犬と歩く夙川

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えべっさんの夏祭り


お店が出ているので、お祭りかなと思ったら、昨晩だったんですね。









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西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 2 )

ふくさん、こんばんは。
ネットの情報は去年のですね。
今夜(昨晩)がお祭りでした。

[ もしもし ] 2017/07/21 2:42:23 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったんですね。スマートフォンだと小さくて見えないから一年間違いましたか。ありがとつございます。

[ ふく ] 2017/07/21 8:12:13 [ 削除 ] [ 通報 ]

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信行寺にあった琴棋書画図

円融山信行寺には戦前、西宮の狩野派絵師、勝部如春齋が描いた襖絵がありました。その襖絵は戦災で本堂とともに焼けてしまったのですが、戦前市内の西念寺で行われた展覧会にあわせて出版された『勝部如春齋傅』という本にモノクロ写真が残っています。



大正松年に発行された『西宮町誌』には円融山信行寺の宝物として、「本堂金襖 四枚(当人物)宝暦辛己春正月 容齋勝兼寿筆」と記されています。


信行寺は、明徳二年に四夷新左衛門によって開基されました。四夷新左衛門について町誌には次のように記しています。(祖先は蛭児神に供奉してこれを現今の神社境内毘石と言ふ岩上に安置し主語せし西戎の子孫なりと伝ふ」とあります。


つまり開山の四夷新左衛門は戎神社の神官であったようです。毘石、西戎が何をさすのかははっきりわかりませんが、中世西宮にエビス信仰が広がってきたころからの言い伝え、鳴尾の漁師が芦舟に乗せた蛭児を船で送りだそうとしたが、蛭児の願いで西宮にとどまったという日本書紀を元に広がったエビス伝説と関わるものの一つかもしれません。


明徳二年(1391)に建てられた後、真宗光正寺、真光寺ともいったと、町誌に書かれていますが、天和二年、第十六世の時次号を眞行寺とし、本派本願寺末に転派したとあります。この真宗興正寺ということはは現在は京都の興正寺が用いていますが、それと関係がないようにも思われます。


とにかく、信行寺は本派本願寺派となった後宝暦九年に本堂を修復しています。その棟札の既述が町誌にのっていたので引用します。


天下和順日月清明風雨以時災歯s起

奉修復本堂一寓 当山二十一世寺務 教乗

国豊民安兵戈無用祟徳興仁務修禮講 工匠 山下勝治郎


前後にはさんでいる二行「天下和順、日月清明、風雨以時、災不起。國豐民安。兵戈無用。崇興仁、務修禮讓。」は無量寿経の中の文言のようです。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災起こらず。国豊かに民安し。兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。という仏の言葉です。




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西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 2 )

『勝部如春齋傅』、先日話していた古書目録のものをお届けしました。老僧、戦災で焼失して数十年探していたと喜ばれました。

[ akaru ] 2017/07/14 14:54:50 [ 削除 ] [ 通報 ]

そうだったのですか。まるで手元にあるようにお話ししておられましたので、まさかないとは思いませんでした。

[ ふく ] 2017/07/14 22:40:43 [ 削除 ] [ 通報 ]

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神呪寺の如意輪さん

甲山にある神呪寺のご本尊は如意輪観音さんです。
弘法大師、空海(774-835)の御作であるという伝説の真偽はともかくとして、
日本の三如意輪観音の一つに数えられている仏像です。

大阪平野の北西にある、甲山は、その異形な形からでしょうか、
弘法大師の時代、神呪寺のある甲山は霊山として信仰の場となっていました。
西宮、六甲山(武庫山)も含めて武庫の地は古代から神功皇后の伝説が伝わる霊験あらたかな地でもありました。そんなこととこの如意輪観音が祀られたことに何か関係があるのかもしれません。神呪寺の開山は如意の尼といわれる貴人と伝えられてもいます。

この如意輪観音さま、いつでも拝観できるわけではなく、
一年に一度五月の十八日、つまり今日のみご尊顔を拝することができます。
お時間のあられるかたはぜひ行ってみてくださいね。



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西宮周辺の社寺と信仰 | コメント( 2 )

今日なんですね!情報ありがとうございます。

[ ちゃめ ] 2017/05/18 8:46:27 [ 削除 ] [ 通報 ]

書こう書こうとおもっていて忘れていました。間に合ってよかったです。

[ ふく ] 2017/05/19 12:36:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

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用海の信行寺

西宮市用海町にある信行寺。現在は国道43号線に面していますが、国道ができて寺地がかなり縮小されたようです。戦災で本堂が焼け、後に現在の本堂が建てられたそうです。信行寺はお寺ですが、ご住職である四夷家は西宮えびす神社とも深い関係にあるようです。以下に西宮市史の二巻の記述を書き起こしておきます。



 信行寺は用海町にあり、円融山と号し、浄土真宗本願寺派である。この寺は明治二年(一三九一)四夷新左衛門(法名浄専)という者が発心して仏門に帰して開いたのがはじめであるという。住職は血脈相承で今も四夷氏である。その祖先は蛭児大神がこの地に鎮座のときに供奉した一人であると古く伝えている。また後奈良天皇の時代にこの家計から強力の勇者が出て調停に召し出され、その後四夷氏は四位氏と改めたという伝えもある。現に漢文以前の俳書にも西宮で四位氏に重正・直之・頼勝などという人々の作句があるが、おそらくこの系の人々であろう。

 元和六年に寺号を真光寺と称することを本願寺からみとめられ、のち天和二年(一六八二)にさらに改めて信行寺となった。江戸時代初期ごろには土地に有力な信徒を有し、宝永三円(一七〇六)には土豪勝部政寛が梵鐘を新鋳寄進したこともあり、勝部如春齋が大幅の大麻曼荼羅写本を揮毫寄進したりして法灯は栄えた。寛政十三年(一八〇一)には興正寺から院家官の待遇を受け、文化七年(一八一〇)高祖上人の五五〇回忌など盛大におこなわれている。

 思うに戦国時代京都付近に真宗の交流したさいの余波がこの地方にも波及したのであろう。明徳ころに開基されて元和に寺号が認められたというが、その間の寺名は何とか称したのであろうか。古名を真光寺と称したことや、住職の蛭児大神と関係ありと伝えることから察すると、そのはじめは一遍上人の時宗などに関係交渉があったのではなかろうか。(西宮市史第二巻 八六八頁)




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広田神社 日本の神々を読むE(終)

当社の主な祭礼としては、例祭が三月十六日、御田植神事が六月二十二日、深湯(くがたち)神事が七月十六日に行われる。かつては八月十六日から二十日にかけて神幸式があり、当社の最も重要な神事とされていたが、古い時代にすでに廃絶している。その内容は、十八日に御輿を西宮の海岸に移し、西宮戎社の神輿とともに船で和田岬(和田崎)に到って現在の三石神社の地で祭典を行い、二十に日に陸路を還行し、途中で東明(神戸市東灘区内)というところで小休止ののち、帰還するというものであった。

社宝としては、広田神社文書、広西両宮絵図(貞享三年[一六八六])、尼崎明石間海浜絵巻、剣珠宮殿、剣珠、剣珠袋などがある。なお社殿は昭和五十六年十月の火災で焼失し、目下再建中である。

(交通 阪急神戸線西宮北口駅と夙川駅の中間の参道を北へ一キロ余)


 最後の部分には神社のお祭りと、宝物について書かれています。こちらには貞享三年に描かれた西宮の古い地図が残っています。また中世の信仰とも深く関わる剣珠についてもふれられています。広田社の概略について短く客観的に紹介してあるので紹介することにしました。



※地図については以下に紹介されています。

http://imazukko.sakura.ne.jp/kaidou/archive/ezu/nishinomiya/hironishi/hironishi.html


この原稿の執筆された時期広田神社は火災にあって再建中だったようです。なんとなく覚えていますが、確か第二次大戦でも被害にあっていたとも思います。


※現在の神事については神社のホームページに案内があります。

http://www.hirotahonsya.or.jp/gyoji.html


※エナガ先生の講義メモというブログが、面白かったのでURLを貼り付けさせていただきました。

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/cat_1195714.html 



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廣田神社 日本の神々を読むD

広田神社をお祀りした人々は伝説では山背氏となっていますが、広田氏ではなかったかという説があるようです。本書の末尾にもふれられていました。


広田神社に奉仕したものが山背一族であったとしても、このあたりにとくに勢力を張った様子が見えない。また、広田という地名から広田氏だったのでないかという説もでている。すなわち、広田氏は『新撰姓氏録』では、左京諸蕃下に、『広田連。百済国人宰臣君より出づる』となっているから、この広田氏がこの広田の土地を本貫としたものであろうとする説である。ただ広田氏もこの地方にはいっこうに活動の痕跡をのこしていない。広田というのはどこにあってもいい地名だから、強いてそれをここに以てくるに当たらないようにも思える。広田神社を中心とする氏族はまだ確定できないようである。



『新撰姓氏録』は平安時代の初期弘仁六年(815)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代の氏族名鑑である。京、畿内に住む1182の氏を、皇別(神武天皇以降に天皇家からわかれた氏族)、神別(神武天皇以前の神代に別れたか生じた氏族) 諸蕃(渡来系氏族、漢・百済・高麗・新羅・任那)にわけている。



新撰姓氏録考証 1900-1901 吉川弘文館 栗田寛著より

デジタルコレクション 国会図書館 







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たまはやすむこ 賀茂真淵 冠辞考

 apediaにある「武庫」についての解説のうち、以下の三点が気になりました。

@古代難波からの対岸の地の呼称。早く「日本書紀」「万葉集」に、海・滞・泊・河・渡などの名として現われる(武庫・牟故・六児)。

Aその語源については、賀茂真淵が『冠辞考』に難波の向フ説を出し、吉田東伍『大日本地名辞書』が、これに賛同していらい定説化していた(『冠辞考』には椋〔むく〕説もある)。

 B「六甲〔むこ〕」山は、室町時代ころからの当て字。


順番に確認していきたいと思いますが、まずは賀茂真淵からです。賀茂真淵(1698-1769)は江戸中期の国学者、歌人で、万葉集の研究者としても知られています。『冠辞考』は宝暦七年(1757)に刊行されており、歌に見られる枕詞について書かれたものです。記紀、万葉集の枕詞326語をあげて、五十音順にならべられています。(大辞林第三版)

国立国会図書館デジタルコレクションには明治末期に刊行された賀茂真淵全集のデーターがありますので、「たまはやす:をみてみましょう。

「たまはやすは」武庫にかかる枕詞とされています。実はこの部分万葉集3895の以下の歌に使われています。

たまはやす武庫の渡に天づたふ日の暮れゆけば家をしぞ思う

多麻波夜須、武庫能和多里爾、雨傅、日能久禮由氣婆、家平之曾於毛布

「玉囃す」とも書かれてるこの語、以前からいくつかの本に、広田神社の劔玉にかかわるのではないかと書かれていたりするのですが、万葉集には用例はほかになく、確実な根拠はないようです。

たまはやす むこ

万葉集十七に、多麻波夜須(タマハヤス)、武庫能和多里爾(ムコノワタリニ)、天傅(アマツタフ)、日能久禮由氣婆(ヒノクレユケバ)、家平之曾於毛布(イヘヲシゾオモフ)、こは或説に聟(ムコ)とつづきたるかといへり、凡むこてふもの古き物がたりなどを見るに、女の家に住せて、玉のごとめではやせば、さあるまじき事とも覚えず、然れども㕝おもふに、玉の光そふる椋といひかけたらんか、むこ、むく、昔の通ふままに転じていひ下すは冠辞のつねなり、(椋の木は古書にかたかたに出、)和名鈔膠漆具に、木賊椋葉(トクサムクノハ)(無久乃波、)などいひ、栄華物語に御堂の板敷を、とくさむくの葉などしてみがきし事も有、後の事ながら俊ョ朝臣の或人の歌をいとほめて、むくの葉みがきをなしたる物なりともいはれけんなどをさへおもふに、奈良の此にもむくの葉用る事有けんかし、且はやすとは栄(ハエ)あらすてふ語を、延阿反夜(エアノヤ)なればはやすといひて、ここは玉の光まさしむるをいふなり、巻十六に吾角者(あかつのは)、御笠乃波夜詩(ミカサノハヤシ)、また我宍者(アカシシハ)、御奈麻須波夜志(ミナマスハヤシ)ともいひて、何事にもはえあらするをいへり、

 むこは摂津の国武庫郡ニ有、史また古記などには、務古とも書たれば、武庫も假字なるを、字につきて説をいふは俗のわざなり、凡槻(ツキ)の本、栗林あればくるすてふ地の名となれるが如く、椋のある故にむく山などはいひしか、又海頭(ウミヅラ)へさし出たる地にて、難波よりつねに向はるる故に向(ムコ)山というか、向(ムカ)つ峯向つ国など古へ多くいひたり、


 以上武庫と椋の関わりを考察さうるが、摂津の武庫郡にある「むこ」は難波の対岸であるから向山となったのではないかと書かれている。


吉田東伍『大日本地名辞書』についてはつづきます。



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apediaで武庫をひいてみる

武庫の語が、難波から見た対岸といわれていることはいろいろなところに書かれているが、apediaに「武庫」を執筆されているのが落合重信先生だ。以下にに引用してみる。



…………………….以下引用……………………

武庫

むこ

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia


  古代難波からの対岸の地の呼称。早く「日本書紀」「万葉集」に、海・滞・泊・河・渡などの名として現われる(武庫・牟故・六児)。その語源については、賀茂真淵が『冠辞考』に難波の向フ説を出し、吉田東伍『大日本地名辞書』が、これに賛同していらい定説化していた(『冠辞考』には椋〔むく〕説もある)。が最近鏡味明克が「向」は古代の仮名遣いではムカフであってムコウではないとして却け、海岸地名に多い「〜子」地名(例えば網子〔あみこ〕、梶子〔かじこ〕がアゴ、カコという地名となる)の一つとし、「ム」ではじまる何らかの語と「子」との複合語が一音節になったとする「ム〜子」説を出した。しかし古代氏族に高向(タカムコ)があり、日常口頭語として、向=ムコもありえたのではなかろうか。「万葉集」巻3に次の歌がある。

283 住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人  高市連黒人

  「六甲〔むこ〕」山は、室町時代ころからの当て字。

執筆者落合重信

参考文献

  • 落合重信「ムコ(武庫)」について」『歴史と神戸』第22巻第4 1983
  • 鏡味明克「海岸地名武庫」『歴史と神戸』第23巻第2 1984
  • 落合重信「ムコ(武庫)地名再説」『歴史と神戸』第23巻第4 1984


………………以上引用………………….


ムコ(武庫・牟故・六児)の海、滞、泊、河、渡などの語は「日本書紀」や「万葉集」など奈良時代にみられる。


  住吉の得名津に立ちて見わたせば武庫の泊ゆ出づる船人 高市黒人(万葉集283)の歌が紹介されている。以前から住吉の浜から西宮あたりの海岸で船を出す人が見えるのか?と気になっていた歌だ。


 向こう説を唱えたのは賀茂真淵『冠辞考』、それに吉田東伍が賛同して『大日本地名辞書』に執筆して定説化するとあるが、これは知らなかった。


「六甲山」と書くようになったのは室町時代からの宛字とあるが、さて何に書かれたのが始めなのだろう。

参考文献になっている『歴史と神戸』を読みたくなった。








 



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日本の神々 広田神社の執筆者 落合重信

歴史研究に携わっていても、ジャンルが違うと知らないことが多いと思う。

自分が現在住んでいる西宮市にある神社や仏閣や伝承について読んでいると、なぜか孫引きが多い。ネットの既述など、はほぼ省略のしかたも同じだったりして、面食らってしまう。真実が何かわかる新資料の発見などしようとは思わないのだが、せめてよく知られている事柄について、出典を調べようと思ってはじめてみたものの、もともと大阪で仕事をしていたからか、兵庫県関係になると、有名な研究者なのに、全く知らなかったりする。

「日本の神々」の広田神社の執筆者は誰なのだろうとふと、気になった。調べてみると落合重信氏(1912-1995)は著作の多い神戸の郷土史家だった。苦労人だったようで神戸市立図書館に勤務し、神戸市の市史編集に携われた。

著作は以下の通り結構多く、神戸史学会には落合重信賞も設けられている。
  • 『神戸和歌史』 上崎書店 1942年5月
  • 『神戸史話』共著・有井 基、創元社、1967年7月 ISBN 978-4-422-25003-8
  • 『条里制』吉川弘文館、1968年1月 ISBN 978-4-642-06517-7
  • 『書名主記入論』日本図書館研究会、1970年
  • 『未解放部落の起源―近世皮多部落形成過程の研究』神戸学術出版 東京 小宮山書店、1973年
  • 『近世国学者による図書館設立運動―図書館関係論文集(歴史・分類・書誌)』神戸学術出版 東京 小宮山書店、1975年
  • 『神戸の歴史―古代から近代まで』後藤書店、1975年
  • 『埋もれた神戸の歴史』神戸史学会出版部 (コーベブックス)、1977年1月
  • 『神戸の歴史 研究編』後藤書店、1980年
  • 『部落の起原』兵庫部落問題研究所、1981年1月 ISBN 978-4-89202-006-3
  • 『地名にみる生活史 ― 兵庫県の地名 神戸市の地名』兵庫新書/神戸新報社、1981年4月
  • 『ひょうご地名考』後藤書店、1983年1月 ISBN 978-4-906099-04-7
  • 『地名研究のすすめ』国書刊行会、1983年1月 ISBN 978-4-336-01302-6
  • 『ひょうごの地名再考 ― 足もとの歴史発掘』神戸新聞総合出版センター、1988年11月 ISBN 978-4-87521-672-8
  • 『神戸の歴史 通史編』地方小出版流通、1989年3月 ISBN 978-4-906099-05-4
  • 『近世部落の中世起原』明石書店、1992年6月 ISBN 978-4-7503-0428-1
  • 『兵庫の歴史 ― 古代から幕末まで』〔神戸市〕兵庫区まちづくり推進課、1993年9月

           




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廣田神社 日本の神々を読むC

日本の神々 第三巻、広田神社の紹介の続きです。(以下引用)

甲山の成因については、近ごろまで火山説が有力であった、トロイデ式火山の標式といわれてきたが、近年の調査により、地表に押し挙げられた安山岩層が、その後の風化浸食作用によって、偶然にもいま見るような秀麗な山容になったものとされるに至った。甲山の名は、その山容がカブトに煮ているところから起こったとされているのだが、それならば兜山か冑山でなければならない。甲という字はヨロイであって、江戸時代のものには冑山と書いたものもあるくらいである。甲冑というところから、上に来る甲の字をカブトと思いこんだのであろうか。
 田岡氏によると、甲山はもともとは「神の山」で、これをカミの山ともカンの山・カウの山とも言っていたものが、甲ノ山ともなったのであろうという。ちなみに、この甲山の南麓にある神呪寺はシンジュ寺とよまれているが、もとはカンノウ寺・カンノ寺であった。要するに、このカウノ山に甲山の文字があてられ、カブトが埋められているから出た名だという地名説話まで生まれるに至ったのである。(ちなみに、甲山の頂上部からは祭祀の跡を物語る遺物が発見されている。(以上引用)

話は甲山が広田神社の神体山としておがめられていたかどうかということに移ってきました。まず甲山の成因がかつていわれたような火山ではなく、安山岩層が地表に押し出された結果生まれたことにふれられています。

次ぎに甲山という名前の話です。カブトの形に似ているから起こったといわれているが、カブトであれば「冑」か「兜」であり、兜はヨロイのことであるということが書かれている。

そして田岡氏の説として、もともと「神の山」であった山がカミの山、カンの山、カウの山と呼ばれていて、それが甲ノ山となったのだろう。この山の南麓にある神呪寺はカンノウ寺といわれていたという話が紹介されている。ここからカブトが埋められているという説話まで生まれていること、山頂から祭祀跡を物語る遺物が発掘されていることも書かれている。

甲山火山説は、確かに私が子ども之頃はそういわれていました。また「甲山」が「かぶと山」というイメージが先に植え付けられていたため、長らく甲冑の「甲」がカブトと誤解しておりました。

カンノウ寺については神呪寺の「神呪=シンジュ」は密教における呪文、陀羅尼をさす語といわれるため、うまく当てはまったものと感心したりします。

 頂上の遺物については、昭和45年に銅戈(どうか)が出土している。甲山山頂にある出土を示すパネルがあります。
西宮史邸重要文化財 考古資料 甲山出土銅戈 私邸年月日 昭和58年3月25日」とあり、「昭和45年11月に、この甲山山頂の平和塔の脇で、青銅製の銅戈が発見された。発見時は地中に突き刺さっていたようで、発見直後の周辺部の調査では、関連した遺物や遺構は確認されなかった。
 銅戈とは中国大陸で開発された武器の一種で、弥生時代に日本へ伝わり、祭りの道具として列島に広がった。この銅戈は、異形ではあるが銅戈の特徴をそなえ、全長28.6cm、幅3cmを測る。出土した場所が甲山山頂であることや、周辺には弥生時代中期から後期の集落である「五ヶ山遺跡」があるなど、出土地周辺の遺跡とともに地域の歴史を考える上で、貴重な考古資料である。
」と書かれています。

地中に突き刺さった状態で発見されたと書かれているが、この場所は当時は山火事のため。禿げ山になっており、また今よりも眺望がよかったためたくさんの登山者も訪れていました。そのため突き刺さって発見されるということが、どういうことだったのか、実はなかなか想像するのが難しいです。
 
#銅戈 弥生時代の青銅製の戈ほこ。本来中国起源の利器であったが、多くは儀礼・祭祀さいしに用いたと思われる。(大辞林)

当該作品の写真がみつけられないので、滋賀県出土の銅戈の復元例の画像を参考にあげました。甲山出土のものは異形とありますので、分類されている形式には属さないようです。





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西宮を中心に古書や古い新聞に書かれた記事をもとに阪神間の昔をたどったり、出典になった本や古書の紹介をしたり、備忘録的ではありますが、ぼちぼちと更新いたします。もちろん犬の話し、海外ミステリー、書画骨董、食べもの、ワインの話しなども、たまには織り交ぜて書きたいと思います。
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