阪急沿線文学散歩

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芦屋の中山岩太邸跡を訪ねる

 1930年代の都市モダニズムを色濃く反映した作品などで知られる中山岩太は1927年にパリから帰国し、1929年に芦屋市に移住、ハナヤ勘兵衛らと「芦屋カメラクラブ」を結成しました。

写真は中山岩太による《神戸風景(トアロード)》1939年頃 

ところで1927年に建てた芦屋の家について中山正子著『ハイカラに、九十二歳 写真家中山岩太と生きて』に詳しく述べられていました。

中山岩太は将来、写真学校にしたいという考えで自ら設計したそうです。
<一階のアトリエはパリーのベロニのアトリエそのままに天井は吹き抜け、丸太造り、窓は高く大きく造り、二階は各部屋カギをかけられるようにした。その中の一室は私の部屋。私はパリーの友人の主婦の部屋をまねて、天井はオレンジ色の柔らかい絹の布で覆い、まん中にしゃれたシャンデリアをつけたいと夢をいっぱいふくらませた。>
新築にあたっての構想は二人が過ごしたパリのベロニ街のアトリエでした。

写真は2階建ての半丸太張りの中山邸。
残念ながら阪神淡路大震災で倒壊してしまいました。

<二階の廊下は丸太の手すりををつけた。応接間の入口の戸は二人で濃淡をつけて手で染め、壁土は板に布を巻いて二人して型をつけた。たのしい作業だ。椅子も彼の好きな形に大工さんに作ってもらい、二人して何か彫ろうと楽しんでいたが、とうとうそれは果たせなかった。>

二階の丸太の手摺。

応接間の入り口の扉。

<たたみの嫌いな彼は全部板張り、一枚も畳はない。赤穂から来た静子ねえやが「お願いですから、一枚でいいからたたみを敷いてほしい」と言うので、彼は彼女のためにたたみ一枚敷きで寝台にも使えるものを考案し、その台の下にはふとんがしまえるよう三段の引き出しを作り、身のまわりのものを入れるように大工さんに作らせた。なかなか便利だ。どの部屋も靴で歩くよう油でみがきじゅうたんを敷く。>
欧米の生活に慣れ親しんでいた中山夫妻の邸の中は総板張りだったようです。

跡地がどのようになっているか尋ねてみました。

上の地図に示した業平橋を国道2号線沿いに少し西に行ったところにハナヤ勘兵衛写真店(青丸印)があり、その次の角を右に曲がった所(赤丸印)が中山邸のあった場所です。

業平橋を西に向かいます。

同じように丸太を使った建物がハナヤ勘兵衛写真店。

上の写真の左角に震災前まで中山岩太邸がありました。

 ハナヤ勘兵衛との関係も『ハイカラに、九十二歳 写真家中山岩太と生きて』に紹介されていました。
<芦屋にただ一軒あった写真材料店のハナヤ勘兵衛店に材料を買いに行くうちに親しくなった。写真の同好者を集めてクラブを作ろうという話が持ち上がり、この材料店へ来るお客さまや中山の知人を集めて出発したのが芦屋カメラクラブだ。>

芦屋カメラクラブ写真展は1930年から現在まで続いています。





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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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