犬と歩く夙川

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梁塵秘抄 南宮

一、梁塵秘抄には南宮御前に朝日さし、兄の御前に夕日さし、松原如来の御前には云々

治承4年(1180)を記した、中山忠親の山槐記に「未の刻野田に着す西宮松原如来東北五六町にあり前ノ大相国御座なり雑事を申し承る」とあります。橘忠兼著伊呂波字類抄(1144〜1180)に松原大日と称えられ神社があったことを記してあります。更に後白河院の梁塵秘抄には「南宮のお前に朝日さし児のお前に夕日さし松原如来のお前には官位昇進の重波ぞたつ」と詠まれています。 




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南宮歌合 大治3年(1128)

一、大治南宮歌合で群書類従に収めて有る ※1

※1 401群書類従 和歌部183 南宮歌合、
     400群書類従 和歌部183 西宮歌合、
           411群書類従 和歌部187    広田社歌合、
           409群書類従 和歌部186 住吉社歌合

源顕仲(1058-1138)は大治三年(1128)八月その一門を集めて、現兵庫県西宮市広田神社の社頭で歌合を催し、これを西宮歌合と称している。また翌九月には広田社の境外摂社である南宮の門妙社でも歌合を催し、南宮歌合とする。和歌では「としまが崎」「藤江の浦」を詠み、それぞれ金葉集684、新古今集1554に入集する。


南宮歌合  大治3年9月21日*1128年10月16日
1 ありしよに かはらぬあきの つきかけは むかしのともに あふここちする
2 つきよみの かみもむかしを わすれすは あまねきかけに われをもらすな
3 ひさかたの そらゆくつきに さそはれて うきみおしはし こころをそやる
4 あきのよの つきみるほとも なくさまて いととゆかしき くものうへかな
5 いつるひの ひかりはるかに たけゆけはてるとそみゆる みねのみちは
6 きりのまに みねのもみちは たつぬとて ひもたけにけり たかまとのやま
7 あききりの あさなゆふなに 立田山ひるそもみちの いろはみえける
8 くれなゐに そむるしくれのひるまにも ぬれいろにのみ みゆるもみちは
9 よもすから しけみにしのむ さをしかも あけつけとりと いまそなくなる
10   あきふかみ しもまつみねの かねのおとに こゑうちそへて をしかなくなり
11  ころもての やまのすそのに たつしかの うらさひしきは あかつきのこゑ
12 なにことを おもふなるらむ すすむしの ゆふくれなゐに ふりいててなく
13 ゆふされは よもきかねやの きりきりす まくらのしたに こゑそきこゆる

14 ゆふされは−あさちかうへの−つゆさむみ−たれまつむしの−したになくらむ

15 ひくまのの−ゆふつけおける−くらくらに−こゑたててなく−くつわむしかな

16 あきはきに−おくしらつゆの−たまゆらも−こひしきひとは−わすれやはする

17 はきのえに−まかひしそての−しらつゆは−あひみぬほとに−いろつきにけり

18 こふれとも−あはつのはらに−さくはきの−はなとちりなむ−なこそをしけれ

19 まくすはふ−をののいとはき−くりかへし−うらめしなから−なほそこひしき

20 あたなりと−いはれののへの−をみなへし−なとわれにしも−なひかさるらむ

21 みをつめは−あはれとそみる−をみなへし−ひともこすのの−つゆにしをるる

22 をみなへし−なひかすかせに−みをなして−ひとをこころに−まかせてしかな

23 われのみと−おもふゆふへに−をみなへし−たれをこふとて−つゆけかるらむ

24 あふことは−さこそかたのに−たてりとも−しのひてなひけ−しののをすすき

25 わかみから−うきふししけき−しのすすき−しのふとたにも−しらすやあるらむ

26 はなすすき−まねくをよそに−みしものを−われもほにいてて−ひとそこひしき

27 しのはらや−をささましりの−むらすすき−よをならへても−つらききみかな

28 まつひとを−をきのはとたに−おもひせは−かせのつてにも−おとはしてまし

29 うきことを−かせのつてにも−ききつれは−をきのうははの−つゆそこほるる

30 わかこひの−をきふくかせの−やとならは−しられてかくは−なけかさらまし

31 よひよひに−わけこしひとは−おともせて−そよときこゆる−をきのうはかせ

32 いたつらに−やとににほへる−ふちはかま−こひしきひとの−きてもみよかし

33 うらやまし−みやけかはらの−ふちはかま−たれにむつれて−ひもときつらむ

34 わかもこか−すそのににほふ−ふちはかま−おもひそめてし−こころたかふな

35 きてなれし−ひとはみねとも−ふちはかま−おのかこころと−ほころひにけり

36 おいせぬは−みきはのきくの−しるしとも−なかれをくめる−ひとそしりける

37 きみかよを−なかつきにしも−さきそめて−ひさしくにほふ−しらきくのはな




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南宮神社と剣珠とのこと@

昭和三年刊、吉井良秀著『老の思出』「南宮神社と剣珠との事」より抜粋です。

南宮神社と剣珠の事を述べようと思う。剣珠は今は世間から忘れられて唯一人問う人も無いのは何と云う事であろう。由緒が怪しいと見てか、珠その物の価値が無いと見てか、但しは世の変遷で貴重視せない訳か、實に嘆かわしい事である、来歴の如きは立派な証跡が有って、真に軽視すべきで無い、古社寺保存の当局諸氏の研究を乞いたいので有る。剣珠は南宮神社に深き関係の有る物と、夙く予は発見して居る。先ず南宮神社より云おう。創建年月は未詳で有って、今御祭神は豊玉姫神、大山咋神(二座中央)厳島姫神(東殿)齋殿(時殿とも有る西殿)の四座と成って有る。而して流布の書に始めて見えて有るのは
一、大治南宮歌合で群書類従に収めて有る ※1
一、梁塵秘抄には南宮御前に朝日さし、兄の御前に夕日さし、松原如来の御前には云々
一、神祇伯業資王記建歴暦三年八月四日の條に、廣田南宮修理昨日造終云々
一、神祇官年中行事貞応三年十一月十一日の條に、先ず廣田神社に参し云々南宮、戎三部郎殿、内王子等に参すと見え
一、伯家部類神祇官西宮神拝抜書と載せた條に嘉暦三戊辰十一月廿二日南宮殿正遷宮也とし
一、忠富王記は廣田神社御田植に南宮神馬を用いるよし見え
一、神主吉井氏系譜には「少しく年代が上がって」、初代信良安和二年廣田、西宮、南宮三社の兼帯の射無職を受くとある。
一元亨釈書には淳和帝の妃、如意尼が天長五年二月十九日摂津南宮浦に着き、南宮神祠に詣でられたよしが載せてある。
(つづく)


筆者註
※1南宮歌合  大治3年9月21日*1128年10月16日



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えべっさんの夏祭り


お店が出ているので、お祭りかなと思ったら、昨晩だったんですね。








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ふくさん、こんばんは。
ネットの情報は去年のですね。
今夜(昨晩)がお祭りでした。

[ もしもし ] 2017/07/21 2:42:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったんですね。スマートフォンだと小さくて見えないから一年間違いましたか。ありがとつございます。

[ ふく ] 2017/07/21 8:12:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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信行寺にあった琴棋書画図

円融山信行寺には戦前、西宮の狩野派絵師、勝部如春齋が描いた襖絵がありました。その襖絵は戦災で本堂とともに焼けてしまったのですが、戦前市内の西念寺で行われた展覧会にあわせて出版された『勝部如春齋傅』という本にモノクロ写真が残っています。



大正松年に発行された『西宮町誌』には円融山信行寺の宝物として、「本堂金襖 四枚(当人物)宝暦辛己春正月 容齋勝兼寿筆」と記されています。


信行寺は、明徳二年に四夷新左衛門によって開基されました。四夷新左衛門について町誌には次のように記しています。(祖先は蛭児神に供奉してこれを現今の神社境内毘石と言ふ岩上に安置し主語せし西戎の子孫なりと伝ふ」とあります。


つまり開山の四夷新左衛門は戎神社の神官であったようです。毘石、西戎が何をさすのかははっきりわかりませんが、中世西宮にエビス信仰が広がってきたころからの言い伝え、鳴尾の漁師が芦舟に乗せた蛭児を船で送りだそうとしたが、蛭児の願いで西宮にとどまったという日本書紀を元に広がったエビス伝説と関わるものの一つかもしれません。


明徳二年(1391)に建てられた後、真宗光正寺、真光寺ともいったと、町誌に書かれていますが、天和二年、第十六世の時次号を眞行寺とし、本派本願寺末に転派したとあります。この真宗興正寺ということはは現在は京都の興正寺が用いていますが、それと関係がないようにも思われます。


とにかく、信行寺は本派本願寺派となった後宝暦九年に本堂を修復しています。その棟札の既述が町誌にのっていたので引用します。


天下和順日月清明風雨以時災歯s起

奉修復本堂一寓 当山二十一世寺務 教乗

国豊民安兵戈無用祟徳興仁務修禮講 工匠 山下勝治郎


前後にはさんでいる二行「天下和順、日月清明、風雨以時、災不起。國豐民安。兵戈無用。崇興仁、務修禮讓。」は無量寿経の中の文言のようです。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災起こらず。国豊かに民安し。兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。という仏の言葉です。




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『勝部如春齋傅』、先日話していた古書目録のものをお届けしました。老僧、戦災で焼失して数十年探していたと喜ばれました。

[ akaru ] 2017/07/14 14:54:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですか。まるで手元にあるようにお話ししておられましたので、まさかないとは思いませんでした。

[ ふく ] 2017/07/14 22:40:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

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神呪寺の如意輪さん

甲山にある神呪寺のご本尊は如意輪観音さんです。
弘法大師、空海(774-835)の御作であるという伝説の真偽はともかくとして、
日本の三如意輪観音の一つに数えられている仏像です。

大阪平野の北西にある、甲山は、その異形な形からでしょうか、
弘法大師の時代、神呪寺のある甲山は霊山として信仰の場となっていました。
西宮、六甲山(武庫山)も含めて武庫の地は古代から神功皇后の伝説が伝わる霊験あらたかな地でもありました。そんなこととこの如意輪観音が祀られたことに何か関係があるのかもしれません。神呪寺の開山は如意の尼といわれる貴人と伝えられてもいます。

この如意輪観音さま、いつでも拝観できるわけではなく、
一年に一度五月の十八日、つまり今日のみご尊顔を拝することができます。
お時間のあられるかたはぜひ行ってみてくださいね。



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今日なんですね!情報ありがとうございます。

[ ちゃめ ] 2017/05/18 8:46:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

書こう書こうとおもっていて忘れていました。間に合ってよかったです。

[ ふく ] 2017/05/19 12:36:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

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用海の信行寺

西宮市用海町にある信行寺。現在は国道43号線に面していますが、国道ができて寺地がかなり縮小されたようです。戦災で本堂が焼け、後に現在の本堂が建てられたそうです。信行寺はお寺ですが、ご住職である四夷家は西宮えびす神社とも深い関係にあるようです。以下に西宮市史の二巻の記述を書き起こしておきます。



 信行寺は用海町にあり、円融山と号し、浄土真宗本願寺派である。この寺は明治二年(一三九一)四夷新左衛門(法名浄専)という者が発心して仏門に帰して開いたのがはじめであるという。住職は血脈相承で今も四夷氏である。その祖先は蛭児大神がこの地に鎮座のときに供奉した一人であると古く伝えている。また後奈良天皇の時代にこの家計から強力の勇者が出て調停に召し出され、その後四夷氏は四位氏と改めたという伝えもある。現に漢文以前の俳書にも西宮で四位氏に重正・直之・頼勝などという人々の作句があるが、おそらくこの系の人々であろう。

 元和六年に寺号を真光寺と称することを本願寺からみとめられ、のち天和二年(一六八二)にさらに改めて信行寺となった。江戸時代初期ごろには土地に有力な信徒を有し、宝永三円(一七〇六)には土豪勝部政寛が梵鐘を新鋳寄進したこともあり、勝部如春齋が大幅の大麻曼荼羅写本を揮毫寄進したりして法灯は栄えた。寛政十三年(一八〇一)には興正寺から院家官の待遇を受け、文化七年(一八一〇)高祖上人の五五〇回忌など盛大におこなわれている。

 思うに戦国時代京都付近に真宗の交流したさいの余波がこの地方にも波及したのであろう。明徳ころに開基されて元和に寺号が認められたというが、その間の寺名は何とか称したのであろうか。古名を真光寺と称したことや、住職の蛭児大神と関係ありと伝えることから察すると、そのはじめは一遍上人の時宗などに関係交渉があったのではなかろうか。(西宮市史第二巻 八六八頁)




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広田神社 日本の神々を読むE(終)

当社の主な祭礼としては、例祭が三月十六日、御田植神事が六月二十二日、深湯(くがたち)神事が七月十六日に行われる。かつては八月十六日から二十日にかけて神幸式があり、当社の最も重要な神事とされていたが、古い時代にすでに廃絶している。その内容は、十八日に御輿を西宮の海岸に移し、西宮戎社の神輿とともに船で和田岬(和田崎)に到って現在の三石神社の地で祭典を行い、二十に日に陸路を還行し、途中で東明(神戸市東灘区内)というところで小休止ののち、帰還するというものであった。

社宝としては、広田神社文書、広西両宮絵図(貞享三年[一六八六])、尼崎明石間海浜絵巻、剣珠宮殿、剣珠、剣珠袋などがある。なお社殿は昭和五十六年十月の火災で焼失し、目下再建中である。

(交通 阪急神戸線西宮北口駅と夙川駅の中間の参道を北へ一キロ余)


 最後の部分には神社のお祭りと、宝物について書かれています。こちらには貞享三年に描かれた西宮の古い地図が残っています。また中世の信仰とも深く関わる剣珠についてもふれられています。広田社の概略について短く客観的に紹介してあるので紹介することにしました。



※地図については以下に紹介されています。

http://imazukko.sakura.ne.jp/kaidou/archive/ezu/nishinomiya/hironishi/hironishi.html


この原稿の執筆された時期広田神社は火災にあって再建中だったようです。なんとなく覚えていますが、確か第二次大戦でも被害にあっていたとも思います。


※現在の神事については神社のホームページに案内があります。

http://www.hirotahonsya.or.jp/gyoji.html


※エナガ先生の講義メモというブログが、面白かったのでURLを貼り付けさせていただきました。

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/cat_1195714.html 



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廣田神社 日本の神々を読むD

広田神社をお祀りした人々は伝説では山背氏となっていますが、広田氏ではなかったかという説があるようです。本書の末尾にもふれられていました。


広田神社に奉仕したものが山背一族であったとしても、このあたりにとくに勢力を張った様子が見えない。また、広田という地名から広田氏だったのでないかという説もでている。すなわち、広田氏は『新撰姓氏録』では、左京諸蕃下に、『広田連。百済国人宰臣君より出づる』となっているから、この広田氏がこの広田の土地を本貫としたものであろうとする説である。ただ広田氏もこの地方にはいっこうに活動の痕跡をのこしていない。広田というのはどこにあってもいい地名だから、強いてそれをここに以てくるに当たらないようにも思える。広田神社を中心とする氏族はまだ確定できないようである。



『新撰姓氏録』は平安時代の初期弘仁六年(815)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代の氏族名鑑である。京、畿内に住む1182の氏を、皇別(神武天皇以降に天皇家からわかれた氏族)、神別(神武天皇以前の神代に別れたか生じた氏族) 諸蕃(渡来系氏族、漢・百済・高麗・新羅・任那)にわけている。



新撰姓氏録考証 1900-1901 吉川弘文館 栗田寛著より

デジタルコレクション 国会図書館 







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たまはやすむこ 賀茂真淵 冠辞考

 apediaにある「武庫」についての解説のうち、以下の三点が気になりました。

@古代難波からの対岸の地の呼称。早く「日本書紀」「万葉集」に、海・滞・泊・河・渡などの名として現われる(武庫・牟故・六児)。

Aその語源については、賀茂真淵が『冠辞考』に難波の向フ説を出し、吉田東伍『大日本地名辞書』が、これに賛同していらい定説化していた(『冠辞考』には椋〔むく〕説もある)。

 B「六甲〔むこ〕」山は、室町時代ころからの当て字。


順番に確認していきたいと思いますが、まずは賀茂真淵からです。賀茂真淵(1698-1769)は江戸中期の国学者、歌人で、万葉集の研究者としても知られています。『冠辞考』は宝暦七年(1757)に刊行されており、歌に見られる枕詞について書かれたものです。記紀、万葉集の枕詞326語をあげて、五十音順にならべられています。(大辞林第三版)

国立国会図書館デジタルコレクションには明治末期に刊行された賀茂真淵全集のデーターがありますので、「たまはやす:をみてみましょう。

「たまはやすは」武庫にかかる枕詞とされています。実はこの部分万葉集3895の以下の歌に使われています。

たまはやす武庫の渡に天づたふ日の暮れゆけば家をしぞ思う

多麻波夜須、武庫能和多里爾、雨傅、日能久禮由氣婆、家平之曾於毛布

「玉囃す」とも書かれてるこの語、以前からいくつかの本に、広田神社の劔玉にかかわるのではないかと書かれていたりするのですが、万葉集には用例はほかになく、確実な根拠はないようです。

たまはやす むこ

万葉集十七に、多麻波夜須(タマハヤス)、武庫能和多里爾(ムコノワタリニ)、天傅(アマツタフ)、日能久禮由氣婆(ヒノクレユケバ)、家平之曾於毛布(イヘヲシゾオモフ)、こは或説に聟(ムコ)とつづきたるかといへり、凡むこてふもの古き物がたりなどを見るに、女の家に住せて、玉のごとめではやせば、さあるまじき事とも覚えず、然れども㕝おもふに、玉の光そふる椋といひかけたらんか、むこ、むく、昔の通ふままに転じていひ下すは冠辞のつねなり、(椋の木は古書にかたかたに出、)和名鈔膠漆具に、木賊椋葉(トクサムクノハ)(無久乃波、)などいひ、栄華物語に御堂の板敷を、とくさむくの葉などしてみがきし事も有、後の事ながら俊ョ朝臣の或人の歌をいとほめて、むくの葉みがきをなしたる物なりともいはれけんなどをさへおもふに、奈良の此にもむくの葉用る事有けんかし、且はやすとは栄(ハエ)あらすてふ語を、延阿反夜(エアノヤ)なればはやすといひて、ここは玉の光まさしむるをいふなり、巻十六に吾角者(あかつのは)、御笠乃波夜詩(ミカサノハヤシ)、また我宍者(アカシシハ)、御奈麻須波夜志(ミナマスハヤシ)ともいひて、何事にもはえあらするをいへり、

 むこは摂津の国武庫郡ニ有、史また古記などには、務古とも書たれば、武庫も假字なるを、字につきて説をいふは俗のわざなり、凡槻(ツキ)の本、栗林あればくるすてふ地の名となれるが如く、椋のある故にむく山などはいひしか、又海頭(ウミヅラ)へさし出たる地にて、難波よりつねに向はるる故に向(ムコ)山というか、向(ムカ)つ峯向つ国など古へ多くいひたり、


 以上武庫と椋の関わりを考察さうるが、摂津の武庫郡にある「むこ」は難波の対岸であるから向山となったのではないかと書かれている。


吉田東伍『大日本地名辞書』についてはつづきます。



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西宮を中心に古書や古い新聞に書かれた記事をもとに阪神間の昔をたどったり、出典になった本や古書の紹介をしたり、備忘録的ではありますが、ぼちぼちと更新いたします。もちろん犬の話し、海外ミステリー、書画骨董、食べもの、ワインの話しなども、たまには織り交ぜて書きたいと思います。
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