阪急沿線文学散歩

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阪神大水害で崩壊した川崎正蔵邸と幻の布引公園計画

 久坂葉子(本名川崎澄子)は、昭和6年、川崎造船創立者の川崎正蔵の曾孫として神戸に生まれました。久坂葉子の『落ちてゆく世界』は没落過程にある名門男爵家に生きる息苦しさを綴った作品ですが、その中で父川崎芳熊が生まれた川崎正蔵邸について次のように述べています。
<何しろ私たちが生まれる頃はやや降り坂だったしく、その豪華版を私は知りませんでしたけれど、父の生まれた所など通りすがりに眺めるたびに茫然とするのでした。>
しかし、その川崎正蔵邸も昭和13年の阪神大水害で全崩壊してしまいます。

<その屋敷は戦前人手に渡り水害のため全滅し、又空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまっておりました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨ましがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。>
 川崎正蔵邸は新神戸駅のあたりにあったと記されていますが、昭和7年の地図にその位置がはっきり記されていました。


 現在の新神戸駅の山側にある丸山や徳光院はもちろん川崎家が所有していたようですが、地図を見ると、豪壮な川崎邸は、現在のANAクラウンプラザホテルの位置にあったことがわかりました。



 ところで、大水害で無くなった川崎邸跡地を布引公園にしようという計画が立ち上がっていました。
昭和15年1月8日の大阪朝日新聞“待望の布引公園”からです。
<すぐる大水害に一瞬にして消え去った神戸布引川崎邸はその名も懐しい“布引公園”として二ヶ年後には明朗、健康の地帯に更生する鍬入れの日も近い—これぞという公園に恵まれなかった港都神戸にとって“布引公園”の出現こそはまさに渇望を満たすものといってよい、いまその全貌をのぞいて見ると—
公園敷地は旧川崎邸三万九千二百十三坪三合二勺のほか(中略)
まず下段の平坦地は一律に緑の芝生を布きつめたカーペットとなり点々と配植される数百種の花木はモザイクとなり縦横に走る曲線の逍遥路は大柄の縞模様となる、大芝生西南の一角約三百坪の箇所はこどもたちのため児童遊園として開放される、美術館、茶室も公開されるのでその道の人達によって趣味の催や集いに間断なく利用されることだろう>

新聞の計画図を見ると、旧生田川歩道と市電の走る道路が書き込まれており、隣は北野浄水場となっておりますので、昭和7年の地図に書かれている川崎邸跡地を布引公園にする計画であったことは間違いありません。
 川崎邸のお隣にあった北野浄水場は既に役目を終え、遊歩道には北野浄水構場の石碑が立っています。

そして北野遊歩道の上の高台は北野クラブソラという結婚式場に変わっていました。

昭和15年の川崎邸跡地の布引公園計画は、その後戦争に突入し幻となってしまったのではないでしょうか。




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久坂葉子が死の2週間前に喫茶店ムジカで描いた絵

 久坂葉子が『幾度目かの最後』で、レコードを鳴らしてくれるいつもゆく喫茶店で何通かの手紙を書き終えた時、喫茶店の主人がいたずらがき帳を持って来る場面があります。

<それだけ書き終えた時、喫茶店の主人が、いたずらがき帳をもって来てくれました。何かかいて下さいと。私はホットウイスキーをのんでいたし、多少、私の死と結び付けて考えていたので、いたずら書きをしました。いつもの皿に絵をかく調子で、さらさらと、海の中のと、花鳥の群とを。>

 これがムジカでの出来事だとわかるのは、富士正晴も『贋・久坂葉子伝』でその場面を書いていたからです。

(写真は発祥の地から2回移転し、2013年まで「アクア堂島フォンターナ」の3階にあった「ティーハウス・ムジカ」)
<「久坂さん、お願いがあるんですが。もうお手紙おすみでしたら……」ムジカのマスターが大きな帳面を大事そうに両手で水平にもち、その上に硯箱をのせて、傍らに立っていた。髪がゆるやかにウェーブした中年のもの静かな男。あまり愛想もいわない、足音もたてない男だった。落書帳を作って、常連の方に書いてもらうことにしたからと言うのだった。海の中で泳いでいる魚の絵を描き(久坂葉子は書きながら、「古蘭よ」を思い出していた。船と共に沈んで帰ってこない古蘭。わたしも亦……)、それから鳥を描いた。マスターは、ほうと感心するようにそれを眺めた。ニコニコさんがきてのぞきこんでいた。「うまいわねえ、久坂さん、何でもお出来になるのね」久坂葉子は笑っただけで答えなかった。>

 富士正晴は、その時の様子を久坂葉子から直接聞いていたのか、まわりの人から聞いていたのでしょう、まるでそこにいたかのように書いています。
 そして、久坂葉子の死後、富士正晴がムジカを訪れたとき、マスターが店の奥から静かに近づいて来て落書帖をさし出し、久坂葉子が書いたカット風の絵を開いて見せます。
<それは筆と墨で乱暴に書きなぐってあった。二本のギザギザに折れ曲がった線で波を、そしてその下にいくつかの簡単な形の魚が描かれていた。ガサガサした絵であった。感心するところは何もなかった。けれど、海の連想からわたしは「古蘭よ」という詩を思い出すのだった。>
「古蘭よ」は久坂葉子詩集に収められています。


 更にもう一つの絵については、次のように書いています。
<マスターは頁をめくった。こんどは、花の絵だった。やはり乱暴なカサカサした絵だった。署名の、丸でかこんだ葉という文字もカサカサだった。マスターは落書帖を閉じると、「惜しい方でした」と言った。そして奥へ帰って行った。>

 落書帖に書かれた絵は見つけられませんでしたが、久坂葉子が描いた絵札が残されています。


久坂葉子には文才だけでなく、絵の才能もあったのでしょうか。本当に惜しい方でした。



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久坂は、南画家、水越松南に絵を習っていたようです。『触媒のうた』の54ページを参照下さい。

[ imamura ] 2018/08/12 18:50:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

ありがとうございます。それで墨を使って書いておられたのですね。早速読ませていただきます。

[ seitaro ] 2018/08/13 9:38:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

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久坂葉子の堂島の喫茶店「ムジカ」、現在は三宮で営業

 富士正晴らが創刊した同人誌『VIKING』のメンバーの溜まり場的存在だった喫茶店「ムジカ」には、久坂葉子も足しげく通っており、富士正晴の『贋・久坂葉子伝』にもしばしば登場します。


 その場所を特定できそうな表現が『贋・久坂葉子伝』にありました。
<久坂葉子は脚がひきつるような思いで、ムジカにかけつけた。銀行の角を廻り、東へ折れ、するとムジカの扉がひらいて、背の高い男が出てくるのが見えた。>
 堂島の毎日会館のあたりにあったということでしたが、詳しい場所を知りたくて堂島のパボーニを訪ねました。そこで偶然昭和40年ごろムジカに通っていたというお客に出会い、昔の地図も見せてもらって、その場所が特定できました。

昭和40年の堂島の住宅地図です。黄線で囲ったところが昔の毎日新聞社、毎日放送などがあったところで、現在は堂島アバンザとなっています。
 富士正晴はこの毎日新聞でアルバイトをしていたっことから、近くのムジカがVIKINGの溜まり場になっていました。

 更に地図を詳しく見ると、小説に出てきた銀行が、黄線で囲った第一銀行であることがわかり、その角を東に入った赤線で囲んだところに「ムジカ」と書かれているのを見つけました。

現在の航空写真です。黄線のところが堂島アバンザの東側にあるパボーニ。赤丸のところが、「ムジカ」があった所ですが、第一銀行は現在みずほ銀行となり、その堂島グランドビルが大きくなっており、堂島グランドビルの東端に位置します。


「ムジカ」はその後、紅茶専門店となり、毎日ホールの地下に引っ越し、更にアクア堂島フォンターナの3Fに引っ越していますが、2013年に堂島本店を閉店。
 本社を芦屋に移され茶葉・周辺商品の販売に集約されたそうですが、神戸・元町に2号店をオープンされているとのことで、訪ねました。

 場所は三宮センター街、一貫楼のある筋です。
ビルの2階。

2階の扉を開けると、紅茶販売のディスプレイが。
店の内部はこんな様子です。

 堂島時代の店内は『贋・久坂葉子伝』では、店の内部の様子が次のように描写されていました。
<外から入ると、ムジカの中はひどく暗かった。蛍光灯が陰鬱な冷たいものを、奥深い部屋の中に充満させているように、その時の気分で、思えたのだ。その濁ったもやもやした空気の奥に、何かを見つめている田村の後ろ姿が見えていたが、屈託がこりかたまった形と見えるのだった。そしてその時、久坂葉子の体を重く浸しているのも屈託だった。LPは、激しいヴァイオリンのひびきをふりまいていた。>
 当時は暗い店内で、クラッシックがかかっていたようですが、三宮の店は明るい店内に様変わり。


頼んだのは玉子サンドのモーニングセット。

ついてくる紅茶は伝統の「堂島ブレックファースト」、ミルクティーに向いているらしく、たっぷりミルクもついてきました。
食べログの評価も3.51と高く、満足できたモーニングセット。
堂島にあった久坂葉子の通った「ムジカ」は三宮で評価の高いティーハウスに生まれ変わっていました。



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川崎家の布引山から西宮神社に移設された旧岩倉具視旧居

 久坂葉子の眠る徳光禅院について調べているうちに、川崎正蔵の養子・川崎芳太郎と息子の川崎武之助により東京から神戸の布引丸山に移築された旧岩倉具視旧居が、西宮神社に移築されていたことを知りました。

写真は久坂葉子が眠る川崎家の墓所。

 川崎造船所創設者の川崎正蔵は布引山一帯の土地を購入し、明治18年に現在の新神戸駅からANAクラウンプラザホテルにあるあたりに、豪壮な邸宅を建設します。そして自邸の裏山である丸山(布引山)北麓に川崎家の菩提寺を創開しました。

写真の地形図の中心部が布引山(丸山)です。

 川崎芳太郎は旧岩倉具視邸を布引山(丸山)に移設し公開する構想を立てていました。

「神戸新聞」(大正7年12月2日号)には「布引山を公開する 川崎家の新しい計画 山上に生田神社と維新の五元勲を祀り 美術館を此処に移し建て 市民の娯楽場に充てたいという」という記事が掲載されています。

 その後芳太郎が急逝したため、息子の川崎武之助が岩倉具視旧居を布引山に移築し「六英堂」と命名し、入牌式が大正10年に挙行されています。
「六英堂」は、ここで明治新政府の主要な人物、岩倉具視、三條実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねたということからその名が付けられたそうです。

しかし、昭和13年の阪神大水害で布引山麓にあった川崎邸は崩壊、川崎邸跡は布引公園として生まれ変わるはずでしたが、昭和16年に太平洋戦争に突入、終戦後の昭和21年に川崎武之助も死去し、財閥解体となり川崎家は六英堂がある布引山も手放さざるをえなくなります。

 この頃、川崎家では財産税支払い能力がないため、書画骨董を売却してますが、その様子が久坂葉子の『落ちていく世界』『灰色の記憶』などに描かれているのです。


 当時、布引山を購入したのは大和観光株式会社社長のY氏であり、山頂にあった六英堂を後世に残すため、生田神社に相談し、生田神社から西宮神社の吉井宮司に打診します。
その結果、大和観光から西宮神社に寄進する形で、昭和51年に西宮神社に移築されたのです。

早速西宮神社を訪ねてみました。
配置図の赤丸で囲ったところが六英堂です。

 西宮神社の表門から入ると、毎年福男目指して走る一番目のコーナーがあり、六英堂はその左手にあります。
一般公開はされていませんが、祝宴や会合に貸し出されています。

六英堂の門です。

横に「明治天皇御聖蹟」という石碑が立っています。この石碑も布引丸山から移設したものでしょう。

明治16年、明治天皇は胃がんのために病臥していた岩倉具視を自宅にお見舞いになりました。その光景が描かれた聖徳記念絵画館壁画「岩倉邸行幸」の絵です。

旧岩倉邸の外観だけ見てまいりました。

それにしても何度も西宮神社を訪れながら、旧岩倉具視邸があったなんて、初めて知りました。




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それはわたしも知りませんでした。情報ありがとうございます。

[ imamura ] 2018/08/08 22:47:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

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久坂葉子の眠る川崎家の菩提寺徳光禅院へ

 徳光禅院は久坂葉子(川崎澄子)の曽祖父で川崎造船の設立者、川崎正蔵が布引に開山した川崎家の菩提寺です。久坂葉子はここに眠っています。

 昭和27年12月31日の夜、遺体が阪急六甲から棺に入れられ徳光禅院まで運ばれた様子が、月刊神戸っ子2003年5月号「座談会/久坂葉子没後50年に語る 中西勝・柏木薫・義山雅士・久家義之」に詳しく述べられていました。

「久坂の棺桶を担いで線路を歩いた中西画伯」から抜粋します。
< 中西 それをハンカチで押さえながら坂を上った。上に霊枢車がおった。兄貴とお母さんが前へ乗って、ぼくは乗るとこないから後ろに、棺桶と一緒に入ったんですよ。枕元に乗って、布引に向かった。
柏木 徳光院ですね。
中西 広い本堂で、大きな火鉢があって、お母さんとぼくと当たっていて、ぼくも酔いがさめてしまってね。そうしたら、手についた血がね、ぷんと変な臭いがするんですよ。そこで寝てしまって…>
 この時の徳光禅院でのお通夜の様子などは、富士正晴『贋・久坂葉子伝』にも詳しく述べられています。

その徳光禅院を訪ねてみました。

新神戸駅の下をくぐり、砂子橋を渡ります。

渡って左手に行くと布引の滝ですが、右側に曲がり、つづら折りの急な坂道を登って約10分です。


正面が本堂です。


本堂横の庫裡です。

多宝塔は国指定重要文化財。

 この多宝塔は、名谷の龍華山明王寺のものでしたが、同寺が無住となり荒廃していたため、明治33年川崎氏が買い取り、私邸に移築、更に昭和13年徳光院に寄進、移築したものだそうで、兵庫県最古の多宝塔であり、また神戸市内唯一の多宝塔との説明書きがありました。

その横に大きな観音像があります。

久坂葉子は大きな観音像の台座、半円形ドームの地下に家族とともに眠っています。

実は40年以上前、新入社員教育でこのお寺の庭掃除に来たことがあったのですが、その時は久坂葉子の存在はまったく知らずにいたのです。



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久坂葉子『落ちてゆく世界』に描かれた布引・丸山の川崎正蔵邸

 久坂葉子(川崎澄子)は昭和6年、神戸市神戸区中山手通六丁目七十番地、相楽園のすぐ西に接した一角で、川崎正蔵の孫で男爵家の川崎芳熊と加賀百万石、前田侯爵家の家系に繋がる久子との間に二女として生まれました。

訪ねてみると、その跡地は神戸山手大学3号館となっていました。

相楽園の表門です。

 写真の右側が相楽園、左手奥の建物が神戸山手大学3号館です。
 しかし、この家も昭和20年の空襲で全焼し、再度筋町八十七〜五の一軒家に転居、更に昭和24年に山本通三丁目三十三番地、現在神戸北野ホテルのある場所に転居しています。

 久坂葉子の『落ちてゆく世界』は没落過程にある名門家に生きる息苦しさを綴った作品ですが、その中で相楽園の西隣に住んでいたころ、父川崎芳熊が生まれた川崎正蔵邸について次のように述べています。
<何しろ私たちが生まれる頃はやや降り坂だったしく、その豪華版を私は知りませんでしたけれど、父の生まれた所など通りすがりに眺めるたびに茫然とするのでした。>

父の生まれた所とは、川崎造船所創設者の川崎正蔵が布引・丸山に建てた豪壮な邸宅のことで、現在の新神戸駅のある一体です。
<その屋敷は戦前人手に渡り水害のため全滅し、又空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまっておりました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨ましがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。>

 この川崎本邸は昭和13年の阪神大水害で、土砂に流され無残にも崩壊してしまいました。

 昭和15年1月8日の大阪朝日新聞に“待望の布引公園”と題した記事がでていました。
この時点で多くの敷地が神戸市に渡ったのでしょう。
<すぐる大水害に一瞬にして消え去った神戸布引川崎邸はその名も懐しい“布引公園”として二ヶ年後には明朗、健康の地帯に更生する鍬入れの日も近い—これぞという公園に恵まれなかった港都神戸にとって“布引公園”の出現こそはまさに渇望を満たすものといってよい、いまその全貌をのぞいて見ると—
公園敷地は旧川崎邸三万九千二百十三坪三合二勺のほか(中略)
まず下段の平坦地は一律に緑の芝生を布きつめたカーペットとなり点々と配植される数百種の花木はモザイクとなり縦横に走る曲線の逍遥路は大柄の縞模様となる、大芝生西南の一角約三百坪の箇所はこどもたちのため児童遊園として開放される、美術館、茶室も公開されるのでその道の人達によって趣味の催や集いに間断なく利用されることだろう>

この布引公園構想は一時的にでも実現したのでしょうか?

 さて、第一次大戦中は空前の軍需ブームでしたが、大戦終了後、昭和2年の金融恐慌など昭和6年までの長期不況で川崎造船所は大きな打撃を受けます。
 久坂葉子が生まれた昭和6年は世界大恐慌の最中でした。
その幼少期、相楽園の隣の屋敷で過ごしていたころの記憶を次のように述べています。
<いくらかたむきかけた私たちの幼少の頃といっても、今思い出しておかしくもさえある生活でした。すぐ近くへ行くにも自動車に乗りショフワーの横の席を子供達は取り合いでした。幾人ものお客様をもてなしたことを思い出します。お二階のお座敷には、大きなぶあついおざぶとんが並べられます。女中たちが、白いエプロンをぬいで黒塗りのお膳をはこびます。お茶碗などは、そんな時特別にしまいこんである桐の箱より出します。床の間は、三幅のかけ軸がかけられ、大きな七宝焼の壺にその季節季節の一番見事な花が活けられます。>
 このような生活を当然のように思っていた久坂葉子でした。
しかし、第二次世界大戦が終わり、日本経済は壊滅状態となり、昭和21年川崎武之助が亡くなり、川崎家は多額の相続税を支払わなければならず、保有する土地、資産など売却せざるをえなくなります。
『落ちてゆく世界』ではその頃の川崎家の様子が描かれているのです。



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付かぬ事をお伺いしますが、文中の「ショフワー」とは運転手の名前でしょうか。
『落ちてゆく世界』を読めば分かるのでしょうが、手抜して、お尋ねしました。

[ 西野宮子 ] 2018/08/07 11:00:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

詳しく読んでいただいてありがとうございます。原文のまま写しておりますが、’chauffeur’おかかえ運転手の意味で一般的にはショーファーの方がわかりやすかったと思います。

[ seitaro ] 2018/08/07 22:13:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

回答くださりありがとうございます。
「ショフワー」をネットで検索しても意味が出てこないので、運転手の名前かと思いました。
今回、「ショーファー」という言葉を覚え、ひとつ賢くなりました。

[ 西野宮子 ] 2018/08/08 1:15:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

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『エッセンス・オブ・久坂葉子』から「特急二十八分」

 早川茉莉編『エッセンス・オブ・久坂葉子』に「特急二十八分」という短編が収められています。
冒頭は現在の阪急神戸三宮駅から大阪行き特急が正午に発車するシーンから始まります。

<阪急神戸のプラットフォーム、正午。大阪行き特急。発車のベル。つづいて車掌が笛を吹きならす。前後して、カタカタカタ。小きざみな足音。西階段と東階段より殆ど同時にフォームへ。そして瞬間二人の女性は視線をあわせ、最も近い扉にかけこむ。>
 表題の「特急二十八分」とは、当時の特急が三宮から梅田に到着するまでの所要時間を表したようです。

 阪急電車は1920年の神戸線開業時に、「綺麗で早うて。ガラアキ 眺めの素敵によい涼しい電車」をキャッチコピーとして大阪梅田駅 - 神戸上筒井駅間を50分で走っていました。
 その後も高速化を進め、1936年4月には三宮までの乗り入れを達成し、西宮北口駅のみの停車でしたが、「神戸の中心三宮へ特急25分。高架乗入開通」の看板が阪急百貨店ビル屋上に掲げられました。


 終戦後の1949年、神戸本線の特急運転再開時には十三駅を停車駅に加え、梅田駅 - 三宮駅間での特急所要時間は30分。その後はおおむね28分で推移したそうです。
 したがって、久坂葉子がこの短編を書いた1951年の梅田―三宮間の所要時間は28分だったのでしょう。
 因みに、現在の神戸本線特急の梅田駅 - 神戸三宮駅間所要時間は、最速で27分です。

さて久坂葉子の小説に戻りましょう。

<車掌はボタンを押す。混雑時ではない。然し空席はみられない。動き出した電車。前の車輛の女も後ろの車輛の女も山側むきのつり革に手をかける。人や市電や赤屋根や山。高架線を電車は次第にスピードを出してゆく。>

上の写真は現在の神戸三宮駅を出た直後の山側の風景。

当時は三宮の街を市電が走っていました。

<二人の女はガラス窓を通して映る春の光線と春の色彩の中に、ぼんやり自分の顔を見出す。小さな駅がさっとすぎた。丸顔の女性は、プラットフォームにたっていた学生の群をはっきりみた。>

小さな駅とは春日野道駅でしょうか。

<然し彼女の想像した一冊の本は、題名もなく序章も終章もなかった。彼女は自分の未来をあやうげながら一冊の本の中に漠然と断片的に空想しはじめた。
 六甲山が見えた。外人のハイカラな家が山腹に並んでいた。>

久坂葉子が自死した阪急六甲駅手前から見える現在の六甲山です。

 阪急特急からの車窓の美しい風景を挟んで、女性の恋人に対する錯綜する感情が述べられています。冒頭で二人の女性が乗客として登場しますが、久坂葉子の心の乱れを描くため分身を二人登場させたのかも知れません。

<桜が咲いていた。この沿線で元も美しい駅。住宅街。ベンチの人は金持ちの夫人に老紳士。ステッキは水牛。>
 1951年の風景ですが、この駅は六甲駅を過ぎたあとの御影駅でしょう。

かなり雰囲気が違いますが、現在の阪急御影駅。

 しかし、御影には映画「華麗なる一族」の万俵邸として登場する大林邸はじめ、今でも多くの豪邸が残っています。

<鉄橋と水のない川。音まで乾燥している。
―私は男の妻を嫉妬する自分の一部分の感情をこしらえた。>
鉄橋と水のない川とは芦屋川のことでしょうか。

車窓とともに、女性の恋人に対する複雑な感情がうまく描かれています。

<スピード。スピード。スピード。東へ。>
これはもう西宮北口を過ぎて、最高速度に達しているあたりかもしれません。
最後は、
<くらくなった路上で人にみつからないかとおそれる。ホテルへゆけばお金をはらう。>
で終わってしまいますが、不倫相手への揺れ動く複雑な感情が細やかに描かれた作品でした。


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「神戸と久坂葉子とオリーブ」から日本最古のオリーブの樹を訪ねる

『月刊神戸っ子』2018年4月号の瀬戸本淳氏の「神戸秘話  神戸とオリーブと小妖精・久坂葉子と父・川崎芳熊」で、久坂葉子(川崎澄子)が住んでいた山本通り三丁目(現在の神戸北野ホテル)に、明治12年に明治政府の勧農政策により「神戸阿利襪(オリーブ)園」が開設さたことを知りました。


 神戸北野ホテルの玄関アプローチにはオリーブの樹が植えられ、掲示板もありました。


 神戸は水はけが良く、気候も温暖でオリーブ栽培に適していたこともあり、フランスから輸入したオリーブの試験栽培を国内で初めて実施し、明治15年には近代園芸の祖・福羽逸人の指導の下、搾油にも初めて成功したそうです。しかし、明治政府の財政難から事業の存続が困難となり、同園の土地払い下げが決定。同41年に閉鎖されたとのこと。

 瀬戸本 淳氏は久坂葉子をオリーブの花になぞらえて次のように述べています。
<オリーブの葉の表は光る濃緑色、裏は銀白色でとても美しい。初夏にはいい香りの小さい白い花がまとまって咲き、あっという間に満開、そして一気に散る。まるで久坂葉子のようだ。ちなみに湊川神社のオリーブの古木は「神戸阿利襪(オリーブ)園」ゆかりの樹で、樹齢約140年、わが国最古といわれている。>

 湊川神社にそのオリーブの古木があると知り、早速訪ねてみました。

高速神戸駅を降りると、すぐそこが湊川神社。

大変広い境内で見つけることができるかと思っていましたが、表門を入ってすぐ左手にその木はありました。

樹齢140年にもなろうかというわが国最古といわれているオリーブの古木、こんなに高くなっているとは。支柱で囲われていました。


幹が太くなって、本来つるつるの樹皮がまるで楠木のようになっています。


上の方まで見るとオリーブに間違いありません。

久坂葉子を訪ねて、日本最古のオリーブの樹にたどり着くとは思いもよりませんでした。



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久坂葉子も出入りしていた古道具屋「まるきや」

 久坂葉子が昭和24年から自死する昭和27年まで住んでいた邸の隣にあった古道具屋さんが現存していました。

写真は元川崎邸の跡地に建っている神戸北野ホテル。

 久坂葉子の本名は川崎澄子、曽祖父は川崎造船の創立者川崎正蔵。父芳熊は昭和22年に公職追放処分となり、筍生活を余儀なくされます。
 富士正治『贋・久坂葉子伝』に公職追放になってからの父・芳熊の様子が描かれていました。
<馴れもしない小っぽけな商社の裏仕事は、父には恥ずかしくもあり、苦しくもあったんだ。生活を切り下げることは、外向きの生活だけは、出来ないことだった。名門だったから!
 父は愚痴ばっかり言ったんだ。わたしはいつか「もうけっこうよ、くりごとは」と言ったんだ。ひとり占のトランプばっかりやっているしわしわの手の、背を丸めた父が、その時やり切れなかった。父はしばらく私を見つめていたが、怒りはしなかった。かなしげに「首をくくるか、強盗かだよ」と言っただけなのだ。父は首をくくれもしなかった。強盗もできなかった。倉から古美術を次々に出して売り、名門の体面を保って、トランプ占ばかりしていた。>
 その名門の体面を保つために古美術品を売っていた古道具屋は川崎家のすぐ隣にありました。
久坂葉子が恋人の北村英三に宛てた手紙に、
<うれしくてうれしくて買物がしたくなり、家の門脇の古道具屋へ遊びにゆき、帽子を二つも買ってしまいました。>と書いているのです。

 その古道具屋が、「神戸北野ホテル」の北隣の「まるきや」です。

 十九歳の時の芥川賞候補作『ドミノのお告げ』では、「まるきや」をモデルにしたと思われるお店が登場します。
<ガラガラ戸をあけて仲へはいるといいお香のにおいがします。「いらっしゃい。お嬢さん」「おひさしぶり、この頃いかが?」「さっぱり売れまへんな」長火鉢に煙草をぽんといわせて、主人は首をふりました。店をみまわしますと、いろいろな形のものがごちゃごちゃにおいてあります。
「この店へ来ると、いつまでもあきないわね」「へっへ、まあどうぞおかけ、お茶をいれますから」主人は相槌をうちながら、おいしい煎茶を入れてくれました。
「あのね、父が少し残っているものを買っていただきたいって申しますの。来ていただけません?大したものでもないんですけれど」>

私が訪ねた時は、残念ながらお休みのようでシャッターが閉じられて店内の様子を窺うことはできませんでしたが、今も当時の風情を残しているのでしょうか。
 でも、北野町にこんな古道具屋さんが残っていたこと自体が奇跡的に感じられました。

 ところで川崎芳熊は戦後、公職追放になったものの、久坂葉子が自死する前の年、昭和26年には神戸オリエンタルホテルの社長になっています。

写真は川崎芳熊氏(川崎造船所四十年史より)

 瀬戸本淳氏は月刊神戸っ子2018年4月号「神戸とオリーブと小妖精と父 久坂葉子と父 川崎芳熊」で、次のように川崎芳熊に温かい目を向けています。
<川崎芳熊は神戸一中の卒業だが、下の弟たち、金蔵、芳虎、芳治も神戸一中出身で、共に苦しい時代を生きた。そんなさなか、家の内実を暴露したような久坂葉子の作品には頭を悩まし、さらに彼女の死も、とうてい受け入れることができなかったのではないかと推察する。
 久坂葉子は父の影響もあり幼時からピアノ、絵画、俳句、演劇などを好み、一方では有島武郎の『或る女』の主人公、早月葉子に共感し、太宰治の没落華族を描いた『斜陽』を愛読した。小妖精の才能はその美貌の上に本来、もっと華麗に開花すべきだったと思うが、父の心の痛みにも目を向けて欲しかった。>
 久坂葉子の作品の中では、無能で非人間的に描かれた川崎芳熊ですが、久坂葉子に関するエッセイで、このように温かい目を向けていただいているのは瀬戸元淳氏だけでした。
娘を持つ父親としては、賛同できる嬉しい文章でした。
 


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夭逝の作家・久坂葉子をトアロードに訪ねる

 久坂葉子という神戸生まれの作家をご存知ですか。

 旧川崎財閥の名門に生まれ、19歳の時『ドミノのお告げ』で芥川賞候補となるほどの才能に恵まれながら、そのわずか2年後に阪急六甲駅で自殺を遂げた久坂葉子。


 その作品は今でも読者に深い印象を与え、井上靖は『久坂葉子作品集 女』の帯に「作家久坂葉子は背後に光芒をひいて飛び去った一個の流星に似ている。光芒は彼女を知っている人々の眼から長い間消えないことであろう」と賛辞を送っています。

 久坂葉子の生涯については、富士正晴『贋・久坂葉子伝』や柏木薫・志村有弘・久坂葉子研究会編『神戸残照 久坂葉子』に詳しく述べられていますが、建築家の瀬戸本 淳氏が『月刊神戸っ子』2018年4月号に寄稿された「連載 神戸秘話 O 神戸とオリーブと小妖精と父 久坂葉子と父 川崎芳熊」にその生い立ちや家族関係がうまくまとめられていました。
https://kobecco.hpg.co.jp/31161/

<トアロードに面して残る唯一の木造西洋館である「東天閣」は、明治27年にドイツ人のビショップ邸として建てられたが、その東向かいに現在「神戸北野ホテル」が建っている。明治12年、この一角の3千坪の敷地で、明治政府の勧農政策によりオリーブが栽培された。フランスから持ち込まれたオリーブの樹550本が見事な実をつけ、初の国産オリーブ油になった。さぞ美しい景色であったろうと思う。しかし、政府の財政難のために明治24年、この「神戸阿利襪オリーブ園」は、川崎造船所を創立して神戸川崎財閥を興した薩摩出身の川崎正蔵に売却された。正蔵は川崎造船所の初代社長に、同じく薩摩出身の31歳で後に神戸新聞を創刊した松方幸次郎を立てている。
 この地に、久坂葉子(本名・川崎澄子)が昭和24年から21才で自死する昭和27年までを過ごした家があった。>

 久坂葉子が過ごした家の跡地を目指して、トアロード中山手通三丁目の交差点を少し登っていきます。


トアロードに面して残る唯一の異人館「元ビショップ邸」、現中華料理店「東天閣」です。

その向かいの「神戸北野ホテル」の場所が、久坂葉子が昭和24年から自死する昭和27年まで過ごした山本通三丁目三十三番地の家の跡で、久坂の作品は全てここで生まれました。
明治時代、ここがオリーブ園だったとは。

 当時のトアロードの風景が富士正晴『贋・久坂葉子伝』に描かれていました。
<久坂葉子は何とはない考え事をしながらトーア・ロードを歩いて帰るのが好きだった。何の変哲もない真直ぐなアスファルト道、けれどそれは坂道だった。だから、ゆっくりゆっくり歩いてのぼる。後からタクシーがのぼってくれば自分の影がアスファルトの上で揺れるのが見える。前から市バスが道一杯という感じで下りて来る時、その並んだ窓の黄色い光は両側のひっそり閑とした家並みをゆっくりなめるように照らして近寄ってくる。この道の空気はいつでも動いている。人通りは多くないが、歩いている人の国籍はいろいろだ。イギリス人、中国人、アメリカ人、アルメニヤ人、トルコ人……そしてその道が市電を横切ってから山までの短い距離の中ほどに彼女の家がある。>

神戸市電は昭和46年に全線廃線となりました。

市電の駅のあった中山手通三丁目から上を見た現在のトアロードの写真です。この少し上に久坂葉子が住んだ屋敷がありました。

『神戸残照 久坂葉子』には久坂葉子文学散歩MAPまでついていました。

もう少しゆかりの地を訪ねてみましょう。



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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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