阪急沿線文学散歩

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阪田寛夫が述べる人文的世界の「阪急沿線」とは

 阪田寛夫は『わが小林一三』で、少年時代の阪急沿線への憧憬を述べています。

<もし小林一三がいなかったら、いたとしてもここまで書いてきたような運に彼がめぐり逢わなかったとしたら、私の歳に近いか、もっと上の年代の上方生まれの人間は、自分たちにとっては確固とした人文的世界である「阪急沿線」というものを、ついにこの世に持たずに終わったことであろう。>
 阪急沿線開発は良しき悪しきにつけ小林一三の発案により、進んだことは間違いなく、阪田寛夫が、当時「人文的世界」とまで述べるほどに成熟した風景を形成したと言っても過言ではないかもしれません。

<それが日本文化にとってどんな意味があるかは判らないが、かつて阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚からは宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中あたりまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌・川筋にまるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を持って地表をしっかり掩っていた。今から四十年以前のお話である。>
『わが小林一三』の初版発行が昭和58年ですから、四十年以前とは昭和10年代の阪急沿線を指しています。

阪田寛夫はその頃、既に開発が進んでいた、西宮北口―神戸間、西宮北口―宝塚間、宝塚―豊中間の風景を称賛しています。


<長い長い立体的で緑色の休憩地―これまでの日本にはまだなかった、何と名付けてよいかわからない宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上にかたちづくって来たように思われる。昭和でいえば十年代半ば頃まで、筆者の私が大阪市内の小学生・中学生だった時分は、恐らく日本中のどこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅地はないと確信していた。>
 これほどまでに称賛された風景ですが、今やどんどん宅地開発が進み、「立体的で緑色の休憩地」とは呼べなくなるほど、緑が失われてきました。

ニテコ池の周りの緑も伐採されマンション建設が進んでいます。



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阪田寛夫 | コメント( 2 ) | トラックバック( 0)

私が関西学院中学部に通っていたころと今と 上ヶ原や西宮 夙川周辺も激変ですね〜

[ モンセ分店薬局 薬剤師徒然日記 ] 2017/10/11 8:53:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

震災でかなり変わったと思うん茂ですが、その後最近の変貌ぶりも急ピッチ。夙川の松並木くらしか残らないのではないかと心配です。

[ seitaro ] 2017/10/11 9:49:59 [ 削除 ] [ 通報 ]

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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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