犬と歩く夙川

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/fukuchan

アートでたどる西宮

明日までアクタの北口ギャラリーで市制90周年アートでたどる西宮探訪展を開催しています。
既にレオポンが紹介されましたが、1964年に描かれた西宮十六景、2008年に中核都市行移行を記念して描かれた新西宮百景なども展示されています。十六景を描いた画家の中にはむかし絵を習っていた亀高文子先生の『満池谷水源地」と渡辺一郎先生の「西宮神社」が含まれているのに気づきました。明日いってみることにします。

十六景に何が選ばれているかを考えていると、ふと江戸時代に西宮の歌人たちが選んだ武庫(今の西宮市を含む地域)八景を思い出しました。津門の海、廣田神社の夕日、御前浜(香櫨園浜)の帆船、神呪寺の夕暮れの鐘、鳴尾に飛ぶ雁、名次山の秋の月、雨の今津湊、六甲山の雪景色などだったようです。http://shukugawan.exblog.jp/22211398/






goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11293487c.html
描かれた西宮 | コメント( 2 )

ふくさん、こんばんは。
情報ありがとうございます。
レオポンだけでは見に行かなくてもよいと思っていましたが・・・
明日、時間をつくって見に行こうと思います。
取り急ぎお礼まで。

[ もしもし ] 2015/11/21 23:58:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

こちらと、アクタ西宮2Fの歴史資料写真展と、気になりつつまだ行けていません。
23日までと思っていたら今日まででしたね、行けるかな。

[ にゃんこ ] 2015/11/22 11:28:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西宮の白魚

生きた白魚、西宮でも昔はたくさんとれました。



『日本山海名産図会』によると、摂州西宮の入江は、春二月三月の頃、一町(100メートルほど)の区間に五箇所ほど藁小屋を作り、両岸に網代木を互い違いにうちます。その間を満ち潮で上がっていた白魚が引き潮で下っていくタイミングをねらって、杭に固定した長い棹の先に吊した四つ手網を引き揚げて白魚を捕るという方法のようです。

四つ手網を使った白魚漁は今でも行われていますが、こだいから宇治川で行われていた網代木を用いた漁法との組み合わせによるのが、西宮における白魚漁の特色だったのでしょうか。
http://goo.gl/Wg7HD

『山海愛度図会』には、このほか「うかがひたい 摂州伊丹酒」、「けむったい 丹波 赤蛙(疳の虫の薬)」などなど近郊の名産もありますので、お楽しみください。http://goo.gl/sDwyi

一枚目の写真は歌川国芳が嘉永5年(1852)に版行した大判錦絵「山海愛度図会(さんかいめでたいず)」のシリーズの揃物の一枚に「志州西宮白魚」です。これについては以前ご紹介しました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 1人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11189623c.html
描かれた西宮 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西宮八景 続き

昨日時間がなかったので、書けなかったのですが、西宮八景に関して記すもう一つの史料をご紹介します。


西宮文化協会発行の冊子、「西宮文化」16号にある「行程記にみえる西宮地方」という。梅渓昇先生の記事です。読んでいますと、ここで掲載された「行程記」に西宮八景の記述があると書かれています。実は一昨日から目を皿のようにして見ていましたが、粒子が荒すぎて、ルーペで見ると文字がうまくみえませんでした。ところがスキャンしてみると、なんとか書かれている文字がみえるようになりましたので、ご紹介することにしました。



「行程記」  は萩藩絵図方によって江戸中期に書かれた絵図類の一つです。ご紹介した文章では、享保(1720-1735)から宝暦(1751-1735)年間ぐらいの作かとかかれています。



この図は山口県文書館毛利家文庫収蔵ですが、毛利家関係ではここで紹介する「行程記」のほかにも藩主の御国廻りの際の領内の路を描いた「御国廻行程記(全7巻)」、「中国行程記」(萩博物館)ほか幾つかの行程記が遺されています。

http://ymonjo.ysn21.jp/user_data/upload/File/kiyou/41/kiyouH25-02.pdf


「行程記」は萩と江戸間での街道の上り下りを23帖にわけて描いた折本仕立ての絵図です。地名や道筋だけではなく、街道筋の景観や家並み、社寺や名所の由来なども細かく記されています。作成者は有馬惣太ほか数名があたったといわれます。ここに記した西宮の図は摂津国武庫郡西ノ宮至山城国紀伊伏見京境 上り八の冒頭にあるものとされます。


未見ですが、西宮では郷土資料館にはこの「行程記」(山口県文書館所蔵)ではなく、「中国行程記」(萩博物館所蔵)の西宮の部分の複製があるそうですが、「中国行程記」と「行程記」の差はどうなのでしょう。比較してみたくなってきました。

http://imazukko.sakura.ne.jp/nishinomiya-style/blog/imazukko/T1.html





ところで、八景の記述が見えましたでしょうか?

二ページ目にありますので、さかさにすれば見やすいかも。

一枚目の写真が切り抜いたものです。


※朝、電車の中で書いたものを編集しました。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11075685c.html
描かれた西宮 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西宮八景考察(途中経過)

以前ににゃんこさんが西宮八景のことを少しだけ書いておられました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061272/p10753671c.html

以下に西宮八景をあげました。
津努晴嵐 広田夕照 御前帰帆 神呪晩鐘 鳴尾落雁 名次秋月 今津夜雨 武庫暮雪

北宋の頃に、洞庭湖とそこに流れ込む瀟水と湘江が合流するあたりを瀟湘といい、代表的な八つの景観を選んだ瀟湘八景まで遡ることができます。水墨画、漢詩とともに日本に伝わり室町時代には博多八景が選ばれたといわれます。
日本では室町時代に近江八景が、江戸時代以降各地に広まり、現代に至まで八景が生まれその数四百以上ともいわれます。もちろん中国国内はもとより、朝鮮半島、ベトナムなどにも伝わったそうです。次ぎに、西宮八景と、八景のはじまりともいうべき瀟湘八景と、日本で一番知名度の高い近江八景をあげておきます。

(西宮)  (瀟湘)  (近江)
津努晴嵐  山市晴嵐  粟津青嵐
広田夕照  漁村夕照  P田夕照
御前帰帆  遠浦帰帆  矢橋帰帆
神呪晩鐘  煙寺晩鐘  三井晩鐘
鳴尾落雁  平沙落雁  堅田落雁
名次秋月  洞庭秋月  石山秋月
今津夜雨  瀟湘夜雨  唐崎夜雨
武庫暮雪  江天暮雪  比良暮雪

この西宮八景について、実はある江戸時代の文書のなかにみかけたのです。その時は江戸期の西宮の文人たちもこんなことを考えていたんだな程度に思っておりました。ところが、この西宮八景。注意してみていますとどうも誰がいつどのような目的で選んだかは、現在ではわからなくなってしまっています。西宮の資料は往々にしてそうなのですが、戦災で原文書がなくなっている場合が多いです。かつて書かれたものを、原典を記さないで引用した書物が多いので、同じような記述が至ところで見ることができますが、実際のところはさっぱりわからないということが往々にしてあります。

目にした範囲で「西宮八景」についてふれているものをあげてみます。

まず、一冊目は昭和16年に発行された「今津先賢遺文集」の巻末の年表です。寛延二年の項に「西宮八景といふもの定めらる」とあります。(その二年後に西宮の歌人、大田道雄が亡くなっています。)

もう一つは吉井良尚著「西宮の文藝」(吉井良尚選に昭和34年3月の稿として)です。以下のように書かれています。

西宮の歌壇 大田道雄(寛文11〜宝暦元 1671-1751)は西宮歌人の随一であった。名は介録・不老水と号した。その門下に教へを受けた者、吉井良行・岡良知・当舎敬貞・東向良達・伊丹屋基嗣、岡本敬嗣、加藤古庵らがあり、よく諸所で歌会が催された。神戸生田神社の神主後神孝秀・同重詮なども参加した。(中略)寛延二年西宮の社家東向良達の主唱によって人々とともに西宮八景の歌を詠進した。八景とは武庫暮雪・神呪晩鐘・広田夕照・名次秋月・津努晴嵐・御前帰帆・曲江夜雨・鳴尾落雁を称する。

今津が曲江という古い表現になっていますが、八景があげられ、八景を詠進した年次が寛延二年(1749)とはっきりと記されています。(ここには出典は明示されていません。同一の文章は西宮市史二巻にも収録されています。)

さらにもう一つ。同じ吉井良尚氏の書かれた「西宮随筆 西宮八景について」が昭和49年5月に発行された「西宮文化」19号に掲載されています。

これによると、「名所西宮案内者」別名を「西宮廣田参詣獨案内」という版本とその写本があり、そこにに西宮八景について少しだけ記されているとのことです。(確認していませんが市立図書館に架蔵されているようです)以下のような歌が記されているとあります。

津努晴嵐  今朝見れば 夜こめの霧も吹きはれて 嵐に残る津努の松原

御前帰帆  淡路潟 あはれ浮き世をうみわたり 御前の浜にかへるつり船

鳴尾落雁  洲によする 浪の鳴尾の浦風に みだれて落つる 天津かりがね

入江夜雨  あま小船 入江の雨の暗の夜に とまのひまもる篝火のかげ

廣田夕照  へだてなく 夕日もかげやのこすらむ 廣田の森の朱の玉がき  
 
神呪晩霜  紫の雲井の山の寺の名を よそに黄楊わたる入相の鐘

名次秋月  秋の夜は いづくはあれど有明の 月の名次の名にや照るらむ

武庫暮雪  暮れゆけば 何処かいづく白雪の 高きや武庫の高根なるらむ

歌が書かれているだけで、誰がいつ詠んだかのについては書かれていないとのこと。この情報の提示に加えて吉井氏はこれがいつ頃から称せられていたかについて考察されています。

まず、前掲「西宮案内者」の成立については凡そ宝永から正徳、享保あたりと考えておられます。それは元禄十四年に刊行された摂陽郡談の記事が引用されているからなどとされています。そして八景の記事に附説がないことがさほど古く無いことを語っているのではないかと書かれています。

そして、氏は此の地方の近隣で名勝を宣伝、顕彰する前例をあげ、魚崎の雀の松原と山本復齋の関係について書かれています。雀の松原眺望十景を詠んだ歌というものがあるとも書かれており、このような風潮が復齋と交友関係にあった西宮神社の吉井良信や吉井良行などに移行したのではないかた書かれています。

ちょっと気になるのは吉井氏は昭和34年の時点では寛延二年、東向良達説をとっておられるのに、昭和49年には誰によっていつごろ称されたかはわからないとされている点です。

寛延二年説を裏付ける文献がでてくればよいのですが。そしてさらに気になることがあります。私が以前に拝見した資料と歌が違うのです。本来ですと、すべて謎がとけてからご報告をと思いましたが、このまま忙しさにかまけて、忘れてしまってもと思いますので、こちらに途中経過を報告しておくことにします。尚、別の歌の書いてある資料は所蔵者のご許可が得られましたら、どこかに発表させていただこうと思います。

※参考資料
「名所西宮案内者」(「西宮廣田参詣獨案内」)西宮市立図書館架蔵
「今津先賢遺文集」昭和16年
「西宮の文藝」昭和34年3月『吉井良尚選集』所収
「西宮随筆 西宮八景について」昭和49年5月に発行「西宮文化」19号


※以前ここに名次神社の鳥居があったという石碑のある場所から見た甲山です。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 1人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11074895c.html
描かれた西宮 | コメント( 8 )

ふくさん、こんばんは。
うちの母がどこかでもらってきたペーパーです。
どこかの講演会でもらってきたようですが、記憶がないようです。
ご参考まで。

検索したら、これだけひっかっかりました。
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu-02/ni/04.htm

西宮八景 塚田武洋作

麗容比なし 甲山の嶺(いただき)
六甲の夜景は 地と天を訛る(あやまる)
甲子の球魂は 億衆を揺るがし
戎神の五福に 萬人連なる
櫻花爛漫 満池谷
月色玲瓏たり 武庫の淵
翠の夙川 蓬莱峡の壑(がく?たに?)
西宮の八景は 悉く充全

[ もしもし ] 2014/07/16 20:54:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさん おはようございます。予想外のものがでてきて、びっくりしました。今朝の電車は楽しい検索タイムになりました。

教えていただいたページは日本財団関連のある詩吟の団体にいきつきました。詩の作者についてのデータはありませんが、七言律詩でしょうか。詩吟のために作ったのか、そうでないのか。詩吟といえばなんとなく幕末とか戦前をイメージします。具体的には「べんせいしゅくしゅく〜よるかわをわたる?」とか剣舞ぐらいしか思いつかないので、最近は殆ど耳にすることのない世界?のことで、なぜ西宮なのかもわかりません。

六甲の夜景、夙川が翠で満池谷が桜なので、時期は戦後?昭和四十年代前半頃までの作かもしれません。

お母様は西宮と詩吟のお話を聞かれたのでしょうか。

ネットで検索すると八景の数が、百とあるものと、四百というものがあります。必ずしも近世の流行ではないとありました。確かに八に関わらず三景や百景など、今もなお作られているようです。

[ ふく ] 2014/07/17 9:16:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん、詳しい情報ありがとうございます。
気になりつつなかなか手付かずでいたら、今年度の西宮神社の中旬祭での
「とおかし」のテーマが西宮八景と境内の句碑をテーマにしているということで
そちらには頑張ってお参りして和菓子を購入したりしているところです。
どれが何月に登場するか想像するのも面白いですが、今のところ
5月広田山夕照、6月武庫入江夜雨、7月神呪寺晩鐘でした。

[ にゃんこ ] 2014/07/17 10:10:22 [ 削除 ] [ 通報 ]

にゃんこさん 十日菓子の「武庫入江夜雨」は、「武庫暮雪」と「入江夜雨」が一本になってるのでしょうか。八景という認識はなんとなく知る人ぞ知るなのかもしれません。ただ以前に前の権宮司様に「西宮八景」についてうかがった時は、誰がいいはじめたかはわからないとおっしゃっていました。吉井良尚さんの時点で既にわからなくなっているということは、かつてあった資料が戦災でなくなっている可能性もあります。引き続き調べたいと思います。夕照と夜雨と夕鐘は季節を限定しにくいですが…、金澤八景のように浮世絵に描かれていれば面白かったでしょうね。

[ ふく ] 2014/07/17 12:04:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん、「武庫入江夜雨」は「今津夜雨」のことだと思いますが、「武庫山暮雪」と
地名がちょっと重なるので今津の方がいいと思うのですけれどね。
何を参考にしたものか、和菓子についている表記は「廣田夕照」の四文字表記でなく
「廣田山夕照」など5〜6文字になっているようです。

[ にゃんこ ] 2014/07/17 19:12:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

にゃんこさん なるほど、別の底本があるのかもしれません。お菓子については神社に聞いてみるのが早いかもしれません。入江では現在わかる人がいないから最もですが、武庫が六甲山であり郡名でもあるから混乱します。全部武庫ですから…。

[ ふく ] 2014/07/17 19:27:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん、こんばんは。
自治会の催しで詩吟と舞踊の公演があったようです。
その時かもしれないと母が言ってました。
http://ameblo.jp/konan-ouendan-ob/entry-11544467017.html
http://ameblo.jp/konan-ouendan-ob/entry-11531188548.html
甲南大学応援団のOBブログに話題がありました。
西宮吟詠剣舞連盟が関係しているのかもしれません。

[ もしもし ] 2014/07/17 19:50:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしもしさん ありがとうございます。 昔日の本山という方の最後に、西宮吟詠菌部連盟、「西宮八景」云々とありますね。きっと西宮吟詠菌部連盟の方の講演と舞踊だったのかもしれません。応援団と詩吟なんですね…。私からはどうも遠い世界のようです。

[ ふく ] 2014/07/19 10:36:40 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西宮鳥瞰図


Googleを立ち上げたら、

初三郎の鳥瞰図が…




初三郎の誕生日でした。


関西の人ですから関西の地図もたくさん書いておられます。

西宮も戦前と戦後の二回、初三郎に鳥瞰図を書いてもらっています。

こちらが戦前、昭和11年版(郷土資料館でデジタルデータが閲覧できます)



昭和27年のもの。北部地区合併後の西宮市です。



昭和の西宮
goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11008813c.html
描かれた西宮 | コメント( 4 )

今でこそ航空機などで上空からの風景を実写し、それを参考に描くことも可能ですが、そんな手法ではなく独自の仕様で鳥瞰図を描いたその才能は素晴らしいですね。

[ Numa ] 2014/03/04 12:22:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

先日ふくさんご紹介の姫路の兵庫県歴史博物館で昭和11年の西宮鳥瞰図の本物と昭和27年のレプリカの鳥瞰図が展示されており、驚きました。西宮郷土資料館蔵と表示されています。昭和11年の鳥瞰図は大作で色々面白く、しばらくそこでじっとしておりました。インターネットで郷土資料館の資料が見れるはずですが、探し方が下手なのかまだ見つけられません。昭和11年の鳥瞰図はレプリカを作って、郷土資料館に是非常設展示してもらいたい作品です。姫路の「旅に出ようー絵地図からはじまる物語」は近いうちに記事にいたします。

[ seitaro ] 2014/03/04 14:47:46 [ 削除 ] [ 通報 ]

Numaさん 長らく忘れられていたそうですが、今世紀になって再認識されるようになったようです。遙か彼方に見えるはじもないハワイが描いてあったりするそうで、以前からかなり好きです。

[ ふく ] 2014/03/04 20:41:51 [ 削除 ] [ 通報 ]

seitaroさん 行かずにおすすめしてつまらなかったらどうしようかと思ってました。西宮市の鳥瞰図、以前はホームページにのっていたのかもしれませんが、今はのっていないということはないでしょうか。商業美術ですから印刷物で拝見しても充分かな…
と、思ったりします。市役所のホールなど、ぼんやり時間をつぶさなければならないような場所にこれがあると、よさそうに思います。

[ ふく ] 2014/03/04 20:44:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西山翠嶂の描いた蓬莱峡

蓬莱峡は生瀬と船坂の間にあります。
長らく行ったことがありませんが、何度かでかけたことがあります。
確か松本清張の「内海の輪」の舞台になっています。

昭和19年に百部限定で朝日新聞大阪本社企画部が発行した「関西邦画展」の記念図録に「絶澗の夕」という作品が載っています。



何度かこの図録を見ていたのですが、これが蓬莱峡の絵だとはいままで気づきませんでした。

この展覧会は戦時中に企画された展覧会で、住友男爵が後援されており、朝日新聞社が主催して、二十名の関西邦画(日本画)壇の重鎮に制作を依頼しました。
京都画壇の画家が殆どですが、展覧会を開催した大阪市立美術館に寄贈されています。戦時中ということもあり、この展覧会に出品された絵画は戦争に関わる絵や、そうではない画題を選んだ作品も、研ぎ澄まされたような静寂感が伝わる絵が多いように思います。




美術館のサイトにこの絵の写真がでており、7月9日から展示されると書いてありましたので印刷物からの写真をご紹介することにしました。



こちらはwikiに紹介されていた写真です。


西山翠嶂(1879-1958)は竹内栖鳳に師事、京都市立美術工芸学校出身で、帝展で活躍し、京都市立絵画専門学校の教授となっています。後に帝室技芸員、戦後は文化勲章を受章しています。






goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p10894183c.html
描かれた西宮 | コメント( 4 )

掛け値なしの稀覯書ですね!
北野恒富の出品作は、やはり美人画だったのでしょうか?

松本清張はほとんど縁がなかったので、ぜひ読んでみます。
新潮文庫版『黒の様式』に収載されているようですね。
蓬莱峡といえば、月並みですが、わたしが反射的に思い出すのは黒澤監督の『隠し砦の三悪人』です。

[ 373 ] 2013/07/06 19:59:45 [ 削除 ] [ 通報 ]

373さん さっき100部と書くまでは稀覯書と気づかず見ておりました。
北野恒富は美人画です。夜桜で検索したら、下のサイトに画像がありました。この作品は秋に開催される大阪の至宝展に陳列予定だったように思います。
映画はあまり詳しくないのですが、黒沢作品があることは知っています。父が好きだったので松本清張は家にたくさんあり、「内海の輪」も学生時代に読んだと思います。テレビでも古い映像をみたことがあります。
http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-1466.html

[ ふく ] 2013/07/06 20:14:02 [ 削除 ] [ 通報 ]

蓬莱峡といえば、月並みですが、わたしが反射的に思い出すのは仮面ライダーです。

[ 笹舟倶楽部 ] 2013/07/06 20:49:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

笹舟倶楽部さん 仮面ライダーだとかキカイダーだとかは、全部蓬莱峡みたいなところでロケしてますね。つらつら見ているとマグマ大使の舞台になったみたいです。ウルトラシリーズでは、セブンだったか六甲山がでててくる番組があり、隣のアメリカ人の子どもが登場してました。

[ ふく ] 2013/07/06 22:26:25 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

西ノ宮図 西国名所之内

今年の四月のはじめ、着付名人さんがとられた中山寺から見た甲山のお写真を拝見し
て、江戸時代後期に同じようなアングルから甲山を書いた錦絵があるのを思い出しま
した。

http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061371/p10760142c.html


ところが、よい図版が手元になく、
絵の中に書かれた地名などの貼り札もよめなかったので、
そのまま、ご紹介できずじまいだったのです。
きょう漸く、西宮市立図書館にあったマイクロフィルムからおこした画像データを閲
覧して、絵の中に書かれた文字が確認できましたので、
小さな画像しかありませんがご紹介することにします。


「西国名所之内三 西ノ宮」とあります。

この絵は画面の右手から左にかけて対角線上に山を描いており、ちょうど真ん中あたりに松の茂る「甲山」が廃されています。

この絵の手前は 「中山寺本堂ヨリ 十八丁登ル美景」となっています。
一丁は一町で約108メートルだそうですので、本堂から一キロほど登ったところから書かれた絵かもしれません。いつか時間があれば本堂から1000メートル登ってみたいですが、すると海が見えるのかもしれません。

右端には「清荒神」さんが、そして流れる川は「武庫川」と川沿いに人が歩いているのは「丹波并有馬道」とあります。

画面の右手の高い山が「武庫山」、甲山の左手には「観音堂」が、そして甲山の右手、武庫山越には「芦屋」、「御影」、そしてはるかかなたに、「湊川」、「ヒヨドリゴエ」、「須磨」、海に突き出る「兵庫」、「和田岬」が見えます。

甲山の左手には西宮大神宮を中心に配す西宮の町。

はるか海を隔てて、「大川」(大坂)、「フケ浦」(泉州)、「加田浦」(和歌山)、『紀伊西ノ岬」(和歌山)、さらに「淡路東岬」が描かれます。

いまはおそらく甲山の部分をのぞくと、
ほぼ、住宅地になっているのだと思います。
そういえば、この絵の甲山は樹木で覆われています。

これを書いたのは五雲亭貞秀(1807-1879?)という浮世絵師です。

『横浜浮世絵と空とぶ絵師 五雲亭貞秀』展示図録 神奈川県立歴史博物館 1997年


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p10791256c.html
描かれた西宮 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

甲陽公園全景

目神山の名前の由来が「町名の由来」(インターネットテレビにしのみやが放映)という番組で語られているとのこと。以前のパソコンでは全然見られなかったのですが、最近新調したMac Miniさんではちゃんとうつりました。

目神山っていうのは、甲陽園地区全体の旧字名というのをしりびっくり。大社村大字中字目神山大正七年頃から開発され、甲陽土地株式会社の本庄京三郎が「甲山のひなた」から甲陽園と命名されたけれども公の住居表示は「字目神山」だったのでした。

字目神山が甲陽園東山町、甲陽園山王町、甲陽園西山町、甲陽園若江町、甲陽園本庄町、甲陽園日之出町、新甲陽町、甲陽園目神山町八つの町になったのは、戦後、昭和28年のとこだそうです。

そしてその一番北の部分にだけ旧字名である目神山がのこったというとこです。
つまり甲山の前の小高い部分全体が目神山という山だったわけなんです。知りませんでした。でも昭和40年代ははまだ甲陽園の住宅も少なく、山王町や目神山のあたりは岩山だったと思います。
新進気鋭の建築家による豪華な家が建ち始めたのはやはりバブルの頃でしょうか。関西でお金儲けに成功した方々には、大阪湾を見下ろす小高い丘に家をたてるという願望があるようですが、それをかなえてくれるのが、目神山、苦楽園、朝日丘、山手町、鴨子ヶ原...だったのではないでしょうか。

目神は、神の山甲山に対して小さい(め)神山だからとか
崩壊を意味する「メカ」に「み(接尾語」がついたからとか諸説あるようです。
ただ、岩盤はそんなに柔ではないようで、阪神大震災の時も、ガスや水道大丈夫だったそうです。

ところで、この番組見ていておもしろかったのは途中で一瞬うつる「甲陽公園全景」
甲山に例の二本の木が書かれていました。
さて、この図の出典はどこからなのでしょう。みつけられませんでした。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p10763854c.html
描かれた西宮 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

大物浜から見た甲山

阪急沿線文学散歩で、最近とりあげてくださった
艸園帖(その2)の二枚目の甲山がちょとt気になっています。

大物浜とあるのですが、海をはさんだ右手に石垣が見え、 浜辺に小山があります。

http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001713&post_idx_sel=10049715

ところが、尼崎から見た甲山にしては近いし....

この絵が描かれた昭和のはじめには
すでに大物の浜辺は埋め立てられていたはずです...

尼崎の地理を確認するために
鳥瞰図とグーグルアースのパノラマビューをアップしてみます。

当時の海岸線はいまの阪神高速道路神戸線あたりだと思いますが...

尼崎の歴史は西宮よりも広範囲であり、近世の開発も早かったので
西宮よりさらにわかりにくいと思います。
そこに地理不案内が加わり???状態ですが、
今後の謎解きパズルに尼崎もくわえてみようと思います。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p10763671c.html
描かれた西宮 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

大尼崎鳥瞰図

以前から気になっていたのですが、
家に額に入った「大尼崎鳥瞰図」の部分があります。
コピーか印刷だと思います。
それも全図ではなくて、東は左門殿川、西は尼崎中学までです。
ひょっとして本貫の地?の図だったりして...。

いままでほとんど気にかけずずっといましたが、
これって初三郎鳥瞰図によく似ています。

こういう風にカットするとはずれてしまてちますが
もう少し西には甲山も書かれています。

昭和8年(1933)牧生騏画「大尼崎鳥瞰図」(尼崎市立地域研究史料館所蔵)
というもので、尼崎市は書き込まれた文字が読めるぐらいの画像をネットで公開してくださっています。

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/others/photo/gravure02-01.html

もちろん西宮市のものも戦前と戦後に描かれたものがあります。
戦後版は市が発行しています。
こちらは本家、大正の広重といわれた吉田初三郎氏によるものです。
西宮市も公開はしていますが、画像が小さいのです。

文教都市西宮、工業都市尼崎というように思われてますが、
どうも尼崎の方が文化行政に熱心ではないかと思ったりする今日この頃です。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p10763360c.html
描かれた西宮 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  |  3  
このブログトップページへ
ふくイメージ
西宮を中心に古書や古い新聞に書かれた記事をもとに阪神間の昔をたどったり、出典になった本や古書の紹介をしたり、備忘録的ではありますが、ぼちぼちと更新いたします。もちろん犬の話し、海外ミステリー、書画骨董、食べもの、ワインの話しなども、たまには織り交ぜて書きたいと思います。
前年  2017年 皆勤賞獲得月 翌年
前の年へ 2017年 次の年へ 前の月へ 11月 次の月へ
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<

おすすめリンク