犬と歩く夙川

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西宮の花柳界

別のことを調べておりましたが、
偶然「花柳界 美人の評判記 神戸市内 西ノ宮 明石」
という明治42年の著作物を近代デジタルライブラリーでみつけました。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/768025

この時期に西宮にあった料亭、遊郭などが列記されていました。
ほかにも、神戸の芸妓の番付ですとか、
当時あったホテルや寄席の名前なども列挙されています。

検番はその土地の料理屋・芸者屋・待合(まちあい)の業者が集まってつくる三業組合の事務所俗称。とあります。










埋もれてしまっているのでしょうが、ほかにもいろんな資料があるのだと思います。


ここにでてくる香櫨園は今の香櫨園というよりも、現在の夙川付近でしょうか。




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明治・大正の西宮 | コメント( 2 )

貴重な資料ですね。

[ Numa ] 2014/01/25 14:57:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

明治の西宮はどんな町だったのでしょう。阪神間モダニズムなどで書かれている郊外住宅地ではなく、夙川には花柳界もあるほどの歓楽街があったのでしょうか。甲陽園にも結構料亭があったようですし。

[ seitaro ] 2014/01/25 19:32:01 [ 削除 ] [ 通報 ]

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大社村の寺院と墓地




今は全てが西宮市なので、

かつての大社村と西宮町の境界がわかりずらくなっています。(昭和8年に大社村は西宮市に併合)されています。



http://nishinomiya.areablog.jp/page.asp?idx=1000061501


seitaroさんのブログ、1904年、Richard Gordon Smithが満池谷にやってきた話し。

猟をして、墓地の六地蔵の前で写真を撮っているという記事です。


この話しの最初はニテコ池の石碑についてmixiのコミュニティーで話題になった時に遡ります。笹舟倶楽部さんがゴードンスミスについて書いたブログをみつけられ書き込まれ、たまたま本を持っていた私はそれをみてびっくりしました。


それまで、近くに住みながらニテコ池が自殺の名所だったとは全く知りませんでした。


その時の六地蔵、満池谷の墓地かとばかり思っていたのですが、

今回、それが満池谷の墓地ではなく越水の墓地にあるということを凛太郎さんがみつけられました。


越水の墓地、あんなところに墓地があったのかというところ、つまりよく通る場所のすぐそばにあるのですが、回りが建物で囲まれているので、なかなか気づかないのです。


満池谷、城山、桜谷、清水、南郷、名次のあたり、どこが旧大社村でどこが旧西宮町かというのは複雑です。西宮町が大社村に挟まれる形で北に細く長く伸びているからです。満池谷のニテコ池を挟むエリアのみが西宮町だったのです。でも現在はそのことを知っておられる方も少なく、西の越木岩・香櫨園(今の夙川)、東の広田・越水などとともに大社村だったと思われている方が多いようです。


小学校の校区に原因があるのかもしれません。旧西宮町の地区である南郷町、名次町が大社小学校校区に含まれています。


そのためでしょう。西宮のお地蔵様の調査でも、なぜか名次町や南郷町など旧西宮町の区域が大社村に入れられてしまっています。どのみち南郷町や名次町は新興住宅地で元は山林ですから小学校はよいとして、歴史的調査をする場合はやはり人的関係など考えると旧町村の区画に従った方が分類研究しやすいと思うのですが、あえてそうされた理由は推測できません。


満池谷の墓地は旧西宮町、越水の墓地はその少し南東と比較的近くにあります。けれども満池谷は西宮町、越水は大社村越水です。大社村には越水、広田、中、森具、越木岩、柏堂、鷲林寺、剣谷受託林の部落と新しく開発された(でよいのでしょうか)四園、即ち香櫨園、苦楽園、甲陽園、昭和園がありました。そのうち越水の墓地なのです。


旧大社村の墓地について大社村誌を見てみましょう。

351頁 第五節 墓地、火葬場は次のようにしてはじまっています。

「本村墓地は従南部落に菩提寺内の外一乃至三ヶ所を有す、菩提寺内は其檀家戸主を埋葬し、其の他は檀家の家族又は宗派別に依るものにして、小墓と称するは雇人、行倒等の階級に属するものを埋葬するを例とせり」とあります。


つまり大社村にあった寺院とは中の観音寺、越水の泉福寺、広田の豊乗寺、森具の阿弥陀のいずれも浄土宗の寺院、そして離れて真言宗の鷲林寺となります。旧部落の時代は上記のように各寺院内外に村人の墓があったわけですが、近代になり住宅地化していくと様相が変わります。墓を廃して鉄道を通したり、道を作ったり、施設を作りました。また墓が少なければ別途広げたり統合したようです。そのため大社村誌が編纂された昭和の初め頃には墓地は、越水、広田、森具、越木岩、柏堂、鷲林寺に一ヶ所づつ墓地ができていました。


ゴードンスミスの訪れた墓地はこのうちの越水墓地となるわけです。

越水には泉福寺がありますからもともとは寺院内に墓があったと思われます。しかしはおそらく寺院が境内を整理して宅地として売却したりして減っていき、外の墓が残ったのではないでしょうか。その墓の一部が越水墓地や満池谷墓地に移された可能性もあります。というのは例にあげると泉福寺の境内は大社村誌に書かれているほど広くなく、また墓石はそんなに多くありません。


ゴードンスミスがやってきたのは1904年、明治37年12月2日です。ちょうど109年前になります。墓地は緑の中のようにみえます。現在は甲山もみえませんし、樹木も殆どありません。でも墓地のなかの六地蔵はそのままです。


写真を録ってみました。満池谷の池から東に、坂を下るとバンバンさんの農園のあたりになります。



その手前、左折すると墓地があります。



この細い道の先です。どこかの家への始動かなと思い入ったことがありませんでした。



ところが道の先の左側におじぞうさんがおられます。昔は林の中だったようです。




お墓も古いものと新しい者が混在。



文政年間の墓石などがあります。満池谷などと違い石が寄せられていませんでした。

古い墓石もまだ墓として機能しているようです。このお墓のことを越水に住んでいる友人に聞いてみようと思ったらお留守でした。



ちょうどこのあたりから東に行ったところです。


小学校の低学年の頃、満池谷の池を突っ切ってまっすぐいくと、

突然、野原というのでしょうかブッシュでした。そこをかきわけて下に降りると、

道があり田圃がありました。おそらく今日のお墓の周辺は当時は完全には宅地化されていなかったのではないでしょうか。


先祖は今津村で越水屋という酒屋をおこし、祖母の兄が廃業するまで、酒蔵を経営していました。今津の酒屋なのに、菩提寺は越水の泉福寺です。詳しいことはわかりませんが、どうも大社村越水の出身のような気がしてきました。


満池谷墓地のように整備されていない墓地の墓石の調査は犬と一緒ではちょっと行きにくいです、かといって一人で墓巡りもなんとなくはばかられるような…。でもまたいってみたいと思います。



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明治・大正の西宮 | コメント( 4 )

読ませていただき、ようやく越水墓地の歴史がわかりました。まわりにお寺もなくどうしてこんなところにと思って、インターネットで調べたのですが、このような情報はありませんでした。

[ seitaro ] 2013/12/23 21:51:17 [ 削除 ] [ 通報 ]

さっそく足をお運びになられたとは、さすがですね。
西宮の墓地と寺院とのかかわりについてですが、村落内墓地と寺院内墓地との関係性が大社村誌が言うようなものだったのかどうかは、僕は疑問に思っているのです。おそらくは、歴史的には墓地のほうが古い場合が多いのと思われますし、階級性による区別は後世のものではなかろうかと。ただ、江戸時代中期以降は有力檀家が寺院内墓地へまつられたこともあったかもしれませんが。また西宮ではよく田岡香逸氏が「埋め墓」という言葉をつかわれますので、両墓制を念頭におかれている場合も多いと思います。寺院墓地と村落墓地をそれに比定する見方もあるようですが、それも証明はなかなか難しいのではないかと思います。
基本は、村落にひとつづつ墓場はあるようです。貝之介墓地のように複数の村落墓地となっているところもありますが、結構細分化しているように思えます。
ただ、泉福寺と越水墓地との関係性については、ふくさんのおっしゃるようなことであるのかもしれません。勉強になりました。
旧村の墓地については、いちどまとめてみようと思っています。その後、深化させられればなと。
村の境界、旧西宮町と大社村の境はとくにややこしいですね。明治22年体制ですが(笑)、西宮は鷲林寺や柏堂は手放したのに南郷山は手放さなかったわけで、これは水利の関係なんでしょうか。

[ 凛太郎 ] 2013/12/24 6:41:32 [ 削除 ] [ 通報 ]

seitaroさん 越水墓地については推測を含めて大社村誌を紹介したにすぎませんので、本当のところは不明です。市史が聞き取りも含めて細かい史料を収集しているのではないかと思いますが、公開されたり公刊はされていないのでよくわかりません。ひょっとすると旧西宮町以外の場所についてはそれほど、厳密な調査はされていないのかもしれません。

[ ふく ] 2013/12/24 20:49:16 [ 削除 ] [ 通報 ]

凛太郎さん ここは近いのでわりと簡単にいくことができます。村落墓地と寺院内墓地は地域によってかなり違うのではないでしょうか。徳川幕府成立以降、宗旨人別改めともおおいに関わりがあるのではと推測します。私の実家は近世初頭から戦災までずっと尼崎市南部に定住しておりました。その村の墓地は現在は残念さんのお墓で有名になっています。菩提寺は居住していた部落にあり、墓とは少し距離のある場所に墓地があります。その墓地は奇跡的に残っていますが、多くの墓地は西宮が満池谷に多くの墓地を移したのと同様、園田に移されています。都市化とともに近世後期にそういう姿になったのではないかと思っていますが…よくわかりません。
また宗旨も墓地と関係あるのではないかと思います。京都で日蓮宗の墓地を調べた時にそう思いました。大社村はすべては浄土宗というのにもびっくりしました。大社村の古くからの旧家の方のお話しってあまり聞いたことがありませんが、ちょっと調べてみたくなりました。

[ ふく ] 2013/12/24 21:04:30 [ 削除 ] [ 通報 ]

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