阪急沿線文学散歩

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フランス人司祭メルシェ神父は何故開戦直後に抑留されなかったか

 遠藤周作「『黄色い人』を再読していると、背教者のデュランの昭和19年12月9日の日記に次のような記述があります。
<「小林の聖母女学園にも、彼等はなんども来ていますよ。伊太利の修道女たちは、一昨日、電話をかけましたら、高槻の警察署に連行されて、どこかへ送られるらしい」
「仏人で連れられたものは?」私は怯えた声で、その問いを口にだした。咎めるような眼差しで、ブロウは私をチラッと眺めた。「安心なさい。あなたは大丈夫ですよ。国籍は日本にしてあるんだから」>

 聖母女学園のモデルと思われる小林聖心女子学院の外人マザーの抑留については、
「学院のあゆみU試練のとき」に詳しく述べられています。

http://www.interq.or.jp/venus/mikokoro/50nen2.htm

 小説の登場人物背教者デュランは日本人女性と結婚して、日本国籍となっているのですが、メルシェ神父をモデルとしたブロウ神父はフランス国籍のまま。

 第二次世界大戦についてのまともな歴史教育を受けることがなかった私の疑問は、何故カトリック夙川教会のフランス人主任司祭のメルシェ神父は開戦直後には抑留されず、昭和20年5月に特高に連行されるまで司祭を続けることができたかということでした。


 フランスは開戦後まもなくドイツに占領されてしまいましたが、ロンドンに亡命したドゴールがレジスタンス活動を続けていましたので、敵国とみなされていたのではと思っていたのですが、降伏後発足したヴィシー政府は親ナチ派で、枢軸国とされていたことが理由のようです。

 これを機会に、日本における戦時下の外国民間人がどのような扱いを受けていたのか調べてみました。参考資料は小宮まゆみ著歴史文化ライブラリー267『敵国人抑留』。

 それによると、1941年10月に東条英機内閣が成立し日米開戦が避けがたい状況となり、多くの「敵性外国人」は引揚げたものの、残留した外国人もまた多くいました。
 そして、宣教師について、「カトリック系の学校では、駐日ローマ法王庁使節パウロ・マレラ大司教の意向により、高齢者や病弱者を除き大多数の宣教師が残留した」と述べています。

 敵国人抑留の変遷は四つの時期に分けられ、
第一期(1941年12月開戦〜1942年8月)成人男子を抑留対象
第二期(1942年9月〜1943年9月)女性宣教師や修道女も対象
第三期(1943年10月〜1945年初め)枢軸国を離脱した
                イタリア人も抑留

 (1943年のイタリア人の抑留は増山実『風よ僕らに海の歌を』でも描かれています)

第四期(1945年初め〜終戦)本土決戦に備えてドイツ人やフランス人まで抑留し空襲や飢餓で抑留者が危険に晒された時期

フランスの扱いについては、次のように述べられています。
<フランスは1944年9月、ド・ゴール政権がパリ帰還を果たし、対日宣戦布告を再確認した。それでも日本政府は、仏領インドシナ政府との協力関係を重視して、フランス人は敵国人扱いしてこなかった。しかし1945年3月、日本軍がフランス植民地政府を武力で解体して以降は、フランス人を敵国人と見なさないわけにはいかなくなった。>

この時期、特高の目が一層厳しくなり、メルシェ神父は単なる強制抑留ではなく、スパイの嫌疑をかけられ1945年5月に逮捕されたのでした。




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阪急沿線の街にゆかりのある小説や随筆、アニメの舞台を訪ね、当時の景色や登場人物に思いを馳せるセンチメンタル散歩です。震災以降、街並みは大きく変わりましたが、歴史ある美しい景観を守る一助になればと思っています。

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