奥野健夫『文学における原風景』を読んで、阪神間で少年時代を過ごした遠藤周作の原風景をまとめてみることにしました。まずカトリック夙川教会からです。
基督教と日本人、西欧と日本人というテーマで様々な小説を書いた遠藤周作の文学の原点は、12歳の時にカトリック夙川教会で受洗したことに始まります。そのことについて、幾つかのエッセイに記されていますが、代表的なエッセイは『合わない洋服 何のために小説を書くか』(初出「新潮」1967年12月号)です。
遠藤周作は昭和8年10歳のとき、父母の離婚により、母に連れられて兄と共に大連から帰国し、伯母の関川家でひと夏同居します。そして熱心なカトリック信者の伯母の影響により教会に行くようになります。
<いまでもその教会は私の幼年時代のままに阪急沿線の夙川に残っている。電車からもその金色の十字架は、夙川の住宅地のむこうにみることができる。大きくなってヨーロッパの都市でみたゴチックやバロックの大教会にくらべるとあまりに小さく、あまりに粗末なこの教会は、しかし私にとってはさまざまの想い出を持っている。>
現在のカトリック夙川教会は、中井久夫氏が「この街の宝石」と紹介するほど小さいながらも気品のある教会ですが、戦前に遠藤が通っていたことは少し雰囲気が違っていたようです。
その頃のカトリック夙川教会について次のエッセイでも述べられています。
『夙川の教会』(「すばる」1974年9月号)からです。
<もう長い間、阪急沿線の夙川に寄ったことがない。時折、関西に行くことがあっても、そこは大阪か神戸か京都であって、そのまま東京に戻ってしまうのである。少し暇をみつけて足をのばせば夙川に行けるのに、そこに行くのが、こわいような気がするのだ。
今はどう変わっているかは知らないが、阪急の夙川駅をおりると、すぐそこに川瀬という書店があった。駅から右に向かう坂道をしばらく登ると、家々の屋根の向こうに教会の塔と十字架が見える。むかしはそれはクリーム色の塔で金色の十字架だった。門には天主公教会という立て札がはめこんであり、塀にそって夾竹桃の木が植えられていた。>
「川瀬という書店」は、明らかに遠藤周作の記憶ちがいで、仁川に住んでいたときの記憶だと思われます。夙川駅の前に会ったのは夙川書店(写真左)でした。
遠藤周作が通った頃の「クリーム色の塔で金色の十字架」の教会は、上の写真の姿が近いかもしれません。
次回は遠藤周作に強く影響を与えた神父たちについてです。