犬と歩く夙川

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おまはん?



みをつくし料理帖をNHKが放映しています。

天満の大洪水で天涯孤独になった澪は、

大阪一の料亭に奉公しましたが、

火事で店が焼けて、奉公先のご主人夫婦と東京に移ります、

紆余曲折の後、つる家という小料理屋で働くことになります。

澪の学んだ大阪の味は江戸の味と違うことを織り込みながら

様々な人間模様が展開します。

2014年に完結していますが、

関東と関西を行き来している人に人気のシリーズでした。

宝塚出身の著者が大学進学で東京に行った実体験がうまく用いられているとのこと

す。

以前も民放でドラマ化されました。



さて、録画で見ていたら、「おまはん」という言葉がよく出てきます。

「あんさん」とか「おまん」はドラマでよく聞きますが、

おまはんは坂本龍馬とか幕末の志士もので聞いた記憶があるので、

土佐弁か四国の方言と思っていました。

調べてみるたび京大坂でも使ったようです。

あんさん→おまはん→おまん、左のほうが敬意が強いようです。

ネット情報。本当でしょうか。











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おまはん は大学時代の徳島から来てた友人も使っていました。

[ せいさん ] 2017/06/17 10:36:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

未だに使うんですね。今度徳島行ったら聞いてみます。

[ ふく ] 2017/06/19 15:00:55 [ 削除 ] [ 通報 ]

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関西朝日新聞 堺市中之町大道

古新聞をゴミ箱で見つけました。

角がおとしてありますので、茶釜でも入っていた箱の底に敷いてあったのを誰かが捨てたのでしょうか。私ならよほど虫でもついて限り道具の入っている箱の内装はほかんしておきますが、捨てたくなる気持ちもわかります。

よくみると昭和6年7月7日の関西朝日新聞とあります。見ていると大阪南部の記事が多いのです。最初は朝日新聞だと思い込んでいましたが、何と無く違いそう。

よく見ると、発行が堺市中之町大道、畑中安次郎とあります。支局は大阪住吉大津岸和田河内とあります。大正12年12月1日三種郵便に認定され、2327号発行されています。

手元のIphoneで検索したのですが、その新聞日ついての詳細は不明。発行者もわかりません。一部掲載しておきます、





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荒陵(あらはか?)はここ?

先般来、四天王寺の山号が荒陵山であること、鎌倉時代に法然上人が修行した現在の一心寺の地が荒陵の新別所と呼ばれていたと書いてあります。

そして「荒陵」とはどこを指していわれたのか。全然知らなかったのですが、私が毎日見ている、茶臼山が「荒陵」だったのでした。

確かに史跡に指定されている古墳で、ここから出土した石棺が四天王寺にあると聞いたことがあります。けれども発掘したけれども埴輪などがでてこなかったというのも覚えています。そのため古墳なのかそうではないのかが論争になっているようです。

摂津名所図絵には一心寺の境内の左手奥に「茶臼山」と描かれており、次のような記述があります。





荒陵 今茶臼山といふ。形をもって異名とす。
慶長元和の頃御陣営となる。
荒陵の号は仁徳天皇より以前の号なり。
『日本紀]』に云ふ。
仁徳帝五十八年夏五月。嘗て荒陵松林の南の道。忽ち両(ふたつの)歴木(くすのき)生えたり。道を挟みて末合へり云々。

と書かれています。

あまりお墓という感覚がなかったのですが…
つまり私のいるところの隣がお墓?あるいは墓の一部?御陵なの?という感じです。


一心寺です。



そして探していましたところ、一心寺風雲覚え書き、夕陽丘の回顧の二冊の本をみつけました。これを読みながら散歩したいと思いますが…
季節は苦手な夏になってきました。




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一心寺

文治元年(1185)四天王寺の別当であった慈円の招きによって法然が四天王寺西門の坂に、草庵を結び「荒陵の新別所」(後に源空庵)をかまえたといわれています。

後白河法皇が四天王寺に参詣した時、そこを訪れ法然とともに日想観を修したともいわれます。

一心寺の場所は草庵は四天王寺の西門の少し西南、現在の国道25号線、つまり逢坂といわれた坂の南側にあたり、四天王寺の西門同様西の崖下に海が広がっており、そこは極楽浄土の東門と神事られていた場所だと思われます。

一心寺というお寺が、法然上人の旧跡に再興されたのは、はるかに下る慶長元年、(1596)、徳川家康と同郷であった三河の僧侶本誉存牟上人によります。家康は関ヶ原の戦いのあった慶長4年、ここで家康の八男仙千代の葬儀が行われた、本誉上人が導師をつとめたといいます。その後この寺は徳川家との結びつきが強く、大坂冬の陣では(1614)ここに家康の本陣がおかれました。

一心寺のホームページには以上のようなことが簡単に書かれています。
また、法然上人が日想観の修法をされている土佐光持筆といわれる図が一心寺にあるようで、その図が掲載されています。


土佐光茂は土佐光信の個で、地下家伝によれば、明応五年(1496)の生まれとされます。戦乱の時代の上方にあって絵所預の絵師となります。永禄12年(1569)に織田信長の命により足利義昭邸の障壁画を描いたとされますが、晩年は不遇であり、息子である光元が同年に亡くなった後、堺で亡くなったといわれますが没年はわかっていません。


(光茂の絵といわれるとしたのは、この絵を直にみたわけでもなく、また一心寺復興にさかのぼる30年前に光茂が没していることから、筆をとったの経緯が不明だったためです)


荒陵の新別所は、四天王寺が荒陵山といわれることにちなむと思われますが、後白河法皇の時代から家康の時代までの間のことがよくわかりません。

四天王寺についても、最近急に気になって調べはじめたので、今ひとつよくわかっていません。一心寺についてはさらにノーチェックでした。『一心寺風雲覚書』という書籍を以前にぱらぱらと見た記憶があります。読んでみることにします。

大阪の寺町にはほかにもいくつもお寺があります。日が長くなってきましたので、朝か夕方、あるいはお昼を食べがてら寄ってみたいと思います。


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ふくさん、こんにちは。
早速「一心寺」を取り上げていただきありがとうございます。
一心寺には四天王寺の帰りに必ず寄っております。
いつも沢山の参拝者で、言い方が悪いかもしれませんが「活気にあふれて」います。
本堂に入ってお参りするのですが、「日想観」のことは気にもかけていませんでした。今見ると本堂横に「日想殿」がありました。入れるかどうかわかりませんが訪ねてみようと思います。

[ さとっさん ] 2014/06/23 11:42:04 [ 削除 ] [ 通報 ]

さとっさん こんにちは。きょうはお休みなので調べる時間がありました。日想殿は建築家である現在の長老が設計された山門と同じくものすごく目立つ建物のようです。明後日にでもよってみることにします。あのあたりはお地蔵さんやお堂もたくさんあります。調べると面白いと思いますので、ちょっと注意することにします。

[ ふく ] 2014/06/23 12:50:34 [ 削除 ] [ 通報 ]

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野田藤

昨日の藤色の鳥居。
野田藤にちなむのではないかとtyuさんから教えていただきました。


現在は地元の皆様によって復興されましたが、空襲で一時期殆ど壊滅していたので、
「野田藤」というのが大阪の野田とは全く頭のなかで結びついていませんでした。
歌枕のみちのくの「野田の玉川」(宮城県といわれる)と大混線してしまっています。

※詳しくはのだふじの会のブログをご参照ください。

中世から近世にかけて、野田の藤は大変有名だったのでした。

鎌倉初期 西園寺公経の「難波潟 野田の細江を見渡せば 藤浪かかる 花のうきはし」という歌があります。
また室町に入ると、足利義詮(室町幕府二代将軍)が貞治三年(1364)に詠んだ
「紫の蜘蛛をやといはむ藤の花 野にも山におはいぞかかれる」などが知られているそうです。

江戸時代初期、延宝3年版の「芦分船」難波名所 大阪鑑 の巻五に
野田について記され、挿図に野田藤があります。



寛政8年(1796)京都でで刊行された、摂津名所図会にも、野田の春日神社について藤によりて藤原の祖神を祭るならんかと書かれています。(野田の庄屋は藤家という家でした)



そしてここを訪れた牧野富太郎博士がここを訪れたことにより、
野田藤が命名されるきっかけとなったそうです。


さて、この野田のあたり、今でも安治川に隣接する、水辺の町です。今でこそ、しっかり護岸工事がなされ、橋で繋がっていますが、中世はたくさんの島に分割されておりました。そして野田には野田城があったといいます。

そのあたりのことも調べたくなってきました。


追記
福島区歴史研究会という組織があり、
そこに会員論文が寄稿されています。

野田藤と福島区の歴史という藤三郎さんという方の論文がありました。
以下が藤三郎さんの論文の目次です。

大変参考になるのと同時に、
地域が一帯となってこういった研究会やサイトを運営され、出版もされておられることに正直驚きました。

行政区が大きくなりすぎると、広範囲でまとまりがなくなりますが、
大阪市の区割り、地域の歴史や文化を自主的に学ぶという方向では、
現状でうまく機能しているという例でしょうか。
今朝のごちそうさんでもお上がお金を出さない大阪はすべて市民が始末してお金を工面してインフラ整備に貢献したというようなことをいっていましたが、そんな気概が感じられます。

区割り見直しなんてお上が考えているようですが、現状はこういう文化力への感心が今ひとつ低いようですので、こういうポジティブな動きを疎外しないとよいのですが…。


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阪神野田駅前の商業施設「ウィステ野田」が藤の英語読みから採った名前だと
知ったのはかなり前のことですが、野田で藤の花を見たことはないですが
町内の公園には藤棚があるんでしょうかね?
大阪の町名表示板(電柱とかについている縦長のプレート)には区の花が描かれていて
福島区は藤でした。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061272/p10719394c.html

[ にゃんこ ] 2014/02/01 11:37:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

にゃんこさん 大阪にむかって左手にある商業施設でしょうか。野田で降りることが殆どなかったので、気づきませんでした。藤棚を作っておられますが、鳩が蕾を食べちゃうようなことが書かれています。敷地は狭いですが、かつて藤の名所だった春日神社に藤棚が再現されています。新なにわ筋や高速道路の工事で移転になった藤家の庭園、藤庵は下福島公園に移転されているとありますが、そkそにも藤があるそうです。

[ ふく ] 2014/02/01 12:35:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

下福島公園には孫とよく行きます。藤棚があります。野田藤の説明が書いてあったような気がします。

[ akaru ] 2014/02/03 10:57:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

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高津宮

大阪市内に高津というところがあります。
谷町九丁目の駅のすぐ北西です。
お寺の多い地域で、高津宮という神社があります。
その近くで用事があったので、
ちょっとよってみました。

上町台地にありますので、たくさんの階段による上がり口があります。


まっすぐ西に行くと、道頓堀あたりでしょうか。
大きな観覧車が見えています。

仁徳天皇とその一族、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇、后の葦姫皇后と長子の履中天皇が祀られています。

以前は大阪城付近にあったのですが、比売古曽神社(現在は摂社となっている)があった場所に豊臣秀吉によって遷座されました。

太平洋戦争で焼失しましたが、昭和36年に再建されました。
私はあまりよくわかりませんが、落語の舞台としても知られているようで、境内に五代目桂文枝の碑が建っています。

ここの絵馬堂はみはらしのよいので有名だったそうで、
昭和30年頃までは六甲山が見渡せたといいます。

浪速百景から高津です。



現在の絵馬堂からは何も見えません。



さすがに、何も見えません。



絵馬堂には管楯彦による三十六歌仙の絵が奉納されており、現在は複製がかかっています。



犬のお散歩も多いのでしょうか。至れりつくせりです。

一度私も、このあたりまで犬の散歩に遠征してみましょう。

西に降りたところには、以前ショコママさんがアップされていた

犬も大丈夫なテラス席のあるお店がグローブだったかな?が、ありました。

桜の頃はきっと大賑わいなんでしょうね。


調べていると大将0年4月に公募で当選した大阪市歌の出だしが、高津の宮だそうです。


1、高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙

にぎわいまさる 大阪市、 にぎわいまさる 大阪市

2、なにわの春のあさぼらけ、生気ちまたにみなぎりて、物みな動くなりわいの
  力ぞ強き 大阪市、 力ぞ強き 大阪市

3、東洋一の商工地、咲くやこの花さきがけて、よもに香りを送るべき
  務ぞ重き 大阪市、 務ぞ重き 大阪市


ちなみにこんな歌です。市歌ってどういうときに歌うのでしょう。初めてききました。

http://www.youtube.com/watch?v=lcYgJxE4rxw



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ここの夏祭りは、屋台がたくさん出たり、
境内でイベントあったりで 、賑やかで好きでしたが
いまでもそうなんだろうかな。

[ tyu ] 2013/12/06 8:52:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

tyuさん お返事が遅くなってしまいました。こちらと千日前を挟んだ生玉さんは、屋台が有名ですね。一度行きたいと思いつつなんとなく遠いから行かなかったのですが、考えてみれば阪神で一本で行けますね…

[ ふく ] 2013/12/11 23:01:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

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郊外から都心へ

せんば博覧会に来られている若い方が多いことに驚き、
中之島公園が整備されてきれいになっていることにびっくりしました。

大阪の公園や街中といえば、ホームレス問題があり、
また生活保護の問題も指摘され、
テレビで放映される映像は雑然とした暗い都市像と行政の施策のからまわり、
一部の文化人が声だかにさけぶ大大阪の再生のイメージだったのですが、
そうでもないとこの頃思っています。

大阪は門戸が広いように思います。

せんば博覧会はいっただれが運営しているのでしょう。
もちろん背後に市が控えているようです。
でも運営主体は三つの団体です。

船場地区HOPEゾーン協議会、http://semba-hope.main.jp

まちのコモンズ実行委員会

堺筋アメニティ・ソサエティです。


冒頭のHOPEゾーン協議会は大阪市が補助を出している事業です。
ゾーンは現在は六つあります。
平野郷、住吉大社周辺、空堀、船場、天満、田辺だそうで、
「歴史的・文化的な雰囲気やまちなみなどに恵まれた地域を、居住地のイメージを高めるモデルゾーンとして市民のみなさんと、連携・協働して、様々なまちづくり活動を展開しながら、それぞれのまちの特性を生かしたまちなみづくりを進める。」とあります。

せんばの活気は、
行政だけでなく、また一つの組織だけではなく、複合している点かもしれません。
また、会員を募集しています。周辺住民や地元の企業や商店だけでなく、船場好きみたいな人をとりこむということでしょうか。「まちのコモンズ実行委員会」は大学との連携です。

博覧会期間は神農さんのお祭りと連携しており、区域ないのギャラリーやカフェが催しに賛かしています。公共の施設をあてにしていない点もよいと思われます。協賛や協力として地域の会社の名前もあがっています。

周辺の会社にお勤めの方や、新しくできた高層マンションの住民、元大阪市民の末裔などもでかけていくのではないでしょうか。


町たび博など、いろいろなイベントは西宮でも行われていますが、なんとなく活気は大阪の方があるような気がしました。



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いい傾向ですね。行政の施策に委ねるばかりではなく、町内会レベルからの発信が力を出すということの証ですね。

[ Numa ] 2013/11/24 11:48:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

Numa さんまさしくその通りです。市域や区域全体ではなく、特色のある街に限定する。そのかわりその街の人ばかりでなく運営側に外からのファンもとりこむ。これが必要だと思います。何かを直接売り込みたいわけではないところがよいです。平野は古そうですが、船場は昔から住み続けている人も減っているでしょうから、企業をうまくとりこんでるかもしれません。法被姿の人がたくさんおられました。

[ ふく ] 2013/11/24 13:00:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

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梅田ダイアモンド地区


毎日新聞に梅田のある場所の戦後の写真が掲載されていました。


想像不可能なかわりかたで、一瞬どこかわかりませんでしたが、


駅前第一ビルから大阪駅の方向を見ているのでしょうか。


現在の写真では中央の道の左手にヒルトンホテルと右側に丸ビルが写っています。




このあたりが戦後の闇市であったことは知っていました。


その後繊維街になり、これが新大阪に移ったのだそうです。


船場の繊維街の一部が箕面の船場に移転したのも同じ頃でしょうか。


周辺は全体が一度に開発されたのではなく、


市の計画した駅前第一ビル、第二ビルなどが先にでき、


丸ビルができ、第三、第四ビルができ、ヒルトンのあたりが最後ではなかったでしょう


か。


阪神百貨店が一番古いわけですが、


最初に手を付けた梅田第一ビルや第二ビルはそろそろ老朽化しております。


かつてはここに、カネボウが入っており、また市役所本庁舎建て替えの間は教育委


員会など、市役所の一部が入っていました。


確か学生時代には丸ビルなどできており、


新旧入り交じった不思議なエリアでした。


取り壊させる直前にたこ焼き食べにいきました。 


有名店、蛸之徹がありました。


この蛸焼き屋さんは今は丸ビルに入っていると思います。


昔はしもた屋風の二階建ての家で


座敷のテーブルで自分で焼いて食べたように記憶しております。


スチュワーデス(と、当時はいっておりました)になりたいと、


英会話学校にいっていた友達や会話学校の外国人の先生たちと一緒にいき、


外国人が器用に蛸焼きを焼くのにみほれた記憶があります。




わかりにくいと思いますので、地図をつけました。






梅田 ダイアモンド地区
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蛸の徹は知りませんでしたが、旭日屋書店はこのコーナー近くにあったような覚えが。建て替えられたのは昭和40年代でしょうか。

[ seitaro ] 2013/09/20 22:26:12 [ 削除 ] [ 通報 ]

阪急三番街に東京から紀伊國屋が進出するので、対抗策として今の旭屋新社屋ビルが出来たと記憶していますが、昔のミシミシという木造店舗の方が 場所も使い勝手も良かったと言われていました。
再開発は万博に合わせて進められたと思いますが、完全に闇市あとが無くなったのは、かなり後だった気がします。

[ アップルビー ] 2013/09/21 11:12:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

seitaroさま いまのビルの場所出ないところにあったのは覚えています。旭は創業者である産経新聞社長早嶋何某がが岡山出身だからとwikiにあります。この方が全日空機の事故でお亡くなりになったのは覚えています。札幌雪まつりの帰途だったと思います。たこ焼きについては追加しました。いまもあります。

[ ふく ] 2013/09/21 11:24:42 [ 削除 ] [ 通報 ]

アップルビーさま ペンシルビル行きのみエスカレーターだと記憶しています。本屋は夙川からだと旭屋に行くことが多かったと思います。神戸だと丸善でした。紀伊国屋ができると阪急から便利なので圧倒的にそちらにいくようになりました。たぶんヒルトンのところが最後かと。曽根崎警察のところも昔は空気抜きの建造物もなかったかと。

[ ふく ] 2013/09/21 11:32:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

確かに、上りのみのエスカレーターも不評でした。
阪急電車の駅がデパートの一階からずいぶん神戸よりになってしまい、旭屋は遠くなりました。
夫は丸善好きでしたが、私は白い布に書いた労働争議の主張がぶらぶらとぶら下がっていた記憶です。

[ アップルビー ] 2013/09/21 14:22:10 [ 削除 ] [ 通報 ]

アップルビーさま 京都書院と指月電気の赤旗はよく覚えております。以前その話しをどなたかにしたら、家の会社よといわれて凹みました。京都書院はなくなりましたが、指月電機はいまも健在です。時代がずれるのでしょうか、丸善の労働争議は記憶にありません。阪急電車に乗るとどうしても、南へのアクセスが遠いので、最近阪神かJRに乗ることが増えました。すると紀伊國屋への足も遠のきます。人混みが苦手なので、梅田も通り抜けるだけで、行かなくなりました。

[ ふく ] 2013/09/21 15:08:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

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中津運河

新淀川と中国街道の話が気になって、
時間があると昔の地図などを見ていましたが、
昨日大阪に行く時、阪急電車に乗ってみました。

以前は判子を押すようにずっと阪急に乗っていたのですが、
最近いろいろな経路で接続がよくなったせいで、
大阪駅周辺の人混みを避ける意味でJRや阪神を利用することが多くなりました。
そのためでしょうか、阪急沿線の昔の風景がよく思い浮かびます。

先日親戚と話していて、
昭和30年代には、武庫川はそんなに汚れておらず、
藻川がなんとなく汚く、
神崎川になると異臭がしてメタンガスがわいていたということを思い出しましたが、
昨今はその神崎川でさえそこそこ綺麗になっておりました。

淀川を渡りつつ思い出したのは、
渡りきったすぐ隣に小さな運河があったことです。
何年か前から水はなくなりましたがまだ川の形をとどめています。





この最後の一枚です。(下はwikiの記事です)


長柄運河(ながらうんが)は1897年明治30年)から1910年(明治43年)の新淀川の開削に伴い新淀川左岸に造られた運河である。

新淀川の開削に当たっては旧中津川の流路の一部を利用し現在の大阪市都島区毛馬から此花区伝法に至る一直線の放水路が造られた。このときに土砂の運搬と旧中津川を水源としていた正蓮寺川六軒家川への流水、工業用水の供給のために新淀川に沿って長柄運河が設置された。

その後、正蓮寺川の治水事業に伴い1967年(昭和42年)に埋め立てられた。現在でも河道が草の生い茂る窪地になって残っており、運河を越えていた橋も一部が残されている。



http://www.water.go.jp/kansai/nakatsu/history/index.html



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むかしの淀川

先日の中国街道の話を聞いて昔の西宮から大坂に行く道のことを考えています。

参勤交代の大名は江戸後期になって財政状態が逼迫してくると、
大坂によらない(大坂には大坂城代がいるし、自藩の蔵屋敷もあるから入るとしばら滞留し、それなりのご挨拶やもてなしをせねばならない→費用がかさむ)ですから最初は推奨されていた中国街道を通り、大坂から船か陸路で伏見へという経路を通らなくなり、西国街道を通ります。西国大名は外様が多いですので、もともと公家との関わりを持たないように京都と行っても市中に入らず、伏見から大津へと入るのだそうです。

一般の人は商人以外は今と違ってよほどのことがなければ町や村をでて、
大坂に行くことはなかったと思います。

でも行くとしたら、川をいくつか渡らねばなりません。
今と違って立派な橋がありませんので、渡しを使います。
とかつらつら考えていたところ、気になったのは淀川です。
蛇行して、たくさんにわかれていた川はよく水害を起こしたそうで、
明治中頃から末年にかけて、一本の放水路を掘削したと聞きましたが、
その流れはどのように変わったのか。

見てびっくりでした。毛馬閘門のあたりから一気につけかえられているようです。
つまり江戸時代には十三あたりより下流は神崎川や中津川など何本かの川があり、それを渡っていたようです。

時々、なぜ兵庫県と大阪府の境は淀川じゃないのかと思いますが、
兵庫県と大阪府ができた後で、新淀川ができたのでした。
だから新淀川なのです。



下のグレーの色のついたところが大坂市街です。

だこうする川のうちの一本中津川をつけかえたのが新淀川

もう一本、この地図だと丈夫にある川が淀川から別れた神崎川です。

この川もいろいろ流れ込み、下流でいくつもに別れています。

大坂の町衆は市中に陸蒸気が通るのを嫌ったそうで、

田んぼしかなかった梅田(埋め田)に駅を作らせたとか。


展覧会図録の地図をみるとよくわかります。



あと、google地図に古地図を重ねるともっとよくわかるようですが、

これってどうやって作るのか調べてみましょう。


↓この方のブログはいつもすごいです。

http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-537.html




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西宮を中心に古書や古い新聞に書かれた記事をもとに阪神間の昔をたどったり、出典になった本や古書の紹介をしたり、備忘録的ではありますが、ぼちぼちと更新いたします。もちろん犬の話し、海外ミステリー、書画骨董、食べもの、ワインの話しなども、たまには織り交ぜて書きたいと思います。
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