犬と歩く夙川

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nishinomiya.areablog.jp/fukuchan

作られた神武天皇のイメージ

神武天皇の銅像は日本にいくつかあるようです。
追跡しておられるブログも有ります。
また東京芸術大学には美校時代に教鞭をとっていた竹内久一の彫った木像もあります。


全部ではありませんが、いずれも勇ましいイメージを現しています。


明治政府は神武天皇の政治にならおうとしたので、神武天皇の銅像を造ろうとしたのですが、あまりにも古い天皇ゆえに、そのイメージのモデルになるものがなく、明治天皇をモデルにしたものが多かったといわれています。


江戸期の神武天皇像から乖離し、明治の神武天皇造が突然凜々しくなったのはこうしたことが原因だと言われます。

二十年ほど前、明治期の美術工芸について調べていた時に、そんなことが書かれた論文を読んで、当然といえば当然のことですが、江戸期の神武天皇像を見て、ちょっとびっくりしたことを思い出しました。(この著者の同一テーマによる論文のpdfがネット上で読めます。京大の人文研の所長になっておられるようです)読み返すと橿原神宮が祀られた経緯なども書かれていました。江戸期までの雑雑とした神仏習合の神社空間とは異なる、神聖な雰囲気を醸し出す、神宮、伊勢神宮しかり、平安神宮しかり、神宮の整備はやはり明治以降整備され、その整備の集大成は紀元2600年だったことがうかがわれます。
時代によって、表現されるイメージはいろいろ変わります。またこんなことを書くことができるのは現代だからで、戦前ですと不敬罪で捕まるかもしれません。







goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11709575c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

建国記念日は神武天皇即位の日

2月11日は国民の祝日、建国記念日です。

国民の祝日は昭和二十三年に制定された法律によって定められた祝日で、休日とされています。

かつては国旗を家の前に掲げることが一般的だったので、旗日という人もいます。


法律の制定された昭和23年当初は、元日(1/1)、成人の日(1/15)、春分の日(

3月の春分)、天皇誕生日(4/29)、憲法記念日(5/3)、子どもの日(5/5)、秋分の日(9月の秋分)、文化の日(11/3)、勤労感謝の日(11/23)の九日でした。戦前は十一日あったのですが、二日減っていました。ところが昭和41年に敬老の日(9/9)、体育の日(10/10)、42年に建国記念日(2/11)が加わりました。


戦前は「年中祭日の休暇日を定むという太政官布告」という明治六年に定められた法律により、

元始祭(1/3)、新年宴会(元日の節会に由来)(1/5)、孝明天皇祭(1/30、紀元節(2/11)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9/17→10/17)、天長節(11/3)、新嘗祭(11/23)、でありましたが、明治11年に春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)が追加されました。明治12年には稲が実っていないということで神嘗祭は9月17日から一ヶ月遅れとなりました。


そしてこの太政官布告は大正元年9月4日に、休日に関する件が公布され、移行します。

元始祭(1/3)、新年宴会(1/5)、先帝祭(先帝崩御日)=孝明天皇祭(1/30)→変更、紀元節(2/11)、先帝祭=明治天皇(7/30)、神嘗祭(10/17)、天長節(11/3)、新嘗祭(11/23)、春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)となりました。


祭日や祝日の意味は、別に皇室祭祀令によって定められた宮中祭祀の主たる日に国民もお休みしてお祝いするという意味で定められたものです。これは明治維新以降にとられた、一種の国教制度といわれています。国家神道に関する記述は難しいので一例を辞書から引用します。例えば、平凡社の世界大百科事典第二版には「近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度。国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神祇官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。1868年(明治1)3月には神仏分離に関する一連の法令がだされ,それ以後全国的に神仏分離廃仏毀釈が行われた。」と書かれています。


さて、建国記念日ができた頃、小学校の高学年でしたが、当時は神話といえば、伊弉諾伊弉冉が建国した話とか、天照大神が天岩戸に隠れた話とか、素戔嗚尊八岐大蛇退治とか、因幡の白ウサギとか、天皇が登場する以前の神代のことしか頭になかったので、神武天皇の即位の日をもって日本建国ってなんだろうと、不思議に思いつつ、まあお休みが増えるのでうれしい程度にしか思っていませんでした。



現在の学校教育でも神話の世界は歴史の時間では習いません。イデオロギー的側面も強いので、神話について、何を読んで学ぶかは、書いた人によってずいぶん違います。けれども最近は民俗学的アプローチからの神話解釈や、神話と考古学的は発掘などを組み合わせた研究などがすすみ、神話はまんざら夢物語ではなく、その奥に秘められた事実があることが、徐々に明かされてきました。


つまり、下手はミステリーを読むより、面白い世界がそこに広がっています。



※神武天皇というと、勇ましい姿がイメージされますが、明治維新以前にはそうでもなかったのだということがわかる挿図です。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11709209c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

本朝神社考にみられる寛永期の広田社

林羅山によって書かれた神社研究書。古事記、日本書紀、延喜式、神皇正統記などにより、諸国の神社の源流を考証した。後の国学者に影響を与えた書。寛永年間の終わり頃、17世紀の中頃に著された。

広田神社は平安時代中期以降に朝廷より特別の崇敬を受けた二十二の神社の一つとして記される。以下引用する。中世以降に行われた神話の解釈が示され、また甲山神呪寺の如意尼伝説と神話の解釈との関係が興味深い。復刻版の当該の部分を引用する。



広田 十八 (摂津 俗に西宮と号す)


[註] 標語県西宮市広田に鎮座。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を祀り官幣大社に列す。

延喜の制名神大社に班し新年、月次、相嘗、新嘗の官幣に預り、新階は従一位に陞る。


日本紀、神功皇后、新羅を征し玉ふの明年忍熊王、兵を起こして、住吉に屯す、皇后之を聞いて、

務古の水門に還って之を卜ふ、是に於て天照大神是に誨て曰く、我は是荒魂なり、皇后に近く可からず、当に御心の広田の国に居むべし、即ち山背根子が女葉山媛を以て之を祭らしむ。

風土記、人皇十四代、仲哀天皇、将に三韓を攻めんとす。筑紫に到って崩ず、今の気比大明神は此の帝なり。その后神功は開化天皇五世の孫、息長宿袮の女なり。是に於て、軍を発して三韓を伐つ、時に産月に当れり、石を取って其の腰裳に挟んで、産まざらん事を欲す。遂に新羅、高麗、百済に入る。皆悉く臣服す、還って筑紫に到って皇子を産む、是れ誉田天皇なり。皇后摂津の国海浜の北岸、広田の郷に到る、今、広田明神と号るこれなり。故に其の海辺を号して御前の浜と曰ふ、御前の澳と曰ふ、また其の兵器を埋む處を号して武庫と曰ふ、其の誉田天皇は今の八幡大神なり。


如意尼は天長帝の妃なり。如意輪供を修す。夜空中に音あって、曰く、摂州に宝山あり如意輪摩尼峰と号す。昔、神功皇后、新羅を征して還って如意珠及び金甲冑、弓箭宝剣衣服等を埋む、故に亦武庫と曰ふ。目を開いて之を見るに、天女、白龍に乗って白雲を擁して西南に向って飛び去る。天女は大弁財天如なり。白龍石と変する像、今猶此地に在り、又、是れ、役小角の旧跡なり。天長五年二月、如意尼、宮女二人と摂州南宮の浦に着て船より下って南宮の神祠に詣ず、神、殿戸を啓て妃と晤語す。而して二女は見ることを得て予余は知らず、此日又広田の神祠に詣ず、神又戸を開いて宛も南宮のごとし、次の日山に入る。山の西北に池あり、池中に五色の光を出す、池の辺皆白石にして玉に似たり、摩尼山前に小峰あり、大蛾に逢ひぬ、此に於て進んで摩尼峰に登る。紫雲來復、一美女あり、来って曰く、此の山を究酒匂竟摩尼霊場と曰ふ。四神相応の勝区なり。我れ珍宝を此地に蔵む、毎日禺中、我れ此の地に降る、宜しく道場を立つべし、言巳って山を下るが如くにして見えず、是れ広田の神の化現なり。妃大に喜んで梵宇を営構す。






goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11707264c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

越木岩神社が大国主西神社

大国主西神社は延喜式神名帳に「摂津菟原郡」にあると記される古い神社です。

あ西宮神社の境内に同名の神社があり、もともと西宮神社の地には大国主西神社があり、その後恵比寿信仰が盛んになり現在の西宮神社ができたとする説があります。一方磐座をまつる古い形式の越木岩神社が、大国主をまつる神社に共通するとして、近年越木岩神社こそが大国主西神社ではなかったかといわれてもいます。

最近島根県のお仕事をするようになり、出雲と鉄と大国主の関係を知るようになりました。そしてたまたま村井康彦先生の「出雲と大和」を読んでいると、そこには見m和山の磐座と大国主の関係が記されていました。大国主をまつるところには巨石が多く、また鉄に関わる古代の遺跡が多いといわれているようです。

そんなことで、六甲山の巨石に思いをはせつつ検索していると、越木岩神社が大国主西神社であるという論を展開されている先生の講座がpodcastにあったのです。

磐座の話というのは、信仰に傾倒しすぎた眉唾なものも多いので、慎重に聞かなくてはなりませんが、保立道久先生は、東大史料編纂所におられた研究者ですので、安心して聞くことができました。その全文は先生の頁でも読むことができます。先生の説は地震と大国主の関係から展開されています。

『日本書紀』によれば、推古天皇の時代、五九九年大地震にみまわれ、この時に地震の神、都である飛鳥から見て東西南北に地震の神である大国主をまつったというのです。そして大国主西にあたるものが延喜式の記された平安時代までは鵜原郡に存在していたわけです。

その後、その神社がどうなったのでしょう。大国主と地震の関係は忘れ去られたのでしょうか。先生の少し前の別の講座が同じく兵庫県の高齢者大学で行われていたのですが、そこでは八六八年に山崎断層で発生した地震についてお話になっており、六甲山が揺れ、それを鎮めるためにの祈祷の文書が広田と生田社に残っているとあります。

その後大きな地震がなかったからでしょうか。四方をまもった大国主神社と地震を現す痕跡はどうなったのでしょう。

先生の論文がまだ発表されていませんが、越木岩神社の磐座や境内についてはしっかりと調査される必要があるかもしれません。心強い先生がついてくださってよかったと思います。






goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11706985c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

梁塵秘抄 南宮

一、梁塵秘抄には南宮御前に朝日さし、兄の御前に夕日さし、松原如来の御前には云々

治承4年(1180)を記した、中山忠親の山槐記に「未の刻野田に着す西宮松原如来東北五六町にあり前ノ大相国御座なり雑事を申し承る」とあります。橘忠兼著伊呂波字類抄(1144〜1180)に松原大日と称えられ神社があったことを記してあります。更に後白河院の梁塵秘抄には「南宮のお前に朝日さし児のお前に夕日さし松原如来のお前には官位昇進の重波ぞたつ」と詠まれています。 



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11694055c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

南宮歌合 大治3年(1128)

一、大治南宮歌合で群書類従に収めて有る ※1

※1 401群書類従 和歌部183 南宮歌合、
     400群書類従 和歌部183 西宮歌合、
           411群書類従 和歌部187    広田社歌合、
           409群書類従 和歌部186 住吉社歌合

源顕仲(1058-1138)は大治三年(1128)八月その一門を集めて、現兵庫県西宮市広田神社の社頭で歌合を催し、これを西宮歌合と称している。また翌九月には広田社の境外摂社である南宮の門妙社でも歌合を催し、南宮歌合とする。和歌では「としまが崎」「藤江の浦」を詠み、それぞれ金葉集684、新古今集1554に入集する。


南宮歌合  大治3年9月21日*1128年10月16日
1 ありしよに かはらぬあきの つきかけは むかしのともに あふここちする
2 つきよみの かみもむかしを わすれすは あまねきかけに われをもらすな
3 ひさかたの そらゆくつきに さそはれて うきみおしはし こころをそやる
4 あきのよの つきみるほとも なくさまて いととゆかしき くものうへかな
5 いつるひの ひかりはるかに たけゆけはてるとそみゆる みねのみちは
6 きりのまに みねのもみちは たつぬとて ひもたけにけり たかまとのやま
7 あききりの あさなゆふなに 立田山ひるそもみちの いろはみえける
8 くれなゐに そむるしくれのひるまにも ぬれいろにのみ みゆるもみちは
9 よもすから しけみにしのむ さをしかも あけつけとりと いまそなくなる
10   あきふかみ しもまつみねの かねのおとに こゑうちそへて をしかなくなり
11  ころもての やまのすそのに たつしかの うらさひしきは あかつきのこゑ
12 なにことを おもふなるらむ すすむしの ゆふくれなゐに ふりいててなく
13 ゆふされは よもきかねやの きりきりす まくらのしたに こゑそきこゆる

14 ゆふされは−あさちかうへの−つゆさむみ−たれまつむしの−したになくらむ

15 ひくまのの−ゆふつけおける−くらくらに−こゑたててなく−くつわむしかな

16 あきはきに−おくしらつゆの−たまゆらも−こひしきひとは−わすれやはする

17 はきのえに−まかひしそての−しらつゆは−あひみぬほとに−いろつきにけり

18 こふれとも−あはつのはらに−さくはきの−はなとちりなむ−なこそをしけれ

19 まくすはふ−をののいとはき−くりかへし−うらめしなから−なほそこひしき

20 あたなりと−いはれののへの−をみなへし−なとわれにしも−なひかさるらむ

21 みをつめは−あはれとそみる−をみなへし−ひともこすのの−つゆにしをるる

22 をみなへし−なひかすかせに−みをなして−ひとをこころに−まかせてしかな

23 われのみと−おもふゆふへに−をみなへし−たれをこふとて−つゆけかるらむ

24 あふことは−さこそかたのに−たてりとも−しのひてなひけ−しののをすすき

25 わかみから−うきふししけき−しのすすき−しのふとたにも−しらすやあるらむ

26 はなすすき−まねくをよそに−みしものを−われもほにいてて−ひとそこひしき

27 しのはらや−をささましりの−むらすすき−よをならへても−つらききみかな

28 まつひとを−をきのはとたに−おもひせは−かせのつてにも−おとはしてまし

29 うきことを−かせのつてにも−ききつれは−をきのうははの−つゆそこほるる

30 わかこひの−をきふくかせの−やとならは−しられてかくは−なけかさらまし

31 よひよひに−わけこしひとは−おともせて−そよときこゆる−をきのうはかせ

32 いたつらに−やとににほへる−ふちはかま−こひしきひとの−きてもみよかし

33 うらやまし−みやけかはらの−ふちはかま−たれにむつれて−ひもときつらむ

34 わかもこか−すそのににほふ−ふちはかま−おもひそめてし−こころたかふな

35 きてなれし−ひとはみねとも−ふちはかま−おのかこころと−ほころひにけり

36 おいせぬは−みきはのきくの−しるしとも−なかれをくめる−ひとそしりける

37 きみかよを−なかつきにしも−さきそめて−ひさしくにほふ−しらきくのはな




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11694049c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

南宮神社と剣珠とのこと@

昭和三年刊、吉井良秀著『老の思出』「南宮神社と剣珠との事」より抜粋です。

南宮神社と剣珠の事を述べようと思う。剣珠は今は世間から忘れられて唯一人問う人も無いのは何と云う事であろう。由緒が怪しいと見てか、珠その物の価値が無いと見てか、但しは世の変遷で貴重視せない訳か、實に嘆かわしい事である、来歴の如きは立派な証跡が有って、真に軽視すべきで無い、古社寺保存の当局諸氏の研究を乞いたいので有る。剣珠は南宮神社に深き関係の有る物と、夙く予は発見して居る。先ず南宮神社より云おう。創建年月は未詳で有って、今御祭神は豊玉姫神、大山咋神(二座中央)厳島姫神(東殿)齋殿(時殿とも有る西殿)の四座と成って有る。而して流布の書に始めて見えて有るのは
一、大治南宮歌合で群書類従に収めて有る ※1
一、梁塵秘抄には南宮御前に朝日さし、兄の御前に夕日さし、松原如来の御前には云々
一、神祇伯業資王記建歴暦三年八月四日の條に、廣田南宮修理昨日造終云々
一、神祇官年中行事貞応三年十一月十一日の條に、先ず廣田神社に参し云々南宮、戎三部郎殿、内王子等に参すと見え
一、伯家部類神祇官西宮神拝抜書と載せた條に嘉暦三戊辰十一月廿二日南宮殿正遷宮也とし
一、忠富王記は廣田神社御田植に南宮神馬を用いるよし見え
一、神主吉井氏系譜には「少しく年代が上がって」、初代信良安和二年廣田、西宮、南宮三社の兼帯の射無職を受くとある。
一元亨釈書には淳和帝の妃、如意尼が天長五年二月十九日摂津南宮浦に着き、南宮神祠に詣でられたよしが載せてある。
(つづく)


筆者註
※1南宮歌合  大治3年9月21日*1128年10月16日



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11694045c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 0 )
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

えべっさんの夏祭り


お店が出ているので、お祭りかなと思ったら、昨晩だったんですね。








goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11635952c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 2 )

ふくさん、こんばんは。
ネットの情報は去年のですね。
今夜(昨晩)がお祭りでした。

[ もしもし ] 2017/07/21 2:42:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったんですね。スマートフォンだと小さくて見えないから一年間違いましたか。ありがとつございます。

[ ふく ] 2017/07/21 8:12:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

信行寺にあった琴棋書画図

円融山信行寺には戦前、西宮の狩野派絵師、勝部如春齋が描いた襖絵がありました。その襖絵は戦災で本堂とともに焼けてしまったのですが、戦前市内の西念寺で行われた展覧会にあわせて出版された『勝部如春齋傅』という本にモノクロ写真が残っています。



大正松年に発行された『西宮町誌』には円融山信行寺の宝物として、「本堂金襖 四枚(当人物)宝暦辛己春正月 容齋勝兼寿筆」と記されています。


信行寺は、明徳二年に四夷新左衛門によって開基されました。四夷新左衛門について町誌には次のように記しています。(祖先は蛭児神に供奉してこれを現今の神社境内毘石と言ふ岩上に安置し主語せし西戎の子孫なりと伝ふ」とあります。


つまり開山の四夷新左衛門は戎神社の神官であったようです。毘石、西戎が何をさすのかははっきりわかりませんが、中世西宮にエビス信仰が広がってきたころからの言い伝え、鳴尾の漁師が芦舟に乗せた蛭児を船で送りだそうとしたが、蛭児の願いで西宮にとどまったという日本書紀を元に広がったエビス伝説と関わるものの一つかもしれません。


明徳二年(1391)に建てられた後、真宗光正寺、真光寺ともいったと、町誌に書かれていますが、天和二年、第十六世の時次号を眞行寺とし、本派本願寺末に転派したとあります。この真宗興正寺ということはは現在は京都の興正寺が用いていますが、それと関係がないようにも思われます。


とにかく、信行寺は本派本願寺派となった後宝暦九年に本堂を修復しています。その棟札の既述が町誌にのっていたので引用します。


天下和順日月清明風雨以時災歯s起

奉修復本堂一寓 当山二十一世寺務 教乗

国豊民安兵戈無用祟徳興仁務修禮講 工匠 山下勝治郎


前後にはさんでいる二行「天下和順、日月清明、風雨以時、災不起。國豐民安。兵戈無用。崇興仁、務修禮讓。」は無量寿経の中の文言のようです。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災起こらず。国豊かに民安し。兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。という仏の言葉です。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11633011c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 2 )

『勝部如春齋傅』、先日話していた古書目録のものをお届けしました。老僧、戦災で焼失して数十年探していたと喜ばれました。

[ akaru ] 2017/07/14 14:54:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですか。まるで手元にあるようにお話ししておられましたので、まさかないとは思いませんでした。

[ ふく ] 2017/07/14 22:40:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

神呪寺の如意輪さん

甲山にある神呪寺のご本尊は如意輪観音さんです。
弘法大師、空海(774-835)の御作であるという伝説の真偽はともかくとして、
日本の三如意輪観音の一つに数えられている仏像です。

大阪平野の北西にある、甲山は、その異形な形からでしょうか、
弘法大師の時代、神呪寺のある甲山は霊山として信仰の場となっていました。
西宮、六甲山(武庫山)も含めて武庫の地は古代から神功皇后の伝説が伝わる霊験あらたかな地でもありました。そんなこととこの如意輪観音が祀られたことに何か関係があるのかもしれません。神呪寺の開山は如意の尼といわれる貴人と伝えられてもいます。

この如意輪観音さま、いつでも拝観できるわけではなく、
一年に一度五月の十八日、つまり今日のみご尊顔を拝することができます。
お時間のあられるかたはぜひ行ってみてくださいね。



http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11322179c.html


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061521/p11603582c.html
西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 2 )

今日なんですね!情報ありがとうございます。

[ ちゃめ ] 2017/05/18 8:46:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

書こう書こうとおもっていて忘れていました。間に合ってよかったです。

[ ふく ] 2017/05/19 12:36:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

  1  |  2  |  3    次へ
  
このブログトップページへ
ふくイメージ
西宮を中心に古書や古い新聞に書かれた記事をもとに阪神間の昔をたどったり、出典になった本や古書の紹介をしたり、備忘録的ではありますが、ぼちぼちと更新いたします。もちろん犬の話し、海外ミステリー、書画骨董、食べもの、ワインの話しなども、たまには織り交ぜて書きたいと思います。
前年  2018年 皆勤賞獲得月 翌年
前の年へ 2018年 次の年へ 前の月へ 10月 次の月へ
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

カテゴリー一覧

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<

おすすめリンク