本棚の独り言

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「INAKA」

明治大正の時代、神戸在住の外国人登山グループが主となり、大正4年から同13年にかけ発行された英文の機関誌「INAKA」全18巻、此れまで何人かの研究者によって共訳されてはいますが、其れも部分的な妙訳にすぎず、完訳といえないのが残念。

 ぼくも、何年も前から翻訳にチャレンジをしてみたものの、何度も挫折を繰り返すも、未だ訳せずにいる。

 此れからでも遅くはない、ふんどしを締めなおしてみようか・・・




「INAKA」扉  





英文機関誌「INAKA」全18巻



英文古書

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美津濃

[ shiratori ] 2016/11/04 20:41:14 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「近畿の山と谷」ふくさんのブログ「六甲山・甲山」から

ふくさんの「古書」発掘解題、その的確な説明文に此れまで何度か感心させられる事があった。
 先日も「六甲山・甲山」を検索中、「近畿の山と谷」について丁寧に紹介されておられた。
 此の書籍を読めば、その時代の商経済の様子を、その背景も窺い知ることができ、貴重な時代資料といえる。ふくさんのブログを読ませていただき、すっかり忘れていた過去の記憶を再び思い出させることに、感謝している。

 今から40年ほど前、住友山岳会関係者からお聞きした古い事柄について大学ノートにしたためたことがあり、今、改めて読み直してみたのを、少しばかりかの知ったかぶりを一部転記してみます。

初版は昭和7年6月5日に発行され(その経緯は後記に)

古書



昭和11年6月28日には、改訂増補版が発行。


続いて11年10月1日、改訂増補3版が発行。(表画はお多福山)

古書


戦時下に突入する直前の昭和16年12月10日に新版。(表画はロックガーデンB懸)

古書


 何れも住友山岳会編著、朋文堂発行、表紙画足立源一郎になるもの。ガイドブックとしては昭和10年代、版を重ねた第一級の山岳資料と言えるでしょう。


 発行の母体となった住友山岳会その創設経緯について少々述べてみることに・・・住友企業グループには明治の時代から「井華会」という社員親睦会あり「井華」と題する会誌が発行されたのは明治41年、その井華会の山好きの社員の間で「徒歩会」を発足させ、国内外の山々を登り、会誌にそれぞれ登山記を寄稿されたその会員等が中心となり、昭和4年12月に住友山岳会を創設された。


 (井華)187号「山の特集」昭和3年9月28日発行

古書

 山岳会の中では著名な人物が多数活動されており、その一例を挙げてみることに、事業家として今村幸男、国府精一、大島堅造、別宮貞俊は経済界で活躍され実績も残されている。文化人としては歌人の川田順は「老いらくの恋」で有名、小島鳥水の弟小島栄等などが、他にも・・・以外と思われるが若山牧水の子息若山旅人も在職中は会員だった。


六甲山麓二つの住友小屋

 仁川の奥、水無谷辺りに住友の山小屋建っていたそうですが、水害に遭遇、小屋は崩壊、その形跡は・・・

 二代目の小屋はお多福山(現芦屋ゴルフクラブ)に建てられた。ぼくは昭和30年代、見かけているも、後のゴルフ場開発期に権利移転、解体された。


 ・写真 かってのお多福山の住友小屋(現ゴルフ場)

お多福山


「近畿の山と谷」発行の経緯

 住友山岳会の松井久之助さんが雑誌「山小屋」の編集に関係されていたことから、出版社の朋文堂から近畿の山岳案内書を出版したいと松井さんに相談があったそうです。そこで好日山荘の西岡一雄さんに相談したところ「住友でどうですか」と、薦められ、その趣旨を会長の大島堅造さんに報告されたところ、山岳会の承認事項となり出版に至ったそうです。

 その編集の中心会員は三砂秀一さんだそうで、雑誌「山小屋」関西特集昭和7年6月発行の154ページに(「近畿の山と谷」発刊に就いて)と題し、その発行経緯について詳しく記している。


 大島さんには「一銀行家の回想」「回想の80年」が日本経済新聞「山の古典と共に」は名渓堂から刊されており、他にも数冊の著作があります。

 「回想の80年」に収載されている一編「大阪常安橋の旅館大津屋」は、住友新入社員のころ、当時住んでいた下宿部屋を学友の谷崎潤一郎に一週間も占領された時の様子を回想された、読んで安息を覚え、とても楽しいい一編。

 叉、Wウェストン師との文通による交流もあり、師から肖像写真も送られている。その写真はJACに寄贈されている。

 大島さんは御影の西平野にお住まいで何度かお伺いさせて頂いた事がある。書斎には貴重な洋書や和書の多さに吃驚しました。


 三砂さんには住友退職記念の著作「くま笹」が朋文堂から昭和18年に出版されている。その一篇「山小屋日記妙」は、仁川に建てた住友小屋の様子が詳しく16ページにわたり楽しそうに綴られている。

 

 書中述べている今村さんは大正時代神戸支店長だったそうで・・・小島栄さんは芦屋伊勢町がお住まいで、昭和30年代高座の滝までの道程、度々お目にかかり言葉をかわせていただいた。 松井さんは甲子園口にお住まいだったか・・・。












六甲山
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ご紹介ありがとうございます。「一銀行家の回想」「回想の80年」という本を読もうと思いますが、二冊は同じ本でしょうか。それとも別の本でしょうか。六甲に土地をおもちだった話は「山の古典と共に」ご子息がかかれているのをみました。先年、台湾にいったのですが、そこであった友だちの友だちの女性がこの山どこかわかりますか?といって写真を見せてくれました。京都に留学中だったお祖父様が、六甲に登った時の写真だったのですが、高座の滝ぐらいしかわからず、当時の登山道はどうなっていたのか、自動車道はいつついたのか、調べようとしました。登山道よりも自動車道の方がわかりづらく、表六甲再開通や芦有が戦後通ったのはわかるのですが、夙川から鷲林寺を抜けて、宝塚にでたり、鷲林寺経由で六甲にあがる道はいつからあるのかがよくわからず困っています。自動車道があるのとないのでは登山のルートも違うのではないかと思いました。

[ ふく ] 2015/09/25 11:53:37 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん

 「一銀行家の回想」は昭和38年の刊で「回想の80年」は45年、大島さんがお亡くなりになったのが翌46年ですので「回想の80年」は最後の著作ですね。内容的には別著です。

 鷲林寺経由(現大沢西宮線R82)は、明治19年陸地測量部発行図と変わりないルートで馬車や荷車が通過できる程の道幅を表しています。(江戸時代から要する道だったのでしょう)
 昭和10年代には「西宮新ドライブウェイ」と呼ばれていたそうです。(盤滝トンネルも、この時代から既に構想があったと考えられます)

 最初に建てられた住友小屋は、盤滝の上部、水無谷の出会い辺りですが、昭和10年洪水によって流されています。
 
 大正14年、直木重一郎さんが作成された「六甲登山図」に
よりますと、仁川谷から寒天小屋、盤滝、船坂峠に登り、東六甲従走路から最高峰へが、一般的な登山道として明記されています。

 

[ shiratori ] 2015/09/25 16:13:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

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加賀正太郎さん

 「加賀正太郎さん」今や地域の観光資源と持てはやされている大山崎山荘の元主と語ったほうが通りやすいでしょうか。

 

 加賀さんの人物像経歴を知るには「ウィキぺディア」などからお調べになれば更に詳しくお解りいただけるので、ここで浅学な僕が改めて触れる必要もないのですが・・・、

 実は今から50年程前のこと、生前の加賀さんとお付き合いのあった知人から、そのお人柄や逸話など等、興味深くお聞きする機会が何度かありました。そんなお話を断片的ですが、想い起こしながら、少し触れてみる事に・・・

加賀

写真・60代頃 個人蔵

 

 加賀さんは、ヨーロッパアルプスを目指した最初の日本人登山者でもあるのです。ユングフラウ(4158m)の登頂は、明治43年7月24日9時45分のことです。

 その当時の紀行文が、日本山岳会機関誌「山岳」6年一号明治44年5月5日刊に、19ページに渡り登山の様子等詳しく掲載されています。

山岳

写真・「山岳」明治44年刊 表紙を転写 (所持本)

原稿

 写真・「山岳」より掲載文「欧州アルプス越へ」転写

 

メンヒ

加賀さんの撮影によるもの 「山岳」より転写

 

 

 

ユングフラウ

 

 

   写真・(ガイドのへスラーと) 個人蔵 

 

スケッチ

 

加賀さん自筆による山小屋内部のスケッチ画

写真・「山岳」より転写。

 

 

 加賀さんが山崎町に広大な用地を入手されたのは大正4〜5年頃だそうです。現在の「大山崎山荘」を手がける以前、ヨーロッパアルプスの山麓で見かけた山小屋をイメージし、自ら図面を起こして建てた「天王山荘」と名付けた山小屋が存在したそうです。

 昭和9年、現在の「大山崎山荘」完成後には、ご夫婦でその地に移り住み「蘭」の栽培を中心とした生活をお過ごしになったそうです。

 

 

 

 加賀さんは、大正5年にご結婚されたようで、こんな逸話も・・・山岳会の仲間で、当時、大阪の夕陽丘高等女学校で教師をされておられた朝輝記多留、竹下英一さんお二人から、その女学校を卒業生された一人の女性を紹介されたのです。

 

 結婚までの道程、その後の経緯について詳しい事は語れませんが?、花嫁さんの「千代子さん」そのお写真の様子から、大変美しい聡明な女性ではなかったのでしょうか。

ご夫婦

 

昭和25年撮影 個人蔵

 

 

 加賀さんは「蘭」の栽培では著名な方で、蘭に関する資料を一冊の書に纏めた著書は世界的にも有名だそうです。

 

 実業家としての加賀さん、本業の証券業をはじめ、武庫川沿いの土地住宅開発や奈良県内での植林事業や、ニッカウィスキーでは筆頭株主として創業から事業まで尽力され、趣味の方ではゴルフもおやりになり茨木カントリー倶楽部の設立にも関与もされていたそうで・・・多種多様な加賀さんだったのですね。

 

 今秋に始まるNHK朝のTV連続ドラマ(マッサン)では、主人公と絡む場面を視る事ができるでしょうか?

 

昭和25年4月 日本山岳会名誉会員 

昭和29年8月8日大阪日赤病院で逝去 享年66歳

 

 



大山崎山荘
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六甲山にこんな光景があったのですね。

六甲山に関する古い資料の中に、こんな写真が掲載されていました。

 

 この写真は、大正13年3月に発行された六甲スキー倶楽部会誌「雪のささやき」より転写したものですが、六甲山ゴルフ場の冬季光景ですね。

 

六甲山スキー風景

 

会誌「雪のささやき」

 

僕が覚えているのは、昭和30年代の六甲山ゴルフ場でのスキー光景でしたが

・・・

 

下のパンフレット写真は、戦時色濃くなった昭和15〜6年以降?の作成でしょうか。

バンフ

 

裏面

 



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127年前の地図

本棚を整理していると、大変珍しい地図が出てきました。明治19年陸地測量部から発行された「西宮町・二万分一之尺」と記された、今から、128年程前に測量された地図です。部分的ですが、武庫川から「西国街道」を中心に載せてみることにします。

 

写真1・武庫川「髭の渡し」辺り

西国街道 1

 

写真2・上大市、下大市、門戸辺り

西国2

 

写真・3 広田、新池、ニテコ池、越水辺り

西国3

 

写真・4市役所、西宮神社辺り

西国4

 

写真・5 夙川、森具、片鉾池辺り

西国5

 

 



地図
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上の5つの地図の中には、西宮芦屋研究所員の父の出身地と母の出身地、それに結婚してから住んだ場所、現在、西宮芦屋研究所員が住んでいるところ全てが入っています。非常に興味深く見させていただきました。最後の地図は西宮町と森具村なのに地図の下に今津村とあるのは何故でしょうか?

[ 西宮芦屋研究所員 ] 2013/07/17 22:22:11 [ 削除 ] [ 通報 ]

西宮芦屋研究所員様

ご両親様も地元のお生まれなのですね。

 地図の隣接地に今津村と記されている事ですが、僕もよくは知りませんが、当時の「地勢図単位」を記しているのではないでしょうか。
 「西宮町」の東は「伊丹町」、西は「六甲山」、南は「今津村」、北は「生瀬村」と記されております。
 
 

[ shiratori ] 2013/07/18 7:00:35 [ 削除 ] [ 通報 ]

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童詩集「きりん」のこと

 何年か前の事で何だか恐縮ですが、NHKの深夜放送から流れていた、確か「こころの旅」だったでしょうか?、浮田要三さんが、童詩集「きりん」について篤く語っておられたのを、ラジオから遠聞きしていたのを、最近、何となく懐かしく、断続的に思い出しています。

 

 今から60年近く前のこと、僕はまだ幼い小学校低学年だった頃、クラス全員が書き綴った詩編の中から、何故か担任の先生は、僕の駄文の一編を選んでくださり、日本童詩研究会に投稿され、その詩刊「きりん」に、掲載された事がありました。

 

 駄文が活字になって掲載されたその一編は、先生から「きりん」に掲載された事をクラス全員が揃った教室の中でで知らされ、其のとき僕は、なぜか、胸に熱いものを感じながら、喜び、舞い上がったような、なんともいえない気持ちに・・・。

 

 家に帰り早速両親に「きりん」についてどの様な説明を説いたのかは、未だ思い出せないないのですが、確か「きりん」の小冊子を購入するため30円か40円かを母から受け取り、翌日、握り締めた紙幣を先生にお預けし、その小冊子「きりん」を受け取ったことは、微かに覚えているのですが・・・、

 その詩の一編を両親に読んで貰った、その時の反応は、残念ながら今だに思い出せないでいる・・・

 

 童詩集「きりん」の創刊号は昭和23年だそうで、竹中郁さん、井上靖さん、阪本遼さん等が主になって、関西の小学校生徒から応募された沢山の詩編の中から選をした童詩刊だそうです。

 

 「きりん」この洒落た美しい名の親は、竹中さんが「きりん」という三文字を紙片に鉛筆で書いて「これにしょうや」といってを決められたそうです。井上さんの何かのご本の中で述べられていたのを思い出しました。

 

 挿絵には、小松益喜さんや具体の吉原治良さん浮田要三さん等そうそうたる芸術家の皆さんが関係されていたそうですね。

 

 僕の手許に原本がないのが残念ですが、大阪府立国際児童文学館には1948年〜1971年の全巻揃いが蔵っているそうで、何時でも手に取って閲覧する事が出来る、それは嬉しいことです。



童詩集「きりん」のこと
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わたしの手元に昭和38年1月号から6月号までの「きりん」があります。
西宮の子どもの作品も載ってますが。

[ akaru ] 2013/07/27 22:36:19 [ 削除 ] [ 通報 ]

imamura様

 昭和38年頃ですと、発行所が、大阪から東京の理論社に変わった頃ですね。
 
 当時、神戸東灘小学校の教師をされていました、灰谷健次郎さんが「きりん」に関係されていた時代でしょうか?。

38年2月号には「マコチンチンものがたり」が掲載されているはずですが?

 それにしても、貴重な、作文集を保管されているのですね。

[ shiratori ] 2013/07/28 19:34:24 [ 削除 ] [ 通報 ]

はい、すでに理論社に変わっています。
38年2月号にはたしかに「マコチンものがたり」が載ってます。
それから1978年から1981年にかけて出版された「きりん」総集編のような本、6冊も所持しています。shiratoriさんの作品はこれに載っているのでしょうか?

[ akaru ] 2013/07/29 15:46:47 [ 削除 ] [ 通報 ]

imamura様

コメント頂き有難う御座います。

 僕の「雑言」がはじめて「きりん」誌上に記載されたのは、担任の先生の影響で、確か、1952年〜55年の4年間ですが、何度かページの角に載せて頂いたと、記憶に残っています。

 竹中郁さん、阪本遼さん、足立巻一、星芳郎さん等が中心だった頃でしょうか。

 その後「きりん」は1971年220号で、残念ながら終刊となりましたね。

 古書店では、冊1.000円の高値が付いているようですね。
 

[ shiratori ] 2013/07/29 19:48:00 [ 削除 ] [ 通報 ]

ご本名を知りたいですね。わたしの別ブログの方にコメントを下さいませんか?公開しませんから。
http://akaru.mo-blog.jp/akarublog/

[ akaru ] 2013/07/29 21:11:57 [ 削除 ] [ 通報 ]

imamura様

本名お伝えするなんて、とても、とても、気恥ずかしいです。

何れの機会にでも・・・

[ shiratori ] 2013/07/30 9:05:09 [ 削除 ] [ 通報 ]

ぜひ。

[ akaru ] 2013/07/30 9:50:44 [ 削除 ] [ 通報 ]

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牧野文子さんのこと

 昨晩、数年前からカバーが紛失し、裸本の状態で表紙もかなり痛んでいたので、思い切って表紙画を張りなおしてみました。

 本の題名は「ヒマラヤの真珠」昭和18年刊 フォスコ・マライーニ著 牧野文子さんの訳本なのですが・・・、

 

ヒマラヤの真珠

     「ヒマラヤの真珠」再表装済本。

 

 そんな訳者の牧野さんと初めてお会いしたのは何時だったのか、懐かしさのあまり面影が次から次へと、浮かんでくるのです。

 

 初めてお会いしたのは、確か1974年(昭和49年)京王プラザホテルで開かれた会合でテーブル席が偶然同じだったので、自己紹介を兼ねて、言葉を交わさせていただいたのが最初でした。

 ご主人の牧野四子吉画伯もご一緒でした。

 

牧野文子

   牧野文子さん

 

 牧野さんの生い立ちについて少しばかりですが、僕の知る範囲、触れてみる事にしてみます。

 

 牧野さん(旧姓中村)は、1904年大阪でお生まれになり、清水谷高女から、神戸女学院(当時神戸市山本通り)に進み、寄宿舎生活を経験され、当時から、神戸の町をよく歩いていたそうです。学内では「テニスの中村」と呼ばれていたそうです。

 

 実家は、メリヤス製造業で成功した中村家で、お父上の伊三郎さんは「苦楽園」の開発・経営の中枢的役割を果たした人物であったそうです。「苦楽園」と名付けたのは、お父上だと、お聞きしておりました。

 

 幼少の頃、家族の間では(山へ行く)とは「苦楽園」に出かけることを指し、学校が休みに入ると、家族揃って「苦楽園」に出かけは何日か滞在され、よく遊んだと、語ってくださいました。

 

 神戸女学院を卒業後は、雑誌社に勤められたそうです。昭和4年、牧野四子吉画伯とご結婚され、京都で新婚生活を過ごされた其の後、東京に居を移し、そこから翻訳を始められたようです。

 

 昭和18年、当時京都大学で教鞭をとられていたイタリア人学者フォスコ・マライーニさんの著「ヒマラヤの真珠」を翻訳されたのが最初だったのでしょうか。戦後に入り、幾冊ものイタリア書を邦訳紹介されています。

 

 牧野さんは、イタリア文学に精通された詩人でもあり、詩集も何冊か上梓されているようです。

 

 僕の本棚には、牧野さんの訳本と著書、少しばかり収めておりますので、其の一部をご紹介いたします。

(訳書)

「ヒマラヤの真珠」       昭和18年刊 マライーニ著

「チベット」          昭和33年刊 マライーニ著

「G4」             昭和37年刊 マライーニ著

「ヒマラヤ巨峰初登頂記」    昭和40年刊 ファンティン編

(著書)

「イタリアの青い空」      昭和43年刊 牧野文子著

「知らなかった美しいイタリア」 昭和48年刊 牧野文子著

「イタリアへの郷愁」      昭和51年刊 牧野文子著

「山への旅」          昭和57年刊 牧野文子著

「イタリアの山を行く」遺著   昭和59年刊 牧野四子吉編

 

牧野の本

         イタリア紀行三部作 牧野文子著 所持本より転写

 

 

G4

    フォスコ・マライーニ著 牧野文子訳 「G4」 所持本より転写

 

 牧野文子さんは、昭和58年(1983年)6月8日、四子吉画伯を残し、78歳の生涯を終えました。

 

 牧野さんを取り上げた理由は、神戸女学院の卒業生であった事や、実家が「苦楽園」の開発事業に関係されていたこともあって、生前、ご本人から直接お聞きした一部ですが、失礼のない程度に、触れさせて頂きました。



牧野文子さんのこと
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江見水陰と大橋乙羽

 明治期の作家で、硯友社同人の江見水陰は、創業まもない神戸新聞社の記者だった時期があったのですね。

 

 昨夜、本棚に眠っている大橋乙羽の「続千山萬水」を読んでいると「六甲山頂」の一編の中に、水陰に関する記述がありましたので一部引用してみます。

 

 

 「殊に不思議なりしは此の山頂に一個の大石あるに、墨黒々と、明治32年7月23日、午前11時、水陰記とありて、一首の狂歌の認めあるを見る、

   (我もまた六甲山程の高さも  あたりに不二の無きお陰にて)

とあり、これ我友江見水陰子の神戸新聞の探検隊として山頂に来りしものあるを知り・・・・」原文のまま。

 

 これは、明治32年7月5日突如として六甲山に異様な地鳴りが響き渡り、大騒動になった事件で、神戸新聞と神戸叉日報が争って、当時の様子を何日かに渡って詳しく記事にした「六甲山鳴動事件」ですが、此のとき、水陰自ら六甲山に登り取材にあたっていたことを、乙羽の書から、改めて知る事ができました。

 

    乙羽と水陰、同じ硯友社の同人だったのですね。

 

千山萬水

 大橋乙羽著「続千山萬水」明治33年2月25日刊 所持本より転写

 

 乙羽は、阪鶴鉄道(福知山線)に乗車、宝塚より徒歩で生瀬を経て、有馬街道(大多田川沿い)から有馬温泉へ、数日間滞在のあと、六甲山を籠に乗り、山頂を越えて住吉に辿りつくまでの紀行を「続千山萬水」の中で、20ページに渡り当時の様子を詳しく述べています。

 

 そこで、幸田露伴の「枕頭山水」その中の一編「まき筆日記」を思いだしました。

 住吉から六甲を越え有馬へ(籠に乗って六甲を越える)そして(有馬温泉の様子を記した)その一文に、露伴は住吉から有馬へ、乙羽は有馬から住吉へ、それぞれの両著を読み比べてみるのも、それは叉、面白い紀行文として、それなりに楽しむ事ができるのではないでしょうか。

 

 小文から外れますが、西宮図書館に、さる実業家から寄贈された「枕頭山水」が蔵っています。死蔵にもならず、何時でも手にとって閲覧出来るのは、前所有者の美挙でしょうか・・・。

 本好きの者にとって、露伴の紀行文「枕頭山水」原著は、稀本でしょうね。

 

 



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宮崎修二朗翁からお聞きしたことのあるお話です。『KOBECCO』5月号で、ちょっとだけ江見水陰に触れました。

[ akaru ] 2013/05/24 10:47:30 [ 削除 ] [ 通報 ]


 僕は、宮崎さんと仰るお方を、全く存じ上げなくて、誠に申しわけご座いません。

 江見水陰も、大橋乙羽の「続千山萬水」を再読し、あらためて確認ができた程度です。

[ shiratori ] 2013/05/24 14:04:54 [ 削除 ] [ 通報 ]

 
 imamuraさん

 そういえば、僕がお会いしたのは何方だったのでしょうか?、少し思い出しました。

 確か、昭和38〜9年頃、市史編纂室の落合重信さんとご一緒に
JR三宮駅前の神戸新聞会館で、出版局の誰かさんとお会いした事を、思い出しましたのですが、何方だったのか?・・・。

[ shiratori ] 2013/05/26 19:38:05 [ 削除 ] [ 通報 ]

もしかしたら宮崎修二朗翁だったかも。翁は落合さんとも親しかったし、神戸市史にも関わっておられますので。

[ akaru ] 2013/05/29 21:25:39 [ 削除 ] [ 通報 ]

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「名山図譜」に描かれている六甲山・摩耶山

 僕は、谷文晁の「名山図譜」の中に描かれている「六甲山」と「摩耶山」この二座をめぐり、写生したのかも知れない場所を、今日、40数年振りに追いかけてみることにしました。

 

 先ず始めに、文晁が歩いたとされる道程は、西国街道(山崎道)から武庫川を舟で渡り、西方「六甲山」を遠くに見渡せる場所から、何枚か山景図を描いたのではないかとした説が、これまで一般的通説ですが、そこで僕は、合えて逆説を考えてみました。

 

 何故なら、それは既に「現代日本名山図会」の著者三宅修さんは、その自著の中で「伊子志の渡し」辺りから描いたではないだろうかと、確信を抱いて、記しておられるからです。

 

 ここで僕は、逆説で、文晁は大阪を早朝に旅立ち、道頓堀か、それとも八軒屋の船着場から海路尼崎へ、そこから陸路中国道を西へ、其の間、街道から里道を少し入った辺りかで、何枚もの「六甲山」を描きながら、夕刻には、西宮か打出の旅籠にたどり着いたのではないかと、その道程を推理してみたのです。

 

武庫川の渡し

              「 攝津名所絵図」より転写

 

  文晁は翌朝、宿した旅籠を後に、左に茅ぬの海、右に六甲連山を眼中に収めれながら山陽道(西国街道)を西へ向かい、宮川辺りか、それともその先の芦屋川辺りの道程から見上げる六甲連山の山景を気に入り、何枚か描き上げたのではないでしょうか、その内の何枚かの山景図に「荒地山」も描かれていたのかも知れません。

 編集の折には、描き上げた数枚かの山景図の中から、平成の今でも、東南に向けて山胸を広げた雄大な山容を見せてくれている「荒地山」を選びだして、それを縮写した図に仕上げて「六甲山」と記し「名山図譜」に載せたのではないでしょうか、そんな想像をしてみました。

 

 では「甲山」説は一体どうなるのでしょうか、そうですね、それでは芦屋市から神戸市にかけて繋がっている一枚の地図を広げてみてください。

 そこで、広げた地図の上に、定規を、国道2号線沿いに被せてみてください。すると、西の先に位置にする山は、三角錐の「高取山」が定規に収まるはずです。

 更に、その地形図から、頭の中で現在の建築物類を消して、俯瞰してみてください。そこには、文晁が描いた「六甲山」が現れて来ます。

 

 けれども、その三角錐が、定説の甲山か、それとも今回、逆説で取り上げた高取山なのか、初摺りから200年以上経った現在も写生地を特定出来ないところに解題の面白さがあるのではないでしょうか・・・。

 

 昭和30年代後半、2号線にはまだ高い建物が少ない時代、太陽が西の遠くに聳える三角錐の高取山の上空を、茜色に染めながら背山に沈んでいく風景を、僕は、芦屋川に架かる業平橋から眺めことを、このブログを綴りながら想いだしました。

 

六甲山

          「六甲山」名山図譜覆刻版 所持書より転写

 

 ここで少し寄り道を、当時の郡境図を確認しますと西側境は夙川辺りまでが武庫郡と記されています。「六甲山」が郡内図に記されておりますが、それは、現在の最高峰六甲山を指した名称ではなく、その連山を、六甲山と称されていたのでしょう。郡境も地名も、年代によって変わるものですね。

 

 次に、「摩耶山」に向けて歩いてみます。

 三宅さんの著書によりますと、文晁は武庫川を渡った後、生瀬をへて、太多川沿いの有馬街道を歩いて有馬の温泉場へ、そして摩耶山の写生地を、街道沿い現在の大池見台団地辺りから描いたのではないだろうかと、記されています。

 

 いやいや、三宅さんは折角有馬に来たのだから、全国的に有名な有馬の湯に浸かりたいが為・・・・、

 いや違うのですよ、文晁が「摩耶山」を描いた場所を有馬郡と記しているので、有馬へ足を運んだ訳ですよ・・・・・・。

 三宅さんは、文晁が記した地名を忠実に訪ねておられますが、名山図譜の中には、図と地名が一致しない、何枚か含まれているようです。

 

 

 さてここで、僕の逆説は、文晁は「六甲山」を描いた後、そのまま山陽道(もしくは西国街道)を西へ、攝津名所絵図等、数冊の書籍と絵道具を片に背負い、街道沿いの住吉神社や周辺の名所旧跡を、訪れながら歩いたと考えています。

 

 そろそろ、写生の場所を推測してみましょうか。

 それは、兎原郡の岩屋に、古くから鎮座する敏馬神社の北辺り(西国街道)から眺めた「摩耶山」の山景を、おそらく、攝津名所絵図等で照らし合わせて描いたものではないでしょうか。あまりの似図に、少々驚いております。

 

 図には、上野村や青谷、左麓の斜面地には茶畑か?、現在の風景を彷彿とさせてくれそうな、それも写実的に描かれております。

 「攝津名所図会」はデフォメル的に描いているので、多少の相違が見受けられますが・・・。

 

 

摩耶山     

        「摩耶山」名山図譜覆刻版 所持書より転写

 

 ここでまた、三宅さんの著書に逆戻りします・・・

 三宅さんは著書の中で、大池見台辺りから「摩耶山」を描いたのではないのだろうかと記されております。

(実際、大見台の標高350m辺りまで登りますと、摩耶山の裏顔が少し見えます。)

 写実的に描いたとされている「摩耶山」の山景図と三宅さんがお撮しになった写真と見比べてみますと、その山景は大きくかけ離れているような気がします。

 

 有馬街道を平野に向けて歩いたと仮定しましょう。当時の道幅は狭く、開発された現在の様子とは大きく違い、谷深い道程だったのではないかと考えます。

 そんな状況から「摩耶山」の山景を眺めることが出来たのでしょうか。少々疑問が残るところでもあります。

 

 三宅さん、「摩耶山」の写生した地は、やはり山陽道(西国街道)ではないでしょうか。

 

現代日本名山図会

    「現代日本名山図会」外函画

 2003年7月実業之日本社刊 著者三宅 修

 

 兎原郡誌によりますと、摩耶講の参道は、開山当初から南側に開かれており、讃岐の金比羅巡りや西国札所の巡礼者にも人気があってか、参道は大変賑わったそうです。

 おそらくは、文晁も「摩耶山」に登ったのかも知れませんね。

 

 その山景は、街道を行く、旅人の道しるべでもあったようで、文晁もおそらく、山陽道(西国街道)を歩いて次の目的地、明石辺りから淡路島の「先山」を描いたのかも知れませんね。

 

 逆説で綴った二座の「写生地探し」も、文晁さんからの贈り物として、僕は、40数年前の頃にすっかり逆戻り、其の一日を十分に堪能させて戴きました。

 

 最後に、前回、投稿させて頂きました「谷文晁 名山図譜 日本名山図会」と併せてお読みいただければ幸いです。

 

 

 

 



名山図譜
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谷文晁「名山図譜」と「日本名山図会」読む楽しみ方

 西宮ブログで(ふくさん)が谷文晁の名山図譜について触れておられましたが、僕も以前、谷文晁が描いた六甲山・摩耶山、この二座の写生地について、疑問を持ちながら、追いかけていた40年も以上前のことを、懐かしく想い出しました。

 

 谷文晁の事跡については、一連の研究者の努力により、これまでも多くの著書のなかで、解題等発表されているので、今更、素人の僕がここで綴るには、少々気が引けますが、素人なりの視点から「名山図譜」「日本名山図会」の相違、楽しみ方について、駄文ながら少々述べてみる事に・・・。

 

名山図譜

   覆刻版昭和53年より転写

 

 「名山図譜」に触れてみます。

  

 初摺版が刊行された年代は、これまで研究者の説によりますと「文化元年(1804)」とされているのが一般的な通説ですが、これには少々、僕は、疑問を抱いています。

 

 その初摺本に、時の大家と称する4名から、叙文を寄せている其の年代に、違いのあることに氣づきました・・・。

 

 柴栗山(柴野邦彦)、谷麓谷(谷本脩)文晁の父親は「亨和2年(1802)」と記しており、島原盤行は、なぜか、年月を記されておりません。

 ところが、佐藤一斎は「文化元年嘉平月(1804)」と記しております。

 

 ここで少々相違の推理を・・・ 

 文晁は、その識語に「文化元年9月刻成」と年月を明確に記しております。

 が成」とは、即ち、刻板が完成された事を意味するのでしょう。

 

 ところが、佐藤一斎の、先程述べました「文化元年嘉平月」説ですと、嘉平月とは、陰暦で11月〜12月の季節を指すことだそうです。

 叙文に記された11月〜12月が正しい説なら、文晁の「文化元年9月刻成」は一斎の叙文の、約3ヶ月も前に、既に、刻板が出来上がっていたことになります。

  

 此れには、一斎が叙文年月を間違えたのか、それとも、文晁が識年月を間違えたのかもしれません・・・。

 

 いやいや、そうでもなさそうです。おそらく文晁は、叙文の刻板を除いた「88座の山景図を刻板した」と、言う意味の事を述べているのでしょう。

 刻成が終えた88座の摺図を4名の大家の手に触れさせてから、夫々の序文を板に刻み始めたので、月日の相違は当然では、と推理してみました。

 

 何れにしろ、上巻の末尾には「文化2乙丑年正月 東都書舗 西村宗七発行」記るされており、初摺の刊行に至っては、間違いなく文化2年が正しい説でしょう。 

 下巻の末尾に、「彫工隋禄堂金亀」と記されていますが、年代は記されて見当たりません。

 

 

名山図譜

覆刻版昭和53年より転写

 

 「日本名山図会」の相違

 

 初摺版は、私家版程度の発行で部数が少なく、その後、広く一般に人気を得たため、文化4年(1807)」には再摺りされております。

 初摺版との相違は、磐手山・玉東山の二座を新しく加えた計90座の山景図に「天地人」と三巻に記し、『人」の末尾には、謹識を川村博、跋文に博の父、川村元善が寄せております。

 この三巻重摺版を原本として、新しく「日本名山図会」と改題し「文化9年(1812)」に刊行されているのですが、初版に載せていました4名の序文が「天の巻」では、柴栗山一人を残して他の3名の叙文は、何故か、削除されているのです。

 「人の巻」の末尾に記されている、川村博の謹識によりますと「名山図譜」の此れまでの経緯や成り立ちについて、詳しく述べているようですが、ここでは3名の叙文を削除した経緯や理由なぞの筆跡が見当たりません。 

 

 何れかの研究本の中にでも、事の事情を考証された、更に詳しい記述が、他にあるのかもしれませんね。?

 

 ここで一つ推理を・・・

 川村元善の跋文には、その年代は「文化元年甲子秋日」と記されております。「文化元年」は「名山図譜」の「刻が成」その年に当て嵌ります。

 「名山図譜」の成り立ちについて書かれた貴重なその跋文も その当時から、既に、刻板が存在していたと言う事でしょう。

 

 それではなぜ、跋文を、初摺版に載せなかったのでしょう?。

 

 その、初摺版発行においては、其の時代の大家と称する4名の叙文が、元善の跋文と、あまりにも似通った内容の文であったのかもしれません。

 そこで、叙文を依頼している関係から、企画元でもある元善自ら、跋文を乗せることに少々戸惑いもあってか?、初摺版に載せることを、遠慮されたのではないでしょうか。

 

 改めて「叙文、識文、跋文」を読み比べてみますと、何れも、同じような内容の文が、記されているかのようにも読めます。

 

日本名山図会

図書刊行会版昭和45年より転写

 

 末尾には、版元の一覧も同じく記されています。

 江戸では、岡田屋嘉七、須原屋伊八、山城屋佐兵衛、須原屋歳兵衛、京都では、寺町の勝村冶右エ門、大阪では、心斎橋の秋田屋太右エ門の名が・・・。

  

  「日本名山図会」が販売され文化文政の年代は、町人文化がもっとも繁栄した時代でもあり、街道や海路の整備が整い、講や巡礼、諸国名所旧跡を目的とした旅行ブームが起こった時代でもあったようです。

 

 その後の「日本名山図会」明治の時代まで重版されていたそうです。版元も増加、此れまでの木版から石版に移行するも、粗悪な摺本も江戸時代同様、多く出回ったとの説が、今も残っています。 

 

 文晁が描く「名山図譜」は縮写されており、写実的とデフォルメ的が重ね合わせた画風で描かれいてます。

 文晁自ら写生した図もあれば、弟元旦の図や、諸国名所図会まで参考に描いた、疑わしい似類図が「名山図譜」から窺い知る事ができます。

 

 其れはそれで、素人の僕にも、このような「名山図譜」『日本名山図会」二冊の異本を、頭を悩ませながら読み比べてみると、其の違いに驚いてしまうと言うか、結構楽しめる、名画集?だと、思いました。

  

 

 

 

名山図譜

 覆刻版昭和53年より転写

 

  参考写真の覆刻版は、文化2年(1805)の初版摺りを参考に、和紙等材料を現代技術において忠実に再現されており「最高のコピー」と評価されているようで、昭和53年9月1日大修館書店から刊行されたものです。

 

 

 次回、機会があれば文晁が描いた「六甲山」「摩耶山」の二座を、かって僕が疑問を抱きながら追いかけた40年ほど前に戻り、もう一度写生地を訪ね歩いて、自分なりに感じてみたことを、綴ってみたいとおもいます。

 

  



谷文晁「名山図譜」
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shiratoriさま このブログに参加させていただいて一年ちょっとになります。学生時代まで西宮で過ごしましたが、その後はずっと神戸に住んで大阪に通っており、震災後に戻ってきた週末夜間限定の西宮市民です。昨年から身近にある西宮関係の書籍を読んでは気になることをメモのようにブログに書いております。谷文晁についてはたまたま『西宮あれこれ」を拝見していて見つけました。あの書物のあの書物の成り立ちについても興味があります。また谷文晁の時代の街道を考えると小浜あたりかと思って、何度か車で通りがかりに寄ってはみましたが、最近は高い建物がたってしまい、眺望もなくなり難しくなっております。探訪されるのを楽しみにいたしております。

[ ふく ] 2013/05/06 21:24:36 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん

コメント頂き有難う御座います。
一つお教えください。「小浜あたり」とはどの辺りを指すのでしょうか。

[ shiratori ] 2013/05/06 21:45:18 [ 削除 ] [ 通報 ]

あの絵の川は逆瀬川といわれています。あのあたりで一番開けていたのは宿場があった小浜(宝塚市)です。資料館もあのあたりにあると思います。逆瀬川が武庫川と合流するところの少し下流、宝塚市役所の対岸になります。武庫川を渡らなくてよい川の東側、川辺郡の方が近世までは開けており、人の流れがあったのではないかと思います。それに対して川の西側(武庫郡)は山がせまっていますので阪急電車が通り住宅地(宝梅や武庫山)として開発されるまではそんなに開けていなかったのではないかと想像しています。(武庫郡良元村と川辺郡小浜などが合併して宝塚市になるのは戦後です。)

[ ふく ] 2013/05/07 8:24:07 [ 削除 ] [ 通報 ]

ふくさん

 お調べ頂き有難うございました。
 
 攝津までの道程について・・・、
 
 1・京都から西国街道(山崎道)を歩き、武庫川を(髭の渡し)か、それとも(伊子志の渡し)から越えた?・・・・
 
 2・京都から淀川を船で八軒屋、その後、大和の国を訪れ、山々を写生、難波に戻り中ノ島辺りから、海路尼崎入り、陸路山陽道を西へ歩き西宮へと・・・

 こんな事を、40年ほど前に想像し、何度か歩いた経験がありました。

   

[ shiratori ] 2013/05/07 9:23:33 [ 削除 ] [ 通報 ]

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