いたインド人もその中にまじっている。−坂下には、自動車や電車の横がおや群衆やがごたごたもつれ合って、国々の色彩が交錯した海港のたそがれ模様が降り出されている。>
国際色豊かなトアロードが描かれています。

白黒写真では分かりませんが、色彩華やかな川西英のトアロードを思い出しました。




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稲垣足穂が小説の舞台にしたトアホテル

 現在、北野町の神戸外国倶楽部がある場所にはトアホテルがありました。


 稲垣足穂は『神戸漫談』で、次のように述べています。
<神戸のことを知っている人は、きっと三宮の東にある山の方へ一直線につづいているアスファルトの長い坂を知っているにちがいない。で、その正面には木立にかこまれて御伽話式の尖塔を出している赤い建物がある。これが神戸名物の一つであるトアホテルだ、−だからこの坂のことをみんなはトアロードと云っている。>

上の写真の山の方に向かう一直線の道の突き当りにトアホテルがありました。

本当に御伽噺にでてくるような赤い尖塔のあるホテルです。

 稲垣足穂はいくつかの小説にトアホテルを登場させていますが、『星を造る人』では魔術家のシクハード氏の滞在先として描かれています。
三ノ宮警察の警官隊が追跡を始めた場面です。
<魔のような紳士は、かくべつ走っているとも見えないのに、先へ先へと飛ぶように進んで、広場をよこぎり、電車道をこえ、鉄道の踏切を抜けて、海岸の明石町から山の手へつづいている坂道をどんどん登ってゆくのです。これを追っ取りこめようとする自動自転車隊は、やっきとなって、けたたましい爆音に夜の街をおどろかせて迫りましたが、突き当りのトアホテルの芝生のところへくると、ついに相手の行方を見失ってしまいまた。>

上の写真のトアロードを追っかける様子が描かれていますが、トアホテルのところで見失ってしまいます。
 そして奇怪な噂が続く中で、突然朝刊の記事で滞在先が判明します。
<昨年九月ごろから北野町トアホテルに滞在して怪奇な古代印度の偶像や古文書や天文機械や、その他宝石細工のついた器物にうもれて何事かの記述に余念なきシクハード・ハインツェル・フォンナジーと名乗る紳士があった。普通の逗留客に見かけぬ風采によって一同の眼を惹いていた折柄、測らずも十九日夜、同ホテルにおいて開催された慈善仮想舞踏会席上に発生した……>
シクハード氏はこの舞踏会で深紅色のマスクをつけたピエロとして現れ、それまで全神戸を幻惑の渦中に引き込んだ張本人であったことが判明するのです。


ロビーやメインダイニングなどの内部の写真もありましたが、当時はオリエンタルホテルと並ぶランドマークの位置を獲得し、市民からも親しまれていたそうです。

どう考えても『星を造る人』の舞台としてはこれ以上ないというほど雰囲気がピッタリのホテルでした。


 建物は第二次世界大戦の戦災を免れたものの、戦後GHQに接収され、その管理下にあった1950年に火災により全焼しました。
小松益喜は画文帖でその最後について次のように述べています。
<ここはアメリカ占領軍の将校夫人が電熱器のスウィッチを切り忘れたことから焼失してしまった。そして焼け残った鉄塔骨を取り壊すのに、塔全体に筵をはって爆破したことをはっきり覚えている。実に惜しい建物であった。>

 設計者を調べると自ら「建築界の黒羊」と称したという
下田菊太郎氏。アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設。当時の建築界では異色の存在だったそうです。
トアホテルが焼失してしまったのは、本当に残念です。




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大正時代の神戸モダニズムに稲垣足穂は神戸ルミナリエを幻視していた

 稲垣足穂の『星を造る人』から神戸の不思議な物語を続けます。

「夕方、東遊園地のうすら明りの中で非常な不思議を行う紳士の話」がもちあがり、朝刊に次の記事がでます。「近来毎夜の如く午後七時より八時の刻限において不可思議な一外国紳士が東遊園地界隈に出没し、現代科学と人智をもって測るべからざる奇怪事を演ずるとの風説が専らである」。

写真は旧居留地東遊園地公園。右端のレンガ造りの建物が神戸クラブ。1991年に外観を復元し、管理事務所とレストハウスになっています。


 新聞記事に書かれた事を目撃したと称する者が続出して、「こいつは面白い。火のない所に煙は立たぬ」と問題の魔法を見に旧居留地に出かけます。
<やがて、海岸区の高い建物の側面を桃色に染めていた夕日の影もうすれ、街中が一様に青いぼやけた景色に変わってきた時、わたしは友だちを誘って、いっしょに遊園地の方に出向いてみました。そしてチカチカと涼しいガス燈がならんでいる明石町からオリエンタルホテル前の芝生あたりまで、元居留地の一帯にわたって、二時間近くもうろつき廻ったのです。>

地図の黄色の線が明石町筋からオリエンタルホテル(海岸通り6番 黄線の丸で囲んだ所)を通り、東公園へ向かうルートです。

現在の明石町筋のイルミネーション。

稲垣足穂が見たガス燈が復元されています。

<遊園地はさておいて、ふだんなら日が暮れるとひっそりして、ぎらぎら目玉の自動車が行き交うばかりで、碇泊船の汽笛が響き渡る、がらんとした、石造館が立ち並んだ街区一帯に、歩くにも邪魔なくらい人々が集まっているのです。いくら新聞の出たとはいえ、こんなに評判になっているとは思いもかけませんでした。>
そして、次の晩も、その次の晩も、夕方になると遊園地に出向くのです。

この歩き廻った場所は、元町から神戸ルミナリエの会場に向かう道筋と合致しているのです。

 
次の週の木曜の夜、海岸通り9番の英国領事館の近くを歩いているとき、俄雨が降り出し、一発の銃声がとどろきます。そこに突っ立ている少年が次のように語ります。

写真は明治中期の海岸通り。黄色の矢印の位置に英国領事館があります。
<雨が降り出してみんなが走っているのを見ていると、辻向こうの歩道の角へ、シルクハットをかむった人がひょっくり現れた。その人物だけがいやにゆっくりしているので変だなと思っていると、ズボンのうしろからピストルのようなものを取り出し、左手で上から垂れている綱のようなものを引く身振りをして、その上方へ狙いをつけたと思ったら、ズドン!と街中にひびき渡って、同時に、花屋の如露のように雨を撒いていた真っ黒な空が、目覚めるばかりの米国星条旗(スター・スパンクルド・バナー)に一変した!>

「スター・スパンクルド・バナーに一変した!」とはまさにルミナリエ点灯の瞬間のように思えます。
稲垣足穂は大正時代に、どうしてこんなに幻想的で美しい短編が書けたのでしょう。



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大正時代の神戸的モダニズムが生んだ稲垣足穂の作品

 陳舜臣は『神戸ものがたり』で、「地帯の雰囲気は、日本的風土、極端にいえば、シャーマニズムの世界とぶつかって、スパークをおこす。その火花のひらめきのなかに生まれたのが、神戸的モダニズムではないだろうか」と述べていますが、その火花の中に生まれた文学が稲垣足穂の数々の作品でした。


 神戸の町が大好きだった稲垣足穂は『星を造る人』で、大正時代の神戸の風景を次のように描きました。
<北に紫色の山々がつらなり、そこから碧い海の方へ一帯に広がっている斜面にある都市、それはあなたがよく承知の、あなたのお兄様がいらっしゃる神戸市です。そういえばあなたはいつか汽車で通った時、山手の高い所にならんでいる赤やみどりや白の家々を車窓から眺めて、まるでおもちゃの街のようだ、と云ったことがありましたね。>

現在の北野町の風景。大正時代は住宅ももっと少なく、山の斜面に異人館が映えていたのでしょう。

<それから、あの港から旅行に出かけた折、汽船の甲板から見るその都会の夜景が、全体きらきらとまばたく燈火にイルミネートされて、それがどんなにきれいであったかについても、あなたはかつて語りました。>

現在の神戸港の夜景、大正時代はどんなだったでしょう。

 そして、四月の或る夜、にぎやかな元町通りのショーウインドウの前を歩いていたとき、「夕方、東遊園地のうすら明りの中で非常な不思議を行う紳士の話」を聞くのです。
次回はそのお話を。


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トア・ロードの由来はTORII HOTELと解釈していた稲垣足穂

 神戸のTOR ROADの由来については諸説あります。

『星を造る人』、『星を売る店』、『或る小路の話』、『一千一秒物語』などいくつかの作品にトア・ロードを登場させた稲垣足穂が『緑の蔭……英国的断片』でトア・ロードの由来について述べています。

<トア・ロードとは、神戸三宮の海岸通りから背山の直下まで一直線に続いている道の坂の部分を指すので、その名称は、これを登り詰めた所の右側、赤い円錐屋根をつけ、蔦を絡ませた塔を四隅に配したトア・ホテルに由来している。「トア」とは東亜に出ているらしい。こう説明しても、松村君はいつかな承知しそうにない。以下、今年の前半期における同君の神戸行の足跡を追ってみよう>
 
 ここで松村君とは、稲垣足穂の作品の研究者でもあり、当時京都府立桃山学園にいた松村実氏のことです。
<ところでトーア・ロードとは何と洒落た名前であろう。ポケットに突っこんでいる和楽路屋発行の神戸市街図にはトーア・ロードとあるが、T.I氏の「芦の都」ではトア・ロードとなっている。トアだろうか?トーアであろうか?和洋折衷で多分「東亜ロード」でないかとも思う。>

トア・ロードがトア・ホテルに由来していることは間違いないのですが、松村氏はトアについて、疑問に思い始めます。
<わたしは登るときには見逃したトーア・ロードのアーケイドにネオンが輝いているのを見て、またしても奇異な感じに打たれ始めた。何故なら、アーケイドの上には横文字でTOR-ROADとあり、これはトーアか、トアと読むのか、いずれにしても東亜とは読めない。これはトー・ロードである。トーア・ロードならば、TOA-ROADとすべきであるからだ。>
と更に疑問を深めますが、torが名詞で、岩山、岡という意味があり(特に英国Dartmoorの花崗岩質の)、背後の六甲山の花崗岩質の山肌の風景に重ね合わせるところまでたどりつきます。しかし真相解明にまでは至りません。

写真は現在のTOR ROADと六甲山。今や山肌は見えません。

 最後に稲垣足穂は備考として、在住五十年の碧眼の神戸っ子の説明によって真相が判明したと、次のように付け加えています。
<トア・ロード即ち「トア・ホテルへの道」であるが、これが英語のtor(小丘)か独逸語のTor(門)であるかについては、永い間議論されていたのだそうである。実は日本語のToriiに出ている。ホテルの中にお宮さんがあって鳥居が立並んでいたことから、TORII HOTELと命名されたが、何糞にもこの発音はさすがの西洋人にもそのたび毎に舌を噛む思いがするので、語尾の二字を削り取ったのだと。なるほど、自分は東効の関西学院に通学するために、毎朝三宮駅(現在の元町駅)に降りていたが、きまって山側の出口に、TOR HOTELと側面に白く大書した紅殻色の荷馬車が、白馬をつけて停まっていた。この美しい馬車は午後の帰りにも見受けられたが、車台に積まれたトランク類には、申し合わしたように、鳥居の絵が付いた楕円形のラベルが貼られていた。これでいっぺんに解決がついてしまった。>

三宮駅で見かけた荷馬車とは、上の写真絵葉書にも写っている荷馬車のことでしょう。

そしてトア・ホテルの鳥居の絵のラベルです。

トア・ホテル跡は現在神戸外人倶楽部となっていますが、門を入った駐車場のところに今も小さな鳥居が残されています。

さて稲垣足穂はいっぺんに解決したとしていますが、真相は更に別のところにありました。
それは次回に。



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稲垣足穂が通った大正8年の原田の森・関西学院

 稲垣足穂は明治33年に生まれ、大正8年に関西学院に入学しています。


 外見からはとても想像がつかないメルヘンチックな小説や詩を遺しており、『星は北にたんだく夜の記』は関西学院時代の亡友追慕の詩(私にはエッセイに近いように思われますが)です。

 足穂は『神戸三重奏』で、入学当時の関西学院について次のように述べています。
<私が、当時神戸東郊原田の森にあった関西学院中学部へ入学した時、校舎は完成したばかりであった。それまでは、正門をはいって右側の、その後は高等学部として使用された英国風の三階館が中学部だったのである。>
 明治22年に創立された関西学院ですが、順次拡張したようです。普通学部(後「中学部」に改称)専用校舎は不幸にして、1917(大正6)年、焼失しましたが、被災2年後の大正8年に再建されています。
 したがって、焼失していた2年間が、正門側の英国風の三階建ての建物が使われていたのでしょう。

手前の黄色の矢印の建物が高等学部、後ろの矢印のグラウンドの後ろの建物が中学部です。

写真で見ても立派な建物です。

足穂が通った再建された中学校の建物について次のように述べています。
<新校舎の木材はすべてカナダ産とやらで、それらは十月(オクトーバー)に入るなり紅と黄と褐色の見事な大饗宴を打ち拡げる筈である。異国の木々の香り、三角屋根をおおうた赤いスレート、その斜面に居並んでいる教室ごとのレンガの煙突、屋内はペイントとワニスの臭いに漲つて、初めて中学生となった私の感覚をそそり立てたものだ。>

絵を見てもレンガの煙突が多数立っています。赤いスレートの屋根は足穂の記憶違いでしょうか。

<私の教室は二回南側にあったが、北側の図書教室や習字教室には、北向きの真四角な採光窓がついていた。教師の壁はクリーム色で、この上方にワニス塗りの横桟があって、天井は白であった。北向きの採光窓は宛ら活きている額縁であった。そこには、背後の摩耶山の一角がカットされ、アカマツが疎らに置かれた芝地を、雲雲の影がひっきりなしにはい上がっては、その向こう側に吸い取られていた。>

 グラウンドの後ろが中学部の校舎。その後ろが摩耶山です。
足穂が書いているように、美しい校舎と自然に囲まれた素晴らしい環境だったようです。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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